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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2019/06/28

長持形石棺から家形石棺へ


桜井市兜塚古墳(5世紀後半-6世紀初)は前方後円墳で、後円部に石棺が露出していた。
蓋が家の屋根のような形をしていて、蓋長側辺に左右一対ずつ、痕跡からみて短側辺に一つずつの繩掛突起があったようだ。
身は刳貫式で浅い。
山本ジェームズ氏の畿内家形石棺にみる棺蓋短側辺突起の変化は、畿内家形石棺の棺蓋突起の起源に関しては、多くは古墳時代中期に盛行した長持形石棺に求める見解が一般的であったという。

長持形石棺 古墳時代中期初頭(5世紀初頭) 宮山古墳出土 246m 1950年発掘 奈良県御所市室(兜塚古墳からは南西に16㎞ほど) 
『ヤマトの王墓』は、長持形石棺をおさめた竪穴式石室と、その上に並べられた形象埴輪群の様子が明らかにされたという。
家形石棺ではなく長持形石棺と記されている。
以前に橿原考古学研究所付属博物館の常設展示でこの模型を見ていたが、長持形石棺という言葉は頭に入らなかった。
長持というと蓋が平らなのに、この石棺の蓋にはカマボコのような盛り上がりがある。その上、矩形の区画が両斜面に4つずつ浅浮彫されている。
『古墳時代のシンボル』は、長持形石棺は組合せ式のもので、近畿地方中央部、のちに畿内と称される大和・河内・山城・摂津を中心とした範囲に集中する。石材は兵庫県加古川流域に産する竜山石(流紋岩質凝灰岩)がほとんどに用いられている。蓋は蒲鉾形で長側辺・短側辺に円柱状の突起をもつという。
埴輪(実物)も並んでいた。
確かに同館でも長持形石棺とされている。
4世紀後半のメスリ山古墳では棺は出土していないが、おそらく4世紀初頭の桜井茶臼山古墳と同じく木棺だっただろう。
ところが4世紀末になると長持形石棺が出現している。

長持形石棺 4世紀末 津堂城山古墳出土 藤井寺市 古市古墳群
『古墳時代のシンボル』は、古市古墳群で、最も古い大型墳の埋葬施設が1912年(明治45)に神社合祀の建碑の際に見つかった。凝灰岩製天井石内面には朱が塗られ、なかに竜山石製石棺があった。
長持形石棺は奈良県天理市櫛山古墳、大阪府藤井寺市津堂城山古墳例が古い。古いものほど精巧で、新しくなるとそれぞれの約束事がくずれて粗雑になるという。
宮山古墳よりも細かな区画が浅浮彫され、繩掛突起には重圏文も浮彫されている。
そして、木棺の頃と同じく、遺体を頭部がほぼ北側になるよう石室が造られている。
宮山古墳の模型を見て石板を組み合わせて造ったものとは気付かなかったが、この図で長持形石棺が部品を組み合わせて造ったものであることを理解できた。
加工した板状の石板を、まず底部、続いて両長側辺の板石を置く。長側辺のに彫り込んだ凹みに短側辺の板石を嵌め込み、遺体や副葬品を安置して蓋石を被せるという順序で良いかな?

『古墳時代のシンボル』は、ていねいで凝ったものは、その品物が流行するピークのときにもたらされると考えられがちだが、そうではなく、凝ったものはその初期にあらわれることが多い。凝ったものから省略されて、くずれていくのがつねであるという。

石室と石棺 5世紀前半 仁徳陵古墳後円部 大阪府堺市百舌鳥古墳群
同書は、仁徳陵古墳がつくられた5世紀前半、畿内の大王墓級の前方後円墳の埋葬施設は、日本列島の頂点にあったはずである。長持形石棺は、5世紀における王者の石棺とも称される。一方、九州では、同じころから横穴式石室があらわれる。しかし、仁徳陵古墳の後円部にある中心主体部は、前方部の状況や同時期の畿内における石室の様相から、竪穴式石室であったとみてさしつかえない。ただし前方部の石室のような川原石ではなく、安山岩の割石のほうがふさわしいように思えるという。
同書は、亀の甲のごとしとする石棺の蓋は高さのある家の形に近づき、表面の格子模様はあったとしても彩色で表現されていただろう。突起端部の稜線はもう少し丸みをもち、中央の円形のくぼみにも彩色があったかもしれない。
『全堺詳志』にある寸法から考えると、その石棺は津堂城山古墳と同じような大きさになるが、前方部のものや5世紀中ごろのほかの石棺を参考にすると、デザイン的には省略化がかなり進んでいたことになるという。

石室と長持形石棺 5世紀中葉-後葉 仁徳陵古墳前方部出土 大阪府堺市百舌鳥古墳群
『古墳時代のシンボル』は、1872年(明治5)に、堺県は仁徳陵古墳が鳥の巣窟となって汚れて不潔なので清掃がゆきとどくようにしたいと、教務省に伺いを出した。そして同年、前方部斜面で埋葬施設が露わになったことで、堺県令税所篤が調査することになるという。
同書は、絵図によれば、竪穴式石室は長さ3.6-3.9m、幅2.4m、四壁は川原石が積まれ、その上に3枚の天井石をかぶせている。なかには、長さ2.7m、幅1.45mの「亀ノ甲ノ如シ」と表現された蓋をもった長持形石棺が描かれる。石棺には繩掛突起がつき、突起先端に朱が塗られていることが注目されるという。
石棺は長持形から家形になる途上で、亀の甲形が現れるのかも。
同書は、長持形石棺の蓋表面にあった格子模様は無紋になり、突起も円柱状で端部稜線を面取りして中央には円形のくぼみがあったものが省かれるようになる。この流れからすれば、図にある仁徳陵古墳前方部の長持形石棺は、省略が進んだもっとも新しい部類に属することになるという。

桜井市兜塚古墳のように竪穴式石室に家形石棺という組み合わせから、横穴式石室に家形石棺が安置されるようになる。
橿原考古学研究所付属博物館の説明パネルは、朝鮮半島で横穴式石室を早くから採用していたのは高句麗であり、その影響で漢城(ソウル付近)を都にした百済に採用される。この石室構造に近いのが、北部九州の横穴式石室である。近畿の横穴式石室は、475年ころに熊津(公州)に都を移した後の百済地域(南部の全羅南道を含む)の石室に、その系譜がもとめられるという。
最大の横穴式石室となる見瀬丸山古墳(6世紀後半、奈良県橿原市)と小さな横穴式石室の藤ノ木古墳(6世紀第4四半期、奈良県斑鳩町)の比較図
石舞台古墳の石室とほぼ同じ大きさというこうもり塚古墳(6世紀後半、岡山県総社市)では家形石棺が縦方向に安置されていたし、各所で見てきた小さな横穴式石室でも縦置きだったように記憶しているが、横向きの場合もあるのだ。

  安倍文殊院 西古墳と東古墳←   →意外とある長持形石棺

関連項目
兜塚古墳とメスリ山古墳
吉備路のこうもり塚古墳

参考サイト
山本ジェームズ氏の畿内家形石棺にみる棺蓋短側辺突起の変化

参考文献
「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」 千賀久 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」049
「古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳」 一瀬和夫 2009年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」055

2010/03/02

楯築弥生墳丘墓2 木棺木槨墓に大量の朱 

 
『シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓』は、墓壙の長軸方向に沿った形で円礫が集中している場所があった。円礫の厚さは60㎝から1mにも達した。調査ではこれを円礫堆とよんだ。
この円礫堆は、もともとは主体部が埋め戻された後、その真上に円礫が高く盛られたもので、木棺等の腐朽にともなって次第に中に落ち込んで埋められたような状態となったものであった
という。
1・2・5の立石は墓室を囲んでいるが、3・4は囲む石ではない。それとも、築造当時は1・2・5からなる円弧、3・4からなる円弧上にもっと石が立てられて、二重の列柱になっていたのかも。 墓壙はやや歪んだ楕円形をしており、主軸を北方向からやや西に振っている。その規模は、南北約9m、東西5.5-6.25m、深さは約2.1mもあり、弥生墳丘墓としては破格の大きさであるという。
図からは古墳時代以前は南北方向ではないと解釈していたが、ほぼ南北方向とみられているようだ。 同書は、朱は棺床全面に敷かれていたのだ。朱の総重量は、計測によると32㎏以上に達するといわれている。朱は弥生時代にも埋葬施設で一般的に用いられるものであるが、少量を頭部や胸部などに薄くばら撒き、せいぜい赤い色が見えるという程度であることを考えると、楯築弥生墳丘墓で用いられている朱は途方もなく膨大な量であったことがわかる。
楯築弥生墳丘墓の朱はかなりよく精製された良質の水銀朱だけが使用されており、朱の産地は現在までは特定できていない。しかし、これだけの膨大な量の、しかも良質な朱を供給できる産地については、中国や朝鮮などからの搬入の可能性も含めて考える必要があるだろう
という。
精製された水銀朱が当時の日本になかったとしたら、大陸との接触で入手したのだろう。
楯築弥生墳丘墓は弥生時代後期ということだが、同書には年代が一切明記されていない。ウィキペディアでは2世紀後半-3世紀前半としている。
当時、吉備には破格の大きさの墓を築くことができ、しかも海外から大量の水銀朱を取り寄せられるような、強大な力を持った統治者がいたのだろう。
埋葬にともなって朱が用いられるという理由については、いろいろな解釈がなされている。たとえば、朱は血の色に通じ、生命の復活を願うためとする考えや、より実用的に水銀の殺菌力を利用して遺体の防腐作用を期待したというもの、あるいは神仙思想にもとづくという考え方などがある。
古代の人びとが朱の赤色に対して呪術的な特別の意味合いを感じていたことは確かであり、楯築弥生墳丘墓に葬られた首長の葬送儀礼に際して、あえて大量に使用したということに重要な意味合いが含まれている
という。
その朱について、ここでも神仙思想が出てきた。呪術的な意味合いということでよいのでは。  棺底に敷かれた朱の存在を手がかりにして、木棺部分については比較的容易に検出することができた。それによると、木棺は箱形と考えられ、内法の長さ197㎝、幅が南側で72㎝、北側で59㎝であった。
外側に残したいくつかの土層断面に何とも不可解な変化がみられたのである。そこには薄い粘土の層が複雑に向きを変えて交じり合い、重なり合っていた。木棺の外側にそれを包み込むような木槨が存在していたということであった。
残された痕跡をたどっていくと、木槨の平面形はやや歪んだ長方形となり、内法の長さは、中央付近で約3.53m、幅は約1.45mとなる。高さは、約88㎝と推定された
という。
こういった構造は積石木槨墳といってよいのではないのだろうか。規模は小さいが、慶州の天馬塚(6世紀初頭)の構造によく似ている。異なる点は、平地ではなく丘陵に造られてること、地表面ではなく墓壙をかなり深く掘り込んでいること、積石の上には大量に土を被せてはいないこと、である。 楯築遺跡だけでなく、有年原・田中遺跡でも木棺に埋葬されていた。弥生時代後期には板が使用されていたようだ。古墳時代初期のホケノ山古墳でも木棺だった。
ところが、桜井茶臼山古墳と下池山古墳はコウヤマキ、黒塚古墳はクワと、大木を刳り貫いた割竹型木棺になった。板にする技術がないので木を刳り貫いたのかと思っていたが、逆だった。
大量の朱や青銅鏡だけでなく、大木をできるだけ元の形で使うのが新たな権力を誇る手段となったのだろうか。

※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓」(福本明 2007年 新泉社)

2010/02/26

吉備に楯築(たてつき)弥生墳丘墓

 
吉備路には大きな古墳がある。西のつくりやま古墳は作山(5世紀中葉頃)、東のつくりやま古墳は造山(5世紀前半)で古墳時代中期で墓室は共に不明。その中間にある小さな古墳はこうもり塚(6世紀前半)で古墳時代後期、横穴式石室が後円部の後方にあった。
付近には弥生時代の墓もあるらしい。

『シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓』は、楯築弥生墳丘墓は、足守川によって形成された肥沃な平野を望むことのできる小高い丘の上に位置している。現在、吉備中山の北麓から平野部にかけての地区に吉備津という地名が残されているが、古くは津という地名が示すとおり、周辺に足守川の河口に開けた湊があったと考えられているという。
弥生墓は足守川に沿って造られたようだ。 いつものように、迷った末に楯築弥生墳丘墓に辿り着くことができた。
案内板には墳丘墓が破線で示されている。給水塔があるらしい。遺跡はどんな状態なのだろう。  舗装された坂道を登っていくとまず給水塔が見えてきた。その下は墓の一部のはず。他に適当な場所がなかったにしても、遺跡の上に造らなくても良いのでは。  給水塔を過ぎると、木々の間から石が見えてきた。「楯築」とは石が楯のように立てられていたかららしい。  円丘頂部に立てられている巨大な自然石を立石(りっせき)とよんでいる。これらの石は、温羅伝説のなかで石の楯にみたてられ、楯築の名前の由来になっている。現在、立石は墳頂部の平坦面のやや東に偏って5個がみられる。形や大きさはさまざまであるが、いずれも地上部分が2、3mもある大きな花崗岩で、とくに加工を施したような痕跡は認められないという。
石室の位置が示されていないので、このあたりだと思う。2、3mというが、5号立石は高くなかった。 調査を開始してみると、1号・2号・4号立石は、後世の攪乱や移設などもあって、掘り方を知る手がかりはほとんどつかめなかったという。
1号立石は祠のようなものの背面となっていた。屏風のような3号立石は、向きによっては薄く見える。
 3号立石は、北端にあり、長さ約3.8m、最大幅約2.9m、厚さが下端で25㎝ほどの扁平な大形の石で、北側に大きく傾いた状態であった。二段掘りとなっている掘り方がみつかっており、石はその中央に据えられていた。もともと石はほぼ垂直に立てられていたことがわかったという。
給水塔や神社だけでなく、この弥生墳丘墓は、後の時代にいろいろと手が加えられたらしい。 5号立石は他の石と離れたところにある。 
長さ約2.4m、幅70-80㎝、厚さ30㎝ほどの細長い石。掘り方は、60X80㎝ほどの楕円形で、底面などから円礫が検出されている。また立石の埋まっている部分の側面や円礫に朱と思われる赤色顔料が付着していることが確認されているという。
この石にだけ朱が使われたのだろうか。 説明板は、楯築弥生墳丘墓は、径約50mの主墳を中に2つの突出部を備えた弥生時代後期の墓で、現存全長約72mの大きさをもつ。
いま主墳の頂には5個の巨石が、また斜面にも石列がみられる。これらは埋葬の霊城を守る役目をもつものであろうか。また墳頂や斜面の一部には拳大の円礫が置かれている
という。
同じく弥生時代後期(約1900年前)の有年原・田中遺跡には、斜面に河原石を葺いた2基の墳丘墓があった。楯築の墳丘墓の斜面には、もっと小さな石が葺かれていたようだ。ただし、有年原・田中遺跡では墳丘はもっと小さく、墳頂には石は葺かれていなかった。楯築の墳丘に葬られたのは、有年原よりもずっと権力のある人物だったのだろうか。  2つの突出部は団地造成工事の犠牲となり、北東突出部は法面の、南西突出部は給水塔の小路で大きく破壊されたという。
墳丘の背後には道路が通っていて、あまりにも無惨だった。墳頂部の石が見える。

※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓」(福本明 2007年 新泉社)

2010/02/23

古墳時代前期の石室に天井石が被せられた 

 
黒塚古墳の石室天井は合掌型という不思議なものだったが、黒塚古墳展示館の展示パネルには、大和古墳群の石室の様子も紹介されていた。

中山大塚古墳
黒塚古墳展示館の展示パネルは、石室を覆う粘土は特別に赤色のものを用いたり、数種類の色に染め分けた布を粘土の間に敷き込んでいた。周囲には石室の安定と排水施設を兼ねた多量の河原石が敷かれているという。
板石と呼ぶには不成形な石を持ち送りにして、上へいくほど狭くなっている。天井は黒塚古墳よりもずっと高い。
石の大きさは全然違うが、石室内部空間としては、古墳時代後期の横穴式石室のに近い。
上には天井石のようなものが見える。かなり大きな石らしい。天井石があるので、黒塚古墳よりも後に築かれたのだろう。 下池山古墳
石室の中央にはコウヤマキ製の割竹形木棺が残存し(身部)、棺蓋も一部残っていた。古墳の石室内に木製の棺が残ること自体希なことである。全長は5.24mであるが、本来は6mほどの棺であろうという。
首長の棺には当時の人々が運べる最大最長の木が使われたのだろう。
板石は黒塚古墳に近いが、天井は黒塚古墳よりも高そうだ。
橿原考古学研究所の池山古墳の木棺は、石室を造るためには、まず長さ18m、幅12m、深さ3.5mあまりの大きな墓壙を掘り、その底に粘土を敷いて棺を据えます。そして棺の周囲に板状の石を積み上げて空間を作り、天井石をかぶせます。石室の規模は、長さ6.9m、最大幅1.3m、最大高さ1.8mで、四壁は内側に向かって傾斜をつけるために、天井の幅は狭くなっています。石室の幅は北側が広く、床面も北側が高くなっていることから、遺体は頭を北に向けていたと思われます。石材は、大阪府柏原市の芝山から産出されるカンラン石安山岩を使用しており、約18㎞の距離を運んだものですという。
黒塚古墳と同じく床面の北側が高くなっていて、北枕だったようだ。古墳時代前期の古墳は墓室を南北方向に造られたものが多いが、頭の向きは北側だったのかも。
墓室の築造の順序として、木棺を安置した後に石を積んでいったらしい。四壁を内側に傾けるというのは強度を増すためだろうか。
下池山古墳にも天井石が被せられていたらしい。どんな石だったのだろう。 メスリ山古墳
石室の上部は底部よりも心持ち狭くなっているが、持ち送りして狭くしていくというほどではなくなっている。天井石も平たく薄い(桜井市埋蔵文化財センターで展示)。一定の大きさの平たい石が確保できるようになると、石室も桜井茶臼山古墳と同様に傾斜がなくなり、直方体に近い形に造られるようになるのだろうか。
桜井茶臼山古墳では壺形土器の周囲に、直径約30㎝の柱が合い接するように立て並べていました。この「丸太垣」ともいうべき堅牢な塀が、石室とその上部の方形壇を外側から保護していました。四角く立ち並ぶ「丸太垣」の姿は、埴輪の方形配列と共通するものであり、古墳に埴輪を配置する起源を考える上で、重要な資料となるという(「桜井茶臼山古墳の調査」より)。
木の柱の替わりに円筒埴輪を並べるようになったのか。 3世紀半ばのホケノ山古墳は天井がどのように造られていたのか結論が出ていないようだが、天井石が出土していないので木製だと見られている。黒塚古墳は板石を合掌形に積み上げてあり、非常に狭い空間だった。
中山大塚古墳や下池山古墳では、天井が高くなり、天井石が被せられていたが、側壁は持ち送りで、上へいくほど狭くなっていた。
3世紀後半-4世紀の桜井茶臼山古墳や、その近くにあるメスリ山古墳では、板石をほぼ垂直に積み、その上に平たい天井石を被せていた。
古墳時代前期の石室と天井がこのように変化、あるいは進化していったようだ。

※参考サイト
橿原考古学研究所の池山古墳の木棺

※参考文献
黒塚古墳展示館の展示パネル
「桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会資料」(2009年10月29-30日 奈良県立橿原考古学研究所) 

2010/02/09

黒塚古墳2 石室は合掌型式

 
黒塚古墳案内板は、黒塚古墳展示館は史跡指定地の東側に位置する。後円部において検出された竪穴式石室は破壊が進行しており、現地での公開は適当ではなく砂を充填して埋め戻された。これに替る公開施設として公園内に設置された。1階では竪穴式石室を実物大に復元し、鏡などの副葬品もレプリカで出土状況を再現したという。 展示館に入って壁面に紹介された黒塚古墳や近辺の古墳群のパネルを見ながら奧に進むと、中央に黒塚古墳竪穴式石室のようすが再現されていた。北側から南側を眺めるようになっている。
棺床やその周辺の赤い色、そして石室の両側に並べられた銅鏡の多さが目を惹くが、その奧の天井の形に驚く。しかも黒塚古墳の5㎞ほど南方の桜井茶臼山古墳の石室と同じように板石が整然と積まれたものだ。

展示館冊子は、竪穴式石室があまり例を見ない合掌型式の長大な石室であることが明らかにされたという。
板石を両側から積み上げて逆V字形の天井を造っている。
桜井茶臼山古墳のように天井石を被せた方が簡単だったのではと思うが、大きな石を運ぶことができなかったのだろうか。それとも、家屋の天井を再現しようとしたのだろうか。 持ち送りで板石を積んだのかと思っていたが、板石は斜めに平行に積まれている。このような天井をどのように築いたのだろう。西洋のアーチは木枠の上に石を組んでいき、後ではずすのだが、古墳を築造した当時は鋸もなく、木を板にするのも大変だったはず。
それとも、ホケノ山古墳の石野氏の案のように切妻造りの構造物があったのだろうか。しかし柱穴は復元石室にはない。
ホケノ山古墳がどのような天井だったかはともかく、木槨に板を使用しているのは確かなようなので、墓室の両側面から板を並べて小屋組にし、板の傾斜に沿って板石を積んでいったのではないかと思うようになった。
板石は自然界にあるものを集めたのか、割って作ったのかわからないが、板石層の外側は割合大きな河原石が使われている。板石も貴重だったのだろう。 地震で破壊した竪穴式石室である。写真の中央が石室の空間部分にあたるが、ここには左右の両壁から滑り落ちた板石が空間を満たしていた。これにより、板石の直下にあった鏡などの副葬品は盗掘から免れたのである。地震は古墳が作られてから程なく発生したようで、強い揺れは石室以外の場所でも影響が観察されたという。
黒塚古墳の築造は、冊子は古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)の古墳と推定されるという。
桜井茶臼山古墳は古墳時代前期(3世紀後半-4世紀代、同古墳現地見学資料より)の築造で、板石で長方形の石室を造り、天井石が置かれていたが、地震による崩壊はなかったようだ。
黒塚古墳を破壊した地震は古墳の築造まもない頃ということなので、その地震よりも後に桜井茶臼山古墳が造られたのかも。
先に築造された黒塚古墳は、古い技法で天井が造られた墓室で、桜井茶臼山古墳は天井石でふさぐという新しい技術が導入された墓室なのだろうか。 しかし、桜井茶臼山古墳は岩山を掘り下げて石室を造っているので、地震の前に造られていたが、破壊を免れたのかも知れないなあ。その場合は、黒塚古墳は自然の地形を利用したといっても、土山だったために地盤が弱く石室が破壊されてしまったのかも。
2つの古墳の間に位置するホケノ山古墳は河原石で埋めつくされていたというが、この時の地震のせいではないのだろうか。

画像には、説明や展示パネルを撮影したものもあります。

※参考文献
「黒塚古墳案内板」(天理市作成)
「黒塚古墳展示館冊子」

2010/02/05

黒塚古墳は東西にのびる前方後円墳

 
黒塚古墳は邪馬台国のあったところかと騒がれた纏向遺跡の北方にあるが、もう桜井市ではなく天理市になる。行燈山古墳(崇神天皇陵、4世紀前半)とJR柳本駅の間に位置している。
古墳の南側の道から見ると、東側に後円部、西側に前方部があって、北西-南東にのびるホケノ山古墳とは向きが大きく異なり、南北にのびる桜井茶臼山古墳とは90度異なるが、箸墓古墳とほぼ同じ中心軸だ。 前方部へと行く土手に黒塚古墳の案内板があった。
古墳が立地する場所は、東にある行燈山古墳の方向から延びた丘陵の先端部を利用している。墳丘は東西を向いて後円部を東に置く前方後円墳である。全長約130m、後円部径約72m、同高さ約11m、前方部高さ約6mをはかるという。
この古墳も自然の地形を利用して築造されたのか。比率でいうと、ホケノ山古墳よりも前方部が長くなっているが、バチ形に開いている。前方部と後円部が1:1に近いので、箸墓古墳型になるのだろうか。  内掘・北池・菱池と3つの池に囲まれているが、これが古墳の周濠だったかどうか、説明板には書かれていない。前方部は2段かな。
公園として整備されているので、近隣の人達の散歩コースとなっているようだ。  前方部にあがってみる。後円部は3段かな。  括れ部から前方部を振り返る。削平されてしまっているのか墳丘という感じはしない。  後円部へ。墓室は見学できるようになっているのだろうか。 墳頂部に着くと、正面には三輪山から続く山々が見える。右向こうには崇神天皇陵(行燈山古墳、4世紀前半)の森が前山のように見える。
石室のレプリカか何かがあるらしい。それにしても長いなあ。 近づくと石室の様子がタイルで表されていた。
古墳の調査で後円部において竪穴式石室が検出された。石室は南北8.3m、幅約0.9-1.3m、高さ約1.7mあり中央部には長さ約6.2mの粘土棺床が残存していたという。
南方には箸墓古墳がこんもりと見える。当時は妨げるものは纏向の建物群くらいだっただろうから、よく見えただろうなあ。しかし、箸墓はまだ木が茂っていなかっただろうから、もっと低くてわかりにくかっただろうか。 発掘時の状況を何枚かの写真で説明してあった。
木棺はクワの巨木を刳り貫いて作られたが、すべて腐って残存していないという。
3世紀半ばとされるホケノ山古墳には板状にした木が用いられていたが、大木を刳り貫くというのは桜井茶臼山古墳と同じだ。アニミズムの時代、崇拝する大木を切り倒して首長の棺にしたのだろうか。鋸のない時代に板に加工するのは大変だっただろうが、大木をそのまま使うには、運ぶのも苦労しただろう。そこまでして大木を使うのは、やっぱり首長としての権威付けでもあったのだろう。  階段を下りて少し回り込み、後円部を見上げる。日本の古墳は、慶州の積石木槨墳のように地表近くに墓室を造らず、墳頂部に造られたが、それは天に近いところということだろうか。それでは盗掘され易いだろうと思ってしまうが、築造当初は盗掘などということは予想もしなかったのかも。 
※参考文献
奈良県天理市作成の説明板

2010/02/02

ホケノ山古墳3 前方部の端にも墓壙

 
墳丘から周囲を見渡す。ホケノ山古墳の南側は集落が迫っていて、慶州の町にも似た景色だ。遠くにかすむのは御破裂山。  西側に箸墓古墳の後円部がこんもりと見える。近くにも小さな古墳があるらしい。 北側にも田畑や建物の中に古墳らしきものが小さな丘のように残っている。ホケノ山古墳の周辺には小さな円墳がたくさんあったようだ。ホケノ山古墳と同じくらい古いのだろうか。
その様子はこちら 東側にも小さな円墳があるはずだが、よくわからない。 後円部から見た纏向型前方後円墳の括れ部と前方部。撥形に広がる感じがよく写せなかった。この方向に三輪山があります。
前方部に木棺が出ている。開いたバチ型の輪郭に平行して造られているようだ。 木棺のあるところまで下りてきた。復元してある埋葬施設というのはこのことだったのか。他の古墳にもこのように前方部に墓室が出土することはあるが、時代が下った人物の墓だ。  桜井教育委員会の説明板は、ここに復元しているのは第二次調査において確認された埋葬施設です。墓壙の規模は全長4.2m幅1.2m残存する深さは30-50㎝になります。
墓壙内には南端に大型複合口縁壺が、中央には底部を穿孔した広口壺が共伴し、これに挟まれるように全長2.15m幅45㎝、現存する深さ15㎝の組み合わせ式木棺の痕跡が確認できました。
また、木棺内部の南側からは40X45㎝の範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壺・底部に穿孔のある広口壺を供献した埋葬施設であることが確認されました。
この埋葬施設は葺石をはずして、裏込め土から地山まで掘り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えています。また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。
これらの土器は、概ね3世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代と大きく矛盾することはないと考えています
という。
ホケノ山古墳が3世紀半ばに造られ、この墓が後半なら、まだホケノ山古墳の被葬者がどのような人物か知られていた時代だ。そんな頃に前方部を掘って埋葬できるほどの人物は、被葬者の親族くらいではないだろうか。 
※参考文献
「遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)
「遺跡を学ぶ051邪馬台国の候補地・纏向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社)
有年原・田中遺跡公園冊子