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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2016/08/30

中国の古鏡展5 秦時代の鏡の地文様は繊細


今回根津美術館で開催された「中国の古鏡展」では秦時代になると地文の繊細さが際立っていた。
同展図録は、非常に細い直線や渦巻線と小珠点とを組み合わせた地文をもち、そのうえに 様々な文様を載せる。戦国時代中頃から散見し、秦時代から前漢時代初頭にかけて地文のパターンが緻密でかつヴァリエーション豊かになる。地文の上に載る主文様も精緻でかつシャープな表現をとるものが多いという。
地文は驚くほど精密につくられているが、非常に浅浮彫のため、主文様を邪魔しない。

細文地四鳳鏡 秦時代(前221-206年) 径11.2㎝重104g
極細線であらわされた鉤連雷文のなかを小珠点で埋め尽くし、その隙間に極細線の渦巻文を並べた地文をもつという。
浅い地文だが、鉤連雷文の線、その中に規則的に並ぶ小珠点と渦文。そして渦文と渦文の間には、Z字形のようなものが。これは渦雷文と呼ばれる円形渦の左右に三角渦を組み合わせた地文(同展図録より)という完成された文様になっていく、前段階のものかも。

細文地龍鳳文鏡 秦時代 径14.0㎝重200g
極細線で菱形に区画されたなかに渦巻や小珠点を充填した地文をもつという。

菱形の区画は割合に大きなもので、中央に大きな渦巻が4つあり、そこから小さな渦巻が2つ出ているもの、一つだけのものなど一定していない。大小の渦巻の隙間を小珠点が埋めている。
この区画は、ひょっとすると鉤連雷文を簡略化したもの?

細文地狩猟文鏡 秦時代 径22.1㎝重104g
細文地龍鳳文鏡と同じスタイルの地文をもつという。
龍鳳文鏡よりも大きいので、地文が小さく見えるのだろうか。

では、この鏡の制作時期はどうだろう。

渦雷文地四葉文鏡 戦国時代末-前漢時代初頭(前3世紀) 径11.8㎝重130g
同書は、円形渦の左右に三角渦を組み合わせた渦雷文をすき間なく並べた地文をもつ。 地文はブロック状の原型(スタンプ)を鋳型に押し当てる方法で施文されており、羽状獣文地や細文地と同じ技術系譜にある。戦国時代末から秦時代頃に出現し 前漢時代前期にかけて流行した。本鏡は大柄な円形鈕座の外周に四葉を配するだけの簡素なもので、地文の状況がよく確認できるという。
渦雷文が完成された文様となっている点、そして地文が大きくて秦時代の繊細さに欠ける点などから、秦時代よりも後、前漢時代に入ってからの作品のように思う。






※参考文献
「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展図録」 根津美術館学芸部編 2011 根津美術館

2015/03/10

日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文




複弁蓮華文の瓦も白鳳時代に出現している。

川原寺の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代 複弁蓮華文・覗花弁・面違鋸歯文、四重弧文 奈良文化財研究所蔵
『日本の美術66古代の瓦』(以下『古代の瓦』)は、百済末期様式の瓦が主として中小寺院や、地方寺院の開発にあてられていたころ、中央の大寺の造営には新様式が採用された。奈良・川原寺は天智天皇の勅願によって建立されたことが推定されるが、天武天皇との関係はことに深く、藤原京時代には四大寺の一つであった。創建時代の鐙瓦は蓮花文を飾るとはいえ、今までに例のない、1枚の花弁に子葉2個を配する複弁蓮花文である。この新様式の蓮花文は中房が大きく、蓮子は大粒で、写実的な乳房状にあらわし、花弁は中央に稜をたてて二面分割とし、左右の各面に断面の丸い子葉を配した、反転の強い彫りの深い複弁蓮花文であり、周縁は幅広く高く、上面を内斜面に作り、面違鋸歯文を飾っているという。
同じ白鳳時代、山村廃寺の単弁蓮華文軒丸瓦には、スタンプと思われる隆線で鋸歯文が周縁を巡っているが、こちらはもう少し凝って、布を折りたたんだかのような厚みのある鋸歯文となっている。それを面違鋸歯文と呼ぶらしいが、そんな凝った鋸歯文は白鳳時代にのみ見られるものだ。

法隆寺西院の軒丸瓦・軒平瓦1 白鳳時代 複弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 軒丸瓦径19.0軒平瓦幅30.1厚6.3㎝ 西院伽藍金堂所用 法隆寺蔵
『法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、軒丸瓦は中房は大きく高く、中央の1個の蓮子を中心に、さらに蓮子を二重に巡らし、内区には弁端が反転する複弁の蓮弁を八葉飾り、外区には突線で表した鋸歯文を巡らしている。軒平瓦は斑鳩宮所用の軒平瓦の文様を継承し、さらに簡潔にまとめあげた形式で、特徴のある宝珠形の中心飾の左右に三葉形のパルメット文をのびやかに3回転連続させて、唐草文状に展開させているという。
弁端が反転しているものの、平板な花弁となっている。 
法隆寺西院伽藍の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代 複弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 軒丸瓦径18.1軒平瓦幅31.0厚5.5㎝ 西院伽藍塔所用 法隆寺蔵
同書は、西院伽藍出土の軒瓦で、文様の形式化からみて金堂所用瓦が最も古く、塔所用瓦がこれに継ぎ、さらに回廊や中門などの出土瓦が続く。これらの瓦は天武朝の金堂造営から和銅年間の中門造営まで、すなわち白鳳期(7世紀後葉から8世紀初頭)の西院伽藍の造立過程を物語っているという。
花弁に立体感がある。

『古代の瓦』は、こうした複弁蓮花文は一統時代新羅に盛行する。しかし新羅様式は川原寺式とは形式を異にするので、初唐様式をそれぞれ受け入れ消化したものと想定されている。複弁蓮花文は中国では既に北魏に出現するが、花弁の端は尖形を呈している。川原寺式や新羅瓦のごとく、弁端が丸く、切れ込みのある形は唐の太宗陵や長安大明宮址の瓦塼にみられるが、その初現の時期は南北朝末から初唐にかけての瓦が不明であるために、時期的にみて初唐様式と想定されているのであるという。


太宗陵の軒丸瓦 初唐期(7世紀) 複弁八葉蓮華文・連珠文 西安北方、昭陵出土
同書は、ただし唐の鐙瓦は蓮花文のまわりに連珠文をめぐらし、周縁は広く無文に作るのが普通であり、しかも粗雑で創造的意欲に欠けるものが多いが、川原寺の鐙瓦文様の精巧さは、むしろ仏像の台座や光背の蓮花文をおもわすものがあり、それらを刻んだ仏師が鐙瓦の造笵にもあたったことが考えられる。中国では当時の最高の宮殿や皇陵の瓦さえ、総て造瓦工の手にゆだねられる段階へ進んでいるのに、後進的なわが国や新羅では芸術作家が活躍する分野の一つであったという。
花弁は子葉が高いので、花弁が非常に立体的な印象を受ける。また花弁と花弁の間に見える下側の花弁、つまり覗花弁は、造瓦工の作ったものといわれるが、日本のものよりも花弁らしく表されている。
日本の初期複弁蓮花文軒丸瓦には、周縁に鋸歯文が巡るが連珠文はない。ということは、唐の太宗期以前には鋸歯文の巡る軒丸瓦があったはずだが、残念なことに遺品が残っていない。あるいはまだ発見されていない。

大官大寺の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代 複弁八葉蓮華文・連珠文、均整忍冬唐草文・連珠文・鋸歯文 奈良文化財研究所蔵
同書は、初唐様式の影響といえば、長安大明宮址や太宗陵出土の鐙瓦に最もよく似ているのが、奈良・代官大寺址出土の鐙瓦であるという。
軒丸瓦は、周縁は幅が狭く、その側面に連珠出土が並んでいるので、下側のものはほとんど見えず、上側のものは大粒に感じる。
軒平瓦は、法隆寺出土の均整忍冬唐草文軒平瓦にあった宝珠形の中心飾りはなくなり、垂飾のようなものとなっている。蔓草も法隆寺系のものとは全く異なった、便化したものとなり、よく見ると、1単位ずつ途切れている。連珠はソロバン玉のような形をしている。

藤原宮の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代、持統8年(694)に遷都 複弁蓮華文・連珠文、偏行忍冬唐草文・連珠文・鋸歯文 
『古代の瓦』は、外区に連珠文を飾る複弁八葉蓮花文鐙瓦の確実な時代を推し得る遺例は、持統・文武・元明の3代、16年間にわたる皇都、藤原宮使用瓦である。『扶桑略記』は本来寺に用いられた瓦葺きが宮殿にも用いられた最初であると伝えるが、なかでも朝堂院出土の一組は最もすぐれ、創建瓦としてふさわしいものである。鐙瓦は複弁蓮花文のまわりに連珠文と外向鋸歯文を二重に飾り、宇瓦は雲文系の偏行唐草文を内区主文とし、外区には、上帯に連珠文、側帯と下帯には線鋸歯文を飾っているという。
軒丸瓦は、大官大寺の軒瓦の連珠文と、それ以前の川原寺の軒丸瓦の鋸歯文の双方が表されている。弁端は角ばって花弁らしくない。
軒平瓦は、大官大寺の唐草文が左右対称をやめて偏行となったようで、主茎が1本の茎となり、波のような渦が2つずつ上下に表されている。

本薬師寺の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代、文武2年(698)に完成 複弁蓮華文・連珠文・鋸歯文、偏行唐草文・連珠文・鋸歯文 本薬師寺址出土 軒平瓦は東京国立博物館蔵

同書は、薬師寺は天武9年(681)に皇后の病気平癒を祈って発願された官寺であるが、持統11年には本薬師寺像とみられる仏像の開眼が行われているから、瓦文様が藤原宮のそれより多少古式なのもうなずかれることであるという。
軒丸瓦は外区と内区の高さにあまり差がなく平板。周縁には鋸歯文がかすかに認められ、連珠は大きく出っ張っている。
弁端が角ばってきたような。
軒平瓦は、藤原宮のものよりも蔓の巻きが大きくなっている。

平城宮の軒丸瓦・軒平瓦 奈良時代、和銅3年(710) 複弁蓮花文・連珠文・鋸歯文、均整忍冬唐草文・連珠文 奈良文化財研究所蔵
『古代の瓦』は、奈良朝初期の瓦は、和銅3年平城遷都とともに出現する。皇都の遷移は短期間に莫大な建築資材を必要とするから、その内実は瓦も藤原京から多く転用されていた。
一方、平城宮においても、北部の丘陵地帯に官窯を築いて新造瓦の製産がはじまっている。その初期の製品とおぼしき一組を見るに、鐙瓦は複弁蓮花文を主文とし、外区に連珠文を、周縁の内斜面に線鋸歯文を飾っている。その文様構成は藤原宮式を範としたとはいえ、中房は小さく低い形に造り、花弁はいっそう柔和であり、周縁の内斜面は匙面にとるのが特色である。
宇瓦は均正唐草文を主文とし外区に連珠文を飾るが、その文様構成は大官大寺式を受け継ぎ、彼の雲気文的な鋭利さから脱した温雅な形へと変化せしめている。
それはまさに藤原宮・大官大寺式を取捨選択し、その強さ、鋭利さから脱した優美・温雅な和風形式の成立とみるべきであろうという。 
軒平瓦には、また均整忍冬唐草文が現れた。大官大寺風の中心飾りも似ている。

こうした和様形式は平城遷都に伴って移建された興福寺・元興寺・大安寺などの大寺においてもみられることである。

興福寺の軒丸瓦・軒平瓦 奈良時代 複弁蓮花文・連珠文・鋸歯文、均整忍冬唐草文・連珠文 奈良国立博物館蔵
同書は、鐙瓦は中房も大きく藤原宮式に最も近いが、柔らかさにおいては平城宮式に劣るものではないし、宇瓦の文様は、その外区において大官大寺式のそれを襲い、内区主文様は、彼の上下を逆にし、いっそう簡略化した形といえようという。
軒平瓦は連珠文もひしゃがっている。

さて、やっと元興寺の軒瓦が登場する頃となった。

元興寺の軒丸瓦・軒平瓦 奈良時代 複弁蓮華文、均整忍冬唐草文・鋸歯文 元興寺蔵
『わかる!元興寺』は、平安時代初期に編纂された『続日本紀』には養老2年(718)に飛鳥の地にあった法興寺を平城京に遷したという記録が見られるという。
下の軒瓦の拓本は、奈良移建期のもの。
同書は、飛鳥寺の後身、元興寺の鐙瓦は粟原寺のそれに似た川原寺式系の末流であり、宇瓦は大官大寺式を模刻したもので新鮮味にとぼしいという。
粟原寺(奈良)の複弁蓮華文軒丸瓦(白鳳時代)にも、連珠文も鋸歯文もない。連珠文だけを表す軒丸瓦の流れというのがあったようだ。

そして東大寺が建立される。

東大寺の軒丸瓦・軒平瓦 奈良時代、大仏開眼会が天平勝宝4年(752)、大伽藍の完成は天平宝亀初年(770) 奈良国立博物館蔵
『古代の瓦』は、東大寺で最も多く用いられた鐙瓦は、興福寺式の文様を更に簡潔に、しかも大ぶりにあらわしたもので、周縁の鋸歯文を省き、外区の珠文帯や中房の蓮子は大粒で数は少ない。宇瓦は均正唐草文ながら、中心飾は三葉を芯とする、対葉形宝相華文を採用したのが特色であるという。
連珠文は続いて採用されるが、鋸歯文は廃れてしまったということだろうか。複弁の蓮華よりも連珠文や中房の蓮子が目立つ。
軒平瓦の均整忍冬唐草文は装飾的に表されている。
同書は、こうした宝相華文様はパルメットを、いわば換骨奪胎して造り上げられたものであるが、中国の則天武后時代に出現し、わが国へは天平18年(746)造立の東大寺法華堂、不空羂索観音像の装飾文様として採用された新来文様であったという。
蓮華文の軒丸瓦を調べていると、当然ながら忍冬唐草文の軒平瓦のこともわかってきて、その上宝相華文の起源まで知ることができた。

        日本の瓦6 単弁蓮華文←

関連項目
雲崗石窟の忍冬唐草文
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦
日本の瓦3 パルメット文のある瓦
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
元興寺2 瓦
蓮華座2 法隆寺献納金銅仏
蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子


※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館

2015/02/17

日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦




現在ならまちと呼ばれているところに位置する元興寺は奈良時代の瓦が現在でも屋根に乗っていることで知られているが、中には飛鳥時代の瓦もあるという。
それについてはこちら
『わかる!元興寺』は、法興寺から運ばれてきた瓦は赤みを帯びた色調のものが多く、軒瓦については、法興寺からはほとんど運ばれていない。法興寺の軒丸瓦は素弁蓮華紋であるが、これは元興寺境内における発掘調査により出土した2点以外は確認されていないという。

日本最初期の軒丸瓦は素弁蓮華文だった。

『飛鳥の寺院』は飛鳥寺について、明日香村大字飛鳥に所在する、我が国最初の本格的な寺院。発願は蘇我馬子とされる。法興寺、元興寺とも称する。588年、仏舎利・僧侶・寺工などが百済から献上され、605年(推古13)、鞍作鳥によって仏像が作られるという。
発掘調査によって軒丸瓦が出土した。
『日本の美術358唐草紋』(以下『唐草紋』)は、軒先に葺かれる軒瓦としては軒丸瓦だけがあって、対になるべき軒平瓦を欠くところも百済のばあいと一致するという。
飛鳥寺の軒先には軒丸瓦と平瓦が並んでいたのだった。

同書は、飛鳥寺軒丸瓦の文様は、百済の影響をうけた素弁の蓮華文で、花弁状に表現するものと、角端にして、その先端に珠点を表現するものがある。前者を「花組」、後者を「星組」と呼ぶ研究者もいるという。
『日本の美術66古代の瓦』(以下『古代の瓦』)は、瓦博士の指導によって製作された飛鳥寺のり創建瓦は2形式あるが、それは百済様式とはいえ、祖型は中国の南朝にあり、南朝の造瓦技術が百済に伝わるとほとんど同時にわが国へも伝えられたものであったという。

飛鳥寺第一様式 花組 飛鳥時代 素弁十葉蓮華文 径16.0㎝ 奈良文化財研究所蔵
同書は、周縁は細くなんらの飾りもなく、全体に簡潔な文様であるという。
中房の蓮子は中央に1つ周囲に5つ(1+5と表現するらしいので、以下これに従う)あり、蓮子の延長線上に花弁の境界線がある。そして、蓮子と蓮子の間に2枚の花弁が表されているのだが、その大きさは均一ではない。
飛鳥寺第二様式 星組 飛鳥時代 素弁十一葉蓮華文 径15.6㎝ 奈良文化財研究所蔵
『古代の瓦』は、弁端が角張り、反転した先端をあらわすのに点珠をもってするなど、多少の形式化を認めざるを得ないという。
点珠というのは花弁が反り返った様子を表すものだっのか。
小さな中房に大きすぎる蓮子が1+5、花弁が11枚なので、当然蓮子と花弁の境界線は一致しない。

これらの瓦は百済から送られた瓦博士の指導の下作られたという。

軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文 径13.9㎝ 忠清南道扶余邑旧衙里遺跡出土 国立扶余博物館蔵
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、百済式瓦の源流は、都を泗沘(現在の忠清南道扶余邑)に遷された百済時代後期の遺跡出土品に求められる。
花弁の先端が反転して桜花状に切り込みが入り、日本で花組と通称されている瓦であるという。
飛鳥寺の花組瓦と比べると、八葉であるために、花弁がふっくらとしている。また、中房が大きく、小さな蓮子のは1+9で、不規則に並んでいる。
このような8弁のものが一番作り易いと思うのだが、日本に来ると10弁や11弁になるのは何故だろう。
軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文・点珠 径16.5㎝ 同遺跡出土 国立扶余博物館蔵
同書は、弁端が角張る傾向にあり、先端に珠点を付す角端点珠式で、星組と通称される瓦である。若草伽藍では星組の軒丸瓦が用いられているという。
やはり花弁が8枚なので、花びららしい。中房は上の花組と比べると小さく、蓮子は1+6で、ほぼ等間隔に並んでいる。

点珠のあるものについて、他の寺院より出土した瓦をみていくと、

法隆寺若草伽藍金堂の軒丸瓦1 飛鳥時代(7世紀第Ⅰ四半期) 素弁九葉蓮華文・点珠 径15.7㎝  法隆寺若草伽藍(斑鳩寺)跡出土 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、法隆寺は、初めは斑鳩寺とよばれ、聖徳太子が住まいとした斑鳩宮に隣接して建立した寺で、創建年代は推古14、5年(606、7)ごろと考えられる。その伽藍跡は法隆寺の西院伽藍の南東に位置し、若草伽藍とよばれ、現在は塔跡の上に巨大な心礎が残されているという。
『唐草紋』は、7世紀初めに造営に取りかかった斑鳩寺、坂田寺や四天王寺において初めて軒平瓦が導入されたという。
『仏法の初め、茲より作れり展図録』は、若草伽藍の出土瓦は、すべて7世紀第Ⅰ四半期と第Ⅱ四半期のもので、その中で最も古い瓦は、金堂に使用された素弁九弁蓮華文軒丸瓦で、飛鳥寺と同じ笵であり、それを転用したことが明らかとなった。ここから斑鳩寺の造営に、蘇我氏の関与・援助があったことは間違いないであろうという。
飛鳥寺には素弁九葉蓮華文の軒丸瓦も使用されていたのだった。
中房の蓮子は1+6で、花弁は9枚ある。点珠と蓮子の大きさが同じくらいだ。
なお、軒丸瓦の忍冬唐草文は手彫りで、下図及び同書の図版2点共に異なった作行きとなっている。

このタイプで八葉のものも作られている。

奥山久米寺の軒丸瓦1 飛鳥時代 素弁八葉蓮華文・点珠 明日香村
やっと8弁になったのに、最も蓮華から遠い表現となってしまった。瓦工は、開花した花であることも知らずに作っていたのだろうか。
蓮子は1+4で、十字に配置される。

平吉遺跡の蓮華文鬼瓦 7世紀中頃 素弁八葉蓮華文・点珠 厚2cm内外 奈良県明日香村平吉(ひきち)遺跡出土 奈良文化財研究所蔵
『日本の美術391鬼瓦』は、高さ37cm、幅35cmのやや縦長な方形に復原でき、下辺中央に半円形の抉り(えぐり)がある。弁端が天地を向くよう配置、まわりに連珠紋を28個めぐらせるという。

実は、この剣尖形の花弁を持つ蓮華文の鬼瓦を見て、蓮華らしい花弁になる以前はこんな形だったのかと思っていたが、どうやら素弁蓮華文の変化していく一つの流れだったようだ。
外区の大きな連珠文に対して、中房の蓮子は消えてしまいそうなほど薄いが、1+8つある。
同じような角端点珠式素弁蓮華文鬼瓦が奥山廃寺(奥山久米寺)でも出土している。

法隆寺若草伽藍金堂の軒丸瓦2 飛鳥時代 素弁八葉蓮華文・点珠 径17.0㎝ 若草伽藍跡出土 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、九葉の割付が不揃いなのに対して、八葉の花弁は整然としているという。 
蓮弁は8枚のため、幅広で、ふっくらしながらも先だけ尖り、そのすぐ内側に点珠がある。これはもう花弁の反転を表すための点珠ではなくなっている。
中房には1+6の蓮子がある。

四天王寺の軒丸瓦 飛鳥時代 八葉素弁蓮華文・点珠
『古代の瓦』は、その創建の鐙瓦は法隆寺の瓦と同じ型を使用して造られ、これは相当型崩れの生ずるまで長く使用されているという。 
『仏法の初め玆より作れり展図録』は、四天王寺の場合も、若草伽藍と同じ伽藍配置を取ること、金堂に使用された素弁八弁蓮華文軒丸瓦と同じ笵のものを使用するなど、飛鳥寺→若草伽藍→四天王寺という推移が推定され、ここでも蘇我氏の関与が判明するという。
8枚の蓮弁や中房が小さい点は法隆寺の瓦と似ているが、中房の蓮子は大きくなって1+6ある。

奥山廃寺(奥山久米寺)の軒丸瓦2 飛鳥時代 六葉素弁蓮華文・点珠 明日香村大字奥山 奈良文化財研究所蔵
『飛鳥の寺院』は、伽藍配置は塔・・金堂・講堂が南から直線上に並ぶ、四天王寺式もしくは山田寺式が想定されるという。瓦は、角端点珠の素弁蓮華文軒丸瓦が創建期のものと考えられている。金堂が7世紀前半から、塔が7世紀後半に造営されたと考えられているという。
飛鳥寺第二様式の「星組」の花弁の数をほぼ半分に減らしたタイプにも見えるが、花弁はかなり盛り上がってつくられ、間にはオシベのようなものがある。
蓮子は1+4が十字形に並ぶ。

蓮弁に稜のあるものがつくられるようになった。

片岡王寺の軒丸瓦 白鳳時代(645-710) 素弁八葉蓮華文・点珠・稜 奈良王寺町
『古代の瓦』は、百済直伝の一形式であるが、花弁が八葉なること、弁端に点珠を配することを特徴とする。類型は大阪・新堂廃寺など帰化系氏族の造立寺院にもみられるが、中房に周溝を設け、弁央に軽い稜をたてるなどの変化があるという。
法隆寺の軒丸瓦では点珠は花弁先端の内側にあったが、ここでは文字通り弁端につくられ、瓦の外区に接している。
中房の蓮子1+8で中房の輪郭に沿って配置されている。

西安寺の軒丸瓦 飛鳥時代末期 忍冬・蓮華交飾・点珠 
同書は、忍冬文と蓮花文を十字に交差した形は飛鳥時代末期の奈良・西安寺にはじまるという。
忍冬文(パルメット文)と呼ばれるものが、こんな早い時期に瓦に表されていたとは。
蓮子は1+8、中央のものは円の中にあり、実際の蓮に近い表現となっている。

そして花弁らしい表現のものも出現する。
 
檜隈寺の軒丸瓦 686年以前 複弁?八葉蓮華文 金堂跡出土 明日香村 奈良文化財研究所蔵
『飛鳥の寺院』は、文献では、686年「檜隈寺・軽寺・大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る」との記事がみられることから、このころには建立されていたことが推定される。
調査の結果、塔・金堂・講堂・中門・回廊などが検出された。金堂は身舎に四面庇をつけた礎石建物であることがわかり、基壇の四周に川原石を敷き詰めていたことも明らかとなった。瓦は金堂の調査で複弁蓮華文軒丸瓦と三重弧文平瓦が多く出土しているという。
弁端は点珠というよりも、先が尖って内傾した花弁を自然に表現したような印象を与えるもので、花弁の中心部には2つに分かれた意匠がある。複弁というものが、日本で表された最初期のものかも。
蓮子は1+4で、十字に並んでいる。
これまで見てきた軒丸瓦の蓮弁の。には楔形の突起状のものがあるが、これは後に作られる瓦のように、下重の花弁が見える、覗花弁と呼ばれるものではないようだ。


                       →日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦

関連項目
日本の瓦3 パルメット文のある瓦
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
日本の瓦6 単弁蓮華文
日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文
日本の瓦8 蓮華文の垂木先瓦
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦
韓半島の瓦および塼
鬼瓦と鬼面

※参考文献
「わかる!元興寺」 2014年 ナカニシヤ出版
「飛鳥の考古学図録⑤-古代寺院の興隆-飛鳥の寺院」 2009年 財団法人明日香村観光開発公社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂
「仏法の初め、玆(これ)より作(おこ)れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県安土城考古博物館
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂

2009/11/03

連珠円文の錦はソグドか

 
『古代イラン世界2』で横張和子氏(古代オリエント博物館)は、連珠円文意匠はサーサーン朝錦としては例外とさえ見えるのである。サーサーン朝の連珠文はしかるべき意味(フヴァルナー)をもつものであったが、しかし装飾の典型とはしなかったようである。それを典型的にしたのはむしろソグド錦であったのではないかと考えているという。
連珠猪頭文錦に代表される連珠円文の錦は、ササン朝ペルシアが起源ではなくソグドらしい。

連珠紋錦 トルファン出土 時代不明 トルファン博物館蔵
『文明の道3海と陸のシルクロード』は、中国の錦を西方に運ぶだけでなく、蕃錦と呼ばれた西方で織り直された大胆な紋様の緯錦(よこにしき)を中国に運んでいたのもソグド人であったろう。最近では、トルファンで出土するササン式の連珠紋の錦の一部が、じつはソグド製であることが指摘されているという。
小さなくちばしの先には何かをくわえているが、首飾りにしては小さすぎる。
首の背後の三角を二つ連ねたものは、ササン朝ペルシアで見られる王の首にたなびくリボンからきたものだろうか。それとも鶏のトサカが意匠化されたものだろうか。また足の後ろ側に小さな三角形が二つ見えるが、これは蹴爪だろうか。トサカに蹴爪なら鶏あるいはキジ科の鳥を表したものかな。
また上下左右に小さな連珠円文を巡らせたものがある。中は他の大きな円文と同じ大きさの円文だが、ターケボスターン出土の四弁花文がこのように変化したのだろうか。
この作品の製作年代が不明なのは残念。 サマルカンドに赴任した各国の使節図 650年以降 アフラシアブ出土 ウズベキスタン、サマルカンド歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、ここに記された長いソグド語銘から判断すると、スルハン川流域のチャガニヤン国とタシュケント周辺のチャチュ国の使節が描かれている。 
さまざまな絹の織物の文様が正確に再現されてる。中央アジアの定住民の使節たちの衣服は、有翼天馬、孔雀、鴨、猪、セーンムルウ(怪鳥)などを織り出したササン朝の絹織物で作られている。
という。
左の人物は大きな連珠円文が縦横に並んだ服を着ている。連珠円文の上下左右に小連珠円があり、主文は猪頭文がわかるが、その上はわからない。4つの円文の間には菱形状の空間ができるが、そこには大きく四弁花文が表されているようだ。中央の人物の服は大きな文様が散らされ、縁に連珠円文が帯状に縫いつけられている。
蛇足だが、中央と、右の連珠円文ではなく立涌文が上下左右で交わるような枠に囲まれたシームルグ文の服を着た人物が腰の前に提げているのは、慶州鶏林路14号墳出土の装飾宝剣によく似ている。この形の宝剣については、1・2へ 絹の子ども服 双鴨連珠円文錦製 ソグディアナ 8世紀 クリーヴランド美術館蔵
『西からの絹の道』は、ササン朝起源の文様で装飾されているという。
形は少し異なるが、こちらの鳥も首飾りとは思えない何かをくわえていて、首には三角形のリボンがまっすぐにたなびいている。蹴爪はなく、特徴的な台に乗っている。 連珠円文の錦がソグド人が作ったということだが、7世紀前半以前のソグド錦を見つけることはできなかった。

西域文明的發現の『シルクロードのソグド錦』は、ソグド人はシルク貿易の仲買業に甘んじることなく、6世紀末には独自の絹紡績業を作り上げた。ソグド職人は中国、ササン朝ペルシアとビザンチンのシルクの図柄と西方の緯錦紡績技術を広範に取り入れ、後発の優勢を発揮し、内外にその名が知られるザンダニージー錦(Zandaniji Silk)を生み出したという。
6世紀末と特定できる錦は残念ながら図版が示されていないが、ササン朝滅亡(651年)後にペルシアの地で作られるようになった錦よりも半世紀以上も早いことになる。
また、『世界美術大全集東洋編16西アジア』で650年以後とされたサマルカンド郊外、アフラシアブ遺跡のソグド壁画(2つ目の図)については、林梅村氏は、そこに描かれた漢族の服を着た人物が、高昌国の漢族であるとして、唐の貞観14年(640)に唐太宗は侯君集に高昌平定を命じていることから、サマルカンドのソグド壁画の年代は640年を下ることはないという。
7世紀前半とすると、ササン朝ペルシアのターケ・ボスターン大洞内奧浮彫とほぼ同じ頃、ソグドではすでに連珠円文があったことになる。
6世紀と特定できるソグド錦を見つけたいものだ。

関連項目

ササン朝の首のリボンはゾロアスター教
連珠円文は7世紀に流行した

※参考サイト
西域文明的發現のシルクロードのソグド錦 林梅村 (北京大学考古文博学院教授)

※参考文献
「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送協会
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 2000年 小学館
「ビジュアル考古学9 西からの絹の道」 編集主幹吉村作治 1999年 Newton Press
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団 

2009/10/27

列点文で文様を囲む

 
一見粒金細工のように見えても、オルモ・ベッロの墓地第2墓出土頸飾りの円盤(前750-725年)のように、じっくり見ると打出しによるものがある。『エトルリア文明展図録』は、特にエトルリアで広く普及した幾何学文の打出しという。外縁部には二重に細かな列点で円文を作り、中心に1つの点とそれを取り囲む列点による円文という1つの文様が、その間を巡っている。
打出しによる列点円文が中央の文様を囲むという構成は硬貨の文様と共通する。それは擬似粒金細工としてかなり古い時代から行われていたのだろうと思っていたが、意外にもエトルリアの前8世紀の作品が最も古かった。

ボタン アルトゥンテペ出土 前8世紀末-7世紀初 金 0.5㎝ アナトリア文明博物館蔵
アルトゥンテペは現トルコ東部のエルズンジャン付近にある、ウラルトゥ王国の遺跡である。エトルリアと変わらないくらいの時代のものだ。中央の六弁花も列点文らしい。 これらはアラジャホユックの出土の金製品に見られたような鑿による打出しではなく、型押しによる成形だろうか。

装飾板 バクトリア出土 前5-2世紀 金  4.5㎝ MIHO MUSEUM蔵
『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、金箔を12弁のロゼット文に切り、内側のメダリオンにはアキレス・ヒールのような意匠を押出しで形成している。アキレス・ヒールをつけた楯がオクサス神殿から発掘されている他、よく似た意匠がタキシラ出土の硬貨のパンチマークに見られるという。
同図録はこの作品を「アレクサンドロスの遺産」で紹介しているので、前4世紀後半以降のものだろう。この作品も型押しのようだ。
装飾板 バクトリア出土 前5-2世紀 金 高2.0㎝ MIHO MUSEUM蔵
円形の金板に正面向きのライオンの顔面とその周りにライオングリフィンの横顔を囲む区画を6つ打出し、裏面に小環をつけている という。  
こちらは型押しではなく打出しによって製作された装飾板という。中央のライオンの顔面を囲む円と周囲の6つの区画に区切る線には打出し円文ではなく、丸鏨で刻んだような小円が並んでいる。 バクトリア出土品には型押しによる列点文の他、丸鏨による列点文も見られるが、粒金細工もたくさん出土している。バクトリア出土の粒金細工はこちら
その中には粒金細工による三角形の連続文様(鋸歯文)もあれば、円板の内部に金板を折って小さな三角形の帯文様にしたものもある。バクトリアでも粒金細工による文様を真似て、様々な工夫を凝らして金製品が作られたのだろう。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
「アナトリア文明博物館図録」
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」(2005年 (株)キュレイターズ)
「エトルリア文明展図録」(青柳正規監修 1990年 朝日新聞社)

2009/10/23

トロイにアナトリア最古の粒金細工

 
『知の再発見双書37エトルリア文明』は、トロイアのプリアモス王の宝物にも、この技術は見られるというが、前回は探し出せなかった。やっとプリアモスの宝から粒金細工のあるものを見つけることができた。前回につていはこちら

耳飾り 金 トロヤⅡg層宝物庫A出土 前期青銅器時代(前3千年紀第4四半期=前2250-2000年) イスタンブル考古学博物館蔵
火災により一部熔解して、互いに接合し合ったものという。
その中にある金製品には、熔けかけて平たくなっているが、金の粒が並んでいる。確かに粒金細工はトロイに存在していた。  私が確認できる範囲で、アナトリアで最古の粒金細工はキュルテペのアッシリア商人居留地出土の髪飾(前20-19世紀)だったが、製作地はアッシリアだろう。しかし、トロイの粒金細工はそれより古い。 現在まで見つけることのできた最も古いウル王墓出土の黄金の短刀に次ぐものだ。
もう1点、似たような耳飾りがある。

耳飾り 金 トロヤⅡg層宝物庫D出土 前期青銅器時代(前3千年紀第4四半期) イスタンブル考古博物館蔵
三日月形飾りの周縁は、金の細粒で縁取られている。その縁飾りの内部には、金の細かい粒の縦線によって、さらに6つの長方形の区画に分けられているという。
プリアモス王の宝物は宝物庫A出土のものを指すらしいので、D庫から発見されたこの耳飾りはそれにあたらないが、A庫の耳飾りとそっくりだ。こちらは火災にあっていないからか、金の粒は全体にやや偏平であるものの、先端は平たくなっていない。しかし、粒の並べ方がまっすぐでなかったり、粒金の上に重ねて鑞付けするなど、熟練した技術とは思えない。粒金細工が始まって間もない頃のもののようだ。 『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、前3千年紀後半、すなわち青銅器時代前期も後半になると、アナトリアにも都市と呼べるような拠点的集落が見られるようになる。
鉱物資源の開発が進められ交易のネットワークが整備されていく過程で、多くの物資が集散する拠点的な集落が出現し、富の集中が見られるようになったものと考えられる。このような動きを背景に、都市ではエリート層とも呼ぶべき特権的階層が生み出され、その権力を誇示する目的で技術的にも質の高い金属工芸の発達が要請された。こうして生み出された金属製品は、青銅器時代前期のアナトリアの美術を代表するものとなっている。
青銅器時代前期後半のアナトリアは、おそらく比較的狭い領域を統治する都市国家的小国が分立し、覇を競っていたものと考えられる
という。

同じ頃に交易ネットワーク上に出現した都市国家のトロイとアラジャホユックに、同じ頃に粒金細工がもたらされた。それが契機となって、トロイでは拙いながらも金を粒にして並べて文様を作ることができるようになったが、アラジャ・ホユックでは打出し列点文や、刻線による細工などで金の粒をまねた細工として装飾が開始されたのかも。

※参考文献
「トルコ文明展図録」(1985年 平凡社)
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)
「鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」(大村幸弘 1981年 NHKブックス)
「世界美術大全集東洋編16西アジア」(2000年 小学館) 

2009/10/20

アラジャホユック出土の金製品は

 
アラジャホユックA墓出土の金冠には粒金を目指したような打出し列点文が施されていた。
『鉄を生みだした帝国』は、1935年、アラジャホユックの発掘調査で、王墓と思われる遺構が発見された。それはヒッタイト帝国の時代より古い初期青銅器時代、前2500年から2200年頃のものであった。王墓は全部で13発見された。墓は竪穴の形式をとっており、長方形の形をしていた。周囲は自然石で囲まれていた。
この13の王墓は、遺物の整理上、AからTまでの名称が与えられている。
その王墓群を築いたのはプロトヒッタイトでアナトリアの原住民
という。
13の墓の中でもA墓は最下層に近いとろこにあり、他にも金製品が出土している。

バックル 金 長15.2㎝ アラジャホユックA墓出土 前期青銅器時代(前3千年紀後半) アナトリア文明博物館蔵
『トルコ文明展図録』は、2つの小円盤を接着した形で、内側に軽く湾曲している。輪郭にそって列点文が打出され、さらに両円盤の中を、X字形に交わる2本の列点文で打出しているという。
金冠よりも密に列点文が打出されていて、先端が丸いように見える。 腕輪 金 径6.5㎝ アラジャホユックA墓出土 前3千年紀後半 アナトリア文明博物館蔵
内側の面が平坦な、半円形の断面をもつ金環。外面は、金細粒と刻線で装飾されているという。 『世界美術大全集東洋編16西アジア』も、冠、腕輪、ピン、ビーズなどの装飾品も製作されているが、透かしや細粒を鑞付けする技法なども駆使した見事な仕上がりとなっているという。
実は、これがアナトリアで粒金細工最古だと一瞬思ったが、じっくり見ると、どうも粒金ではないようだったので除外したのだった。今見ても厚みのある金を削ったとしか思えない。金の粒を目指して製作したのではないだろうか。 これらが粒金ではないにしろ、粒金細工を真似て、あるいは粒金細工に近づけようとして製作したものだろう。また、図版がないのは残念だが、A墓出土の金製品に粒金細工のものがあるという。

今のところ私のわかる範囲では、ウルの王墓から出土した短刀の鞘に施された不揃いな金の粒が粒金細工の最古(前2600-2500年)のものだ。チグリス・ユーフラテスの河口に近いウルという都市国家からは、アナトリア中央部のアラジャホユックはかなり離れている。
A墓は最下層に近いところに位置しているので、13の墓の中でも古い部類に属する。ということは、アラジャホユックの金製品はウル王墓出土の金製品にわりあい近い時代のものということになる。
ユーフラテス川を舟で遡っても、アラジャホユックはかなり遠いと思うが、意外に早く将来されていたのかも。

グーグルマップでアラジャホユックはこちら
最古の粒金細工についてはこちら

※参考文献
「トルコ文明展図録」(1985年 平凡社)
「鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」(大村幸弘 1981年 NHKブックス)
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館) 

2009/10/16

打出し列点文も粒金細工から?

 
粒金細工の最古の作品は今のところウル王墓出土の短刀の鞘(前2600-2500年)だが、打出し列点文はギーラーン出土の金製首飾り(前1000-500年)にあった。打出し列点文はどこまで遡るのだろうか。

豊穣の女神の首飾り 前2千年紀(前2000-1000年) ウガリット シリア国立博物館蔵
『シリア国立博物館』は、金の板を加工したものと玉を交互に連ねている。ヒトデ形の金板や筒形のもの、点状に打ちだし飾りをつけたものとさまざまな金属加工の技術が試みられている。中心にたれさがる金盤には豊穣の女神が表現されているという。
①裏向きになっているが、十字文の中央に丸く打出した点文が見える
②ヒトデ形とされている六角形の中心部に打出し列点文がある
③小さな木の葉形の周囲に打出し列点文が並び、その中央には大きな打出し点文が小さな打出し列点文に囲まれている
④大きな木の葉形を打出し列点文がを一周し、大きな打出し点文は文様にも使われている。
冠 前3千年紀後半(前2500-2000年) トルコ、アラジャ・ホユックA墓出土 金 高5.4㎝径19.2㎝ アナトリア文明博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、比較的幅があり、細かな透かし状の装飾が施されるのが特徴である。透彫りは、三角形の透かしを方向をたがえて四つ組み合わせることで格子目文にX字形文(襷状)が組み合わせた形となっている。それぞれの三角形は、外側から鑿(のみ)状の工具で3回打ってくりぬくことで作り出されているため、微妙に形が異なっている。これが水平方向に4段にわたって全周する。上縁と下縁には内側からの打出しによる点文が認められるという。
三角の形はそれぞれ異なるが、列点文はほぼ等間隔に打ち出されている。また、水平の透彫の間には3段の大きめの列点文が並んでいる。どちらの作品も、打出し文は粒金の代わりのような気がする。そうだとすると、それぞれの地に粒金細工の作品があったのか、金冠がほかの場所からもたらされたものということになる。

ところで、金冠の縁に列点文が巡るというのは新羅の金冠と似ている。また、天馬塚出土の金製冠帽では金板に文様を切り出して残った細い直線や曲線にも打出し列点文あるいは打出し文が施されている。しかし、3000年近くの隔たりは、アジア大陸の東端と西端の距離よりも大きいなあ。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 中央アジア」(2000年 小学館)
「世界の博物館18 シリア国立博物館」(1979年 講談社) 

2009/10/13

貨幣の列点文は受け継がれて

 
アレクサンドロスの遠征以降、硬貨の列点文はどうなったのだろう。

アンティオコス2世硬貨(表) 銀 セレウコス朝シリア(前261-246年) 平山郁夫氏蔵
ディアデムを戴く右向きの王頭部の周囲に細かな列点文が見られる。マケドニア製のアレクサンドロス銀貨以上に小さな列点文かも。アンティオコス2世の横顔も髪の毛まで丁寧に表わされ、ヘレニズム期らしい作品となっている。 カニシュカ1世硬貨(裏) 金 クシャン朝(2世紀) 平山氏蔵
頭光、身光のある、右手施無畏印の仏陀立像はほぼ隙間なく大きめの列点文が巡っている。紀元後でも硬貨に列点文をつけることは受け継がれていたのだ。 アルダシール1世硬貨(表) 銀 ササン朝(224-241年) 平山氏蔵
鷲文と耳覆いのあるティアラ冠を戴く、右向きの国王胸像には小さな列点文が密に並んでいる。やっと硬貨らしいものに出合った。ササン朝でも列点文のある硬貨が刳られたのだ。  ホスロー2世のディナール硬貨(表) 金 ササン朝(590、591-628年)
『ペルシャ文明展図録』は、王の右向き肖像。弱体化した帝国を、西はエジプト、アラビア半島にまで広げ、一時的に帝国最大の版図を誇り「勝利者」と呼ばれた。やがて東ローマとの戦いで捕虜となり、殺害される。その後ササン朝は短命の王が乱立する混乱期に入るという。
ササン朝末期になると硬貨の縁ぎりぎりに列点文が巡っている。ホスロー2世の横顔はアルダシール1世と比べると表現に深みがなくなり、髭などやたら点々で表現されて簡略化されているが、列点文の外側の余分なものがなくなり、硬貨としては完成度が高い。 ソグド硬貨 銀 時代不明
ホスロー2世の金貨とよく似ているので、同じような時代に製作されたものだろう。こちらの方が列点文が大きい。 アレクサンドロスが遠征したあちこちで、後の時代にも各地で列点文の巡る硬貨が造られていたのだ。

※参考文献
「古代バクトリア遺宝展図録」(年 MIHO MUSEUM)
「ガンダーラとシルクロードの美術展図録」(2002年 朝日新聞社)
「ペルシャ文明 煌めく7000年の秘宝展図録」(2006-2007年 朝日新聞社)
「週刊シルクロード紀行13 タジキスタン」(2006年 朝日新聞社)