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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2024/07/19

描かれたスレイマン大帝


スレイマン一世は46年間(1520-66)という長い治世で領土を拡大していったが、それだけではなく、タイルや陶器はイズニックの最盛期、ミマールスィナンというイスタンブールの建築大学の名にもなっている、素晴らしい、そして長命の建築家が現れて数多くのモスクとその複合施設を建て、イラン(タブリーズ)より連行された芸術家も新たな絵画をもたらすという、芸術面でもオスマン帝国の最盛期だった。

『世界美術大全集東洋編17 イスラーム』(以下『東洋編17』)は、オスマン帝国の絵画が全盛期を迎えたのは、スレイマン一世とムラト三世(在位1574-95)の時代であった。スレイマン一世は、オスマン帝国の最盛期を築いたスルターンであったが、自らの偉業を後世に伝えるために歴史書の制作に力を注いだという。

少しではあるが、スレイマン一世の治世を細密画でみると、

スレイマン一世の即位式 『スレイマンの書』第17葉 1558年 制作地イスタンブル 着彩 紙 31X20㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
『東洋編17』は、『スレイマンの書』は、スレイマン一世の歴史書の代表作である。歴史書は、官職として設けられたシャーナーメジ(『王書』執筆官)が執筆し、宮廷工房の画家と書家の共同作業で制作された。本文のみでなく、挿絵も史実に制作されたので、これらの作品は歴史資料としても高く評価されているという。
『オスマン帝国外伝』の第一話は確かマニサにいたスレイマンのもとに使者が来てセリム一世の死を伝えるところから始まったが、イスタンブールの宮殿での即位式は覚えていない。
この絵はイスタンブールへ戻って即位式が行われた場面。場所はトプカプ宮殿の中庭のよう。現在では巨木が林立しているが、この頃はまだ木も若かった。
トプカプ宮殿博物館蔵 スレイマン一世の即位式 世界美術大全集東洋編17 イスラームより

『図説イスタンブール歴史散歩』は、1494年誕生。1520年セリム一世没し、第10代スルタンとして即位という。
26歳の若きスレイマンは玉座に坐している。その前でひれ伏しているのは誰だろう。
屋内を描いたらしく、壁面や床の文様も凝っている。
トプカプ宮殿博物館蔵 スレイマン一世の即位式 世界美術大全集東洋編17 イスラームより



ロードス島を攻める若きスレイマン トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷
『図説イスタンブール歴史散歩』は、25歳で即位したスレイマンの第2回目の親征の目標は、ロードス島であった。1522年のこの遠征で、東地中海航路の安全を確保するのに成功した。本図上方の城内では、聖ヨハネ騎士団が防戦につとめている。右下、羽飾りのついたターバンをかぶった若きスレイマンが、馬を進めている。左手中程では、イェニチェリたちが、城兵に銃撃を加えている。左下では、地下道を掘って城内に突入すべく、作業が進められつつあるという。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 ロードス島を攻める若きスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より

若きスレイマンは丸顔で、他の兵士たちと似たような顔に描かれている。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 ロードス島を攻める若きスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より


モハーチの戦い ナッカシュ・オスマン画 トプカプ宮殿博物館蔵
『望遠郷』は、オスマン帝国の細密画家はスルタンをたたえる式典や大遠征の祝賀会、豪華な宮殿の様子などを思うままに描いた。メフメット二世の時代には面家の数は少なかったが、シュレイマン一世の時代(16世紀)には有名な画家だけでも 28人もおり、17世紀には100ほどのアトリエがあり、そこで働く画家の数は数えきれないほどまでになっていた。
細密画の画風は画一的ではあるが、その時代ごとに何人かの個性ある画家が現れた。彼らは協力して、まさしくオスマン風といえるスタイルを生み出したという。
トプカプ宮殿博物館蔵ナッカシュ・オスマン画 1526年のモハーチの戦い 望遠郷2イスタンブールより

仏伝図などでも釈迦が他の人よりも大きく表されたが、このスレイマン大帝も他の人よりも大きく描かれている。これは「ロードス島を攻める若きスレイマン」との違いでもある。数あるアトリエの特徴か、それともナッカシュ・オスマンだけのものなのか、それがわかるほど『スレイマンの書』を見てみたい。
トプカプ宮殿博物館蔵ナッカシュ・オスマン画 1526年のモハーチの戦い 望遠郷2イスタンブールより

スレイマン一世の肖像画 インスブルック芸術史美術館蔵
ハセキ・ヒュッレムの肖像 ジャック・カイヨール画 『望遠郷2イスタンブール』より
インスブルック芸術史美術館蔵スレイマン一世の肖像画とジャック・カイヨール画ハセキ・ヒュッレムの肖像 望遠郷2イスタンブールより


壮年のスレイマン 画家不明 写真 大村次郷 
『図説イスタンブール歴史散歩』は、スレイマン大帝は、黄金時代の君主であったばかりでなく、容姿の上でも、オスマン朝歴代中屈指の好男子であった。若年時には、色白でふっくらした貴公子であったらしいが、壮年期から老年期に入ると、面長で厳しい風貌をそなえるようになった。晩年のスレイマンは、公式の席ではほとんど表情を変えることもなく、顔色は青白かったという。
若い頃は色白でふっくらしていたのだったら、即位式の図はスレイマンの顔を良く描いていることになる。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 壮年のスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より


その後は老齢のスレイマン一世
スレイマン一世立像 16世紀中頃 ニギャーリー画 着彩 紙 約26X20㎝ トプカプ宮殿博物館蔵 
『東洋編17』は、スレイマン一世の治世に肖像画家として活躍したハイダル・レイス(雅号ニギャーリー、1494-1572)は、オスマン帝国海軍の軍人であったが、絵画にも才能を示した。簡潔な描写法で巧みに写実性を追求した肖像画法は高く評価された。「スレイマン一世立像」や「オスマン帝国海軍大提督ハイレッディーン・バルバロス像」はその代表作であるという。
ハイレッディーン・バルバロス像は何時の日にか。
スレイマン一世の背後に控えている赤い帽子を被った若い二人は小姓である。
トプカプ宮殿博物館蔵ニギャーリー画スレイマン一世立像 世界美術大全集東洋編17 イスラームより

スルタンの私室つき小姓 
『オスマン帝国の時代』は、彼らは一般の小姓のなかから選択され、将来のエリート候補であった。多くのミニアチュールで、赤い被りものをつけた私室長と太刀持ち(シラフタール)の二人がスルタンのそばにいるのが描かれているという。
トプカプ宮殿博物館蔵「スレイマンナーメ」より小姓たち 世界史リブレット19 オスマン帝国の時代より  
 

ステファン王子との会見図 ハンガリー遠征記挿絵 1568-69年 『トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録』より
『東洋編17』でヤマンラール水野美奈子氏は、オスマン帝国では、スルターンの業績を記述した歴史書の編纂が盛んであったが、この『スィゲトゥヴル遠征記』は、アフメト・フェリードゥーン・パシャ(1583没)が著した。この戦記は、スレイマン一世の13回目にして最後の遠征となったハンガリー南部のスィゲトゥヴル要塞攻略と、スレイマン一世のスィゲトゥヴルでの病死、皇子セリムの即位など、1569年までの歴史を含んでいる。
という。
 トプカプ宮殿博物館蔵ステファン王子との会見図 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録より

同書は、この接見の場面で、スレイマン一世は、陣営用のスルターンの豪華なテントの前に置かれた、黄金の玉座に座し、オスマン帝国の庇護下にあったエルデルの皇子を接見している。
スレイマン一世は、遠征出発時にはすでに馬に跨ることもままならないほど病に冒されており、無理を押しての遠征であった。王座のスレイマン一世は、特色ある大きな頭衣をかぶり、右手には最高権威者の象徴であるハンカチーフを握り、威厳に満ちた姿で描かれている。しかし、目は落ちくぼみ、その顔や首筋には深い皺が克明に刻まれ、死期の迫ったスルターンの姿が、過酷なまでに写実的に描かれている。オスマン帝国の画家が、スルターンの写実的な肖像画を歴史書の場面に表現する伝統は、後世に継承されたという。
トプカプ宮殿博物館蔵ステファン王子との会見図 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展図録より

この遠征先でスレイマン大帝は亡くなった。
どの本の記述か失念してしまったが、1566年にスレイマン大帝が死去すると、大宰相ソコル・メフメト・パシャは死去の知らせを隠し、遺体をイスタンブールに運び、スレイマニエジャーミイの複合施設内に埋葬した。墓は後に息子のセリム二世がミマールスィナンに建設させ、スルタンの死後2年で完成したという。
スレイマニエジャーミイの中庭にスレイマン大帝の棺を運び、テントを張って墓穴を掘っている細密画が残っている。その絵の片隅にはミマールスィナンもえがかれている。
それはムスリムの墓廟にある棺に掲載した。


関連記事

参考文献
「図説イスタンブール歴史散歩」 鈴木董 1993年 河出書房新社
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 責任編集杉村棟 1999年 小学館
「トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光図録」 編集:東京国立博物館・中近東文化センター・朝日新聞社 1988-89年 発行:中近東文化センター・朝日新聞社
「世界史リブレット19 オスマン帝国の時代」 林佳世子 1997年 山川出版社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同胞舎出版 1994年 同胞舎出版

2024/04/05

マトラークチュの細密画


テレビドラマ『オスマン帝国外伝』では、マトラークチュ・ナスフ Matrakçı Nasuh は当時の出来事の記述をする書記のような役職の人だと思って見ていた。スレイマン大帝が遠征した時も同行していたが、地図などの細密画も描いているとは知らなかった。
『世界美術大全集東洋編17 イスラーム』は、スレイマン一世の時代に異彩を放った画家として、マトゥラクチュ(棒術師)・ナスーフがいる。ナスーフは本来、数学者として著名であったが、画才に恵まれ、また能書家でもあった。さらに、武術の一つであった棒術の達人としても知られていた。地図絵や地誌図を得意とし、オスマン帝国に独特の牧歌的な風景画様式を確立させたという。


イスタンブル絵図 『イラン遠征記の挿絵』 1537年頃 紙 長31.7㎝幅44.5㎝ イスタンブル大学図書館蔵
『図説イスタンブール歴史散歩』は、当時の宮廷絵師マトラクチュユースフの手になるこの絵図は、スレイマン時代のイスタンブルを知る上で、最良の手がかりである。図中、上がガラタ地区、右端がウスクダル、下が旧市街であるという。

ガラタ地区は、ガラタ塔はすでにあって城壁で囲まれていたが、ガラタ塔が北の端というとても小さな区域だった。それを南側から見た方向で描かれている。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』1537年頃 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より 
 

『図説イスタンブール歴史散歩』は、旧市街右上の白い城壁で囲まれた四角い部分は、ト プカプ宮殿であるという。
旧市街も城壁に囲まれていて、それが現在でもところどころ残っている。ガラタ地区とは違い、西側から見たように街の建物が描かれている。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』旧市街部分 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


では旧市街を西から見たよう向きを変えてみよう。

トプカプ宮殿とアヤソフィア
トプカプ宮殿にはまだ現在残っているほど沢山の建物はなかったようで、建物を特定することはできない。広大な庭園、広い池があったのか、青い色に塗られた区域にも建物はわずか、そして黄色く塗られた広場にも丸い平面に円蓋のある建物がある。
メフメト二世がギリシア正教の聖堂からモスクに変えたアヤソフィアは、現在はミナーレ(ミナレット)が4本あるが、スレイマンの頃は2本しかなかった。それはコンスタンティノープルを攻略したメフメト二世とその息子バヤジット二世が献納したものだった。後の2本は、スレイマンの息子セリム二世がミマールスィナンに造らせたもので、その功績によって、アヤソフィアの境内に墓廟を建てたと何かの本で読んだ。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』トプカプ宮殿・アヤソフィア トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


『図説イスタンブール歴史散歩』は、旧宮殿とト プカプ宮殿の間にはさまった赤い屋根の曲りくねった2棟の建物のあたりが、当時はまだ屋根で全部がおおわれていなかったグランド・バザー ルであるという。
トプカプ宮殿、アヤソフィアの東には植物の緑で見分けやすいアトメイダヌ広場。
広場には2本のオベリスクや蛇の円柱以外にも柱が立っていたようで、この図では右端が切れているが、アーキトレーヴで繋がった円柱列が半円形に並ぶローマ時代の遺構が当時は残っていたようだ。
カパルチャルシュ(グランドバザール)の古いものは二つのベデステンと呼ばれる建物で、小さなドームが縦横に並んでいた。それを繋ぐように商店街ができていった。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』トプカプ宮殿・アヤソフィア トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より

『図説イスタンブール歴史散歩』は、旧市街中央、赤い屋根ののった壁で囲まれた長方形の部分が旧宮殿で、のちにその上方に造営されるスレイマニエ・モスクはまだ存在していなかった。旧宮殿の左の白っぽいモスクが、ファーティフ・モスクであるという。
左ということは下の方で、白っぽいというより、クリーム色の大きな建物がファーティフモスクだと思う。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』トプカプ宮殿・アヤソフィア トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


他にマトラークチュが描いたものとして、



レパント城図 『バヤジット記』の挿絵 1540年 紙・皮 長26.5㎝幅18㎝ トプカプ宮殿蔵
オスマン帝国海軍がヨーロッパ連合艦隊に大敗を喫したレパントの海戦は、1566年に没したスレイマンのあとをついだセリム二世の時代だった。
ギリシアを旅し時にナフパクトスという鄙びた港町を通った。このときにこの沖合でその戦いがあったことを聞いたが、当時はこんな街だったとは。
その時の記事はこちら
トプカプ宮殿博物館蔵マトラクチュユスフ画レパント城図 バヤジット記挿絵 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


スルタニーエはイランを旅した時に訪れた。小さな集落の中心部に、かつて聳えていたイルハーン朝の囲壁の基礎部の中に青いドームをいただいたオルジェイトゥ廟だけが残っていた。
『ペルシア建築』は、ガーザーンの跡を継いだ弟のウルジャーイトゥーの治世(1304-16)になると、その命によって、スルターニエの美しい広々とした牧草地に驚異の新都市が出現した。この都市は帝国の首府たるべく計画されたものである。
着工は1305年、竣工は1313年のことで、建設工事は雄大にして、しかも迅速であった。結果として出現したのは、タブリーズとほとんど同じ規模を持つ大複合体であり、その中心部には、ペルシア建築の最高傑作の一つたるウルジャーイトゥー自身の墓廟がそびえ立っていたという。
トプカプ宮殿博物館蔵マトラクチュユスフ画スルタニーイェ絵図 イラン遠征の挿絵 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より 

この絵にはモスクに限らず、オスマン朝の特色である鉛筆のように細いミナレットが2本ずつ描かれているが、現存するオルジェイトゥ廟は八角形平面で、ドームの回りに円柱のようなものが幾本か立っている。下図のうち真ん中の建物と推測される。
レパント城といい、オルジェイトゥ廟といい、かつて訪れたところが、こんな風に絵図として残っていることに驚くと共に、マトラークチュにより親近感を持った。
トプカプ宮殿博物館蔵マトラクチュユスフ画スルタニーイェ絵図 イラン遠征の挿絵 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


以上の細密画は街の様子を描いた地図で、そこには人物は描かれていない。マトラークチュは人物は描かなかったのだろうか。マトラークチュの作品だと思って以下の作品を追加したが、後になって作者名が記載されていないことに気付いた。


ロードス島を攻める若きスレイマン トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷
『図説イスタンブール歴史散歩』は、25歳で即位したスレイマンの第2回目の親征の目標は、ロードス島であった。1522年のこの遠征で、東地中海航路の安全を確保するのに成功した。本図上方の城内では、聖ヨハネ騎士団が防戦につとめている。右下、羽飾りのついたターバンをかぶった若きスレイマンが、馬を進めている。左手中程では、イェニチェリたちが、城兵に銃撃を加えている。左下では、地下道を掘って城内に突入すべく、作業が進められつつあるという。
若きスレイマンは丸顔で、他の兵士たちと似たような顔に描かれている。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 ロードス島を攻める若きスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より


壮年のスレイマン 画家不明 写真 大村次郷 
『図説イスタンブール歴史散歩』は、スレイマン大帝は、黄金時代の君主であったばかりでなく、容姿の上でも、オスマン朝歴代中屈指の好男子であった。若年時には、色白でふっくらした貴公子であったらしいが、壮年期から老年期に入ると、面長で厳しい風貌をそなえるようになった。晩年のス レイマンは、公式の席ではほとんど表情を変えることもなく、顔色は青白かったという。
若い頃は色白でふっくらしていたのだったら、上図はスレイマンの顔を良く描いていることになる。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 壮年のスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より


御前会議の細密画 画家不明 トプカプ宮殿博物館蔵
『図説イスタンブール歴史散歩』は、今、図の中央左手の「ドーム下の間」で、帝国の最高政策を決定する「御前会議」が開かれている。左端に5人並んで着座しているのは、大宰相を筆頭とする宰相たちであろう。その上に二人並んで着座しているのは、「軍人の法官」たちであろう。左端の小部屋では、二人の小姓を従えたスルタンが、小窓から会議の様子を見守っている。ホールの上の二つの小部屋のうち、左側では、書記たちが座って書類を書いている。右隣りでは、財務官僚が、貨幣を計っている。その外には、役人たちが控えているという。
人物の描かれる方向が縦と横になっているので分かりにくい。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 御前会議 図説イスタンブール歴史散歩より

宰相たち 写真 WPS
同書は、ターバンをかぶり、長衣カフタンをまとって正装した宰相たちは、ほぼ皆、ひげを蓄えている。宰相、とりわけスルタンの絶対的代理人として絶大な権力を有する大宰相は、オスマン朝に仕える全官人の憧れの地位であったという。
髭がないのは、若いながら宰相に選ばれた人物だろうか。
背後の壁面に幾何学文様が描かれている。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 御前会議部分 図説イスタンブール歴史散歩より


後半はマトラークチュとはどんどんかけ離れてしまった。




関連記事
オリンピアからデルフィへ

参考文献
「トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録」 1988-89年 中近東文化センター・朝日新聞社
「図説イスタンブール歴史散歩」 鈴木菫著・大村次郷写真 1993年 河出書房新社 
「ペルシア建築」 SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 責任編集杉村棟 1999年 小学館

2024/03/29

アトメイダヌ広場で行われた行事


スルタンアフメットジャーミィ(ブルーモスク)近くのアトメイダヌ広場には、3本の柱が立っている。それはローマから東ローマ帝国にかけてヒポドローム(戦車競技場、ベンハーでやっていたような)
イスタンブール アトメイダヌ広場 Google Earth より


切石積みのオベリスク Örme Dikilitaş  ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス一世(在位306-337)頃
『望遠郷』は、アトゥ広場の南に立っている。高さ32mでかなり荒く切り出された石材でつくられている。ピエールジルはこの柱を「巨像」と記しているが、現代のほとんどの記述では「東ローマ皇帝皇子、コンスタンティヌスの柱」となっている。これらふたつの名前はそれぞれ、柱の台座のギリシア文字で刻まれている碑文からつけられたものと思われる。その碑文には、この柱とロードス島のコロッソスとを比較した内容が刻まれ、また傷みがひどっかたので、コンスタンティヌス七世が青銅で覆って建て直した、と記されている。おそらくコンスタンティヌス一世の時代につくられた柱であろうという。
ロードス島のコロッソスとは、ロドス島にかつて存在した巨像のこと。コロッソスは巨像という意味で、ローマのコロッセオは、かつてネロが黄金宮殿(ドムス・アウレア)近くに造った巨像の近くに、後に建造された円形闘技場ということに由来する固有名詞。
光が当たっているので白っぽいが、実際は美しいとは言えない。


三匹の蛇の頭がなくなってしまった蛇の円柱 
Yılanlı Sütun コンスタンティヌス一世が移設
『望遠郷』は、3匹の蛇が絡み合った形をしている。ギリシアが前479年にプラエーテでペルシア軍に勝ったのを記念し、三脚部に31の同盟ギリシア諸都市の名を刻んでデルフォイのアポロ神殿に奉納したものを、コンスタンティヌス一世がここに移した。3匹の蛇の頭はコンスタンティノープル陥落後、次々に失われたが、そのうちのひとつが1847年に発見され考古博物館に保存されているという。
しかし、この写真ではねじれた短い円柱が分かりにくい。

これだけしか残っていないが優美な囲いをしてある。小さくて地味なためあまり人だかりがない。
アトメイダヌ広場 蛇の円柱 イスタンブール歴史散歩より


ローマ帝国末期の皇帝テオドシウス一世(在位379-395)のオベリスク Theodosius Dikilitaşı は逆光なのか霞んで見えた。
『望遠郷』は、前16世紀のエジプト新王国時代にトゥトメ ス三世によって建てられたこのオベリスクは、高さが60mあった。しかし390年にテオドシウス一世によってコンスタンティノープルに移された際に破損し、上部3分の1の20mのみが設置されたという。

このオベリスクの台座 大村次郷写真
同書は、アトメイダヌにそそりたつオベリスクの台座は、ビザンツ人の手になる。この台座には桟敷からヒッポドロームでくりひろげられる競技を観るビザンツ皇帝とその一統の姿がきざまれているという。
イスタンブール アトメイダヌ広場 テオドシウスのオベリスク台座 イスタンブール歴史散歩より


この三本の柱は、蛇の頭部が失われたとはいえ、競技場を広場としてオスマン帝国の時代でも残された。そして、そこでは1582年のムラート三世の息子の割礼の祝祭の細密画に残っていて、ムラート三世が見ている場面には蛇の円柱が中央に描かれている。

『トルコ文明展図録』は、スルタンムラト三世が、1582年に皇子メフメットの割礼にあたり催した祭典は、52日間昼夜をあげて続けられた。スルタンアフメット広場にあるアトメイダン(ヒポドローム)でおこなわれたパレードには、 イスタンブルの全職人組合が参加した。画家オスマンの指揮のもとに、宮廷画家たちがこの盛大な行事を見開きで1図,合計 250図のミニアチュールに描いた。それらの内215図が今日まで伝わっているという。


「祝祭の書」 トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷 1582-83年頃
『図説イスタンブール歴史散歩』は、1582年のムラト三世主催の割礼の祝祭のひとこま。図左上では、スルタンが桟敷からアトメイダヌでくりひろげられる催しを見物している。その右側の白帽赤衣の人物は、警備のイェニチェリであるという。
Google Earth の地図で見ると、この蛇の円柱の向かい側はスレイマン大帝の大宰相で、後にスレイマンに殺されたイブラヒムパシャの邸宅(現トルコイスラーム美術館)近くのはず。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 祝祭のパフォーマンス 図説イスタンブール歴史散歩より

少年ダンサーや楽士たち同書は、中央では、少年ダンサー(キョチェク)が踊りを披露している。左右では計5名の楽士が楽器を奏している。図下左から中央にかけて、イスラム神秘主義(スーフィズム)の教団(タリカート)の一つ、メヴレヴィ 一教団の修道者(デルヴィシュ)たちが4名並び、中央の2人は、メヴレヴィー教団を象徴する楽器であるネイ(葦製のたて笛)を奏し、右側の青衣のデルヴィシュは、旋舞(セマーイ)を行なっている。2人の間には、当時まだアトメイダヌに残っていたビザンツ時代にデルフォイ神殿から運ばれた3匹の海蛇の銅柱が見える。左端の柱はコロッススであるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 祝祭のパフォーマンス 図説イスタンブール歴史散歩より


綴織り職人たちの行列 「祝祭の書」より トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷
同書は、1582年の同業者団体の行列。綴織り職人たちが製品をかかげて、アトメイダヌを行進しつつある。図左上の桟敷からスルタンが見物しているという。
同じ年に描かれた二つの細密画なのに、この図では右の建物は2本のミナーレがあるのでモスクである。イブラヒムパシャの邸宅はどうなっているの? 切石積みのオベリスクとテオドシウスのオベリスクの並びからこの図はイブラヒムパシャの邸宅側に向かって描かれているし、反対側だったとしても、スルタンアフメットジャーミィはまだ建設されていないはず。
『トルコ文明展図録』は、画面右上部にはこの儀式のために特別に設置された観覧席に坐す内外の招待客がみられるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列 図説イスタンブール歴史散歩より

その謎は『トルコ文明展図録』の解説で解けた。
画面左上部にはイブラヒーム宮殿に設けられた特別席から行進をみているスルタンと高官という。
スレイマン大帝の大宰相で、大帝に殺されたイブラヒムパシャの邸宅前だったのだ。大木を挟んだ右のモスクは、現在まで残らなかったのだろう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列部分 図説イスタンブール歴史散歩より

蛇の円柱の頭部は、蛇というよりも鳥のよう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列部分 図説イスタンブール歴史散歩より


トプカプ宮殿の厨房では、「祝祭の書」の中から下図のようなパネルがあった。
右図はテオドシウスのオベリスクの向こうには三階建ての桟敷席に大勢の見物客が描かれ、広場を料理を盛った容器を抱えた人たちが行進している。
左面には特別の桟敷席で見物するムラート三世の前を料理人を乗せた山車が動いていく図の一部だけが紹介されていた。


左図は吹きガラスの山車、右図は吹きガラスの製品と見物客たち
『トルコ文明展図録』は、「祝典の書」のミニアチュールは、見開き頁をつかって描かれている。
上方イブラーヒムパシャ宮殿の特別席には行進を見守るスルタンムラト 三世と皇子メフメットの姿が、反対側では特別に作られた観覧席に招待客がみられる。画家オスマンの作風であるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より

同書は、左画面にはガラス炉をのせた車があり、 ガラス職人たちは炉のそばで瓶を吹いてい るという。
移動させながら炉を高温に保つのは大変なことではなかったのかななどと思ってしまう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より

同書は、右画面では青ガラス製の水注、ポット、 香炉、砂時計などを頭上の盆にのせたり手にもって行進しているという。
当時は首の長い水注が流行っていたようだが、中には把手や蓋付の器も。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より


スレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 「祝祭の書」より ナッカシュオスマン画
『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN』は、スルタンムラト三世の息子メフメトの割礼のお祝いは52日間続いた。
毎日、さまざまな職人組合がアトメイダヌ広場をパレードした。これらの行列はナッカシュオスマンの『Surname-i Hümayun』に描かれていて、この場面はスレイマニエジャーミィの模型を運ぶ人々を描いているという。
ナッカシュオスマン画「祝祭の書」よりスレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN 

白いターバンを巻いたイエニチェリたちが模型を担いで行進している。

ナッカシュオスマン画「祝祭の書」よりスレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN


『祝典の書』第34・35葉 生花業者の行進 1582年頃 トプカプ宮殿博物館蔵
トプカプ宮殿博物館蔵『祝典の書』第34・35葉 生花業者の行進 1582年頃 世界美術大全集東洋編17 イスラームより


ローマ帝国時代からオスマン帝国時代まで、同じ場所で晴れの行事を行っていたのは他にはないだろう。




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参考文献
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「トルコ文明展図録」 中近東文化センター 1985年 平凡社
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication