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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2013/11/22

第65回正倉院展6 続疎らな魚々子



正倉院には精緻な魚々子を施した器が伝わっており、珠に正倉院展に出陳される。

銀壺(銀の壺) 正倉院南倉 口径42.2胴径61.9壺高43.0(台は別) 第62回(2010年)
『第62回正倉院展目録』は、表面には鏨で文様を線彫りし、文様と文様の間には細かな魚々子を打っている。文様は、12人の騎馬人物が羊や鹿、カモシカ、猪、兎などを追って山野を駆けめぐる狩猟図で、器面全体にそれが雄大な広がりをみせる。口縁と底部付近には葡萄唐草の文様帯を廻らせて、狩猟図の天地を引き締めている。受け台にも野原を疾駆する騎馬人物や獅子、虎、飛鳥や蝶、さらには有翼馬の姿も表されているという。 
これだけ拡大してもわからない程に小さな魚々子が、びっしりと横に並んでいる。

金銀山水八卦背八角鏡 きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう 長径40.7短径38.56重7483 南倉
『第58回正倉院展目録』は、文様および銘文は細かい蹴彫で表し、鈕の周囲を除く文様部分に鍍金を施した後、間地を魚々子で埋めている。中国・唐時代の銀貼鏡は、通常文様を打ち出すが、本品は線刻に留める点に特色があるという。
円形のため、厳密には同心円状ということになるだろうが、横に密に魚々子が打たれている。

その点、金銅六曲花形坏は細工そのものがまだ未熟で、魚々子もまばらだった。


金銅六曲花形坏 こんどうのろっきょくはながたはい 口径8.3高4.1重67.9 南倉
『第65回正倉院展目録』は、銅板を鍛造して6弁の花形をかたどり、鍍金を施した小さな鋺。底には鑞付でやや低い高台を接合する。各花弁は外縁に稜を設け、外縁から底にかけて花弁の中央を通るように稜線を打ち出して6曲面を作る。各花弁の間には猪目を透かして花弁の形を明確にする。外面と底裏には草花や天人を毛彫りし、間地をややまばらな魚々子で埋めているという。
拡大図を見ると、魚々子の円に深いところと浅い箇所があったり、円が切れているものもあり、奈良時代の日本では、まだ魚々子を打つ技術が習熟できていなかったことがわかる。

投壺 とうこ 高31.0胴径21.7 中倉
同書は、壺に矢を投げ入れる投壺と呼ばれる遊戯に用いられた、銅製、鍍金の壺。張り出しの大きな下ぶくれの胴部に円筒形の頸を載せ、頸には中が貫通した円筒形の耳を両側に付けている。胴・頸及び高台は一材で、鋳造後に轆轤で成形し、頸に孔を開け別に鋳造した両耳を通し、かしめ留めしている。外面は全面に線刻による文様が施され、地文は魚々子を打ち並べている。頸は素文帯で上中下の3区に分け、上区は瑞雲を伴い走る2頭の獅子、中区は山間の樹下にいる高士、下区は唐草文を表す。胴部は中央に頸の下区と同様の唐草文帯をめぐらし上下2区に分け、上下区とも花卉・飛鳥・花喰鳥・蝶・瑞雲を表している。両耳も同様の意匠である。高台は山岳を表している。線刻技法は毛彫であり、魚々子の打ち方は疎密があり、正円ではなくC字状に打たれている箇所も多く見られる。このような特徴は奈良時代の作と考えられる金銅灌仏盤(奈良・東大寺蔵)、金銅獅子唐草文鉢(岐阜・護国之寺所蔵)にも共通するという。
照明を落とした館内で黒っぽい壺を見ても、このような文様は全くわからなかった。
結局は目録で確かめることになる。
会場では、胴部の唐草文がかすかに判別できた。
魚々子もまばら。唐草の茎も太いところや細い箇所などがあるが、パターン化していない勢いも感じられる。

斑犀把金銀鞘刀子 はんさいのつかきんぎんさやのとうす 全長17.5把長7.6鞘長12.8身長7.1茎長3.8 中倉
同書は、刀子は小型の刀で、紙を切ったり、木簡などの表面を削ったり、文字を摺り消したりするのに使用された。文房具として実用に供されたほか、貴顕の間では象牙や犀角、沈香などの珍材を用いて鞘や把を華麗に装飾し、腰帯から組紐で下げて装身具とすることも行われた。宝庫には、中倉を中心に67口の刀子が伝存しており、その多くは天平勝宝4年(752)の大仏開眼会などの折に、貴顕により東大寺に献納された品と見られる。
本品は、宝庫に11組伝わる2口一対の刀子のひとつ。把には飴色を呈した斑の犀角を使用し、把縁に銀製鍍金の金具を取り付ける。木胎に銀製鍍金の薄板を巻いた鞘には、唐草文様を毛彫し、間地に細かな魚々子を施す。鞘尻と帯執にも銀製鍍金の金具を取り付ける。犀角の微妙な色の濃淡の変化が美しく、鞘を飾る精巧な毛彫にはすぐれた彫金技術が見て取れるという。
ここにも円形になっていない(C字形というらしい)魚々子が見られる。

昨年の第64回正倉院展では密でない魚々子が目に付いたが、今年も幾つかの作品で同じような魚々子地を見付けた。
第64回の記事はこちら
しかし、唐の完璧な魚々子地よりも、このような疎らな方が味わいがあって見飽きない。

第65回正倉院展5 六曲花形坏の角に天人 ←   →第65回正倉院展7 花角の鹿

関連項目
第62回正倉院展4 大きな銀壺にパルティアンショット
第五十八回正倉院展の鏡の魚々子はすごい
第65回正倉院展4 華麗な暈繝
第65回正倉院展3 今年は花喰鳥や含綬鳥が多く華やか
第65回正倉院展2 漆金薄絵盤(香印座)に迦陵頻伽
第65回正倉院展1 樹木の下に対獣文

※参考文献
「第62回正倉院展目録」 奈良国立博物館監修 2010年 財団法人仏教美術協会
「第58回正倉院展目録」 奈良国立博物館編集 2006年 奈良国立博物館
「第65回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2013年 仏教美術協会

2013/11/19

第65回正倉院展5 六曲花形坏の角に天人



小さな作品なのに気になるものの一つがこの六曲花形坏だ。

金銅六曲花形坏 こんどうのろっきょくはながたはい 口径8.3高4.1重67.9 南倉

『第65回正倉院展目録』は、銅板を鍛造して6弁の花形をかたどり、鍍金を施した小さな鋺。底には鑞付でやや低い高台を接合する。各花弁は外縁に稜を設け、外縁から底にかけて花弁の中央を通るように稜線を打ち出して6曲面を作る。各花弁の間には猪目を透かして花弁の形を明確にする。外面と底裏には草花や天人を毛彫りし、間地をややまばらな魚々子で埋めている。
また、中央を凹ませて2段とする高台は各段に連珠文帯をめぐらす。
工夫を凝らした形に加えて、全体に非常に精緻な装飾を施した作品である。なお、口縁近くに猪目を透かしていることを考慮すると飲用具とは別の容器とも思われるという。
確かにこの器で飲むということは難しそうだ。稜のところから飲んでも猪目からこぼれそう。
2段の高台に魚々子がそれぞれ一巡しているが、疎らなために連珠文とは思わなかった。
確かに、魚々子による連珠文というのはあった。しかも、北魏時代の仏像に。
底裏には八弁花文とそこから派生する8本の花枝を刻んでいるという。
これだけ大きくしても中央に刻まれているという八弁花文はよくわからない。

外面の線刻は、各花弁に花樹を表し、樹上の花座に坐して簫・琴・鼓・笙・琵琶・横笛を奏でる天人を稜線が中央に来るように配しているという。

簫
排簫と呼ばれる竹の管を横に繋いだ楽器を両手で持っているのだろうが、その管が並んでいるようには表されていない。
単に楽人に見えたが、天衣をつけ、蓮台に乗っている。
左右対称だが、ひびとそこから出た緑青のために、やや斜めを向いているように見える。
琴
どんな顔か全くわからない。琴の弦も見えない。
鼓
鼓の縁に魚々子がびっしり並んでいるが、腕はどうなっているのだろう。
笙
笙を両手でもっている。
琵琶
顔は全くわからない。
敦煌莫高窟第285窟本尊の龕楣では四弦も五弦もこのように右手を琵琶の下に回して弾いている。
横笛
何となく目を細めて笛を吹いているように見える。

稜の部分に楽人がいるので、見にくいことこの上ない。何故こんな彫るのも難しい部分にわざわざ人を配置したのだろう。
そう思いながら、稜部の毛彫や魚々子を見ていくと、途切れがない。それに、こんなに疎らな魚々子地しかつくれない時期に、稜部に魚々子を打つことができたのだろうか。
そんな風に見ていると、毛彫や魚々子の作業を終了した後に、人物が稜の中央にくるように6弁に仕上げたのではないかと思うようになった。


第65回正倉院展4 華麗な暈繝←       →第65回正倉院展6 続疎らな魚々子

関連項目
第64回正倉院展7 疎らな魚々子
日本の魚々子の変遷 
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
第65回正倉院展7 花角の鹿
第65回正倉院展3 今年は花喰鳥や含綬鳥が多く華やか
第65回正倉院展2 漆金薄絵盤(香印座)に迦陵頻伽
第65回正倉院展1 樹木の下に対獣文

※参考文献
「第65回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2013年 仏教美術協会

2013/05/21

X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇



ボストン美術館所蔵の法華堂根本曼荼羅図は8世紀の貴重な仏画である。その中の菩薩に数珠のX状瓔珞があるのを見付けた。
それは、日本では飛鳥時代にのみ見られるもので、奈良時代に入るとなくなってしまったようだ。
それについてはこちら

菩薩坐像 法華堂根本曼荼羅図うち 8世紀 ボストン美術館蔵
数珠状の瓔珞が、腹部腹部の金具部分で交差し、それが脚部に垂れている。それが平安仏画のように平面的ではなく、膨らみの感じられる脚に添っている様子がよく表現されている。
では、この菩薩のX字形の数珠状瓔珞は何を手本にして描かれたのだろう。X字状に交差するものを中国の仏像に見ていくと、

青銅菩薩倚像 高12.3㎝ 北魏時代(386-534年) 浜松市美術館蔵
『中国の金銅仏展図録』は、三弁冠を頂き太目の冠帯を張り出させ、天衣を肩で幅広とし、その先を両脇に張り出させて、広がった裳裾の端と接するという。
北魏だけでは時代に幅があり過ぎるが、着衣の左右対称性や細身の点から、後半の作品と思われる。
天衣がX字状に交差しているのが、その後のX字形瓔珞へと発展していったのではないかと思わせる。
また、小さな挙身光の縁、その中の頭光らしき枠、冠帯、そして裙には等間隔で魚々子による連珠文が連なっている。殊に、天衣は襟側から細くなって先端まで連珠文が続いていて、後の数珠状のX字形瓔珞の原型にも思える。
金銅菩薩立像 高24.0㎝ 北魏時代、太和8年(484) 個人蔵
同展図録は、宝髻の根元に回した紐の先が後方で誇張されて翻るのは、古代イラン王が頭部のディアデム(冠帯)を翻すに由来するか?ガンダーラの石像菩薩像にも見える。五胡時代の菩薩像とは瓔珞や天衣の形も大きく変わったという。
天衣は肩の外側を巡って腕に掛かる。
X字形瓔珞はそれ自体別にあるのだが、腹前で交差した瓔珞はそれ以上垂下せず、裙の腰の位置で後ろに回っているらしい。
ササン朝ペルシアの王の翻る冠帯の図はこちら

金銅観音菩薩立像 高27.5㎝ 北魏正光2年(521) 静嘉堂文庫美術館蔵
『金銅仏展図録』は、通肩の大衣をまとい、その上に円形装飾を中心にX字状に交差する瓔珞をつける。下半身では膝のあたりで天衣がX字状に交差し、その下には裳の襞を装飾的に表す。裳・天衣・瓔珞は重なり合って重厚な表現をみせ、また肘と裾で左右に翻る天衣も心地よいリズムを奏でている。
本像は重厚な着衣表現に重点を置いた北魏後期様式の典型的な作例であるという。
数珠状の瓔珞は大きな円形の飾りの箇所でX字状に交差し、その下で天衣もX字状に交差している。

菩薩立像 北魏-東魏(6世紀) 石灰石・彩色 像高97.2cm 博興県崇徳村龍華寺遺跡出土 山東省蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、両肩に懸かる先端がカールする垂髪、腹前でX字状に交差する天衣、下腹を少し前に突き出すように立つ姿勢など、北魏後期様式を基本としている。また、瓔珞中央の大きな半球形飾りや珊瑚形、蝉形の飾り  ・・略・・という。
MIHO MUSEUMに所蔵されていた頃は「蝉の菩薩」などと通称されていた。

この菩薩立像にまつわる話はこちら
天衣と瓔珞がほぼ重なって腹前でX字状に交差している。
どの仏像で見たのかもう忘れてしまったが、天衣または瓔珞が円形の輪っかを通っているのが明瞭に表現された仏像があるので、元はそのような役割を持つ飾りだった。
それが、段々装飾的になって、この作品ではもはや金具を通らず、半球形飾りに珠状の金具で数珠状瓔珞が取り付けられているように表されている。
法華堂根本曼荼羅図の菩薩坐像(最初の画像)も中央の円形飾りに突起を4つ付け、そこに数珠状瓔珞が取り付けられてX字形になっている。
瓔珞も途中で珊瑚形、蝉形の飾りといわれる飾りが等間隔に挟まれているので、その一つ一つが複数の数珠を束ねてトウモロコシのように見える。
山東省の仏像にみられるX字状に交差する瓔珞や天衣についてはこちら

観音菩薩立像 菩薩三尊像うち 56.8㎝ 東魏時代、武定7年(549) 大阪市立美術館蔵(山口コレクション)
『中国の石仏 荘厳なる祈り展図録』は、太行山脈の東麓、河北一帯で盛行した白玉造像の一つ。冠繒の結び目や各部の衣文を花弁形に整え、長く垂れる天衣を雲気状に表すなど、着衣は浅く鎬をたてた彫法で装飾を凝らすという。
数珠状の瓔珞は着けていないが、天衣が腹前でX字状に交差している。
やっと天衣をくぐらせる輪っかがでてきた。X字形瓔珞、あるいは天衣は北魏時代からあるので、このように長いものを通して固定する器具というのは例外的なものだったのか。
それについては後日。 
金銅菩薩立像 高18.2㎝ 北斉時代武平5年(574) 個人蔵
『中国の金銅仏展図録』は、垂髪を両肩下に魚鰭状に表し、太い瓔珞をつける。瓔珞の交叉する部分にメダイヨンをつけることも幾つかの例に見た。北魏様式を残す魏斉様と呼ばれるものであるという。
肩に懸かる天衣は両側に張り出して袖のように見える。そのまま腕の内側を通り脚部の両側に複雑な軌跡を描いて垂れている。

数珠状瓔珞のみがX字状に交差している。
菩薩像残欠 漢白玉・金箔 現状高83.0㎝ 北斉時代(550-577) 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、天衣を腹上で結んでX字状に交差し、  ・・略・・ ことを除けば、瓔珞が腹前の環状飾りでX字状に交差しているのも伝統的であるという。 
同じ北斉時代の菩薩像でも、武平5年銘像とは全くことなった装飾的な様式のものもある。

トウモロコシ状の数珠とその繋ぎ目にいろんなものが挟まる装飾的な瓔珞は、北魏-東魏-北斉と受け継がれたようだ。
この像は裳の裾に截金による亀甲繋文が残っている。
それについてはこちら

金銅菩薩立像 高65.0㎝ 北周(557-581) 東京藝術大学美術館蔵
『金銅仏展図録』は、左右に大きく翻る天衣、下裳の繁雑な衣襞の表現は北魏後期の伝統を引くが、全体を覆う瓔珞の華麗な表現や随所に見られる立体表現への志向に新時代の造形感覚が顕著に見られる作品であるという。
瓔珞は複雑な形が間に入ってもはや数珠状とは言えなくなり、また、あちこちで枝分かれしてX字状でもなくなっているが、大きく見れば腹部の飾り部分でX字状に交差している。
あまりにも華麗な雰囲気のため、この作品は隋時代のものだとばかり思っていた。たまには解説を読んで間違いを正さねば。

体の両側に長く垂下する天衣を除けば、龍華寺遺跡出土の蝉の菩薩とよく似ている。北周が北斉を滅ぼした後の山東省で制作されたのだろうか。
菩薩立像 銅製 像高36.6㎝ 隋時代(581-618) 山東省博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、円形肩飾りから下がっているように見える瓔珞は、腹前の円形飾りでX字状に交差しているが、ここには円形の飾りとともに、古風な珊瑚形と蝶形の飾りが見えている。天衣は両肩を覆い、肘上で小さな張りを見せながら、裳の縁辺りで結ばれてX字状に交差しており、膝下で反転して両手の前膊に懸かり、長く蓮肉下まで外側を垂下しているという。
小像のためか、北斉や北周期の仏像よりも簡素なつくりの菩薩である。

頭光の立体的な装飾がなければ、隋時代の仏像とは思わないだろう。
円形飾りは平たい板の中央に高い突起がある。
その後に数珠状のX字形瓔珞をつけている菩薩像といえば、8世紀末の龍門石窟のものになる。

救苦観世音菩薩銘龕立像 高2.3m 中唐貞元7年(791) 龍門石窟
『中国の仏教美術』は、腰を右に傾け、前後の厚み、左右の幅といった量感の点で申し分ないが、肉付けに抑揚がなく、全体に膨張しているような体で緊張感がない。彫刻として一頂点を過ぎた、中唐様式というものを理解することができるという。
数珠状の瓔珞はどこに垂下しているのか、その上に天衣が2本体に密着しているので、途中で消えてしまったような感じだ。

円形飾りも数珠状となっている。
とりあえず、数珠状のX字形瓔珞は、中国では8世紀末までは存続していたことはわかった。
つづく

関連項目

X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
新羅石仏の気になる着衣を山東省に探す
MIHO MUSEUMの山東省の仏像展は蝉の菩薩の見納めか
中国・山東省の仏像展で新発見の截金は
敦煌莫高窟9 285窟に南朝の影響


※参考文献
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館 
「金銅仏-東アジア仏教美術の精華展図録」 2002年 泉屋博古館
「中国・山東省の仏像-飛鳥仏の面影展図録」 2007年 MIHO MUSEUM
「中国の仏教美術 後漢代から元代まで」 久野美樹 1999年 東信堂

「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版

2012/11/30

日本の魚々子の変遷 


正倉院宝物で唐から請来した器の魚々子は細かく精緻に打たれていたが、日本制作と思われるものは魚々子が疎らだった。
それについてはこちら

正倉院宝物以外にも魚々子地のものがある。

舟形光背表面 東大寺二月堂  
『日本の美術330飛天と神仙』は、二月堂本尊の金銅十一面観音(聖観音ともいわれる)立像(秘仏)に付属していたものとされ、その制作は天平宝字期(8世紀後半)といわれているという。
魚々子は唐の優品のように横に整然と並んでいるわけではないが、魚々子がびっしりと穿たれ、隙間がなくなっている。
おそらく工人の技術が向上した結果だろうが、これが8世紀後半に制作されたものということで、魚々子の年代判定の基準となるものだ。他に同時期に作られたものは東大寺に多い。

飛天 金銅八角燈籠中台側面 東大寺大仏殿 8世紀後半
『日本の美術330飛天と神仙』は、大仏殿正面に据えられている八角燈籠は開眼供養時頃の遺品とみられている。燈籠中台側面に、宝相華に混じって飛翔する天人像が表されている。魚々子地に線刻された姿は片手に華盤を持ち散華するさまを表現しており、片膝を曲げて飛遊するかたちは法隆寺金堂壁画像を想起させるという。
飛天そのものはよくわからないが、間地は魚々子でびっしりと埋まっている。大仏の開眼供養は天平勝宝4年(752)なので、二月堂本尊の舟形光背と同時期に制作されたものだろう。
銀鍍金狩猟文小壺  東大寺金堂鎮壇具 8世紀
総高4.5
『日本の美術437飾金具』は、騎馬人物が鹿を追う狩猟文様は唐の金銀器にしばしば見るものだが、細部表現に省略が見られ、間地の魚々子も密度が少々粗いことから日本製とされている。しかし、唐代金銀器も圧倒的に細密な彫金を行うのは唐前半期のもので、8世紀頃から、やはり粗い彫金ものが目につきだす。したがって東大寺銀壺の制作地の彼我を、彫金作風のみで決めるのは難しい。むしろ、宝冠や正倉院南倉の磬形に見る魚々子地唐草も考え合わせ、8世紀半ばにあって、日本の金工工房も中国工房と大差ない作行を持ち得ていたことの方が重要であろう。天平勝宝6年、唐僧鑑真が仏具を携え工人を従えて来朝し、盛唐後期の美術を伝えた、との三宅久雄氏の指摘がある。そのような事態が断続的に生起したと考える方が、古代日本の工芸の推移を説明しやすいと思う。
日本の飾金具の歴史の中で、上に見た品々が、第一の盛期をなすことの意味背景はここにあるという。
正倉院南倉の磬形(部分)はこちら
鑑真さんは、翻波式衣文と塊量感のある体軀が特徴で、貞観仏とも呼ばれる平安前期の仏像へと繋がる造像様式を伝えているが、密に並ぶ魚々子もまた日本に伝えていたのだ。
それについてはこちら
矩形唐草紋金具 薬師寺 
こちらの矩形金具は時代が記されていないが、魚々子の並び方から見て、上の3点及び正倉院南倉の磬形金具などと近い時期に制作されたものだろう。
その点、正倉院南倉に収蔵されてきた金属器で魚々子のまばらなものは、これらよりも以前に作られたと思われる。
たとえば、金銅小盤など。
では、それらが正倉院に献納された時期は何時頃だろう。
『第64回正倉院展目録』は、天平勝宝8歳(756)5月2日、聖武天皇は56歳で亡くなった。七七日の6月21日、光明皇后は聖武天皇が大切にしていた六百数十点の品々と六十種の薬を東大寺の大仏に献納した。これが正倉院宝物の始まりである。
南倉には東大寺の宝物が納められている。天暦4年(950)には東大寺羂索院双倉の納物が南倉に移された。永久5年(1117)には白河法皇の命によって南倉宝物の点検がおこなわれ、点検記録「綱封蔵見在納物勘検注文」が作成された。これによると天平勝宝4年(752)の大仏開眼会をはじめとする法会で使用された仏具類が多い。大仏開眼会の関連品は、光明皇后の献納以前から南倉に納められていたと考えられているという。
南倉には、大仏の開眼供養や聖武天皇の遺品だけが所蔵されていたのではなく、収蔵された時代もばらばらだ。

そして、疎らな魚々子は何時頃、何処で制作されたのか。
唐の魚々子が緻密なものであるとしても、その初期のものには、日本や百済などと同じように疎らな魚々子地がある。

青銅鍍金走獣文珌 隋~唐初(7世紀、隋は581-618年) 
高5.2㎝幅7.2㎝  
まばらに魚々子が刻まれている。
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、魚々子は全体は方形で、方形のなかに円い魚々子がある。主文の走獣の形式から隋あるいは唐時代初期と判断できるが、魚々子を打った例としてはきわめて早い1点であるという。
確かに獣より前方の魚々子は丸いものが目立つが、腹部の下は方形の魚々子が多く見られる。魚々子の最初期は丸だけでなく、方形の魚々子があったのは興味深い。 
それだけでなく、百済や日本で制作されたもの同様、魚々子は疎らに打たれている。 
韓半島でも制作年代のわかる魚々子地の作品がある。

金銅製舎利外壺 弥勒寺西九重石塔発見 639年頃
『第64回正倉院展目録』は、弥勒寺址西九重石塔の舎利荘厳具には金製舎利奉安記があり、これより弥勒寺は百済王后佐平沙宅積徳の女を施主として伽藍が造営され、639年に舎利を奉迎したことが見えることから、金銅製舎利外壺もそれに合わせて製作されたと考えることができるという。
方形の魚々子は見当たらないものの、魚々子が疎らに彫られていることがわくわかる。
隋末唐初の魚々子誕生の時からさほど隔たらない頃に、百済に魚々子の技術が伝播されたのだろう。
日本でも制作時期が判明している貴重な作品もある。

飛天 銅板法華説法図 天武14年(686) 奈良・長谷寺
『日本の美術330飛天と神仙』は、銅板法華説法図は、天武14年(686)作とする説が有力であるが、この下縁に奏楽する天人坐像が表されている。略画風の線刻ながら、横笛・簫・琵琶や種々の鼓を奏でる天人像の表現は龍門初唐期の万仏洞などに類例があり、のちに隆盛をみる奏楽菩薩像の先駆としても注目されるという。 
魚々子地については記述がないが、かなり疎らで、日本で作られた魚々子地の最初期のものとみなして良いだろう。
この作品は日本で制作されたものとされているが、そのためには、当時魚々子を打つ技術のある渡来人や魚々子の彫られた請来品が不可欠だっただろう。
この頃に日本に魚々子の技術を伝えたのは、隋または唐だろうか、それとも百済だろうか。

関連項目
第64回正倉院展7 疎らな魚々子
第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?
第64回正倉院展5 今年は怪獣が多い
第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか
第62回正倉院展4 大きな銀壺にパルティアンショット
日本に金銀山水八卦背八角鏡より古い魚々子地があった
魚々子の起源は金粒細工か
中国の魚々子と正倉院蔵金銀八角鏡の魚々子
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「第56回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2004年 奈良国立博物館
「第37回正倉院展目録」 奈良国立博物館 1985年 奈良国立博物館
「日本の美術330 飛天と神仙」 林温 1993年 至文堂
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「日本の美術437 飾金具」 久保智康 2002年 至文堂
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 百橋明穂・中野徹 1997年 小学館

2012/06/29

10世紀の魚々子



唐が滅亡しても各国で魚々子は続いたようだ。魚々子だけではなく唐の文化にあこがれがあったため、唐風の後継者となったらしい。
『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』は、五代の国々は唐の崩壊と混乱のうちに興亡するのであるが、それぞれが前代の文化を吸収することに熱心であった。また、遼の陶器、車馬具、銀器、青銅器に唐の影響を数えはじめたら、きりがない。遼、呉越、前蜀などが受け継いだ唐風はすでに衰えはじめた残映であり、充実しつづける国力と人民の活力が生み出した重層華麗な様式ではなかったが、薄い造りの銀器、もとの形がわからないほどに写し崩れた唐草文様、それらやや脆弱怯懦な形式は、やがて宋時代の繊細かつ鋭敏な、思索的な様式の母胎となるという。

銀鍍金鐙形壺 遼(10世紀) 内モンゴル自治区赤峰市洞後村窖蔵出土 高26.0㎝底長21.0㎝ 赤峰市文物工作站蔵
同書は、唐時代後半の製作技法、文様編成を踏襲しながら、あわせて遊牧民契丹族の生活と民族性、近世の銀器の特性などを一器に体現した遺品である。
中央の菱形の枠の中の鹿と岩山の図も、唐時代後半の吉祥を意味する絵模様を写したものである。浅くまばらな魚々子や細い刻線に現れた鏨使いも、唐時代後半と変わらない。
陶磁器では鶏冠壺と名づけられるこの形は、もともと遊牧狩猟の馬鞍にくくりつけて携行する革袋に由来する。革袋を意匠にした器物は、戦国時代以来、青銅器、陶磁器にしばしば登場するが、それらが流行したのが、いずれも中国が遊牧民と深い交渉を持った時期と一致するところが興味深い。
成形のために銀の板を熔接した痕跡、紐通しの孔にはめこんだ補強の輪の繋ぎ目などに現れた細部にこだわらない作りも北辺の製作の特徴であるという。
では、前回に見た契丹の魚々子は、唐から来た工人の制作だったのだろうか。
銀宝相華文鉢 五代 前蜀(10世紀) 四川省成都市王建墓出土 高8.7㎝径18.5㎝ 四川省博物館蔵
唐時代の末にかけて、経済と政治の衰退に合わせたように銀器は薄造りになり、宋時代には銅をまぜ、なおかつ薄い碗、杯、皿、瓶などが普通になる。薄胎ゆえに魚々子を打ち詰めることがむずかしくなり、刻線も細く、浅くなるという。
土器のような銀器で、魚々子も花文もの中にだけ打たれている。解説通りの造りで、唐風のかけらもない。
金高僧図舎利棺 北宋(10世紀) 河北省静志寺真身舎利塔塔基地宮出土 高4.8㎝長7.7㎝ 定州市博物館蔵
全体は底板、両側板、屋根、前後の板からなり、鎚鍱、鏨彫り、切り抜き、溶接などの技法が使われている。屋根には魚々子地に唐草文が刻まれているという。
舎利容器なのに、台座の格狭間透かしの形も切り方も雑で、屋根の魚々子の打ち方がそれで推し量られる。
これだけの作品で判断するのは強引かも知れないが、「契丹展」に出されていた作品の魚々子は細かく、10世紀前半の東アジア大陸部では、最も技術の高いもののように思われる。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館

2012/06/26

契丹にも魚々子



契丹展で眼にとまったものの一つに魚々子がある。魚々子というのは唐時代の途中で絶えてしまったのだろうと、何となく思っていたが、騎馬遊牧民の契丹にも魚々子による装飾があった。しかも、細かくて、一見点にしか見えないほど細かな魚々子もあった。

鸚鵡牡丹鏡箱、箱蓋裏 通陵市ホルチン左翼後旗トルキ山古墓出土 銀鍍金 10世紀前半 一辺25 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、埋葬者は女性で、着ていた衣服にも太陽と月を表した金銀の牌飾などを縫い付けられ、それもまた左が太陽で右が月である。また、出土した金の頭飾りは現代のダフール族の祈祷師の頭飾りに類似していることから、墓主はシャーマン教の巫女と考えられる。
左右対称性を意識した唐風の図様である。すなわち中央には太湖石を据え、向かって右には、この鏡箱の持ち主であろうか、侍女に囲まれた若き夫婦をあらわす。相対する左には5人編成の楽隊がいる。いずれも唐代宮廷音楽の主要楽器である。契丹の地に唐の音色が響いたであろうことが、本品によって知れるという。

同展の解説では、若夫婦の女性が墓主だろうということだった。服装も埋葬時のものとは異なり唐風で、辺境の遊牧民がいかに唐の進んだ文化に憧れていたかがわかる。
画面上下には水面、欄干や橋脚なども表されているので、川または湖に渡された橋の上で行われた宴らしい。しかし、橋の上のはずなのに、草花が生えているなど、実風景ではなく理想郷を表現しているようだ。
また、左右に人のいる枠を配する図というのは、観無量寿経変の最下段を想起させる。中でも、敦煌莫高窟第148窟東壁南側の観経変の配置がよく似ている。
同図についてはこちら
橋の上に当たる部分には、細かい魚々子が横に密に打たれ、魚々子地はびっしりと隙間がない。果たしてこの作品が契丹人の制作によるものなのだろうか。
獅子文盒 通陵市ホルチン左翼後旗トルキ山古墓出土 銀、鍍金 10世紀前半 高16口径23底径18 内蒙古文物考古研究所蔵
出土時は漆机の上に置かれていた。蓋上面は打ち出しによって2頭の獅子や唐草を配し、間地を魚々子でうめる。器身には、蓋の側面と同様の牡丹唐草を蹴彫であしらい、間地を魚々子でうめる。器身下半は魚々子で波文をあらわす。高台は蹴彫で蓮葉をあしらう。
このような高台をもつ蓮弁形の銀製容器は中唐頃(9世紀後半)からみられ、本品にみる卓越した彫金技法もまた唐時代の金属工芸に通じる高い水準である。契丹国の金銀器はその形態はもとより、技法においても唐との連続性がうかがえることを示す好例であるという。
唐の優れた工人が契丹に招かれ、そこで金工品の制作にあたったのだろうか。
耶律羽之墓からも魚々子の地文のある品が複数出土している。
耶律羽之は契丹迭刺部の人で太祖、太宗に重んじられ、大変な功績を挙げ、東丹国の大臣、上柱国、東京大傳の職についた。
会同4年(941)8月11日に没し、翌年の3月6日に葬られたという。

鳳凰文盤 赤峰市アルホルチン旗耶律羽之墓出土 銀、鍍金 会同5年(942) 高4口径16底径10.2 内蒙古文物考古研究所蔵
見込みに2羽の鳳凰と宝相華唐草を描き、口縁にも宝相華唐草を巡らせる。また、空間を同心円状に魚々子で充填し、側面の内側と、高台縁には蓮弁を配す。
図様の繁縟さ、彫金技法の細やかさ、唐時代の金属器にも見られる同心円状に隙間なく空間を埋める魚々子など、精緻で古様な造りを示すという。
古様と言われると、唐時代に請来されたものだろうか。それとも羽之の好みで制作させたものだろうか。鳳凰が猛禽のように表されている点などは漢族の好みというよりも遊牧民の好みのよえうに思える。
花形杯 赤峰市アルホルチン旗耶律羽之墓出土 金 会同5年(942) 高4.7口径7.7底径4 内蒙古文物考古研究所蔵
金板を鍛造した五弁形の杯。
身と高台を別造りとし、鑞付で接合する。身の側面には魚々子地に鴻雁と唐草を描き、見込みに蓮弁と回遊する2匹の魚を表す。このような金製の杯は唐時代に多く見られ、本品もこれらを模倣したものだと考えられるという。 
鳳凰文盤の緻密な魚々子と比べ、作品が小さいためか、魚々子自体が大きく見える。 
つづく


※参考文献
「草原の王朝 契丹展図録」 九州国立博物館編 2011年 西日本新聞社

2012/06/15

傾斜のある木棺1



契丹展は興味深い特別展だった。印象に残ったものの中に、枕元と足元で高低差のある木棺がある。

彩色木棺 内蒙古、通遼市ホルチン左翼後旗トルキ山古墓出土 木、金箔、彩色、銅、鍍金 10世紀前半 木棺:高110長231幅130 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、木製の棺と棺台で、全面にわたって浮彫や箔押し、彩色による装飾を施す。棺は外棺と内棺の2層構造である。外棺の屋根は正面と背面の板に大輪の牡丹を表し、そこに7枚の側板をあわせる。
この棺の特徴は屋根に高低差があることという。
高さの一定した木棺に、枕元は高く、足元は低く造った蓋を載せている。枕元の板は身の方と蓋の方を金具で固定している。
木棺には小さな出入口があり、両側には門吏が剣を掲げて護衛している。扉には閂がかかり、その前方には急な階段が取り付けられている。どんな信仰を持つ人が埋葬されたのだろう。
小さな風鐸を棺の蓋のあちこちにつけ、棺台にも巡らせている。風鐸は歩揺と同様に、揺れて出る音が魔除けとなったのだろう。
歩揺についてはこちら
この形はシルクロード関係の展覧会で見たような気がする。そう思って図録を開いてみると、『シルクロード 絹と黄金の道展図録』に載っていた。

四神双鳥文木棺 木製彩色 長210高99-85幅74-64 ホータン市ブザック墓地出土 五代時代(10世紀) ホータン地区博物館蔵
同展図録は、直方体の台座の上に欄干をまわし、片流れ造りの棺を設置する。こうした形制は、唐代から宋頃にかけて、中国における棺の基本的なものであった。
身の側面には、青龍、白虎、朱雀、玄武という東西南北をつかさどる四神を描き、その背景と蓋表に雲気文を配す。台の四側面には、格狭間形の窓枠の中に双鳥文を表現し、その内外に花文または花卉文を散らす。台の上板側面には、三角形が連続する幾何学文をめぐらしているという。
このような棺を「片流れ造りの棺」というのだろうか。
出土地はかなり離れているものの、同時代の同形の中国式木棺が、辺境の地で用いられたようだ。違いといえぱ、枕元の板が身と蓋に分かれておらず、一枚板で造られていることだろうか。
同時代、中原にも同じような棺があったようで、舎利容器にその形が残されている。

金高僧図舎利棺 河北省定州市静志寺真身舎利塔塔基地宮出土 北宋(10世紀) 高4.8㎝長7.7㎝ 定州市博物館蔵
『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』は、仏塔などに舎利容器を納めるときには、方形の石函に、方形の青銅(鍍金)函、屋根(蓋)が片流れになった青銅・銀・金製の槨、棺を重ね、金棺の中にガラス瓶に入れた舎利を納入するのが隋のころからの習いであった。
屋根には魚々子地に唐草文が刻まれているという。
魚々子については以前まとめましたが、契丹展で久しぶりに魚々子地のものを複数見かけたので、後日まとめます。
『契丹展図録』は、唐時代には敦煌莫高窟の仏伝図にも描かれるように、釈迦の棺もこの形であらわされ、舎利容器もこの形をとるようになったという。

涅槃経変部分 敦煌莫高窟第332窟南壁後部 初唐(618-712年)
『中国石窟 敦煌莫高窟3』は、釈迦が母に説法をする場面。釈迦の母摩耶夫人は釈迦を哀悼するために忉利天から降下した。仏は神通力で棺の蓋を開き、棺に坐って母に説法したという。 
初唐期にはすでに高低差のある棺が中国に広まっていたらしい。
この図では、蓋ではなく、棺本体の枕元が高く表されている。
舎利容器一組内 銀唐草文槨、金珠宝象嵌宝相華文棺 甘粛省大雲寺塔基地宮出土 唐(7-8世紀) 蘭州市甘粛省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、石函の側面には長文の銘が刻まれており、文中に「大周延載元年」(694)という紀年が含まれている。大周、周とは武則天(高宗の皇后)が称した国号であるという。
初唐期には、実際の棺だけでなく、舎利容器にもこの形が使われている。枕元の板が蓋の側と一体化していて、屋根に丸みがある。
銀唐草文槨は、唐草の隙間を魚々子が埋めている。拡大図版はこちら
銀鍍金双鳳文仏指舎利棺 陝西省法門寺真身舎利塔地宮出土 唐(9世紀)
同書は、棺や槨の蓋(屋根)が片流れになり、入口部分が高くなった構造は、もともとインドの形式であった。中国へは北魏時代に仏教とともに伝わってようやく定着し、やがて仏教だけでなく、一般的な棺の形となっていく。
唐時代になると器物や構築物の基壇として格狭間(牙象)のある台が設置されるようになる。中国では壺門座というが、銀棺は刻線で表した壺門座に載っているという。
この棺も枕元の板が一体化している。そして側板そのものにかなりの傾斜がある。
つづく

「草原の王朝 契丹展図録」2011年 九州国立博物館
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」2002年 NHK
「三燕文物精粋」2004年 奈良文化財研究所
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」1997年 小学館
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」1998年