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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/05/12

アイザノイ遺跡のゼウス神殿


アイザノイ遺跡全体の地図 Google Earth より
Kマッケラ Macella L列柱通り M橋 N音楽堂 O水場 Pゼウス神殿 Q浴場 R競技場 S劇場

南から眺めたゼウス神殿
壁が2面ほど残っているだけ、というか内壁が露出していた。

南西から眺めたゼウス神殿
ファサードが見えている。

北から眺めたゼウス神殿
ゼウスはギリシア神話の最高神ではなかったのかな。ローマ時代に建造されているのでユピテルなのでは?


平面図 説明パネルより
オクタスティロス様式の擬似八柱式平面で建てられており、短い辺に8本の柱、長い辺に15本の柱があり、35×55mの基壇の上に建っている。主要な構造は、①プロナオス(前室)、②ナオス/ケラ(主室)、③オピストドモス(後室)からなるという。
遠方から見えていたようにこれらの部屋は壁しか残っていないし、円柱も赤丸のものが立っているだけ。

ファサード
東側の祭壇前に置かれたアクロテリオンはゼウス神を表しているという解釈があるという。

外周の円柱はイオニア式柱頭で、ファサードには5本残っている。
その背後にある①プロナオスは内よりの2本の円柱がコリント式柱頭だが、外側は円柱ではなくプロナオスの壁面の端で、正確には角柱でもない。

プロナオスの柱頭はアカンサスの葉は小さいがコリント式柱頭

両端の角型柱頭は様式化せずに自由に彫った感じ。四つの角に短いアカンサスの葉が2枚、どう繋がっているのかよく分からないが、花も咲いている。その間に卵鏃文様が三つ。


奥にある①プロナオス(前室)の壁上部構造にはアカンサスの上半と上が切れたような卵鏃文様という装飾。

プロナオスの内側の柱頭はコリント式柱頭
小さなアカンサスは、交互に蔓が伸びるものとないものが配される。三つの卵鏃文様の間が欠失しているのはアカンサスの蔓。

外周の円柱の柱頭はイオニア式で渦巻の間は、上が蔓草文で下が卵鏃文様。


東側の列柱の外側に上部構造が逆さになって崩れ落ちた軒下の歯飾り(デンティル)があった。

北壁の装飾
途中に軒下装飾のようなものが出っ張っていて、一段切石があって、

その下に一列の卍繋文(ギリシア雷文)の文様帯がある。

その下には先史時代の岩絵のようなものがあるが、もちろんローマ時代よりも後のものだろう。


風化の進んだ卍繋文と、


それを真似た線刻


碑文の刻まれた壁面も。



地下室 立面図は説明パネルより
その下には、アナトリアではあまり見られない高いヴォールト状の空間がある。この地下室については二つの異なる見解がある。神殿の地下室は貴重な供物を保管するために使われていたという説がある。もう一つの説は、市街地から南へ約4㎞離れたキュベレ(メテル・ステウネネ)の聖域から神殿建設後にここに移され、ゼウスとキュベレの両方が神殿で崇拝されていたというものであるという。

地下室
10mはありそうな高くみごとなヴォールト天井

現在は石碑や墓碑などが展示されていた。
何者か不明の武装した一対の男性

墓碑
左の頂部にはアンテミオンや鳥(クジャク?)など。

墓碑
右側にも墓碑が刻まれているが、人物の造形の成熟度にあまりにも差がある。

墓碑の扉?



最後に北側から眺めた残存する円柱が全部みえるゼウス神殿。




関連記事


参考にしたもの
現地説明パネル

2026/02/17

後期ヒッタイトの神殿建築様式


ヒッタイト帝国の神殿について『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』(以下『「鉄の王国」の実像』)は、ヒッタイトの神殿建築様式には一定の型があるという。

それをハトゥシャ(ボアズキョイ)の神殿群でみてみると、

大神殿の想像復元図(説明パネルより)
説明パネルは、実際の神殿は複合施設の中央に位置し、外部から完全に隔離されていた。
ハトゥシャ最大の神殿。おそらく、王国の最高神であるハッティの風神とアリンナの太陽の女神に捧げられたものと思われる。建物の土台部分のみが大きな石灰岩のブロックで造られていた。その上に、日干しレンガを積んだ木骨造りの壁が築かれていたが、現在では何も残っていない。今は、木骨造りの壁と石の土台を繋いでいたダボ穴が数多く見られる。神殿は、泥で固められた典型的な平らな屋根で覆われていたという。

また『「鉄の王国」の実像』は、中央には屋根のない中庭があり、大型の神殿の場合は列柱が中庭を囲む例もある。ヒッタイト語で中庭をヒラ hila といい、列柱で囲まれた広間をおそらくヒランマル hilammar といったようだ。
入口から離れた神殿の最奥に至聖所(神像が置かれ、礼拝が行われた部屋)がある。神殿の入口から至聖所に入るには必ず一度は曲がらなくてはならず、直線的には配置されていない。入口には守衛室のようなものがあり、部外者(身を清めていない不浄な者)が立ち入らないように厳しく管理されていたことが窺える。至聖所の隣には小部屋があり、神々(神像)が人間と同じように食事をし、就寝し、身を清めるための道具や供物が保管されていたらしいという。 
石積みの土台しか残っていないので、見学していると全体が見渡せて、下図のように視界を遮る壁がイメージしにくい。
❼正門 ➓本殿入口 ⓫中庭 ⓬祭壇 ⓭祭祀の間(2箇所) その周囲に貯蔵室


大神殿見学後はバスに乗って門巡りをして、車窓から上の町の神殿群を見ることしかできなかったが、それでも大小様々な神殿には中庭があるのは分かった。

『古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ』は、その面積は大神殿の本殿よりもやや小さいが、内部の構造は似通っている。
北側に設けられた堂々たる階段を登ると広々とした玄関ホールがあり、その左右には小部屋が設けられていた。ホールを抜けると20×15mの広さの中庭があった。 この中庭の右奥にある小部屋の役割は解明されていないという。
❶No.5の神殿 ❷王の門 Google Earth より


『「鉄の王国」の実像』はこの中庭を指すヒラというヒッタイト語について、のちにアッシリア帝国に採用され、アッシリアの建築は「ビート・ヒラ二」(ヒラニの家)と呼ばれた建築様式で建てられていた。アッシリア人が「ヒッタイト風」と考えた建物というわけであるが、その実態はよく分かっていない。また、もう一つアッシリアがヒッタイト(後期ヒッタイト)から採り入れた建築様式があり、それは門や入口の両脇にライオンなど石製の巨像を配置することであったという。
かなり以前にヒッタイトのライオン像とアッシリアのラマッスについてまとめたことがある。その時にアッシリアのラマッスよりも前の後期ヒッタイト時代(前10-9世紀)に、アスランテペで城門のライオン像が造られていたことに気付いていたが、本当にそうだったことが判明してうれしい。
その記事については関連記事へ

城門のライオン像 石灰岩 高124㎝ マラティヤ、アスランテペ 前10-9世紀 アンカラ、アナトリア文明博物館蔵

もちろん一対です。足の指の表現が面白い。尾は後肢の間に巻いている。


それにしても、アッシリアのラマッスと後期ヒッタイト時代の門のライオン像の造形の違いは相当なものだ。

人面有翼牡牛像 前9世紀 アッシリアの首都カルク(現ニムルド)
『メソポタミア文明展図録』は、アッシュールナツィルパル二世(前883-859)はアッシュールからカルクに遷都した。彼はアッシリア宮殿建築の規範となった新様式の豪華な宮殿を建てた。これは伝統的なメソポタミア煉瓦建築に対する大きな革新であり、その実質は装飾に石材を集中的に使用したことにあったという。
この「新様式の宮殿」が後期ヒッタイト時代の宮殿から借用したピート・ヒラニというものだったのだ。

これらのライオンあるいは有翼人面雄牛像は神格を示す角付き冠を着けていた。彼らの像は側柱の役を果たしており、頭から前脚までの半像は丸彫りで、胸あたりから後半身は高浮彫だった。正面からも側面からも見られるように五本脚を特徴としていたという。
左奥には角が二対ある神が立っている。

時代が下がると、
人面有翼牡牛像 前721-705年 イラク、コルサバード、サルゴン二世の宮殿出土 アラバスター 高420㎝ ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、新アッシリア時代には、宮殿の主要な通路や出入口に、巨大な石製守護像が設置された。巨像は、肩までかかる髪と顎鬚を有する人間の頭部に、翼をもつ牡牛の身体を組み合わせた想像上の生き物として表現された。頭部はほぼ丸彫りに近く、身体部は巨大な一枚岩に高浮彫りで表現されている。巨像は前9世紀のアッシュールナツィルパル2世の時代から前7世紀のセンナケリブ王の時代までの宮殿建築に盛んに取り入れられたが、それ以降に造られた宮殿からは出土しない。
アッシリアでは、一般に守護像を「ラマッス」と総称し、なかでもとくに人面有翼牡牛像は「アラドランムー」と呼ばれたという。
この図版でラマッスの肢がはっきりとわかる。前方から見た時に静止しているように前脚を2本揃えているが、側面から見ると、歩いているように4本の脚が見えるように造られているために、計5本の脚が彫り出されている。尻尾は後ろに垂れている。

ついでに、アッシリアのラマッスに影響を受けて造られたとしか思えないアケメネス朝ペルシアのラマッスも。

ペルセポリス万国の門の出口の人面有翼牡牛像 クセルクセス王期(在位前486-465)
肢は4本しかないし、膝の表現が変。

ということで、後期ヒッタイト時代のライオン像は、新アッシリア帝国そしてアケメネス朝ペルシアにまで影響を与えていたのだった。




関連記事

参考文献
「ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像」 PHP新書1376 津本英利 2023年 株式会社PHP研究所 
「古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ」(日本語版)2013年 URANUS
「Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya」 Jürgen Seeher 2011年 YAYINLARI

参考にしたもの
現地説明パネル

2019/11/19

パエストゥム アルカイック期の3つの神殿


『世界美術大全集3』は、ギリシア人が南イタリアに建設した植民都市ポセイドニア(現パエストゥム)には、前6世紀半ばから前5世紀中頃にかけて建設されたドーリス式神殿が3棟残っているという。
その細部を時代順に見ていくと、

外観

第1ヘラ神殿(通称バシリカ) 前540年頃(パエストゥムで最古) 床面長さ54.27m 貝殻石灰岩
南の神殿は長辺の円柱が18本で短辺のちょうど2倍。

アテナ(ケレス)神殿 前510年頃 石灰岩(一部砂岩) 床面長さ32.88m 
『世界美術大全集3』は、前6世紀末にアゴラの北側に建てられたドーリス式神殿は、規模はさほど大きくないが、ドーリス式とイオニア式の二つのオーダーを併用した最も初期の例として興味深い。
正面6本側面13本の周柱式であるが、隅部での柱間の縮小はなく、逆に最外部のメトープの幅が広くなっている。したがって、トリグリフの間隔を均等にして柱の中心を内面へずらして隅部のおさまりを調整する古典的なドーリス式の規範からは外れているという。

第2ヘラ神殿(通称ネプチューン神殿) 前450年頃 床面長さ59.9m
南側面

ギリシア神殿のファサードは東側

第1ヘラ神殿(西側しか写していなかった) 前540年頃 床面幅24.5m
円柱は9本と奇数。柱間は8つで、それが等間隔として、1柱間は3m強。

アテナ神殿のファサード 前510年頃 床面幅14.54m
第1・第2ヘラ神殿から離れたところにあったので、こぢんまりした神殿だなと思ったし、円柱も細く華奢に見える。
立面図(説明パネルより)
ファサードの円柱は6本なので、等間隔として柱間は約2.4mと、第1ヘラ神殿よりも狭いが、円柱が細いので広く見える。

第2ヘラ神殿 前450年頃 床面幅24.3m
立面図
柱間が等間隔として、柱間が4.86mと一番広い。
前5世紀半ばともなれば、技術が向上して、上部構造(エンタブラチュア)の水平石材を長くとれるようになったのだろう。

平面図の比較

第1ヘラ神殿 前540年頃 円柱短辺9本、側面18本 床面24.5X54.27m 貝殻石灰岩
『世界美術大全集3』は、ドーリス式神殿としては異例の平面形式をもっている。正面9本、側面18本という周柱の数は、ドーリス式としては例外的に多いが、個々の円柱は全体の規模からすると比較的小さくつくられている。つまり、建築家は大規模な神殿をつくるに当たって、柱や梁の各部材寸法を大型化する代わりにその数を増やし、柱間を狭くして梁にかかる重量を軽減するとともに施工の合理化をはかったものと考えられる。このことはナオスの中央に列柱を置き、壁体と列柱で全幅を4等分したことにも表れている。
周柱と壁体との間隔が広く、柱間にしておよそ2間分が取られている点は、コルフのアルテミス神殿(前580年頃)からの影響が感じられるという。
柱間を狭くして梁にかかる重量を軽減するというのは、古代エジプトのルクソール、カルナック神殿大列柱室で実感できた。そこでは縦横に円柱が密に並んでいて、大きな広間の開放感は感じられず、前後左右に壁が迫っているような閉塞感があって、帰国後もあれは何だったのかと思い続けて、結局は、当時の技術では、上に渡す梁の長さに制限があるので、たくさんの柱が必要だったのだということが分かった(それを記事にするのを長年忘れていたことに気付いた)。
『PAESTUM』は、内部はプロナオス(前室)が2本の大きな柱に支えられている。主室(ケラ)は中央の列柱で2つの身廊に分割されているという。
なんといってもナオスの中央に列柱があるのが特徴だが、それも重量軽減の工夫だったとは。
周柱と壁面の間を柱廊(ペリスタシス)が巡る。東側が入口で、壁の内側は、前室(プロナオス)、主室(ケラ、ナオス)、後室(オピストドモス)となっている。

アテナ神殿 前510年頃
平面図 円柱短辺6本長辺13本 床面14.54X32.88m 
『世界美術大全集3』は、前6世紀末にアゴラの北側に建てられたドーリス式神殿は、規模はさほど大きくないが、ドーリス式とイオニア式の二つのオーダーを併用した最も初期の例として興味深い。
正面6本側面13本の周柱式であるという。
ファサード(東側、説明パネルの平面図では下)から入ると何と呼ばれていたのか記されていない列柱廊があり、1段上がると壁に囲まれた玄関の間(vestibolo)、奥行のある段が4つ。最後の段は浅く、左右に階段がもうけられている。
ナオス(けら)に入ってすぐに、両側に階段がかる。後室(オピストドモス)はない。

第2ヘラ神殿 前450年頃
平面図(説明パネルより)円柱短辺6本長辺14本  
壁面で囲まれた①前室(プロナオス)の前には2本の円柱、②ナオスとの境界にはアテナ神殿と同じように、両側に階段がある。ナオスと③後室は壁で仕切られているので、背後の2本の円柱側から後室に入ることになる。

上部構造(エンタブラチュア)

第1ヘラ神殿 前540年頃
トリグリフさえ残っていないのが残念。
でも、その上にはアテナ神殿付近で出土したテラコッタの軒飾りのようなものが巡っていたかも。

アテナ神殿 前510年頃
軒飾り(説明パネルより)
隣接の国立考古学博物館に展示されていた。
ライオン頭部の両側にロータス文、それがパルメット文と交互に配されている。
結構立体的に造られていて、樋口として機能していたことを窺わせる。
『世界美術大全集3』は、2層の刳形のみで構成されるコーニスの上に直接ペディメント(破風)が載っているため、レグラやグッタエ、ムトゥルスといったドーリス式固有の建築要素すら欠いているなど、随所にイオニア式からの影響を観察することができるという。
レグラ
2層の刳り形というものが、前6世紀末にはすでにあったのだ。


第2ヘラ神殿 前450年頃
トリグリフとメトープが規則正しく並ぶ上部に突き出ているのは、軒先に木釘で留められた垂木を表した(『世界美術大全集3』より)デルフィのアテナ神殿(前380または330年頃)の遺構でも目にしたグッタエ(露玉装飾)付きの小板(ムトゥルス)。

円柱

第1ヘラ神殿 前540年頃
円柱はずんぐりしたエンタシス。
同書は、切妻の高さは正面の幅によって決まるので、柱頸部がかなりくびれた背の低い円柱の上に大きな三角破風を載せた姿は、かなり押し潰された印象を与えたはずであるという。
下から見上げると、浅いが膨らみのあるアバクスの付け根には表現は妙だが、蓮弁状の刳形が巡っている。その下にも文様があるらしい。

アテナ神殿 前510年頃
アバクスは第1ヘラ神殿の円柱と似て、膨らみのある平たい形。
見上げると、アバクスの付け根には2本の玉縁があり、その間に第1ヘラ神殿のものよりも反りが深い蓮弁状のものが巡る。
説明パネルより
ただし、アテナ神殿には前室に柱列があり、その柱頭は渦巻のあるイオニア式という、例外的なものだった。

第2ヘラ神殿 前450年頃
『PAESTUM』は、円柱は少し細身になったという。
第1ヘラ神殿の柱頭ほどえぐれていない代わりに膨らみもない。
ナオスの列柱の一つは、外側の列柱と同じく3本の線とその下の溝彫り(フルーティング)には下向きの曲線が3本刻まれている。
上階の円柱の柱頭
細く低い柱身だが、装飾は同じ。

ターラント国立考古学博物館 墓の変遷← →パエストゥム国立考古学博物館 画室墓

関連項目
パエストゥム(Paestum) 遺跡
エピダウロス3 考古博物館に神殿の上部構造
ギリシア神殿2 石の柱へ

参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「PAESTUM THE CITY OF THREE TEMPLES」 2016年 VISION S.r.l.
「イラスト資料 世界の建築」 古宇田實・斎藤茂三郎 1996年 マール社