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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2020/07/28

生誕120年 ミラクルエッシャー展 アトラーニを見下ろす


同展図録は、イタリアを離れた後のエッシャーは、自然描写に対する関心を失ってしまったが、初期の風景画の中には、後の時代の、テセレーション(モザイクパターン)や錯視を描く、様式化された版画の基礎となったものもあるという。

アマルフィ海岸の中でも、アトラーニという海岸に突き出た断崖の端にある小さな町を見下ろす景観を好んだようで、1931年に制作している。
1934年には、アトラーニの背後に隠れていた砂浜を描いている。波が打ち寄せる砂浜には小さなボートが並んでいたり、現在はない建物も描かれている。

アトラーニの教会を含む町はエッシャーの印象に深く残ったようで、メタモルフォーゼⅠ及びメタモルフォーゼⅡにも登場させている。

メタモルフォーゼⅠ 1937年 木版、チョーク(手彩色)195X908
同展図録は、エッシャーのメタモルフォーゼ三部作は本作で始まる。その最初の作品のテーマは平面の正則分割と形の変化である。この作品は彼のキャリアの中で写実的描写の時期を終わらせ、芸術家としての成長の過程であるいわゆる「心的イメージ」への転換を示している。
エッシャーの一度目のスペインは、22年、彼が建築の勉強を終えたばかりの若い芸術家だった時である。アルハンブラはスペインのグラナダに13世紀から14世紀、ムーア人王朝によって建てられた宮殿と要塞の複合体である。イスラム建築全盛の1つの例で、その特徴はエッシャーが虜になった幾何学と対称性である。その構造と装飾は彼の正則分割という着想の源で、本作でそれを例証している。
アマルフィ海岸への旅行でエッシャーは妻のイエッタを、眼下に広がる絶壁に座らせて写真を撮っている。写真の中のアトラニは、この版画に見られるのと全く同じ角度から見られている(左から右の方向が反対になるのは版式によるものである)。
エッシャーは作品のいかなる象徴的な解釈も拒否する傾向にあったため、我々が感銘を受けることができるのは、南イタリアの町の家々から始まって、中国人の若者の姿がまるで「私はここにいるよ」と言っているかのように手を広げているところまで進化するその形式的な進化のプロセスだけである。
作品は36年半ば、2カ月間の船旅に先立って制作された。それはイタリアとフランスの海岸に沿って進み、将来的に大きな影響力を持つスペインで終わる旅であるという。

メタモルフォーゼⅡ部分 1939-40年
この作品はエッシャーが開発した「絵のストーリー」という着想の最も洗練された段階である。ストーリーとはリズムや内部ロジックを表現するもので、メロディーのように展開していくという。

メタモルフォーゼⅠのアトラーニ
実際の聖堂の鐘楼は手前側にあるので、版式のために左右反転したとしても、写真そのままを彫ったのではないのでは。実際のアトラーニに近いのは31年の作品である。

メタモルフォーゼⅡのアトラーニ
一見、聖堂の先に橋がチェスの駒へと繋がっているので、こちらの方がデフォルメされているように見えるが、聖堂は31年の作品に近い。
メタモルフォーゼⅡは、前半にはアトラーニの町はなく、後半に現れる。最初はMETAMORPHOSEという文字から始まり、様々に変容してアトラーニの町、チェス盤、METAMORPHOSEという文字で終わる。

エッシャーのスペイン訪問の1度目の22年に模写あるいは撮影したモザイクタイルを、26年に模写した作品。

同展図録は、1936年5月26日アルハンブラ宮殿を再訪し、イスラム建築の装飾模様の写生に丸3日費やすというが、その図は残っていないのだろうか。
アルハンブラ宮殿のモザイクタイルは、腰壁など低い位置の壁面を覆うもの、つまり平面が多いので、エッシャーが平面分割に突き進んでいくのは想像に難くない。

昼と夜 1938年 多色刷り木版 391X682
『ミラクルエッシャー展図録』は、白い鳥と黒い鳥の一群が互い違いに飛翔する形態を、平面の正則分割の手法で表現したものである。
エッシャーはこう説明する。「白鳥群は昼間の空と風景に溶け込んでいき、黒い鳥群は夜の中に溶け込み始める。昼と夜の風景は、互いの鏡像になっているが、それら2つをつなぐものは、中央部に展開されている灰色の畑であって、この灰色の畑の中から、鳥たちはいま一度その姿を現す」。
オランダの平らな風景が徐々に白と黒の鳥の姿へと変化する表現が、新しい時代を切り開いたことは明らかで、エッシャーの賛同者や批評家たちにインパクトを与えたという。

もうふた昔ほど前のことだろうか、インターネットをやり始めた頃、アルハンブラ(La Alhambra de Granada グラナダのアランブラ スペイン語はhを発音しない)宮殿を検索していると、宮殿内の数々のタイルパターンをエッシャーがどのように展開していったかを描いたホームページがあったが、現在は閉じられているようで、開くことができないのは残念。

生誕120年 ミラクルエッシャー展 イタリアの風景← 
                      →エッシャーとその師メスキータ

関連項目
エッシャーが描いたペルシャ神話の人面鳥

参考文献
「生誕120年 イスラエル博物館所蔵 ミラクル エッシャー展図録」 2018年 産経新聞社・フジテレビジョン

「魔法の芸術 エッシャー展図録」 1981年 アート・ライフ

2020/07/21

生誕120年 ミラクルエッシャー展 イタリアの風景


同展図録は、20世紀を代表する奇想の版画家、マウリッツ・コルネリス・エッシャー(1898-1972)の生誕120年を記念した展覧会。
世界最大級のエッシャーコレクションを誇るイスラエル博物館から選りすぐりの152点を日本初公開いたしますという。
自分の南イタリア旅行に合わせたわけではないが、平らな国土オランダで生まれ育ったエッシャーが、起伏に富んだ南イタリアの景色をどんな風に魅せられたのかを、その作品から辿ってみたい。

同展図録は、彼はオランダで暮らす建築学生の時に初めてイタリアへ旅をした。学校を卒業して数年後、イタリアのローマに住んだ。ローマの夜景は彼を魅了したという。
エッシャーが滞在中にローマの景色を表した作品の中に、私にとっても懐かしいものがあった。

ボルゲーゼの聖獣 1927年 多色刷り木版 447X443 ローマ
ボルゲーゼという大富豪の所有したボルゲーゼ公園の中にあるボルゲーゼ美術館から眺めたローマ中心部の景色ということだろう。こんな眠そうな怪獣はどこにあるのだろう。
左奥に白っぽいヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂が見えている。

夜のローマ トラヤヌス記念柱 1934年
背後から放射状に出ている光線がサンティッシモ ノーメ ディ マリア アル フォロ トライアノ教会のドーム越しにトラヤヌス記念柱まで届いている。
記念柱と教会の半分が写っている写真はこちら
同展図録は、エッシャーの初期風景画に特徴的なものとして、34年に制作されたローマの夜景が挙げられる。この都市の劇的なライティングが、木版技法を駆使した黒と白のコントラストによって表現されているという。

同展図録は、旅はエッシャーの制作にインスピレーションを与えた。1920年代のイタリア旅行では、絵日記のようなかたちで、山々や古代の都市(多くはイタリア西部)をスケッチした。描く主題の選択は、各地の古代文化、そして自然へのエッシャーの関心が反映されてやおり、イタリアの海岸線の急勾配な地形を描いた素描が数多くある。また緻密に描いた自然の積み重なった岩や植物は、建築的な構造を浮かびあがらせている。多くの場合、彼は遠方から見た風景を描くことを選んでいるが、極めて高い、あるいは低い視点から捉えている場合もある。このような素描は、ローマ定住の1920年代中頃から35年頃、アトリエでの版画制作の基礎となったという。

Google Earthでは、あまり解像度はよくないが、丘の上に、あるいは断崖の上に築かれた町の様子がわかる。

サンジミニャーノ 1922年 木版 247X321
イタリア滞在中、サンジミニャーノの景観に圧倒されたエッシャーは、4月28日に「朝、オリーブの木のスケッチをはじめ、背景に町の塔のシルエットを描いた」と伝えられている。本作は、その景観に魅了されたエッシャーのビジョンがかたちになったものであるという。
Google Earthで見ると、サンジミニャーノも細長い台地にあり、中世に競って建てられた塔が今でも残っている。
その斜面はオリーヴ畑になっていて、谷間には木々も茂っている。この作品はそんな樹木も描いていて、起伏のある土地や、その上にある町、斜面のオリーヴ畑、その上にある町など、平らなオランダからやってきたエッシャーには何もかもが珍しく、目を釘付けにしたことだろう。

ヴィトルキアーノ 1925年 木版 391X571 チミノ
ヴィトルキアーノもまた細長い台地の上にできた町。その上、なだらかな斜面ではなく、切り立った岩壁が囲んでいる。白い木の下に、杖を両手で持って座っているのは羊飼いだろうか。
Google Earthではやや平べったい街の建物と谷間が見えるが、奥の橋はこんな風には見通せない。孤立した町と外界を結ぶ高い橋も、エッシャーには印象深いものだっただろう。

ゴリアーノ・シコリ 1929年 リトグラフ 240X290 アブルッツィ地方
Google Earthで見ると、やはり丘の上の町で、頂上にサンタ・マリア・ノヴァ教会があるが、その鐘楼はこの作品とは反対に、教会の右側にある。
こんな風に独立した丘に町を築く例はフランスなどでもある。この作品で思い出したのはコルドシュルシエル(天空のコルド)、1222年に建設された防塞都市(『中世の街角で』より)というように、イタリアでも防塞都市として、中世に各地で築かれたのだろう。 

ジェナッツァーノ 1929年 リトグラフ 268X196 アブルッツィ地方
Google Earthで、アブルッツィではなくラツィオ州のジェナッツァーノに、この鐘楼に似た鐘楼のあるサン・パウロ使徒教会を見つけた。
下の町の入口は、岩盤から掘り出したように、通路、建物の入口への階段、扶壁などが表されている。
町の背後には、パターン化された形の雲が並んで空を覆っている。ひょっとして、このような雲が出やすい地形かも。

チェッロ・アル・ヴォルトゥルノ 1930年 665X483 アブルッツィ地方
Google Earthで見つけた当地はモリーゼ州にあった。
奇妙な岩山の裾と上に町がある。上の町は周壁を巡らし各所に監視塔のある、敵の攻撃から護らねばならない時代のもの。崖の下には、もうそんな必要のない時代に建てられた新しい町がある。

カストロヴァルヴァ 1930年 リトグラフ 535X418 アブルッツィ地方
同展図録は、エッシャーの風景版画には、ローマの東側に位置するアブルッツィ地方の切り立った景観を主題とした作品が数多く登場する。本作が制作される前年の1929年の春、エッシャーは友人のスイス人画家とともに、アブルッツィの山脈を旅行し、その切り立った山岳の景観をスケッチしたという。
Google Earthでカストロヴァルヴァの町は狭い尾根にあることが分かったし、作品に描かれた2つの塔も町中のストリートヴューで見えるが、崖下の道路から見上げても、木々が邪魔をして全く見えない。
下の斜面には農地が広がり、その裾にあるのはアンヴェルサ・デリ・アブルッツィの集落。左下の植物はよく分からない。

ペンテダッティロ Pentedattilo 1930年 カラブリア州 リトグラフ 197X255
同展図録は、1930年4月末から1ヵ月ほどの間、エッシャーは友人たちとともに、イタリア南部のカラブリア州を訪れた。カラブリア州南端にあるペンテダッティロに到着した彼らは、そこで数日間滞在した。本作はその時のスケッチに基づく版画で、強い陽光を浴びて陰影が浮き立つ山の姿が、雲ひとつない空から際立っているという。 
なんと、ももであさんのイタリアの田舎:ドライブ旅行記 -11- ~ペンテダッティロ編~には、現在でもほとんど変わらない山に抱かれた小さな村の写真が沢山あった。そして1960年代に州が住民に退去命令を出して廃村となってしまったらしい。
Google Earthで見るよりも、ももであさんのたくさんの写真の方がエッシャーの作品に似ている。

トロペーア 1931年 リトグラフ 313X235 カラブリア州
同展図録は、30年4月末からのカラブリア地方旅行で見た景観に基づく版画。切り立った岩壁に立つ建物を見上げた視点で描かれているという。
Google Earthでは、左の崖の中程に、補強のための二連アーチ4段は現在でも残っているが橋はない。広い道路の先には、サンタ・マリア・デッリゾラ聖堂のある小さな丘が海に突きだしている。
Giorgio Bianchiさんのカラーブリア州を巡る旅~欧州で最も美しいビーチ、トロペーア~では、反対側から眺めた崖と建物の写真が数多くあります。真下から見上げたり、海水がかかりそうな洞窟を見つけたりと、面白い町のよう。
はん

サンタ・セヴェリナ 1931年 リトグラフ 232X310 カラブリア州
Google Earthでは、北西側からサンタゼヴェリーナの城を右奥に、教会をその左側に望むことができるが、ここでも教会の鐘楼とドームの位置が逆になっている。じっくりと比べると、他にも作品と実景の違いが比較できるだろう。

ロッサーノ 1931年 木版 240X309 カラブリア州
Google Earth では北よりから眺めると、つづら折りの路と斜面に密集する町並みが望める。ロッサーノの町というよりも、その斜面を含む山並みと谷に燦々と日が射している後景を表している。

サンコジモ 1932年 リトグラフ 280X210 ラヴェッロ、アマルフィ
珍しく断崖の下に、と言うか崖に密着して建てられている。
Google Earthで、サンコジモ通りが岩壁に張り付いた建物が並んでいる。その建物群は現在の方が多い。

アマルフィ海岸 Coast of Amalfi(composition) 1934年 木版 697X408 
同展図録は、この見事な版画は1934年11月、ファシズムの台頭のためにエッシャーが10年以上滞在したイタリアを家族とともに去る数カ月前に制作されたものである。22年から暮らしたこの国を彼はとても気に入っていた。古代の建物や自然の風景は初めてそこに滞在した頃から彼の作品に見られる。
本作において、彼は黒白のはっきりとしたコントラストや様々な陰影によって抑えの利いた穏やかな印象の部分を作り出す技量を見せている。海沿いの町を高い視点から描き、急勾配の地形を劇的に強調している。アマルフィ海岸はイタリア南西部カンパーニャ州にある50㎞に及ぶ海岸線である。山の傾斜地にはレモン園やオリーブ畑を主にした伝統的な農耕地、その横には中世の建物が描かれている。アマルフィ海岸は貧しく孤立した農村地帯であったが、20世紀初め北ヨーロッパからの観光客が訪れ始め、海岸沿いの小さな町は人気の観光地となった。
崖っぷちを走っている舗装道路は狭くて危うい。作品でエッシャーは、異なる複数の道を強調している。思いもよらない視点から描いた道の上昇と下降とともに、この異なる道によって彼は不可能な道の着想を得たようである。
アマルフィ海岸を描いた版画にエッシャーがつけた画題は、この風景が着想の基になっているだろうという仮説を立証している。作品は単に風景の印象を表現しているだけではなく、構成要素をどう組み立てるのかという形式主義の考えを含んでいるという。

アトラーニ 1931年 リトグラフ 275X379年 アマルフィ海岸
上の作品の3年前に制作されたこの作品は町を白っぽく描写していて、Google Earthで見ても、右下の人や馬車が通る海岸の崖に作られた道は現在もあるし、その左下にある階段も残っている。
教会はサンタ・マリア・マッダレーナといい、現在もこの向きで立っている。しかし、上の作品では、鐘楼は場所は同じだが上部が異なっているし、後陣や交差部のドームが反対向きになっている。
その左の、一つの階に7つの窓が並び、右の2室は少し角度が変わる建物も、ピンクの色で残っている。ただしその背後の通路や階段は今はないが、これがエッシャーの「不可能な道の着想」によるものなのか、当時はあったのかは不明。

イタリアを離れた後のエッシャーは、自然描写に対する関心を失ってしまったが、初期の風景画の中には、後の時代の、テセレーション(モザイクパターン)や錯視を描く、様式化された版画の基礎となったものもあるという。

                                   →生誕120年 ミラクルエッシャー展 アトラーニを見下ろす

関連項目
エッシャーが描いたペルシャ神話の人面鳥
エッシャーとその師メスキータ
ローマ トラヤヌス帝の市場と広場

参考サイト
ももであさんのイタリアの田舎:ドライブ旅行記 -11- ~ペンテダッティロ編~
Giorgio Bianchiさんのカラーブリア州を巡る旅~欧州で最も美しいビーチ、トロペーア~

参考文献
「生誕120年 イスラエル博物館所蔵 ミラクル エッシャー展図録」2018年 産経新聞社・フジテレビジョン
「中世の街角で」 木村尚三郎 1989年 グラフィック社

2020/07/14

ヴィッラ・アドリアーナ ドームの形


ヴィッラ・アドリアーナでは、浴場につきもののドームの他にも、遠望しかできなかったものも含めて幾つか見ることが出来た。

Ⅴ:小浴場
平面図(説明パネルより)では円形平面にドームが架構されている。どんなドームだったのだろう。パンテオン型に近いドームにはなっていただろう。

Ⅵ:大浴場 
平面図(説明パネルより)
最初に見えたのは、⑱の半ドームと⑬のドーム 
⑱室の半ドームはかなりへしゃがっている。
⑤室から見上げると、オクルスのある半ドームだった(欠けているけど)。
パンテオンと同様に、外壁が高いため、もっと下の方からドームへ移行しているのが見えないので、丸屋根はさほど大きくないように見えるのだろう。
⑬冷浴室(フリギダリウム frigidarium)のドームは真円ドームに近い。2つのアーチ形壁龕の上に線があるので、そのあたりから半球に移行しているように見える。
パンテオンのドームと同じく頂部にオクルスがあるのは、円錐ドームしか架けられなかったポンペイのフォロの浴場(前80年)を初め、明かり採りや換気のために必要なものだった。
反対側から見ると、パンテオンと同じ円形平面

Ⅷ:セラペオの半ドーム
傘を少しすぼめたように
オクルスにしては小さいし円形ではない。凹んでいる曲面が3つ、出っ張っている曲面が4つで半ドームを構成している。こういう建て方の方が強度があるのだろうか。それとも奇をてらっただけなのだろうか😎

Ⅹ:ヘリオカミヌス(Heliocaminus)浴場
半分になってしまっっているが、遠方からでも見える大きなドーム🧐
おっ、遠くの丘に立派な建物が。ティヴォリのヴィッラ・デステかな🤗
平面図を見るとやっぱり円形
パンテオンのドームのように格間が並んでいたのだろう。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、格子模様のドーム天井はパレストリーナ、フォルトゥナ・プリミゲニア神域のヴォールト天井までさかのぼれるという。
前80年頃にすでにあったというが、それはローマンコンクリートというものがあってのこと。
しかし、アテネのアクロポリスに上り着いたところにあるプロピュライア(前437-432)やエレクテイオン(前421-406)に石材の格間がある。

Ⅺ:哲学者の部屋(Sala dei Filisofi)
遠くから平たい壁とアプシスのよう
内側は初期のバシリカ式キリスト教会堂のよう。


関連項目ティヴォリ ヴィッラ・アドリアーナ ハドリアヌス帝の別荘2ティヴォリ ヴィッラ・アドリアーナ ハドリアヌス帝の別荘1

2020/07/03

ヴィッラ・アドリアーナ 大浴場に交差切妻屋根


ヴィッラ・アドリアーナに行ってみたいと思ったのは、パンテオンを再建(118-128年)して初の完璧なドームを架けたハドリアヌス帝が、ローマ郊外のティブール(現ティヴォリ)の麓に118-134年にこの別荘の建物群を建造しているので、その建物の中にどんなドームがあるかを見てみたいと思ったからだ。
中でも、大浴場に残る天井あるいは屋根の残骸の写真(多数のホームページより)を下から見上げて、それが完璧なドームかどうかを確認したかった。
大浴場平面図(説明パネルより)
カノポスから戻って南側から見た⑧は大きな部屋
壁が半分なくなっているので内部が見える。一見ヴォールト天井風だが、屋根は浅い切妻だった。
その天井は奇妙なもので、しかも浮彫漆喰による装飾を施している。 四隅からの対角線が交差する箇所に黒い点がある。
⑧西壁 
おそらく正方形平面の四隅上方にアーチを架けるための起拱点になる石材を嵌め込み、各面に大きなアーチ、あるいはヴォールト天井を架けて、それを交差させた交差ヴォールトなのだ。交差ヴォールトの頂点にあるのが黒い点。

ロマネスク建築の交差ヴォールトの図(『図説ロマネスクの教会堂』より)は柱の上に造られた交差ヴォールトだが、それを壁に囲まれ、起拱点を取り付けた部屋に置き換えてみると、この部屋の天井が理解できる。屋根は各面が浅い切妻になった、交差切妻屋根(勝手につけた名称です)。
ハドリアヌスの前の皇帝トラヤヌスの時代(98-117)に建造されたトラヤヌス市場(112-113)の大ホールを思わせる。

大浴場の東玄関側に回り、いよいよ⑤の長方形の広間へ。
そこに架かる天井の残骸。これはドームだったのか? 
別方向より見ると、右下の起拱点から稜線のようなものが見える。⑤の広間が長方形の平面なので、円形のドームを架けることはできない。ヴォールト天井(トンネル状の天井)でもないので、交差ヴォールト状のものではないだろうか。
天井は頂部に行くほど壁が薄くなっていく。こういう風に断面が見えるともどのように天井を造っていったかがよくわかる。ハドリアヌス帝の墓廟のドーナツ状の通路の一部がこんな造り方だった。ただし、
ハドリアヌス帝の墓廟は135年に建造開始、完成は没後の139年なので、こちらの方が先。
左(北西)の隅の起拱点から稜線が出ているのが確認できた。その上の極端に薄いところが交差ヴォールトの部分。
幸いなことに説明パネルには平面図だけでなく、屋根伏図(推定)もあった。 この⑤の広間は、長方形平面だが、屋根は正方形で、⑧の部屋と同じ大きさのように見える。その上、何を表現しようとしたのかよく分からないが、一つの正方形を4等分した線と、対角線とで8つの三角形ができている。
部屋の一辺が傾斜の緩い切妻屋根になっているのが見えたので、この伏図は四方が切妻屋根を表しているのだ。
それをGoogle Earthで確認できたが、それをどう表現すれば良いのだろう。

その頂点を見上げると、こんな風に円形の何かがあるが、オクルスを開くことはできなかったらしい。
またトラヤヌス市場の大ホールに戻るが、浅い交差ヴォールトの頂部にも、似たようなものがあった。この屋根がどのような構造だったかは、修復されてしまったため、Google Earthで知ることはできない。

大浴場上方から撮影した写真が、真@tokyoさんのトラベラーページのハドリアヌスの別荘(ヴィッラ・アドリアーナ) その3 遺跡の建築群(大浴場、海の劇場、宮廷、黄金の間その他)にあり、⑧の部屋の屋根が交差切妻屋根(性格な用語が分かるまで、とりあえずこう呼びます)であること、そして⑤広間の天井が浅い交差ヴォールトであることが確認できました。真@tokyoさん、どうも有り難うございます🤩

⑯は、手前に大きなヴォールト天井、奥に幅の狭いヴォールト天井という風に思っていたが、屋根伏図で見ると、ヴォールト天井の上に、交差切妻屋根が架けられていたようだ(ただし推定の図面)。


小浴場にも同じような屋根はあったようで、それは平面図(説明パネルより)ではとても分からないが、
軸側投影図法(説明パネルより)で見ると、ドームは10だけで、3・5・7・11・15・20に交差切妻屋根が架けられていたらしいことが分かった。
9室は変則的な八角形で、どんな屋根だったのか予想できなかったらしい。
通りすがりに写したものは15と20室だった。
15室は少しだけ屋根の尖ったところが見えている。

内部を明るくしてみると、浅い、巨大な交差ヴォールトの天井が見えた。 


               →ヴィッラ・アドリアーナ ドームの形

関連項目
ハドリアヌスの別荘(ヴィッラ・アドリアーナ) その3 遺跡の建築群(大浴場、海の劇場、宮廷、黄金の間その他)


参考文献 
「図説 ロマネスクの教会堂」 辻本敬子 ダーリング・益代 2003年 河出書房新社