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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/06/26

契丹にも魚々子



契丹展で眼にとまったものの一つに魚々子がある。魚々子というのは唐時代の途中で絶えてしまったのだろうと、何となく思っていたが、騎馬遊牧民の契丹にも魚々子による装飾があった。しかも、細かくて、一見点にしか見えないほど細かな魚々子もあった。

鸚鵡牡丹鏡箱、箱蓋裏 通陵市ホルチン左翼後旗トルキ山古墓出土 銀鍍金 10世紀前半 一辺25 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、埋葬者は女性で、着ていた衣服にも太陽と月を表した金銀の牌飾などを縫い付けられ、それもまた左が太陽で右が月である。また、出土した金の頭飾りは現代のダフール族の祈祷師の頭飾りに類似していることから、墓主はシャーマン教の巫女と考えられる。
左右対称性を意識した唐風の図様である。すなわち中央には太湖石を据え、向かって右には、この鏡箱の持ち主であろうか、侍女に囲まれた若き夫婦をあらわす。相対する左には5人編成の楽隊がいる。いずれも唐代宮廷音楽の主要楽器である。契丹の地に唐の音色が響いたであろうことが、本品によって知れるという。

同展の解説では、若夫婦の女性が墓主だろうということだった。服装も埋葬時のものとは異なり唐風で、辺境の遊牧民がいかに唐の進んだ文化に憧れていたかがわかる。
画面上下には水面、欄干や橋脚なども表されているので、川または湖に渡された橋の上で行われた宴らしい。しかし、橋の上のはずなのに、草花が生えているなど、実風景ではなく理想郷を表現しているようだ。
また、左右に人のいる枠を配する図というのは、観無量寿経変の最下段を想起させる。中でも、敦煌莫高窟第148窟東壁南側の観経変の配置がよく似ている。
同図についてはこちら
橋の上に当たる部分には、細かい魚々子が横に密に打たれ、魚々子地はびっしりと隙間がない。果たしてこの作品が契丹人の制作によるものなのだろうか。
獅子文盒 通陵市ホルチン左翼後旗トルキ山古墓出土 銀、鍍金 10世紀前半 高16口径23底径18 内蒙古文物考古研究所蔵
出土時は漆机の上に置かれていた。蓋上面は打ち出しによって2頭の獅子や唐草を配し、間地を魚々子でうめる。器身には、蓋の側面と同様の牡丹唐草を蹴彫であしらい、間地を魚々子でうめる。器身下半は魚々子で波文をあらわす。高台は蹴彫で蓮葉をあしらう。
このような高台をもつ蓮弁形の銀製容器は中唐頃(9世紀後半)からみられ、本品にみる卓越した彫金技法もまた唐時代の金属工芸に通じる高い水準である。契丹国の金銀器はその形態はもとより、技法においても唐との連続性がうかがえることを示す好例であるという。
唐の優れた工人が契丹に招かれ、そこで金工品の制作にあたったのだろうか。
耶律羽之墓からも魚々子の地文のある品が複数出土している。
耶律羽之は契丹迭刺部の人で太祖、太宗に重んじられ、大変な功績を挙げ、東丹国の大臣、上柱国、東京大傳の職についた。
会同4年(941)8月11日に没し、翌年の3月6日に葬られたという。

鳳凰文盤 赤峰市アルホルチン旗耶律羽之墓出土 銀、鍍金 会同5年(942) 高4口径16底径10.2 内蒙古文物考古研究所蔵
見込みに2羽の鳳凰と宝相華唐草を描き、口縁にも宝相華唐草を巡らせる。また、空間を同心円状に魚々子で充填し、側面の内側と、高台縁には蓮弁を配す。
図様の繁縟さ、彫金技法の細やかさ、唐時代の金属器にも見られる同心円状に隙間なく空間を埋める魚々子など、精緻で古様な造りを示すという。
古様と言われると、唐時代に請来されたものだろうか。それとも羽之の好みで制作させたものだろうか。鳳凰が猛禽のように表されている点などは漢族の好みというよりも遊牧民の好みのよえうに思える。
花形杯 赤峰市アルホルチン旗耶律羽之墓出土 金 会同5年(942) 高4.7口径7.7底径4 内蒙古文物考古研究所蔵
金板を鍛造した五弁形の杯。
身と高台を別造りとし、鑞付で接合する。身の側面には魚々子地に鴻雁と唐草を描き、見込みに蓮弁と回遊する2匹の魚を表す。このような金製の杯は唐時代に多く見られ、本品もこれらを模倣したものだと考えられるという。 
鳳凰文盤の緻密な魚々子と比べ、作品が小さいためか、魚々子自体が大きく見える。 
つづく


※参考文献
「草原の王朝 契丹展図録」 九州国立博物館編 2011年 西日本新聞社