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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2009/09/25

帯に下げる小物入れは中国や新羅にも

 
突厥の金帯飾りについた小物入れに似たものがあった。

山岳仙人霊獣文錦袋 絹 長12㎝幅10㎝ ニヤ1号墓地8号墓出土 漢-晋時代(1-5世紀) 
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、緑地平絹の縁をめぐらし、中央に茶地平絹の帯紐をつけた櫛袋である。表の錦は経錦(たてにしき)で、藍地に後方を振り返る虎のような動物や角を生やした動物に仙人が乗っている姿が、立ち上がる山形風の雲気文の間に配されているという。
同展で見た時、手首に通して持つのだと思っていたが、突厥のように帯に下げていたのだろうか。櫛を入れるための袋というのは騎馬遊牧民が持ち歩きそうにないなあ。 
ニヤ遺跡についてはこちら 商談図(拓本) 石製 北斉(550-577) 高135㎝幅98㎝ 山東省清州市傳家村出土 清州市博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、石板に線刻された画像は、囲屏もしくは石槨を構成していたものと推測される。頭に折上巾をつけた墓主と思われる人物が、筌蹄に坐して左手に杯を持ち、前に立つ胡人と対飲している。髪の毛がカールした胡人は胡服独特の派手な飾りの服を着、腰をかがめて相手の機嫌をうかがうかのようであり、奧に控えた人物がもつ珊瑚は献上品であろう。おそらくソグド人であるという。
胡人は腰に細い帯をしている。等間隔で区切りがあるので、銙板が付いた帯だろう。その下には丸い垂飾が銙板の区切りとは関係なく並んでいるのは、銙板と垂飾が同じ数だけある新羅の金製腰偑とは異なるところだ。
そして垂飾に通さずに、細い帯に直接小物入れが通してある。形は櫛入れと似ているが、蓋付なので、突厥の金帯飾りに下がった小物入れの方に近い。
漢人の商人も銙板のあるベルトをして、左脇には垂飾の間に長い紐で何かを吊り下げている。ソグド人の小物入れとは形が異なるが、小袋を腰に提げるのは当時の流行だったのかも。 胡服女子俑 唐(8世紀) 灰陶加彩 高50㎝幅13.3㎝ 咸陽市辺防村楊諫臣墓出土
『新シルクロード展図録』は、男装をした女俑で、襟を外側に折り(翻襟)、袖を搾った胡服を纏い、両手を腹前に置き直立している。胡服の下からは袴(こ、ズボン)と革靴が覗いており、腰帯から香袋のようなものを提げている。胡人の風俗を真似ることも当時の流行りであったという。
中国では8世紀ともなると、小物入れは円い妙な形になってしまった。当時の香袋はこんな形だったのか。
銙帯はまばらだが等間隔についていて、垂飾はなくなっている。そして、今まで気付かなかったが、ベルトの端は後ろ側に垂らすものだったのだ。そうだとすると、突厥の金帯飾りは、小物入れが腰側の左右にきたことになるなあ。 石人一対 慶州掛陵(クェルン) 統一新羅(798年頃)
『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、韓半島の地にソグドを含む西域人が一定程度定着し、大規模に活動していたことを示す史料はない。史料はないが、新羅には東アジアの人種とは思えない特徴を持つ人物を表現した遺物が残されている。統一新羅時代の王陵級の古墳の前面に立ち並ぶ石像群の中にも、西域の人物と思しき武人像が存在する。ただし、これらの石造物や俑から、ソグド人らが新羅の地にいたかどうかを判断するのは実際には難しい。あるいは、唐の文化を導入した際に、それが誰を表しているのか理解されないままに異国風の人物を含む定型化したセットが認識され、石人像や俑として作られた可能性もある。
石人の後ろ姿には興味深いものがある。小さな楕円形のポシェットである。このような小物を入れる小さな袋は、騎馬の風習のある人々にも見られる
という。
こちらは平べったい小物入れだ。何かを持ち運ぶものというよりも、胡服と言えば腰に小物入れというように「定型化された」装飾だったのかも。巻き上げた袖のボリュームとはえらい違いだ。
長い上着の余った部分がベルトの上に垂れているので、銙帯や腰偑があるかどうかわからないが、慶州の積石木槨墳(-6世紀前半)から出土したような長い腰偑は流行らなくなって久しいのだろう。 騎馬遊牧民にとっては必要な腰偑のついた帯や小物入れも、中国の中原や山東省ではただの流行の装身具になり、更に統一新羅では袋という用途も忘れられてしまったかのようである。

銙板と垂飾についてはこちら

※参考サイト
佛教大学日中共同ニヤ遺跡学術調査

※参考文献
「新シルクロード展図録」 2005年 NHK
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「ユーラシアの風 新羅へ展図録」 2009年 山川出版社
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館 

2009/09/22

新羅の腰偑は突厥の金帯飾りに似ている

 
慶州の巨大積石木槨墳からは幾つか銙帯(かたい)と腰偑が出土している。

金製銙帯・腰偑 5-6世紀 長102.0㎝ 
瑞鳳塚出土のものは金冠塚出土や天馬塚出土のものに比べて腰偑の数が半分くらいしかないし、中程には耳飾りのようなものが1対取り付けられているように見える。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、木槨内は盗掘もなく完存していたというので、埋葬時にはこれで全てだったのだ。 実際に見ると、腰偑は長い上にたくさん吊り下げられていて、あまりにも重そうなので、儀式や祭祀など特別なときだけ身につけたのだろうと思った。しかし、いくら儀式用とはいえ、腰偑をこんなに長くするのには、どのような意味があったのか。
そう思いながら、シルクロード関係の書物を探していると思わぬものを見つけた。

突厥の金帯飾り 出土地不明 時代不明  
『週刊シルクロード12キルギス』 に掲載されていた写真(ユニフォト)で、金細工の部分に狩猟紋(狩猟する絵)が描かれているという。
おそらく革に金製の金具がついているのだろう。ベルトを前で留めると、小物入れ状のものがちょうどポケットのように左右にくるように作られているようだ。しかし、他の腰偑は長短はあるが、武器も道具もつけていない。普段はこのままの状態で使用し、必要な時にだけ腰偑に取り付けていたのかも。 突厥の名が出るとは思わなかった。そもそも突厥とはどういう民族なのだろう。
同書で林俊雄氏は、6世紀中頃、柔然の支配下から独立したテュルク(トルコ)系の民族。後に柔然を併合して草原地帯を統一。西はカスピ海から東は中国の北方まで領土を広げ、匈奴以来の内陸アジア全域を支配する強力な遊牧国家を建設したという。
6世紀中頃と言えば、新羅では巨大な積石木槨墳がもう作られなくなった頃である。
『シルクロードを知る事典』は、突厥は北周と相互に婚姻関係をもって発展したが、次第に大小の可汗が分裂抗争し、やがて東突厥(モンゴリア)、西突厥(中央アジア)に分裂した。
630年、東突厥(第一可汗国)は唐のために滅ぼされ、部族は唐の北辺でその支配をうけた
という。
新羅に近い東突厥は7世紀前半に滅んでしまった。西突厥はどうだろう。
西面可汗シルジブルがエフタルを破って中央アジア全域を支配し、ササン朝と東ローマに対抗して西方へ発展したのが、西突厥の基礎となった。アパ可汗が西突厥を称したのは583年であった。
611年射匱が隋に任命されて可汗となり、その弟統葉護可汗期に最盛期を迎えた。統葉護は可汗庭をスイアブに移し、その勢力はアム川を越えてカピシ(現アフガニスタンのベグラム遺跡)に及んだ。
640年唐の高昌征伐を初めとする積極的西域進出が始まり、西域と西突厥は唐の支配下にはいった。
高宗は三度の大討伐を行なって、657年西突厥を滅亡させた。
唐はもとの西突厥の領域を傀儡の2可汗に統治させ、西突厥支配下にあった中央アジア諸国に都督府と州を置いて支配した。
683年東突厥の地では、阿支那氏のクトルグが突厥勢力を糾合して独立し、第二可汗国が成立した。彼らはゴビをわたって本拠ウチュケン山を回復し、モンゴリアを再統一した。次のカプガン可汗は西突厥の後継者の突騎施(テュルギシュ)を討ちソグディアナにまで遠征した。第三代のビルゲ可汗時代は玄宗皇帝期にあたり、玄宗と父子関係を結んで繁栄したが、その後は内紛が多く、唐と組んだトルコ諸部族の反乱が起こって、第二可汗国は744年に滅亡した。
8世紀初めには十姓の一部突騎施が復興し、東では東突厥と、西では東進してくるイスラム勢力と衝突する
という。
西突厥の方はかなり長い間中央アジアにいたのだ。

この出土地も時代もわからない金帯飾りは、『週刊シルクロード12キルギス』が採り上げているのだから、現キルギスの地のどこかから発見されたものだろう。
意外なことに、このような長い腰偑のついた形式のものは、長い期間にわたって、北方ユーラシアで使用し続けられたていたようだ。
そして新羅では、実用品でない腰偑もあるので、新羅では、突厥の帯飾りに似たものが武人などの間で使われていたのだろう。

石人 出土地不明 時代不明 ベラサグン、野外博物館 
『シルクロードを知る事典』は、砕葉城からさらに10㎞ほど南下すると、ベラサグンの遺跡がある。約1㎞X800mほどの広大な廃墟だが、遺跡に入るとまず半壊したミナレット(尖塔)があり、王宮の跡か住居址か巨大なテペ(遺跡の丘)がそれに続いてわだかまっていた。遺跡右手の空き地には、キルギス共和国の各地から集められた石人や直径1~2mの巨大な石臼が20~30個もズラリと並べられていて壮観だった。残念なことにこれらの石人は、採集地はすでに分からなくなったものが多いという。
この石人は膝を曲げて坐っているように見える。2本の剣は帯から下げているのか、脚の前に立てかけているのか、よくわからない。石人はたくさんあるようなので、探せばベルトから武器を吊り下げたようなのもあるかも。ベラサグン遺跡の位置は下図をどうぞ。

付近のアク・ベシム遺跡について『週刊シルクロード12キルギス』は、アク・ベシム遺跡が西突厥の本拠地であったスイアーブ、すなわち中国史料に見られる砕葉城あるいは素葉城に相当することがほほ確実であるという。
『シルクロードを知る事典』は、『大慈恩寺三蔵法師伝』には、法師のこの地方での旅を次のように述べている。玄奘三蔵がイシック・クルから西北に500余里進んで素葉城(アクベシム)に着くと、そこで西突厥の葉護可汗に会った。可汗はちょうど狩猟に行くところで、多数の兵馬を従えていた。玄奘が可汗を訪れると、可汗は大いに喜んだという。
玄奘三蔵がここまでやって来たのは630年のことである。きっと狩猟の服装をしていた可汗は、革に金の金具を付けた腰偑に狩りの道具をいろいろと吊り下げていたことだろう。 
慶州瑞鳳塚についてはこちら

※参考文献
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「週刊シルクロード12 キルギス イシク・クル湖ビシケク」(2006年 朝日新聞社)
「シルクロードを知る事典」(長沢和俊 2002年 東京堂出版) 

2009/09/18

鹿石の帯に吊り下げられた武器と新羅古墳出土の腰偑

 
モンゴル、オーラン・オーシグの今でも立っている鹿石(前2千年紀末-前1千年紀初)は下の方に帯状のものがあり、それにいろんな道具がぶら下がっている。剣のような武器らしい。帯の上部には弓矢がある。 

鹿石に描かれた図 オーラン・オーシグ出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、鹿石に表されたシカにも2種類ある。1つはモンゴル高原の鹿石によく見られるもので、鼻面が嘴のように突出し、背中には三角形の突起があり、枝角が背中に沿ってたなびき、肢は細い線で表されるものである。
これらの鹿石にしばしば刻まれている武器などは、中国の商代(殷代ともいう)後期に、中国北辺の牧畜民によって用いられたものに似ている
という。
こちらの鹿は肢は折り曲げていないが、極端に短い。
『世界美術大全集東洋編1』は、鹿石の表面には鹿を主としてさまざまな文様が刻まれているが、多くのものには耳飾りのような文様、首輪のような線、真ん中から少し下には帯のような文様、そこから吊り下げられているような形で、短剣、刀子、弓などの図が刻まれている。短剣には、その図からある程度型式が推定できるものがある。たとえば柄の先に動物の頭がつけられているものがあるが、それは柄が剣身に対して曲がっており、中国殷代の北方青銅器の短剣とひじょうによく似ている。鞘には、夏家店上層文化の短剣の鞘にときおり見られるように末端が少し広がったものや、三角形の透かし文様を表したものが見られる。
これらの例から鹿石の年代は殷代から春秋時代の初めごろに相当すると考えられる
という。
時代的にイラン系スキタイ以前である。この顔から類推すると、当時この辺りに住んでいたのは、日本人同様に目が細く鼻が低いモンゴロイド系というよりは、このように深目高鼻のイラン系(東方アーリア系)やなあ。スキタイ以前からイラン系の人々がモンゴル高原に住んでいたらしい。
2つの説を合わせると、殷代後期から春秋時代初期(前12-8世紀前半頃)だが、これだけの長期間に、モンゴル高原に住む人々はずっとイラン系だったのだろうか。それともモンゴル系に代わっても鹿石は作り続けられたのだろうか。 鹿石破片 前822-791年以前 アルジャン古墳出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、鹿石は元来、人の姿を表したものだと考えられている。確かに真ん中より少し下のあたりには帯が表され、帯からは、短剣や戦斧などが吊されているのが見える。
シカは幾分写実的に見えるスキタイ様式のシカである
という。
どうも鹿石は、北方騎馬遊牧民の狩猟の時の姿を表しているようだ。
アルジャンの位置はこちら 帯にいろいろと吊り下げられているのを見ていると、新羅の積石木槨墳より出土した銙帯と腰偑が気になる。

銙帯(かたい)と腰偑  金製 後5-6世紀 慶州金冠塚出土 長109.0㎝ 慶州国立博物館蔵(現在はソウルの国立中央博物館蔵)
『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、新羅の典型的な帯金具で、何条にも下がる腰佩が特徴的である。 腰佩には魚形飾りをはじめ、様々な品物が吊されるという。
『黄金の国・新羅展図録』は、銙板の下部に勾玉・魚・刀子・砥石・薬筒・針筒・ガラス瓶・香嚢・鑵子などの腰偑が垂らされている。腰佩は、北方騎馬民族が旅行や戦争時に必要な各種の日常道具を腰につけていた風習に起源を見い出すことができる。このような風習が、鮮卑族や高句麗を経て新羅に流入して徐々に新羅化していく中でその実用性は失われ、非実用的な華麗な装飾品として製作されるようになった。腰偑装飾のうち、砥石と鑵子は鉄器製作に用いられた道具であり、薬筒は疾病治療のための薬が詰められた容器、勾玉は生命を、魚は食糧を表象したものとみなされる。すなわち銙帯の腰偑には、当時の王や祭司長が管掌した様々な職掌が象徴的に表現されているようであるという。 
やっぱり鹿石の帯に吊り下げられたものと関連があったんや。
腰偑は一番下に吊り下げられているものも含めるのか、その上の円形と四角形を何段か組み合わせたものだけをいうのか、解釈はいろいろだ。いずれにしても騎馬遊牧民にとっては、そのような長い腰偑は邪魔だっただろう。
鮮卑族は鹿角馬頭形歩揺飾を作ったとされる慕容部かも。慕容氏は五胡十六国時代には前燕(307-370年、都は鄴)、北魏が建国した後も、後燕(384-407年、都は中山)・南燕(398-410年、都は広固)などの国を建てた(『中国歴代帝王系譜』より)。 博物館で実際に見ると、金製の歩揺冠も腰偑もあまりにも重そうで、実用品ではなく、儀式や祭儀など特別なときに身につけたのだろうとは思った。時代と様々な民族を経ると、騎馬遊牧民の実用品はこのようなものになってしまうのか。
しかし、鹿石の下限の春秋時代初期(前8世紀前半)から、歩揺飾の制作年である後3-5世紀まで1000年以上の空白がある。このように形が変わっても、よくここまで伝えられたものだなあ。
オーラン・オーシグと新羅の位置関係です。天馬塚出土の腰偑はこちら、その説明はこちら
鹿角馬頭形歩揺飾についてはこちらそして新羅との関連についてはこちら

※参考文献
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 (財)島根県並河万里写真財団
「国立慶州博物館図録」 1996年 通川文化社
「ユーラシアの風 新羅へ展図録」 2009年 山川出版社
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン  

2009/07/03

新羅の積石木槨墳は高句麗から?

 
新羅の積石木槨墳に影響を与えた古墳といえば高句麗の積石塚が考えられる。

『韓国の古代遺跡1』は、高句麗の積石塚は、桓仁(遼寧省)から集安にかけての地域で発達する。構造的には、割石積石塚から基壇切石積石室墓に変遷するという。
『高句麗の歴史と遺跡』は、上古城子墓群(桓仁県六道河子郷上古城子村)古墳群は、上古城子村の東北100mの田畑中にある。渾江の支流の六道河に向かってのびる緩傾斜地に立地する。1993年10月に踏査したが、いたるところに積石塚の残骸である割石や河原石が散在していた。積石塚の多数は方壇積石塚で、基壇のない積石塚も若干ふくまれる。
『文物志』では、上古城子墓群は、およそ高句麗中期の3世紀から4世紀と推定している。なお蘇長青によると、上古城子村に高句麗早期の中・小形の方壇積石塚が100余基あり、中形積石塚は7基である。埋葬施設は割石を用いた単室・双室で、その平面は長さ約2m、幅約1m余であった。前壁の中央や左側に甬道がつくものが存在すると記述する
という。
下の写真は積石塚の残骸だろう。高句麗の積石塚の場合、埋葬施設も割石を用いているようだ。 『高句麗の歴史と遺跡』は、国内城に遷都した3世紀代になると方壇(基壇)積石塚が発達する。そしてさらに4世紀代になると方壇階梯積石塚に発展する。
将軍塚は方壇階梯積石塚で、1辺31.58m、高さ12.5m、玄室・羨道からなる両袖式の横穴式石室
という。
同書では4世紀とされているが、『韓国の古代遺跡1』は、その頂点にあるものは5世紀前半の集安将軍塚・大王陵の方壇階梯石室墓である。漢江流域にはソウル石村洞積石塚・汶湖里積石塚など、高句麗の影響のもとで築造されたとみられる積石塚が分布する。いずれも4世紀代で、石村洞4号墳のは典型的な基壇式であるという。
慶州の皇南洞109号墳が積石木槨墳の最初期のもので、4世紀後半~5世紀前半に築かれたということなので、高句麗や、その影響を受けた百済の積石塚がその時代には基壇のある積石塚を築造しているので、どちらかの影響があれば、109号墳のような墳墓は築造されていなかっただろう。 『韓国国立中央博物館図録』は、楽浪は高句麗によって313年に滅亡された。
大同江南岸の平壌付近の土城の周囲に約2000余基の木槨墳と磚築墳などが散在している。
木槨墳は、地下に土壙を掘りその中に木棺を安置するための長方形槨を設けた形式のもので、封土はピラミッドの上部を切りとったような截頭四角錐をなしている。
この古墳は、最初長方形の単葬墓としてつくられはじめたが、間もなく1つの封土内に2つの土壙を並べて掘り夫婦の2棺を埋める合葬墓に変わり、ついには1つの木槨内に夫婦の2棺をいっしょに安置する最も普遍的な様式に変化した。
木槨墳の築造年代はだいたい紀元前1世紀から紀元後1世紀ごろとみなされている
という。
木槨の規模がわからないが、朝陽洞Ⅱ-5号墓(60号墓)よりもずっと大きなものであることは間違いない。時期も大きな隔たりがあるので、直接影響があったとは思えない。 『韓国の古代遺跡1』は、客観的には高句麗的な墳丘である積石と楽浪的な木槨が一体となり、積石木槨墳という新羅独特の墓制を創りだしたといえようという。
たまたま墳墓を築く近くにたくさんの人頭大の河原石がごろごろしていたので、とりあえず木槨の上に載せたということはなかったのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「韓国国立中央博物館」(1986年 通川文化社)
「高句麗の歴史と遺跡」(森浩一監修 1995年 中央公論社)

2009/06/30

新羅で最初の積石木槨墳は

 
慶州の南東部で4世紀前半の石槨木棺墓が築かれたが、それに続く古墳はどんなものだろうか。
『韓国古代遺跡1』は、109号墳は、1934年に発掘された。味鄒王陵の北75mに位置する。墳丘は、径10.4~13m、高さ1.80mの低い円墳であった(「その後封土も跡方もなくなった」という。位置的には現在の古墳公園内に相当する)。墳丘内に4個の積石木槨があり、第3槨と第4槨(副葬品室・副槨)が直列して築かれ、その上に切り合って第1槨、それに直交して第2槨が構築されていた。切り合い関係から、第1・2槨よりも第3・4槨が先行する。
墓壙は封土の上部からでなく、地山を穿っている。第3槨は長さ3.5m、幅1.2m内外に推定されている。床面には10㎝ほどの石を敷きつめ、さらにその下部には褐色粘土と砂利を厚さ30㎝にわたって積んでいる。第3槨と第4槨との間には界壁がつくられており、上面は厚さ13㎝ほどの粘土でおおっているが、地山を掘削したままである。第4槨は、長さ3.5m、幅2.1mで、第3槨に比べて小さい。槨床の砂利層もなく、第3槨より簡略化している。墳丘の周囲に、幅1mの外護(囲)列石がめぐらされており、径20mに復元しうるという。遺物は第3槨では東側に土器群、西側に遺骸が置かれ、両耳に位置するところから金環が装着された状態で出土した。東枕で、右に鉄刀、左に有棘利器が配され、足部には、鉄刀・鉄鏃・鉄矛などの武器を副葬している。以上のように、構造的にはのちの金冠塚などと大差なく、積石木槨墳としての要素を備えている
という。
どうも皇南洞109号墳が積石木槨墳の最初期のものらしい。しかし、その周りにある土を盛り上げた積石木槨墳とちがって、朝陽洞古墳や九政洞古墳のように、元の地形を利用していたようだ。 もう跡形すらないらしいが、鶏林路に沿った塀の近くにあったらしい。残っていてもこんな程度だったかも。見えているのは110号墳かと思います。
位置関係についてはこちら 第3・4槨は、伊藤秋男の編年では第1期(4世紀後半~5世紀前半)に位置づけられている。
第4槨から出土した鐙は、北燕の馮素弗墓(415没、遼寧省北票)出土の輪鐙、遼寧省朝陽袁台子墓、河南省安陽孝民屯墓出土との比較から馮素弗墓型式の鐙は4世紀後半には成立していたものと推定されている
という。
ということは、109号墳は4世紀後半以降に築かれたらしい。 では、積石木槨墳の起源についてどのようにとらえうるであろうか。
従来、支石墓・土壙墓・楽浪木槨墓が融合したものとの説がみられたが、いずれも時間的隔たりがあまりにも大きすぎたといえよう
という。
確かに木槨墓は後1世紀には朝陽洞に出現しているが、木槨の上から人頭大の石を積むというのは皇南洞109号墳が最初としたら、その起源が気になるところである。慶州の積石木槨墳地帯の周囲は、川がたくさんあるというよりも、川で囲まれているといってもいいくらいなので、石はいくらでもあったかも。
墓制からみれば、古新羅時代は積石木槨墳の時代といえる。小規模な積石木槨墳は盗掘されやすいが、5世紀中葉ごろに出現した皇南大塚南墳のような巨大墳のばあい、その積石の量は膨大であるという。
5世紀中葉には巨大墳が築造されているので、109号墳は4世紀後半~5世紀前半に築かれた小規模な積石木槨墳らしい。『韓国の古代遺跡1』は4世紀末とみているようだ(同書「新羅古墳の編年-伊藤秋男に追補」より)。
その頃に同じような金環をつけていたどこか外来の人達が、積石という新しい技術をもたらしたのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)

2009/06/26

慶州の積石木槨墳以前は

 
慶州で中央平野部に築かれた巨大な積石木槨墳よりも早い時代に築かれた墳墓には、朝陽洞遺跡や九政洞古墳がある。それらは積石木槨墳群のずっと南東の少し小高い丘陵部にあったらしい。
近くに点在する九政洞方形墳や孝昭王陵・聖徳王陵は積石木槨墳よりも後の統一新羅期のものである。九政洞古墳の航空写真はこちら 『韓国国立中央博物館図録』は、慶州朝陽洞の低い丘陵上に立地する遺跡で、青銅器時代住居址とともに初期鉄器時代・原三国時代・新羅時代にかけて各種の墳墓が調査された。
これら朝陽洞の古墳群は、文献上の三韓時代にあたる遺跡で、初期鉄器時代の伝統を受け継いで新羅の積石木槨墳に移行する過渡期的な性格を帯び、この古墳で出土する中国前漢鏡はも大同江流域の流移民が慶州地方に南下し定着した時期を示す重要な根拠になっている
という。
『韓国古代遺跡1』は、朝陽洞では、石槨墓8・木棺墓26・木槨墓13・甕棺墓20基が発掘されたことになる。このうち木棺・木槨墓は、Ⅰ型墓(木棺墓)・Ⅱ型墓(木棺墓)・Ⅲ型墓(木槨墓)に分類されている。Ⅱ型の38号木棺墓は、伴出した前漢鏡から紀元1世紀前半に位置づけられ、「瓦質土器」といわれる軟質の土器が出土した。瓦質土器としては最古の形式を示すという。 『国立慶州博物館図録』は、朝陽洞遺跡の年代推定可能な遺物は、38号木棺墓出土の日光鏡・昭明鏡・四乳鏡など4枚の前漢時代の銅鏡である。これらは漢墓の発掘結果から、すべて紀元前1世紀後半年代の遺物であることが明らかにされており、したがって38号木棺墓の年代も紀元前後の時期であることが明らかにされたという。
文字が漢字と思えない日光鏡だが、これが仿製鏡ではなく前漢のものであることは確からしい。 『韓国の古代遺跡1』は、Ⅱ-5号墓(60号墓)は木槨で、棺外から黒色磨研長頸壺2・無文土器甕1・銅製馬鐸2ほか。棺内から多鈕鏡1・青銅製把頭付き鉄剣1・漆塗木製丸棒が出土しているという。
『国立慶州博物館図録』は、木槨墓は木棺墓よりも規模の大きな長方形土壙内に木槨を設置して、その中に木棺が安置されているものであるという。
38号墓と同じくⅡ型であるが、年代が不明。もうここで木槨木棺墓が出現している。 『韓国国立中央博物館図録』は、慶州九政洞にある新羅初期の古墳で、円形の自然丘陵の頂上部に埋葬遺構を設けて、丘陵自体を墳丘化した特異な構造のものである。埋葬遺構は、地面に長方形の土壙を掘り石槨を設けたのち、その内部に木棺と副葬品を設置した形式である。
この古墳は、2基の埋葬遺構が約1mの間隔をおき南北に合葬する夫婦塚と推定されている。
北側の遺構は、長さが8m、幅1.3mで、ここからは鉄槍や環頭大刀・鉄斧などとともに短甲が出土し、夫の墳墓と推定された。なお、ここでは幾つもの瓦質土器と粗質な硬質土器がいっしょに出土して、この墳墓が、瓦質土器が本格的に硬質土器へと移行する時期である3世紀末に営造されたものであることが証明された。
南側の遺構は、長さ6mぐらいで、営造方法は北側のものと同一である。土壙底面には、長さ80㎝ぐらいの長い鉄槍数十本が敷かれていて、特異な埋葬様式を示している。
九政洞古墳は、出土遺物と立地条件から推して支配階級の墳墓であることは間違いなく、新羅の典型的な積石木槨墳よりも一時期先行する形式の古墳として注目されている
という。
『韓国古代遺跡1』は、九政洞方形墳の北東の標高100mの丘陵に近接して3基の古墳があり、2号墓(左)は木棺墓で、棺の下には鉄矛多数が棺に直交して並べられ、小口に硬質の新羅土器が副葬されていた。3号墓(右)は2号墓に平行して築かれた長さ8m、幅1.5mの長大な木棺墓である。土器とともに短甲が副葬されていた。最末期の瓦質土器と古式陶質土器が共存しており、瓦質土器から陶質土器に移行する4世紀前半ごろのものと推定されている。封土の有無については定かではないという。
時代が下がって木槨木棺墓ではなく石槨木棺墓が現れた。  これが3号墓から出土した短甲である。『韓国の古代遺跡1』は、短甲は帯状の鉄板を革で綴じあわせた、長方板縦矧革綴(たてはぎかわとじ)短甲である。頸甲(あかべよろい)とよぶべき長方形の鉄板を横に綴じ合わせたものと組み合わさって出土した。長方板の縦矧革綴はおそらく新羅で独自に生みだされた型式であるものとみられる。その背景として前述の朝陽洞出土のような板状鉄製品の製作技術が不可欠であったという。
新羅では製鉄が盛んだったようだ。 それぞれの文献で年代に多少の違いがあるが、これらが巨大な積石木槨墳へと発展していくのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「韓国中央国立博物館」(1986年 通川文化社) 
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)

2009/06/23

慶州太宗路にこんな積石木槨墳が

 
高速バスで慶州のバスターミナルに着いた我々は、タクシーで太宗路を通り、情報としてはわかっていたが、街中に大きな古墳がいくつもあるのに眼を奪われた。路東里・路西里古墳群を左側に、大陵苑(下図で皇南洞古墳群とされている)を右側に見て、もう終わりかと思ったら、また別の古墳があった。この付近の航空写真は、グーグルアースでみるとこちら 大陵苑と、八友亭ロータリーの間にある大きな古墳なのに、皇吾洞にも皇南洞にも含まれていないらしい。『韓国の古代遺跡1新羅篇』では34号墳とされていて、未調査の古墳らしい。
下図の南方には慶州東部史蹟地帯と呼ばれる古墳群もあるが、やはり未調査のものが多い。  34号墳は天馬塚のような形の整った円墳ではなく、かといって、双円墳としても形が整っていない。大陵苑の双円墳よりも小さいが、周辺の民家と比べると面積・高さがかなりのものである。 このような古墳は積石木槨墳と呼ばれている。
『韓国の古代遺跡1』は、積石木槨墳とは、木棺を築き、それを人頭大の礫石でおおい、さらに盛土した構造の墓である。4世紀のおそらく前半代に慶州の地で発生し、6世紀後半の終焉まで、約200年間新羅独自の墓制として発達した。墓制からみれば、古新羅時代は積石木槨墳の時代といえるという。
『韓国中央国立博物館』は、これらの古墳は、地下や地上に木槨を設け、その内部に木棺と副葬品を設置したのち、木槨の上部に石を積み、その上に封土を被せた特異な構造をなしていたという。
古新羅とは統一新羅以前の三韓時代の新羅のことである。
慶州ではどのようにして積石木槨墳が出現したのだろう。

積石木槨墳の構造は天馬塚を、
大陵苑については大陵苑(テヌンウォン 대릉원)で味鄒王陵から天馬塚・大陵苑で皇南大塚から味鄒王陵へ、
路東里・路西里については路東里古墳群には金鈴塚(クンリョンチョン 금령총)と飾履塚(シッリチォン 식리총)・路西里古墳群は瑞鳳塚(ソボンチョン 서봉총)と金冠塚(クムクァンチョン 금관총)しかわからないをどうぞ。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「韓国中央国立博物館」(1986年 通川文化社) 
 

2009/03/03

慶州天馬塚で出土した金製附属具は内帽の揺帯?


天馬塚では金冠の他にも附属具とされるものが出土した。中央の16個は金冠からはずれた歩揺かも知れない。外側の歩揺のついた細い金線が、瑞鳳塚の金冠についていた鳳凰飾りを支える内帽形の骨格を作る揺帯に似ている。
しかし、その間にある角の輪郭のようになっているものはわからない。遼寧省憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠を支える揺帯に似ているような気がする。 『世界美術大全集東洋編3』は、石槨墓の墓主・憑素弗は、十六国の一つ北燕(407~436)の王馮跋の弟であった。北燕は、鮮卑系の後燕を継いで漢民族の将軍・馮跋が建てた王朝であり、都とした龍城(遼寧省朝陽市)は北辺、契丹などの遊牧民の地であった。馮氏の出自と政策ゆえに漢文化への傾斜が強かったようだが、地勢、時勢、ともに外界からの刺激にさらされていたという。
憑素弗墓出土の金歩揺冠に似たものが、同じ遼寧省より出土している。

金製歩揺付冠飾 遼寧省房身2合墓出土 遼寧省博物館蔵
『日本の美術445』は、房身2号墓では方形冠飾のほか、木の葉形の歩揺を金板に着し、いかにも聖樹を連想させるような金製冠飾とやはり歩揺付の金製帯板が出土しているから、三点一具をなして一つの冠を形づくっていたようであるという。 
形は似ているが、瑞鳳塚出土の金冠の歩揺飾のように頭頂部を飾るものではないようだ。同墓出土の方形冠飾はこちら 内蒙古自治区からも、歩揺飾が出土している。

鹿角馬頭形歩揺飾 3-5世紀 高19.5㎝幅12㎝ 1981年内蒙古自治区烏蘭察布盟達爾罕茂明安聯合(ダルハンムミンガン)旗西河子出土 内蒙古自治区博物館蔵
『中国☆美の十字路展図録』は、金の鋳造で複雑に分岐した角をつける馬頭を作り、耳の輪郭及び鼻柱や角などを金の細粒で装飾し、石やガラスを象嵌している。角の先端につけられた桃形金葉の輪郭は刻点連珠文装飾の効果を出している。これは一組の冠飾の内の一つで馬頭形及び牛頭形飾が各々一対ずつ発掘された。辺境から匈奴の故地へと導いた鮮卑の始祖神話の神獣は馬に似、声は牛に似ると伝えられるが、これらはそのような神獣の辟邪祥瑞の意味合いを担っていたのであろう。金の桂枝や獣形をつけた冠飾(歩揺)付の冠は後漢書にも見られるが、イラン系遊牧民族起源と考えられる。晋書には歩揺冠を好んだ鮮卑族慕容部の人々は歩揺と呼ばれ、これが訛って慕容部の名前となったと伝えられるという。牛頭形飾はこちら
歩揺付の冠がイラン系遊牧民の起源とすると、その人々の居住地区はシベリアだったのだろうか?また、鮮卑族のうち北魏を建国したのは拓跋部だが、他にもいろんな部族があったようだ。中国から見れば東北部に、朝鮮半島から見れば西方に居住していた鮮卑族は慕容部だが、歩揺からその部族名がついたとは知らなかった。  『日本の美術445』は、いずれも4世紀中葉から5世紀初頭に比定される遺品であり、6世紀前半の武寧王陵王妃棺出土冠飾に先行する黄金製冠飾の北方作例として注目される。
特に房身2号墓からは3件の冠飾のほか、多岐にわたる黄金製品が副葬されており、古代鮮卑族の墓であることから、鮮卑族の黄金尊重のさまが偲ばれるとともに、黄金文化伝播の役を担った北方遊牧民達の活動の実体が彷彿とさせられる
という。
武寧王陵出土の方形金製冠飾はこちら

これらは樹木形や鹿角形というシベリアのシャーマニズムの要素を持っているが、新羅式金冠ほどの大きさはない。ずいぶんと簡便になっているとも見えるが、それは鮮卑族の好みだったのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」(2000年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「中国☆美の十字路展図録」(2005年 大広)
「日本の美術445 黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂) 

2009/02/27

慶州天馬塚の金冠


『世界美術大全集東洋編10』は、朝鮮半島の古代文化を象徴するのは、新羅の金製品である。
今日までに金冠塚、皇南大塚北墳、天馬塚、金鈴塚、瑞鳳塚の合わせて5基の古墳から典型的な金製の新羅式冠が出土している。これらはみな新羅の都があった慶州の邑南(ゆうなん)古墳群に属する
という。
もっとたくさんあるのかと思っていた。
金冠塚に比べて立飾の枝が太くなり、列点文が2条になるなど、新しい要素が見られる。冠帯の左右には、冠垂飾が一つの金環から長短2条下がる。1条は、3枚の金板を折り曲げ、背中合わせにして作った三翼形垂下飾を先端に垂らす。中間の飾りは、細金板を二つに折り曲げた両端に輪を作り、細金板の周りを金線で螺旋状に巻き付け枝を出し、その先に心葉形歩揺を垂らした金具を9個連結している。他の1条は、華籠形中間飾りに3個の心葉形垂下飾を下げるという。
垂飾は新羅から出土した皇南大塚北墳・金冠塚・瑞鳳塚・金鈴塚の金冠にそれぞれついていて、飾り・金冠への取り付け金具はすべて異なっている。 
新羅式金冠は、鉢巻き式の冠帯に「山」字形を上下に3、4段連ねた立飾が正面と左右側面に一つずつ立ち、背面に鹿角形立飾が1対立つ形を典型としているという。
この型式のもっとも古い形は、邑南古墳群内の南に位置する校洞から出土した1段の「山」字形の立飾をもつ金冠である。金板には打出列点や蹴彫りがみられず、円形歩揺が冠帯と立飾につく簡素なものである。民家の塀の修理中に偶然発見され、金製耳飾り、金銀装素環頭大刀、三葉文環頭大刀などが合わせて届けられた。遺構は後に調査され、直径15.6m(復元)の積石木槨墳であることが判明した。これらの遺物は、おそらくこの古墳からの出土と見てよく、古い様相をもっており、金冠も新羅初期のものと見てよいだろう。新羅は、歴史書によれば377年に中国の前秦に使者を送ったという記事があるので、4世紀後半には成立していたとみてよいという。
これが慶州で最初に作られた金冠らしい。1段の「山」字形の立飾というが、太い幹と枝の樹木を表したとみる方が自然だろう。側面の立飾は樹木形なのか、鹿の角形なのか、木の葉のような歩揺があるので樹木形のようだ。 『図説韓国の歴史』は、祭政一致時代の韓国の王は、王であるとともに、祭祀を司るシャーマンであった。新羅(シルラ)や百済(ペクチェ)、伽耶(カヤ)国などの故地から出土した金冠や金銅冠なども、シャーマニズムにかかわる冠物とみて大きな間違いはない。聖樹を立て飾りに用いたそれらの冠は、生命樹つまり樹木信仰の具象化した形だとわたしは思う。横に鹿の角を立てた冠などがシベリアのシャーマニズム文化圏でも見られるという。
シベリアと新羅・百済・伽倻の間には高句麗という国があったのに、高句麗にはこのような冠はないようだ。高句麗を経由せずに、どのようにしてシャーマニズムや樹木形や鹿の角形の立飾のある冠が伝わったのだろう。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」(2008年 奈良国立博物館)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)

2009/02/24

慶州天馬塚の冠飾


鳥翼形冠飾 金製 高45.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、金冠塚からの出土例と、形態や文様が非常に類似する。しかし、中央上部の突起が5つから3つに減り、左右の鳥翼形装飾が金冠塚のものよりも直線的に上に長く伸びる点が異なる。被葬者の着用品ではなく、木槨内の副葬櫃から蝶形冠飾と一緒に出土した。鳥が力強く羽ばたく姿を連想させる左右対称の構図である。
冠飾の内面には、複雑な文様が透彫されており、唐草の蔓と類似する。5世紀中葉の金属工芸品にみられる図案を考慮すると、龍文が唐草文のように変化したものとみられる。龍文の周縁には、裏側から打ち出して装飾した列点文が施されており、冠飾の周縁には、列点文と波状列点文が施されている。金糸を用いて約400個以上の円形の歩揺をびっしりと取り付けて、華麗に装飾している
という。
これだけの歩揺がついていると、歩くとにぎやかな音がしたのだろうか。よく似ている金冠塚出土の鳥翼形金冠はこちら  蝶形冠飾 金製 高23.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
1枚の薄い金板を切り抜いて製作する点が特徴で、その製作技法と意匠が非常に特異である。全形は、義城・塔里3槨から出土した典型的な冠飾とは異なり、ふくろうのような鳥類が羽を広げた姿に類似する。
透彫文様と文様装飾部の周縁には、列点文が表現されている。中間と左右の羽根部には端の丸い猪目形の文様を、中央には5つ、左右にはそれぞれ3つずつ、透彫技法で施す。この文様は、主に6~7世紀の百済の金工品で大いに流行したもので、心葉形の変形とみられる。こうした文様が新羅の金属工芸品に現れるもっとも早い例としては金冠塚の冠帽があり、天馬塚出土品では、龍文が表現された銀製銙帯にもみられる
という。
心葉形の変形がこのような丸い猪目形になったという。心葉形は金冠塚出土垂飾耳飾(5世紀)に見られるが、一番下の大きなものが鎖で閉じられていて心葉形とわかるが、それ以外は心葉形だとは思ってもみなかった。猪目形がよくわかるものはこちら。
そして、同じ天馬塚の金製冠帽では、猪目形の刳り貫きが変形して半環文になったという(「世界美術大全集東洋編10」より)。
このように5~6世紀の新羅でどんどん変化していく文様だが、百済では6~7世紀に金工品で流行したらしいが、中央アジアのティリヤ・テペ6号墳出土の金冠立飾にも猪目形の刳り貫きが見られる。それは前1世紀後半~後1世紀前半に作られたものである。 三角帽形をした内冠の前面にさし込んで装飾するというが、実際に被るとどのようになるのだろう。

壁画に古代朝鮮人 ウズベキスタン、サマルカンド市アフラシヤブ都城宮殿址出土 ソグド時代(7世紀後半)
『図説韓国の歴史』は、ソグド時代の壁画には、古代朝鮮人とみられる2人の人物が描かれていた。鳥羽冠をかぶり、環頭大刀を佩き(はき)、拱手している姿は、高句麗人か新羅人を彷彿させる。高句麗は突厥と交渉をもっていたので、中国を経由しない「ステップ・ロード」ルートにより、西域との直接接触を強く示唆するもので、三国時代の文物にみられる西域的要素はこうした経緯によるものと考えられるという。
668年に高句麗は唐と新羅によって滅ぼされ、統一新羅時代になるのだが、この壁画製作時期の7世紀後半は、三国時代の高句麗から行った人たちなのか、新羅から行ったのか、それとも統一新羅時代のどちらかの人たちなのか、微妙なところやなあ。 朝貢図 陝西省乾県乾陵陪葬墓出土、章懐太子墓・墓道東壁 唐・神龍2年(706) 西安市陝西歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』で杜暁帆氏は、長安の鴻臚寺、礼賓院の官吏が3人の周辺異民族の使節を連れ、大唐王朝に拝謁(朝貢)する途中の風景であるという。
唐朝文官は籠冠を被り、赤色長袍をつけ、笏を持って綬帯を引きずる後ろからついて行くこの使節たちは、『唐書』に記載のあるタジクないしペルシア、高句麗ないし日本などの民族であると考えられるという。
使節の前にいる人物はタジクもペルシアも東方アーリア系なので、どちらかわからないが、後方の人物は、日本人ではなく統一新羅の人で、高句麗系か新羅系かはわからない。『黄金の国・新羅展図録』は、金冠と共に、金製冠帽と冠飾も着用者の社会的地位や身分を示す重要な威信材であった。冠帽と冠飾は別々に出土することもあるが、本来はセットであったと考えられる。
冠飾はも冠帽の前面にさし込んで、冠帽とセットで用いられる装飾品である。新羅人と高句麗人は、高句麗の古墳壁画や記録にみられるように、羽毛や鳥翼形装飾を冠飾として好んで用いた。
鳥翼形と蝶形の冠飾は中央アジア・アルタイ地方のパジリク遺跡の積石木槨墳でも出土しており、両地域間の関係を暗示している
という。
パジリク遺跡は紀元前5~4世紀の古墳群で、5号墳からフェルト製の王権神授を表した壁掛けが出土したことで有名が、同遺跡から鳥翼形や蝶形の冠飾が出土したことは知らなかった。

またここでも中央アジアというか、北方ユーラシアとの交流が見えてきた。草原の道で中国を介さずに行き来できた証明にはなるが、時代が違いすぎるようにも思えるなあ。 

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」 森浩一監修 1988年 中央公論社
「図説韓国の歴史」 金両基監修 1988年 河出書房新社
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」 2008年 奈良国立博物館 
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」  1998年 小学館


2009/02/20

慶州天馬塚の金製品

 
天馬塚は、封土もしっかりと残っていて、学術的に発掘された積石木槨墳である。発掘の様子はこちら。そして、山字形金冠が出土したことから王陵とされているが、金冠だけでなく、他にも豪華な金製品が木槨内より出土している。

金製冠帽 高19.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
様々に透彫された金板を組み立てて冠帽にしてあるのを『黄金の国・新羅展図録』でみていたが、国立慶州博物館で実際に目にすると、思っていたよりもずっと小さかった。頭に被ることはできないので、髷にでもかぶせるものだったのかと思った。
図録は、金冠塚から出土した冠帽と非常に類似し、新羅の冠帽の中でももっとも華麗なものである。前面に2枚、後面に1枚、上部に1枚の計4枚からなる透彫された金板を組み合わせて作られている。規格と形態からみて、白樺樹皮で作られた帽子にかぶせて装飾したものと推定されるという。
帽子にかぶせたものだったのだ。勾玉や歩揺で装飾された「山」字形の立飾のついた金冠がハレの日用なら、ケの普段使いの冠として使われたものだろうか。
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、天馬塚からは、ほかに白樺樹皮製冠帽が6個出土しているが、そのうち形がわかるのは2個である。一つはこの金製冠帽と同じく側面が半円形をなすもの、他は頂部が平らな台形をなすものである。
木棺内で被葬者が身につけていた金冠などの装身具が葬送用あるいは特殊な儀礼用とすれば、石壇上にあったこの冠帽は日常的に使用されていたものと見ることもできる
という。
白樺樹皮製冠帽のうち、金製冠帽と同じ形のものにかぶせるものだったのだろか。
図録は、冠帽は、多様な文様を精巧に透彫して美しく製作されている。文様の種類としては、猪目文やT字文が大部分で、このほかにも菱形文、半環文、変形龍文などがあり、錐状の道具で裏側から打ち出して表現した小型突起による装飾もみられる。このうち半環文は、金冠塚から出土した冠帽の例をみると、天馬塚の蝶形冠飾で確認される猪目文が変形したものとみられる。文様がない余白は、直線または曲線の打出列点文で装飾され、金板の連結部分は厚みのある金帯を当ててから金糸で連結しているという。
それぞれの文様が素晴らしい。半環文が猪目文の変形したものというのも興味深い。蝶形冠飾については次回。
また、皇南大塚南墳出土の銀製冠帽には金銅製の唐草文のような変形龍文の透彫が取り付けられているが、そこには列点文はない。
このように、文様の変化や技術が進んだことが、5世紀中葉の皇南大塚南墳、後半の金冠塚、6世紀初の天馬塚の出土物からうかがえて面白い。  銙帯(かたい)一式 金・瑪瑙・硬玉製 長125.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、主に銙帯は、皮革や布で作られた帯の表面を金・銀・金銅・銅などの薄い金属板で装飾したものである。
この銙帯は、薄い金板を切り抜いたり、打ち出して製作した44枚の銙板・垂飾、帯端金具、および13組の腰佩などから構成されている
という。
慶州博物館では末広がりの筒状のものに巻き付けるようにして展示してあり、実際に身に着けるとどんな感じかわかるように工夫されていた。しかし、残念ながら暗くて細かいところまでじっくり見ることができなかった。
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、類似した文様の銙板と垂飾は、1990年に発掘された中国、遼寧省朝陽市の王子墳山墓群からも出土している。天馬塚と組み合わせも同じ金銅製帯金具で、3~4世紀の鮮卑の墓と考えられている。また、高句麗の都のあった中国、吉林省集安市の山城下330号墳からも透彫唐草文の銙板が出土しており、これによって新羅の帯金具の系譜を北方に求めることができる。さらにこの帯金具の影響は倭にも及び、福岡県飯塚市櫨山古墳から天馬塚とまったく同じ文様の金銅製の銙(東京国立博物館蔵)が出土しているという。
銙帯と腰偑は、壺杅塚・瑞鳳塚・金冠塚・皇南大塚北墳などから出土しているので、新羅独特のものかと思っていたが、北方系のものだったようだ。 
※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」(2008年 奈良国立博物館) 

2009/02/18

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-壺杅塚

 
路西洞には大小の積石木槨墳がいくつもあったが、平たい瑞鳳塚以外には漢字の名称がなかったので、大きな円墳と双円墳の間を少し歩いただけで、1つ1つ古墳を見て回るということをしなかった。だから壺杅塚がどこにあって、どんな風に残っていたのかわからない。

壺杅塚(こうづか、ホウチョン) 6世紀前半
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、1946年に国立中央博物館によって発掘された。壺杅塚は径16m、高さ5mに復元される積石木槨墳で、隣接する銀鈴塚とともに瓢形墳をなす。木棺内に仰臥伸展葬された被葬者は、金銅製の冠・履・金製耳飾り・銙帯・指輪などの装身具、太刀を帯びていた。棺外には、青銅容器・漆塗り鬼面・馬具・鉄鋌などが副葬されていたという。
壺杅塚でも様々な副葬品が出土している。金銅冠が出土したということは、墓主は王ではないことになる。漆塗りの鬼面は副葬品としては珍しい。見てみたいものだ。

青銅盒の外底には「乙卯年国岡上広開土地好太王壺杅十」という銘が鋳出されており、壺杅塚の名はこれにちなむ。高句麗の広開土王の没後3年、長寿王3年(415)にあたる乙卯年に高句麗で製作されたことが明らかである。古墳の築造年代は、他の伴出遺物から6世紀前半代とみられるという。
小さな青銅製の容器とはいえ、高句麗の王の名が鋳出された品は珍しい。それが王陵ではないところから出土している。当時、路東洞路西洞と続いていただろう味鄒王陵地区の古墳群でも、王陵ではない小さな墓から異国より伝来した品々が副葬されていた。よほどの功績のあった者だったのだろうか。
『黄金の国・新羅展図録』は、この碗は高句麗で製作されたあと、高句麗もしくは新羅でしばらくの間伝世され、この古墳に副葬されたと考えられる。瑞鳳塚古墳出土の銀碗銘とともに高句麗と新羅の関係を物語る文字資料として重要であるという。 日本の古墳同様、新羅の古墳でも文字資料が出土しないので、発掘調査しても古墳の墓主が不明のものがほとんどだ。壺杅塚出土の青銅製盒には文字があったが、新羅の王の名がないので、どの王の時に新羅にもたらされたのかも特定できない。
高句麗の長寿王は、413-91年と文字通り大変な長寿の王で、エジプトのラムセス2世に匹敵するくらいの長い治世であり、高句麗の全盛期だったという。この青銅製盒は、高句麗の長寿王がどれだけ新羅に影響力があったのか、あるいは朝貢してくる周辺の国々の使いにそれぞれ下賜した量産品だった可能性もあり、当時の高句麗の大国ぶりを示すもののようだ。しかし、その長寿王でさえ、陵墓がどれか特定されていないらしい。

金冠塚に副葬された「延寿元年辛卯」銘のある銀盒も長寿王なら、417年の訥祇(ヌルギ)王の即位にさいしても関与したのも長寿王、5世紀中葉の王陵、皇南大塚南墳に副葬された高句麗系の銀冠の制作時期も長寿王の時代だった。5世紀末に長寿王が没して新羅への高句麗の影響が弱まったため、王家に伝世していたこの青銅製盒は、そのために親族か家臣に下賜されたものだったのかも。 

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「韓国国立中央博物館図録」(1986年 通川文化社)

2009/02/16

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-瑞鳳塚

 
金冠塚のそばから路西洞古墳群に入っていくと、右側に金鈴塚よりも低く広大な土壇がある。というよりも、ほぼ地面と同じレベルなので歩いていても気づかない。

路西洞 瑞鳳塚 5世紀中葉
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、発掘を視察・参加したスウェーデン(瑞典)のグスタフ・アドルフ皇太子の国名の「瑞」と出土した金冠の鳳凰飾りにちなんで「瑞鳳塚」と名づけられた。
墳丘の規模は径36.3mで、その高さは10m以上と推定され、金冠塚に接するほどになるという。封土のすべてを取り除くという全面発掘がなされたため、従来明瞭でなかった点が解明されている
という。
金冠塚は右端の向こうで見えていない。瑞鳳塚は現在双円墳の墳丘跡として残されている平面よりも、封土の分だけ膨らんでいたので、金冠塚まで迫るほどだったらしい。

削平され畑地となっていたが、南北の長径52m余、東西の短径35m、高さ7mの楕円形を呈していたという。1926(大正15)年に小泉顕夫によって発掘された。墳丘の周囲に、幅1.8mの帯状の外護列石がめぐらされた瓢形墳で、北墳ののちに南墳が造られていた。発掘は北墳のみおこなわれたという。
しかし発掘の後は住宅地となっていたらしい。瑞鳳塚に沿って歩いたが双円墳だとは気づかなかった。そういえば路西洞古墳群には双円墳がもう1つあった。 地山層を掘り下げ、東西4.7m南北3.7mの木槨、内部に東西3.8m、南北2.0mの木棺を納める。木槨の下層は掘削した地山上に褐色粘土を敷いて平らにし、偏平な割石を二重に敷き、その上にバラスを10㎝ほどの厚さに敷いて基礎としており、さらに多量の朱(酸化鉄粉)が散布していたという。朱を全面に塗布したのち木槨を組み、積石し、その表面を粘土でおおったのであるという。
今まで新羅の古墳について調べていて、「基礎全面に朱を塗布する」ということが明記されたものは、この瑞鳳塚だけである。日本の古墳にあるはずだ。藤ノ木古墳の石棺に、外側も内側も朱が塗られていたが、6世紀後半とされているので、瑞鳳塚の方がずっと早い。日本では魔除けだと思うが、瑞鳳塚の場合はなんのためだろう。
木槨内は盗掘もなく完存していた。硬玉・瑠璃製の勾玉で飾られた金冠・金製勾玉・魚形などの装身具、瑠璃碗・瑠璃杯、青銅鐎斗、漆匙、銀製盒が出土しているという。

金冠 高30.7㎝
「金冠の鳳凰飾り」はどこにあるのだろうか。この金冠には頭の形のような金の針金が見える。そして中央の「山」字形の立飾から、歩揺のついた何かが見え隠れしている。
北燕、遼寧省、憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠に似ているが、これが鳳凰の形をしているのかどうか。
『国立慶州博物館図録』は、その内側に内冠を形どっていることが特徴である。揺帯で内帽形の骨格を作り、幅約1㎝の薄い金板2枚の立飾りを十字形に交差させ、その先端には鳳凰とおもわれる三羽の鳥が枝に止まっている様子を表現した装飾がそびえ立っている。このような形の内冠は現在まで知られているものには、類を見ない独特の形式のものであるという。
針金状のものは内冠というらしい。 玉類 ガラス・水晶・オニキス製 5世紀
『黄金の国・新羅展図録』は、数量からみて首飾よりは釧として用いられたか、それぞれ別の装身具に装飾品として用いられたものの集合体とみられるという。
下中央の緑色勾玉から2つ右に藍色のトンボ玉がある。小さな黄色の斑点がある。そして上中央の青色のガラス玉の左側に金層ガラス玉がある。解説には「黄色丸玉」とあるが、私には金層ガラス玉にみえる。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、銀盒には、細い針のようなもので銘文が刻まれていた。「延寿元年辛卯」につくられたもとわかる。高句麗長寿王39年(451)と考えるのが有力である。古墳の編年問題に関係して、崔囗鉉は銀盒の製作年代と埋葬年代をほぼ同時ととらえ、瑞鳳塚を5世紀中葉に位置づけるという。
5世紀半ばといえば、皇南大塚南墳と同時代になる。同じ頃に2人の王が亡くなったのだろうか。

双円墳についてはこちら
金層ガラス玉についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)

2009/02/13

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-金冠塚

 
路東洞の道を隔てた向こう側は路西洞古墳群となっていて、路東の大きな鳳凰台古墳をぐるりと回ると、路西の金冠塚が平たく横長に見える。入口を入ると写真のように見える。

金冠塚(128号墳) 5世紀末~6世紀初め
『国立慶州博物館図録』は、慶州市路西洞のある民家で敷地拡張のための整地作業中にこの古墳の封土を掘り込んだところ、多量の遺物が出土したため、収拾、調査された古墳である。以前にも、慶州の古墳の調査は行われていたので知識不足によって埋葬主体部の積石に達すると、これを普通の積石と誤認し、発掘を中止してしまったのであるという。
遺物出土前の状態に復元したものがこの形らしいが、それ以前に中止された発掘の時期には、積石木槨墳というものがまだ知られていなかったらしい。 『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、積石木槨墳の築造過程も究明され、副葬状況も復元された。長方形の墓壙を掘り、その中央に角材を組み合わせた槨を築き、内部に木棺を置き、冠などの装身具で盛装した遺骸を安置したのち、棺内に副葬品を納めた。さらに棺外の三方を囲むように鉄鋌300~400枚と鋳造斧形品が配されていた。槨は蓋をされ、四周に人頭大の河原石を積み重ね、さいごに盛土されている。墳丘は、径約46m、高さ12mと推定されているという。径は日本の丁瓢塚古墳の円丘部くらいかな。高さが全然違うけど。
『国立慶州博物館図録』は、装身具類、武器類、馬具類、容器類など4万余点にのぼる豪華な遺物が出土している。金冠塚の装身具類の中で金冠・冠飾・冠帽・銙帯、そして腰佩は天馬塚のものと似かよっているという。天馬塚が6世紀初なのでほぼ同時期のものということなのだろう。  金冠塚と名づけられたのは、この古墳から最初に金冠が出土したことからという。
『世界美術大全集東洋編10』は、一周する冠帯(台輪)の上に、「山」字形の立飾が前面と左右に合わせて3本、鹿角形立飾が後頭部に2本、合計5本の立飾がつく。「山」字形の立飾は、木の幹と枝を表現したもので、枝が左右に3本ずつ出ているので、三段対生樹枝形立飾ともいうという。
5世紀後半の皇南大塚北墳出土の金冠と同じく、立飾の縁に1条の打出列点文と冠帯の縁に蹴彫りによる平行線と波状の文様がつけられている。それにしても2つの金冠はよく似ている。鹿角形立飾も比べられたらなあ。  金冠だけでなく、鳥翼形金冠も出土している。こちらは天馬塚のものとよく似ているが、中央の突起が天馬塚のものは1つなのに対して、こちらは3つある。  それだけではない。このような材料までも副葬されていた。冠帽も出土したというが、それ以上のなにを金で造ろうとしていたのだろう。左下に束にして置かれているものは歩揺である。 垂飾耳飾りも出土した。このような装身具類だけではない。高坏や碗までもが金でつくられている。
こんなにキンキラ豪華に葬られた王は誰だったのだろう?

鳥翼形金冠についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)