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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2025/12/02

ヤズルカヤの浮彫 有翼日輪と有翼の神


ギャラリーA
説明パネルは、ヤズルカヤ(文字が刻まれた岩)は、ヒッタイトの岩窟聖域として知られている中で最大のもの。この聖域の主要部分は、屋根のない中庭のような部屋Aと、もっと小さな部屋Bで構成されている。両部屋は、ヒッタイトの神殿と同様に大きな建築群によって外部から隔てられていた。
ヤズルカヤの部屋Aは3月の新年祭で重要な役割を果たしていたと考えられている。
大きな入口の門の建物Ⅰから入り、柱廊のある中央の中庭2を通って神殿へ入ったという。


ヤズルカヤの浮彫についてはこちら

ギャラリーA
説明パネルは、毎年春に新年の到来を祝う場所として使われていたと考えられている。聖域の側面には、フルリのパンテオンの神々の高浮彫が施されている。神々はおそらく行列のように二列に並んでおり、右側には女性、左側には男性(2柱を除く)が並んでいる。それぞれの神の名前は、突き出た手の上にルウィ語のヒエログリフで記されている。この二列は、嵐の神テシュプと太陽の女神ヘパトが出会う、後壁のメインシーンに向かっているという。
フルリ人は非印欧語族で、北メソポタミア(アナトリアに近い)にミタンニという国を興した。ミタンニはガラス容器の制作が始まったところとされてきたが、後日のアナトリア文明博物館の見学で、ミタンニよりもヒッタイトの方が早いことが判明した。
それについては後日忘れへんうちににて

その中で、⑨(No.34からNo.39までの神々)に有翼日輪と有翼の神が出現している。


No.34 有翼日輪をのせた太陽神
『Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya』(以下『The Hittite Rock Sanctuary』)は、長いローブと外套をまとい、頭には丸い帽子をかぶった男性像。ヒエログリフの碑文によるとこの像は天界の太陽神。
右手には力の象徴である長い杖(ヒッタイトではカルムシュと呼ばれ、古代ローマのリトゥスに類似すると考えられる)を持っている。同じ杖はトゥドハリヤ大王の描写にも見られるが、この浮彫のみ、下部の巻き枠の中に四角形が描かれている。
伸ばした左腕の下、外套の襞の間から三日月形の剣の柄が突き出ている。
頭上には、広げた一対の翼の間に星のような太陽円盤が浮かんでいる。太陽円盤を含めた人物の高さは0.85mという。
右:ヤズルカヤ ギャラリーA 太陽神のイラスト Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より


また、『The Hittite Rock Sanctuary』は、シュピルリウマ二世によって建てられた「第2室」として知られる建物の後壁には、同様の浮彫が飾られているという。
シュピルリウマ二世は在位前1215-1200年で、ヒッタイト帝国最後の王。
太陽神は頭の上に有翼日輪をのせているが、その上にのっている丸いものは何だろう。
全体に平たい浅浮彫で、例えば有翼日輪の翼にも細かな描写がないことから、未完に終わったようだ。その前にヒッタイト帝国が滅亡してしまったからかも。
ハトゥシャ 上の町第2室の太陽神 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より


ところで有翼日輪は、エジプト新王国時代第18王朝末期の王ツタンカーメン(前14世紀後半)の副葬品に表されていることをかなり以前に記事にしている。
厨子型カノプス櫃 前14世紀後半 アラバスター 高85.5幅54.0㎝ カイロ、エジプト考古博物館蔵
エジプト考古博物館蔵ツタンカーメン王墓出土厨子型カノプス櫃 図説古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝編より

黄金の椅子 木・金箔 高104.0幅53.0奥行64.5㎝ エジプト考古博物館蔵
『図説古代エジプト1  ピラミッドとツタンカーメンの遺宝編』(以下『図説古代エジプト1』)は、ツタンカーメンと妻アンクエスエンアメンの上方から太陽の光が人間の手となって降り注いでいる。これは、父アクエンアテンが太陽神アテンを信仰した名残で、アテンは先端が手の形をした複数の光線をもつ太陽円盤として表されたという。
ここでは有翼日輪ではなく、先端が手の形をした複数の光線をもつ太陽円盤で、その左右に続く文様帯は翼ではない。
エジプト考古博物館蔵ツタンカーメン王墓出土黄金の椅子 図説古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝編より

儀式用の盾 新王国時代 第18王朝 ツタンカーメン治世(前1355-46年頃)木、金 高89.5幅52.0奥行1.0㎝ ルクソール 王家の谷 ツタンカーメン王墓出土
『ツタンカーメン展図録』は、この盾のデザインは、王にはこのような責務を実行するための神的な権力が備わっていることを示している。王は、ここでは、自らを防御するために弱々しく起き上がろうとするヌビア人の敵二人を踏みつける有翼スフィンクスとして表されている。王の翼は、ライオンである王の身体を包み込んでいるという。
エジプト考古学博物館蔵ルクソール 王家の谷ツタンカーメン王墓出土儀式用盾 ツタンカーメン展図録より

同展図録は、スフィンクスは太陽神を表しており、銘文で王は「ヌウト女神(天の女神)の息子の如き力の主、メンチュウ神(戦争の神)の如く猛き者」と称されている。
王の上には、扇にとまったハヤブサが表されている。おそらくこれは、テーベで特に重要な位置を占めていたメンチュウ神を示している。この場面の上には、太陽円盤が翼を広げ、場面の下には異国を象徴する丘が描かれているという。
同時代の上2点よりも翼は自然な描写だ。
エジプト考古学博物館蔵ルクソール 王家の谷ツタンカーメン王墓出土儀式用盾 ツタンカーメン展図録より


寝台に置かれたミイラ形小像 新王国時代 第18王朝 アメンヘテプ三世期(前1410-1372年頃) 石灰岩、木 幅16㎝長さ30㎝ ルクソール王家の谷 イウヤとチュウヤ墓出土
同展図録は、高浮彫で刻まれた腕の下には、人頭の鳥の像がある。これは人のバア、すなわち墓を離れ生者の領域で活動することができる魂の像かもしれない。あるいは、この鳥はイシス女神を表現しているとも考えられるという。
私の妄想かも知れないが、この人頭の鳥から有翼日輪へと変遷していったのではないだろうか。もしそうだとすれば、ツタンカーメンの祖父アメンヘテプ三世期に有翼日輪の元ができたことになる。
エジプト考古学博物館蔵ルクソール 王家の谷 イウヤとチュウヤ墓出土 ツタンカーメン展図録より


有翼の神
No.35 月の神 
『The Hittite Rock Sanctuary』は、角のある尖った帽子をかぶり、短いスカートと長く開いた外套を羽織った髭を生やした男性像。尖った帽子には三日月形のものが取り付けられている。人物の肩からは二つの翼が鋭く伸びている。人物の高さは0.81m。
人物の前面にある三日月形の象形文字と帽子の三日月形のシンボルは、どちらも彼を月の神としている。太陽神の隣に立っているという事実も、この同定を裏付けているという。
ヤズルカヤ ギャラリーA 月の神 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より

サウスカの侍女No.36クリッタとNo.37ニナッタ、少し離れてNo.38サウスカ(シャウシュカ=イシュタル)
サウスカについて『The Hittite Rock Sanctuary』は、角のある尖った帽子をかぶり、短いスカートと開いた長い外套を羽織った男性像。後ろ脚は足首丈のアウタースカートで覆われているように見える。スカートの上部にはギャザーが寄せられ、斜めの襞と短い裾が後ろ側に付いている。肩からは2枚の翼が鋭く伸びている。像高は0.86mという。
サウスカも有翼の神だ。

有翼のシャウシュカと二人の従者のモチーフ
ヤズルカヤ ギャラリーA シャウシュカと侍女ニナータ・クリッタ Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より

同書は、
ヒッタイトの印章指輪にも見られる。ハットゥシャのニシャンテペ西館から出土した印章の模型2点という。
ヤズルカヤではサウスカの前を歩むのはNo.39 エア神だが、印章指輪では神かどうかも明らかではない人物として表され、サウスカと向かい合っている。
ハットゥシャのニシャンテペ西館から出土した印章の模型 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より


有翼の神は背後に大きな翼がある。有翼精霊を拙ブログで調べても、ヒッタイト新王国時代より古いものはなかった。それについてはこちら
ところが、MIHO MUSEUM に有翼神霊坐像(前3千年紀後期-2千年紀初 南または東イランで出土)があった。
そのページはこちら
MIHO MUSEUM 蔵有翼神霊坐像 前3千年紀後期-2千年紀初 メソポタミアの神々と空想動物より


調べ直していると、古い円筒印章にも有翼の神が表されていた。

円筒印章と印影 大神たち アッカド王朝時代(前2330-2150年頃) 出土地不明 緑色岩 3.9×2.6(2.4)㎝ 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、アッカドのパンテオンで上位を占める神々が集う、珍しい画面をもつ印章である。印影上で左から、弓矢を持ち箙を背負う戦いの神、背中から多種の武器をのぞかせる戦いの女神、その足元の山中から半身を現す太陽神、両肩から魚の泳ぐ水流をほとばしらせる水神、二つの顔をもつ水神の随神が描かれている。「アッダ、書記」という銘の下にライオン、水神のそばに驚が見えるという。
背中から多種の武器をのぞかせる戦いの女神に翼がある。
大英博物館蔵円筒印章と印影 大神たち アッカド王朝時代(前2330-2150年頃) 世界美術大全集東洋編16 西アジアより


円筒印章と印影 エタナ王伝説の一場面 アッカド王朝時代 出土地不明 蛇紋岩 4.1×2.7 ㎝ ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵
同書は、エタナは初期王朝時代のキシュの王で、「シュメール王名表」という文献に、「エタナ、羊飼い、天に昇りし人、すべての国々を統合せし人。王となりて1560年間統治せり」と記されている人物である。
王権がいまだ地上になかったとき、羊飼いのエタナがイシュタル女神に見いだされてキシュの王となったが、世継ぎに恵まれなかった。シャマシュ神に日参した彼は、あるとき神の計らいで1羽の鷲を助け、鷲はその返礼にエタナを背中に乗せ、「子宝の草」の生えている天上へ飛び立ったという。
この場面ではイシュタル女神は翼がなく、鷲に乗っている。これのような図柄からイシュタル女神には翼が描かれルようになったのでは。
ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵円筒印章と印影 エタナ王伝説の一場面 アッカド王朝時代(前2330-2150年頃) 世界美術大全集東洋編16 西アジアより

メソポタミアでは有翼の神はイシュタル女神で、ヒッタイトでは男神になっているが、メソポタミアの有翼の神イシュタルの姿がヒッタイトに伝播したとみて良いのでは。


                 →ヤズルカヤの浮彫 主要な神々とヒッタイトの王


関連記事


参考文献
「古代都市Ⅰ ヒッタイトの都ハットゥシャ」 2013年 URANUS
「メソポタミアの神々と空想動物」 MIHO MUSEUM 編 アンソニー・グリーン監修 2012年 山川出版社
「鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」 大村幸弘 1981年 NHKブックス391
「Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya」 Jürgen Seeher 2011年 YAYINLARI
「エジプト考古学博物館所蔵 ツタンカーメン 黄金の秘宝と少年王の真実 展図録」 ザヒ・ハワース博士執筆 2012年 フジテレビジョン 
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 田辺勝美・松島英子 2000年 小学館

参考にしたもの
現地説明パネル

2019/05/28

神像を遡る


せっかくなので、神像について古いものを探すと、

八幡三神坐像 平安時代 東寺蔵
『日本の美術457』は、現存する神像の中で最古例に属するといえるのは、東寺の鎮守八幡宮に伝来した八幡三神坐像である。『東宝記』(南北朝)によると、東寺草創の時に、平安京の鎮護のために八幡神を勧進したが、この時には勧進のみで御神体は安置しなかったという。その後、薬子の変に際し、嵯峨天皇は空海と密談して八幡神に願を立て、成就の後、弘仁年中(810-824)に勧進した。その時影現した八幡三神と武内宿禰を、空海は初め紙形に写し、その後木像に刻んだ。八幡神を僧形の木像として安置したのは当社がその最初である。
本像は八幡神の左右に女神像を配する形式をとるが、八幡神像は剃髪し、衲衣に袈裟をまとい、右足を外に結跏趺坐する。
三軀ともに、頭体幹部を通して針葉樹の一材から彫出するが、いずれも木心部にウロのある材を用いているために、その影響が及んだ面部や胸部、腹部に別材を矧いでいる。そのウロの状態から、これら三軀は同一の木を用いていると見られることは注目され、用材となった木は何らかの由緒をもつ神木や霊木であったと考えられる。 
上瞼を直線的に、下瞼を弧状にした目の形、ややなまめいた表情などは真言密教系の木彫に通じ、乾漆像を思わせる脚部の太い衣文表現なども同様であるという。
神功皇后及び別の女神像 
同書は、女神像は髻を結い、髪を両肩前と背後に振り分けて垂らし、袍衣と背子を着け、右足を外に結跏趺坐する。その坐勢は仏像と共通し、造形化に当たって仏像が参照されたと考えられるという。
『日本の美術18神道美術』は、衣装は唐服、手は左に持物、右に印相を結び、結跏趺坐する姿、彫法や衣文にはやはり当代の仏教彫刻と似かよう点が多いという。
若宮八幡神像 東寺蔵
同書は、やや小さいが、冠をいただき笏を構える裸形の神像、これはもと衣装を着せて奉安するものでそのためにきわめて痩身に造られている。日本の裸形像としては恐らくここらが一番古いものだとみてよかろうという。
 
八幡三神坐像 平安時代・9世紀 木造彩色 奈良薬師寺蔵
『日本の美術457』は、本像は薬師寺の鎮守の八幡神社に祀られているが、当社は寛平年中(889-898)に薬師寺の別当栄紹大法師によって勧進されたと伝える。僧形八幡神像を中央にして、左に神功皇后像、右に仲津姫命を配するという。
『日本の美術18』は、貞観期の一木彫、彩色像で、わが国の神像彫刻としては最古の遺品とみなされるものであるという。

僧形八幡神像 像高38.8㎝ 
『日本の美術457』は、八幡神像は衲衣に袈裟を着け、両腕を屈臂して左手は掌を上に向け、右手は膝の上で掌を伏せて坐す。
彫り自体はやや渋滞が見られるものの、特に八幡神像には翻波や渦文、茶杓形を交えた力強い衣文表現が見られ、奈良の地で培われた木彫の伝統が反映されているように思われるという。
『なら仏像館名品図像』は、仏教に帰依し出家した姿に表され、初期の神仏習合の様相を見せているという。
穏やかな面貌で表されている。
神功皇后像 像高33.9㎝ 奈良薬師寺蔵
『なら仏像館名品図像』は、二軀の女神像は唐風の俗体形という。
『日本の美術457』は、豊かな髪を左右に分け、両腕まで垂らし、さらに頭頂で束ねて背面の腰辺まで垂らしている。大袖の衣と背子、裙を着け、左足を立てて坐しているという。
『日本の美術18』は、装束はいわゆる唐服(唐衣装姿、からぎぬもすがた)である。胸元から垂れた領巾(ひれ)や着衣には、美しい花文の彩色もみえる花やかな彫像だが、やはり容貌にはいかつい森厳さをたたえる。
神社建築の整備にともなって、以後の神社儀礼には全く宮廷的な要素を濃くしてくる。神像そのものが、こうした影響の中からまず生まれ発達をとげるに至ったわけだから、おのずと神像にはその時代の風俗を反映しているものが多いわけである。薬師寺の女神たちも、そうした時代の風俗を示すものにほかならないという。
仲津姫命像 像高36.8㎝ 奈良薬師寺蔵
同書は、仲津姫命の姿も神功皇后像と同様であるが、右足を穏やかに立てて坐す形とする。東寺の像が三体とも結跏趺坐して整然とした趣があるのに対して、本像ではその坐勢がより自由なものとなっているという。
神功皇后像とは衣装も変え、着衣の文様も丁寧に描かれている。

三神坐像 9世紀 京都松尾大社蔵
『日本の美術457』は、三神像のうち、二軀が男神像であるが、いずれも幞頭冠をかぶり、袍を着け、両手で笏をとって坐すが、その姿は老年相と若年相に区別して表されている。
三軀ともに、脚部を除く頭体幹部を針葉樹の一材から彫出し、内刳りは施していない。いずれの用材にも節が多く、あえてこうした材を使用している背景には、何らかの由緒のある木を伐採した可能性が考えられる。さらに、各像ともに、木心が頭体の中央前寄りを通ることから、いずれも同一の木から木取りされた可能性が指摘されている。
いずれも奥行きと量感のある堂々とした姿を示し、衣文の彫りも深く鋭く表現されている
という。

男神坐像 老年相 像高97.3㎝
菅公のような忿怒の相ではないが、険しい表情をした神である。
『日本の美術18』は、神道宗教の思想には、若宮とか童子神に対するいわば「いのち」のあこがれといった理念がある反面、同時にまた枯淡で東洋的な神仙の姿に迫ろうとする願望をみることができる。翁の仮面が、神の心と姿をそのままに表すと信ぜられているごとく、神道図像の中には枯れきった老境を示す男神の像を多くみいだす。この松尾社男神像の表情にもそうした意味でのマジカルな神秘感が、強烈な現実感とまじりあっているという。
男神坐像 若年相 像高96.4㎝
『日本の美術457』は、『長秋記』長承元年(1132)6月3日条によると、当時、松尾大社の神宮寺に智証大師円珍が造立した御正体があったとこが知られる。本三神像は同社神宮寺伝来といわれており、『長秋記』に語られる円珍造立の御正体に当る可能性が高いと考えられるという。 
女神坐像 像高87.6㎝
同書は、頭髪を両腕前と背面に振り分けて垂らし、大袖の衣と背子、領巾、裙を着け、両手で持物をとって坐す姿に表されるという。
『日本の美術18』は、日本でも古代の土偶は豊満な女性像をかたどって、原始的な生産神としてきたし、埴輪の世界でも巫女のような神秘な女性像が製作されている。こういう思想がやがて神道宗教の世界における比咩神(比売神・姫神)信仰へと発展する。この松尾社女神像の表情には、ミステリヤスな神道像と重厚な密教像とのかさなりあいが見られる。9世紀なかばの作品という。

奈良国立博物館の本館、現なら仏像館名品館では男女神像が展示されていて、なんとなく斜に構えた神さんに見えて、行く度に興味深く眺めたものだった。

男女神坐像 平安時代(12世紀) 奈良国立博物館蔵
『なら仏像館名品図像』は、一対の男女神像で、ともに針葉樹(ヒノキか)の一木造。
奈良時代に出現した神像は平安時代に定着したが、多くが正面向きに威儀を正す様に表されるのに対し、この二像は顔を横に向ける動きのある個性的な姿を示すという。

男神像 像高40.0㎝
同書は、男神像は袖先を別材製とする(亡失)。袍を着し、笏(亡失)を握る官人の姿で、風貌は壮年のそれであるという。
斜め向きで、忿怒とまでは言えないが、不満そうに口をゆがめ、目を見開いている。衣装は違うが、天神像に繋がる表情のようにも見えるのだが・・・
女神像 像高38.9㎝
同書は、女神像は和装の姿、左手は袖の中に入れ、右手で垂髪をまさぐるかのようなポーズを見せる。福々しい頬が印象的という。
顔は福々しいが、口は尖っている。
年月を経て風化した木の年輪が浮き出て、左肩は衣文線が並んでいるかのような凹凸を見せる。

   北野天満宮展 束帯天神像は忿怒相←  
                →明恵の夢と高山寺展 善財童子は善知識を訪れる

参考文献
「日本の美術457 平安時代前期の彫刻」 岩佐光晴 2004年 至文堂
「日本の美術18 神道美術」 景山春樹 1967年 至文堂
「なら仏像館 名品図録」 2010年 奈良国立博物館

2019/05/24

北野天満宮展 束帯天神像は忿怒相


菅原道真は日本では初めて神格化された人物である。
『日本の美術479』は、奈良時代末に始まるとされる神像が、その神性を表現するのに人間の姿を借りたのは仏像の影響といわれるけれど、八幡神をはじめ祖先神・地域神などどれも特定の人物をあらわすことはなかった。神のあるべき姿としてのきまりごとはあったにせよ、具体的に誰それを髣髴させるのでなく、個々の具象を捨てた抽象的なものでよかったのである。そのような初期神像の行われたのは8世紀末から9世紀全般にかけてであったが、その最終段階に位置する熊野速玉大社神像も、祖先神らしい威厳をもちながら特定の個人を表現したとはいえない。
故人を恐れうやまうのは誰にでも自然な感情であろうが、それを国家や氏族レベルで行うとなると、廟が建てられそこに奉祀される対象が必要になる。本格的な礼拝対象となった初期の例として菅原道真を考えてみよう。

菅原道真(845-903)は宇田・醍醐天皇に重用された官吏だが、延喜元年(901)藤原時平の中傷のため太宰府に左遷され、そこで没した。しかし同9年、時平が39歳で急死、延長元年(923)保明親王が夭折し、さらに延長8年(930)に宮中清涼殿に落雷、病に臥した醍醐天皇もまもなく崩御する。それらのできごとは道真の怨霊のしわざとみなされ、恐れられた。やがて天慶5年(942)右京七条に住む多治比奇子(あやこ、文子)に道真の託宣があり、また同9年または10年、近江国比良宮の禰宜神良種の子太郎丸にも同様の託宣があり、それをうけて10年、北野の右近馬場に天満宮が創設された。
太郎丸にあった託宣は、「我が像を作りて、笏は我昔もちたりしあり、それを取らしめよと仰給なり」とあり(『北野天神御神託記文』)、生前使っていた笏を執る像容が求められたものであった。当然これは彫像のはずであり、その姿は、北野宮曼荼羅図(北野天満宮蔵、室町時代)の本殿内に描かれた、笏の上下を手で執る束帯姿の道真像に近いものだったと想像される。後世いうところの怒天神である。つまりここに、神格化された故人をまつる神社、およびその神体として近過去の人物肖像が出現したのである。これを肖像と呼ぶのに異論もあろうが、対看写照にもとづく写実的な肖像ではなく、特定の個人でありながら神威をも備えるという意味での肖像であるという。
現存最古の天神像は鎌倉時代のもの。

束帯天神像 根本御影 鎌倉時代(13世紀) 縦84.3横34.3㎝ 絹本著色 北野天満宮蔵
『北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録』(以下『天神さんの源流展図録』)は、彫像や絵像で天神の姿を表現することは平安期に始まるとみられるが(『扶桑略記』天慶4年所収『道真上人冥途記』など)、その出現の契機や時期は明らかでない。ただし遅くとも鎌倉初期には絵像の存在が記録され(『明月記』元仁2年3月4日条)、貴族社会における主要な社の一柱として天神像が比較的早くから図像化された可能性はある。
根本御影は、着用する束帯が古様な萎装束である点で、平安期に祖本が成立した「板絵神像」(薬師寺)などとの表現の類似が指摘される。吊り上がった眉や歯を覗かせて開口する表情は説話に基づく忿怒相の表現で、天神ならではの表象として、後世に広く踏襲されたという。
現在は学問の神さんと親しまれているが、鎌倉時代ではまだこんな忿怒相として描かれてた。 

竜田明神画像 鎌倉時代永仁3年(1295) 南都絵所堯𠑊(ぎょうごん)筆 薬師寺蔵
『日本の美術18』は、南都薬師寺の鎮守として有名な、休が丘八幡宮の社殿にかかげられていた板絵着色神像画の一つ。永仁3年に、古くからあった障子絵に基づいてこの板絵を作ったと、裏銘に書いてある。竜田明神は四脚の床座にすわり、背後には美しい紅葉を描いた障屏を立て、少し剥落してはいるが立涌文様、うす色の袍をつけるまことにおだやかな貴紳の姿。一個の大和絵肖像画としても優れた作品であるという。
着衣や笏・刀などの描き方は共通するが、顔は穏やか。天神像の怒りをあらわにした表情は特異なものだ。

北野天神縁起絵巻 承久本 天拝山 鎌倉時代(13世紀) 北野天満宮蔵
『天神さんの源流展図録』は、筑紫において道真公は、自らが潔白であるという祭文を作り高山に登り、7日間にわたって無実を訴えた。すると祭文は天高く舞い上がり、祈りが通じ、道真公は「天満大自在天神」となったという。
鎌倉時代には、道真公が生前に神となったとされていたようだ。こちらは菅公の表情まで読み取れない。

その後も天神像は描き続けられ、正面向きの立像なども多く描かれた。同展でも数点展示されていたが、

北野曼荼羅 室町時代(15世紀) 縦125.8横73.3㎝ 絹本著色 京都 北野天満宮蔵
同展図録は、室町時代の北野社社頭・境内の景観を描いた作例として確かに北野社の絵図ではあるが、本殿内の束帯天神像が他を圧して描かれ、また画面上部の天上に円相内五尊(不動明王・釈迦金輪・薬師如来・愛染明王・慈恵大師)があるのも、いわゆる垂迹曼荼羅型の図であり「北野曼荼羅」と呼称されるにふさわしい。本殿とそれを囲む廻廊を画面やや上方中心に置き、その向かって右には法花堂や大塔・鐘楼など仏教に関わる建物が描かれるが、左には毘沙門堂や朝日寺もあって、当時の神仏習合の社頭の様子が丁寧に描かれるという。
当時北野天満宮には多宝塔もあったのだ。
この面貌は忿怒相なのだろうか、正面を見据え、笏を両手を上下にして持つ。
室町時代ともなると、菅公は学問の神さんになっていたかな。

北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金← →神像を遡る

参考文献
「北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録」 2019年 京都文化博物館
「日本の美術479 十世紀の仏像」 伊東史朗 2006年 至文堂