ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/07/29
イシク・クル湖北岸の岩絵2 サカ・烏孫期のオオツノヒツジは新石器時代のものが手本?
チョルポン・アタの岩絵に登場する動物で最も多いのはオオツノヒツジ(アイベックス、現地の説明板より)である。
チョルポン・アタの岩絵で見学したのはサカあるいは烏孫が描いたものとされ、前8-後5世紀と、岩絵にしては時代の下がるものだった。
イシク・クル湖に流れ込む川の下流平地に新石器時代からの岩絵が残っていて、弓のようにカーブしたオオツノヒツジだけでなく、角が渦巻くように表された草食獣も描かれていて、その名称はアルガリ・野ヤギ・アンテロープなど様々。
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』でイシク・クル湖の青銅器時代について、
初期青銅器時代は前3500年-2000年、中期青銅器時代は前2000-1600年、後期青銅器時代は前1600-1200年、初期鉄器時代は前1200-450年としている。
アルガリ(偶蹄目ウシ科ヒツジ属) 動物は新石器時代、車輪は青銅器時代 カラ・オイ
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』は、アルガリ、あるいはオオツノヒツジはヤギも同じく、昔の芸術家の好んだ題材である。螺旋状に渦巻く角は、しばしば標章の役目を果たし、宗教的な儀式に結びつけられたという。
角に力を感じ取ったのか、渦巻いて表されている。肢は4本、角は中央の何重にも巻いたもの以外は2本描かれている。
車輪については次回。馬に乗る人物はいつの時代のものだろう?
野ヤギ(ウシ科ヤギ属) 新石器時代 チェト・コイ・スー
同書は、広大な生息地を持つ野ヤギは、昔の猟師の主な獲物であった。そのような訳で岩絵の大部分はヤギの絵でしめられている。 幾つかの動物の像は象徴的な意味を持っているという。
野ヤギの方がサカや烏孫のオオツノヒツジの角に似ている。先が2本に分かれたものもある。
太陽の標章、車輪 青銅器時代 チェト・コイ・スー
上に両肢が車輪に描かれたオオツノヒツジ、下に二輪を綱で繋がれて牽くオオツノヒツジが描かれている。
角は1本で表されるものと、2本描かれるものとがある。
車輪については次回
太陽の標章と様々な草食獣 青銅器時代、チェト・コイ・スー
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』の表紙には、太陽の標章の周囲に様々な草食獣が描かれている。その中で2本の角が頭部の前方に突き出ているものは雄牛。それ以外の動物は角は1本。
アルガリ 後期青銅器時代 チェト・コイ・スー
2本の角が渦巻いて表される。
オオツノヒツジ 初期鉄器時代
人に飼い慣らされたユキヒョウがオオツノヒツジを狙う場面。
オオツノヒツジの角は、サカ・烏孫期(全8-後5世紀)のように2本には描かれていない。
アルガリ 初期鉄器時代 チェト・コイ・スー
鉄器時代になっても、角は渦巻いて表される。しかし、上の大きなアルガリは1本の角が渦巻き、下の2頭は2本の角が渦巻いている。
このように見てくると、サカ・烏孫期のアイベックスは、新石器時代のものを手本にし、さらにデザイン化したのではないかと思うほど似ている。
イシク・クル湖北岸の岩絵1 シカの角が樹木冠に?←
→イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬
関連項目
騎馬が先か戦車が先か
イシク・クル湖北岸の岩絵4 ラクダは初期鉄器時代にやってきた
※参考文献
「図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社
「Masterpieces of PRIMEVAL ART」 Victor Kadyrov 2014年 Rarity
2007/12/21
歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?
藤ノ木古墳出土の歩揺冠は金銅製のため、金メッキがはがれてすっかり緑青で覆われていた。藤ノ木古墳の全貌展ではその復元品も出ていたので、歩揺に円形(先がとがっているので木の葉形だろう)以外に鳥形があるのがわかりやすかった。
藤ノ木古墳から出土した飾履が朝鮮半島南部の影響があるのなら、歩揺冠も同様の可能性がある。『黄金の国・新羅展図録』によると、
世界的にみても新羅ほど金冠が多く出土した地域はない。 ・・略・・
金冠は、華麗な文様が刻まれた円形額帯に5本の立飾を鋲で固定し、額帯中央に樹枝形の立飾を3本、後面に鹿角形の立飾を両側1本ずつ装着するものが典型的である。樹枝形立飾は生命樹である白樺樹を、鹿角形立飾は鹿を象徴的に表現したものであるが、樹枝形立飾は徐々に形式化し、漢字の「出」字に似た形状となった。 ・・略・・ 金冠は華麗な外形とは裏腹に薄い金板で製作されており、また過多ともいえるほどに装飾が多いため、実際に使用したというよりは、墳墓の副葬品または葬送儀礼用具として製作されたと考えられる
ということで、金冠は生きている時に身につけるものではなかったことがわかった。
また、同書には5世紀前期から7世紀前期までの金冠の変遷が載っているが、その中で新羅の金冠として引き合いに出されるのが瑞鳳塚出土の5世紀後期の金冠である。しかし、その写真がないので、6世紀前期とされる天馬塚出土の金冠をみることにする。両者はよく似ているが、違いは前者が「出」字に「山」字が加わっており、後者は「出」字が2つ繋がった、より縦に長い冠となっている程度である。
金冠 慶州天馬塚出土 6世紀前半
『世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化』の「黄金の帽子飾りから見た東西交渉」で石渡美江氏は、瑞鳳塚は三国時代の新羅の墳墓であり、このような冠は日本にも影響を及ぼしているというが、6世紀後半の藤ノ木古墳出土の金銅製冠がこれらの「出」字形冠に似ていないと私は思う。
また、『黄金の国・新羅展図録』に載っている6世紀後半の金冠の方が藤ノ木古墳出土の金銅製冠と時代が近いが、「出」字が2つ繋がり、それぞれの部分が派手になっているだけで、藤ノ木古墳の歩揺冠とはかなりの違いがある。
金歩揺冠 遼寧省北票市西官営子憑素弗墓(太平7年、415)出土 北燕 瀋陽、遼寧省博物館蔵
確かに歩揺はついているが、もっと縁遠くなってしまった。『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』によると、金歩揺は遊牧民の風習だそうだ。
牛首金歩揺冠 内蒙古烏蘭察布盟ダルハン・ムミンガン出土 1~3世紀 内蒙古博物館蔵
これも頭頂部に取り付けるものだったのだろうか。
バクトリア貴族の冠 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリヤ・テペ6号墓出土 前1世紀後半~後1世紀前半 カーブル博物館蔵
『世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化』によると、シャーマンのような女性の墓から出土したもので、6本の樹木からなっている。6本の樹木はそれぞれ歩揺や花弁で飾られていて、中央部をのぞく5本の木には富や王権のシンボルである鷲が左右についていたということだ。1本1本の樹木が左右対称に作られているように見える。色紙を半分に折って形を切り抜いて開いたようだ。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』によると、女性が葬られていたが、この王冠は頭蓋骨の上で発見されたということだが、それはこの歩揺冠を被ってシャーマンの役目を果たしていたということだろうか。 朝鮮半島や日本では歩揺冠は棺に入れるものに風習が変わってしまったのだろう。そして冠その他に歩揺を付ける意味が失われていたのだろう。
藤ノ木古墳の歩揺冠が金銅製で他の地域の歩揺冠が金製である以外に一番違うのが、額帯の中央に蝶結びのような飾りが付けられている点である。 これは展示室で、日本独特のものという説明があったような気がするが確かではない。
藤ノ木古墳の歩揺冠は、樹木あるいは樹枝形の立飾りが2本あるだけで、その2で左右対称になっている。今まで見てきた中で藤ノ木古墳の歩揺冠に一番近いのが、地理的には最も遠いティリヤ・テペ6号墓出土の歩揺冠というのはどういうわけだろうか。
また、『藤ノ木古墳の全貌展図録』によると、北側被葬者は死後に内蔵を取り出す処置が施された可能性が高い。このような遺体処理は北方騎馬民族で見られる事象であり、当時の文化系統を考える上で重要な資料といえるということだ。この時代に、草原の道を経由して、中国も朝鮮半島も経ず、直で日本にそのような技術や習慣がもたらされたのだろうか。
※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 島根県立並河萬里写真財団)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」(2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」(2000年 小学館)
「世界美術大全集東洋編15中央アジア」(1999年 小学館)
藤ノ木古墳から出土した飾履が朝鮮半島南部の影響があるのなら、歩揺冠も同様の可能性がある。『黄金の国・新羅展図録』によると、世界的にみても新羅ほど金冠が多く出土した地域はない。 ・・略・・
金冠は、華麗な文様が刻まれた円形額帯に5本の立飾を鋲で固定し、額帯中央に樹枝形の立飾を3本、後面に鹿角形の立飾を両側1本ずつ装着するものが典型的である。樹枝形立飾は生命樹である白樺樹を、鹿角形立飾は鹿を象徴的に表現したものであるが、樹枝形立飾は徐々に形式化し、漢字の「出」字に似た形状となった。 ・・略・・ 金冠は華麗な外形とは裏腹に薄い金板で製作されており、また過多ともいえるほどに装飾が多いため、実際に使用したというよりは、墳墓の副葬品または葬送儀礼用具として製作されたと考えられる
ということで、金冠は生きている時に身につけるものではなかったことがわかった。
また、同書には5世紀前期から7世紀前期までの金冠の変遷が載っているが、その中で新羅の金冠として引き合いに出されるのが瑞鳳塚出土の5世紀後期の金冠である。しかし、その写真がないので、6世紀前期とされる天馬塚出土の金冠をみることにする。両者はよく似ているが、違いは前者が「出」字に「山」字が加わっており、後者は「出」字が2つ繋がった、より縦に長い冠となっている程度である。
金冠 慶州天馬塚出土 6世紀前半
『世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化』の「黄金の帽子飾りから見た東西交渉」で石渡美江氏は、瑞鳳塚は三国時代の新羅の墳墓であり、このような冠は日本にも影響を及ぼしているというが、6世紀後半の藤ノ木古墳出土の金銅製冠がこれらの「出」字形冠に似ていないと私は思う。
また、『黄金の国・新羅展図録』に載っている6世紀後半の金冠の方が藤ノ木古墳出土の金銅製冠と時代が近いが、「出」字が2つ繋がり、それぞれの部分が派手になっているだけで、藤ノ木古墳の歩揺冠とはかなりの違いがある。
金歩揺冠 遼寧省北票市西官営子憑素弗墓(太平7年、415)出土 北燕 瀋陽、遼寧省博物館蔵確かに歩揺はついているが、もっと縁遠くなってしまった。『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』によると、金歩揺は遊牧民の風習だそうだ。
牛首金歩揺冠 内蒙古烏蘭察布盟ダルハン・ムミンガン出土 1~3世紀 内蒙古博物館蔵これも頭頂部に取り付けるものだったのだろうか。
バクトリア貴族の冠 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリヤ・テペ6号墓出土 前1世紀後半~後1世紀前半 カーブル博物館蔵『世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化』によると、シャーマンのような女性の墓から出土したもので、6本の樹木からなっている。6本の樹木はそれぞれ歩揺や花弁で飾られていて、中央部をのぞく5本の木には富や王権のシンボルである鷲が左右についていたということだ。1本1本の樹木が左右対称に作られているように見える。色紙を半分に折って形を切り抜いて開いたようだ。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』によると、女性が葬られていたが、この王冠は頭蓋骨の上で発見されたということだが、それはこの歩揺冠を被ってシャーマンの役目を果たしていたということだろうか。 朝鮮半島や日本では歩揺冠は棺に入れるものに風習が変わってしまったのだろう。そして冠その他に歩揺を付ける意味が失われていたのだろう。
藤ノ木古墳の歩揺冠が金銅製で他の地域の歩揺冠が金製である以外に一番違うのが、額帯の中央に蝶結びのような飾りが付けられている点である。 これは展示室で、日本独特のものという説明があったような気がするが確かではない。藤ノ木古墳の歩揺冠は、樹木あるいは樹枝形の立飾りが2本あるだけで、その2で左右対称になっている。今まで見てきた中で藤ノ木古墳の歩揺冠に一番近いのが、地理的には最も遠いティリヤ・テペ6号墓出土の歩揺冠というのはどういうわけだろうか。
また、『藤ノ木古墳の全貌展図録』によると、北側被葬者は死後に内蔵を取り出す処置が施された可能性が高い。このような遺体処理は北方騎馬民族で見られる事象であり、当時の文化系統を考える上で重要な資料といえるということだ。この時代に、草原の道を経由して、中国も朝鮮半島も経ず、直で日本にそのような技術や習慣がもたらされたのだろうか。
※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 島根県立並河萬里写真財団)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」(2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」(2000年 小学館)
「世界美術大全集東洋編15中央アジア」(1999年 小学館)
2007/11/21
弥勒の大仏像は
ところで、弥勒像には巨大なものがある。有名なのは、バーミヤンの西大仏と呼ばれるの立像である。
『Shotor Museum アフガニスタンの美』は、谷を挟んで南側にある高台からバーミヤン渓谷を望むと、はるか対岸に2つの大仏が見える。
西にそびえるのが西の大仏で高さ55m、右に見えるのが東の大仏で38m。二者の間には約800mの距離がある。 ・・略・・
顔面を欠如し、年記も文献もなく、大仏の制作年を確定するのは難しい。しかし東の大仏について玄奘が「この国の先の王が建てたもの」と書き、彼が見た時はまだ傷みも少なそうな様子から、玄奘がこの地を訪れた632年をそれほどさかのぼらない頃の作ではないかと思われる。バーミヤンを調査した樋口隆康氏も年代の確定を困難としている(『バーミヤンの石窟』同朋舎)という。
バーミヤンに限らず、敦煌莫高窟もキジル石窟も、雲崗石窟も、石窟は修行僧の生活の場でもあったので、川の流れに面した崖に開鑿されている。
『仏教美術のイコノロジー』は、仏教美術はインドから中央アジア・中国へと伝わるが、その過程で大きな変貌をとげる。湿潤気候で大地の豊かさに根づいたインドの仏教美術は、乾燥した砂漠地帯の広がる中央アジアの風土の中で、全く新しい様相をおびる。中央アジアの茫漠とした地では、天空に対する神秘感がつよく、釈迦の次にこの世に現れる弥勒菩薩が兜率天という天上世界にいて、そこに再生したいという、弥勒信仰(弥勒上生信仰)の美術がクローズアップされてくる。 アフガニスタンのバーミヤーンは6~7世紀頃に栄えた仏教遺跡で、摩崖から掘り出した二大仏(東大仏と西大仏。ともに立像)と数多くの窟寺で名高いが、ここではインドの仏教美術の核となっていたストゥーパに代わって、高さ38mと55mという巨大仏が遺跡の中心にあり、大仏の仏龕壁画や祠堂窟の装飾には弥勒信仰が深い影を落としている。
西大仏は高さは55mで、天井壁画は中央部分が剥落し台座や天衣の一部が残るのみであるが、そこには大きな弥勒菩薩坐像が描かれていたと推定される。大菩薩像を取り囲んで、多くの天人たちがアーチや梯形破風の建築物の下に坐し、中心の弥勒菩薩を讃美し、兜率天の楽土を描き出している。
この西大仏の天井の大構図の縁には、天蓋の帳幕飾りがつけられており、弥勒菩薩の大構図が天上世界であることを示している。また、大仏の肩部に当たる仏龕の張出し部には、円形区画の中に飛天たちが大仏に向かって散華する姿が描かれている。この大仏自身は下生の弥勒仏、つまり遠い将来兜率天よりこの世に下る弥勒の仏陀としての姿と思われる(弥勒下生信仰)。というのも、弥勒下生経典には弥勒が大仏となって出現することが説かれているからである。例えば『弥勒大成仏経』に人間の寿命が8万4千歳となった時、弥勒が下生し、その身は「釈迦仏より長じ、32丈なり」と述べられている。バーミヤーンの西大仏は、東大仏の釈迦仏より大きく造られており、天井に兜率天の弥勒菩薩の世界を描き、その弥勒が下生するあり様を大仏で表したものであろうという。
西大仏が弥勒立像であるとしている。
バーミヤーンの東大仏も西大仏も破壊されて今はないが、西域の天山南路中央部、クチャの郊外に位置するキジル石窟にも、大仏というか、大像があったことがわかる大きな刳りがあった。それは一般的に観光客が見学する谷西区にあるが、鳩摩羅什の像のある位置からは見えない。そしてキジル石窟では、鳩摩羅什の像近くにある旅遊接待庁でカメラも荷物も預けなければいけない。谷西区・谷東区・谷内区と欲張って見学した後、我々は敷地内にある餐庁で食事をした。その時は預けた荷物を持って行ったので、餐庁前から第47窟の大きなくぼみを撮ることができた。『シルクロード キジル大紀行』は、キジル大石窟群の中心部に、ひときわ高くそびえる第47窟がある。ここがキジル大石窟群のなかで最も古い石窟の一つとされている。炭素年代測定法によると、第47窟が建造されたのは3世紀後半ではないかという。
第47窟は、石窟のある位置も断崖の上のほうに位置し、窟そのものも大きい。絶壁にうがたれた巨大なアーチ状の穴。アーチの下部から頂部までの高さは17.5m、これは5階建ての建物に相当する。この中に、かつてキジルを象徴する巨大な大仏が立っていたという。今までは大仏そのものは跡形もなく崩れ去ってしまっているが、アーチの天井部に大仏を賛美する飛天らしき像の手の部分だけが彩色とともに残されている。
この大仏がどんな仏様だったのか、詳しいことはわかっていない。弥勒仏の像だったのではないかと考えられているという。
下生する弥勒像であった可能性を示唆している。
2005年夏、我々が見学する前に大雨が降って47窟の主室天井が崩れ落ち、内部を見学することも、近づくことすらできなかった。当時キジル石窟の専門ガイドだった馬媛(まえん)さんが「修復することができません」と残念そうに言っていた。47窟はキジル石窟で最古の窟で、4世紀に開鑿され、5-6世紀の地震で崩壊したと説明してくれた。
最初にバーミヤンを紹介したが、このようにキジル石窟の大仏の方が古い。キジル石窟へは中央アジアの別の石窟から伝わったのだろう。また、バーミヤンは、玄奘三蔵が行ったことでも有名だ。
『アフガニスタン 遺跡と秘宝』は、『大唐西域記』で玄奘三蔵は、バーミヤーンについて、次のように記している。 ・・略・・ 王城の東北の山の阿(クマ)に、立仏の石像がある。高さ104、50尺で、金色にかがやき、宝飾がきらめいている。東に伽藍がある。この国の先王が建てたところである。伽藍の東に、鍮石の釈迦立像がある。高さ100余尺である ・・略・・
玄奘の記述は、7世紀初頭におけるバーミヤーンの生活を的確に述べている。ただ石窟については、多少の問題がある。王城東北の山の阿にある、高さ104、50尺の立仏石像というのが、西の大仏であることは間違いない。これが金色に輝いているというのは、金箔でも貼ってあったものかとも推測されるという。
玄奘三蔵の見た大仏について推測されている。
玄奘三蔵はバーミヤーンに立ち寄るよりも前に亀茲国(当時クチャあたりにあった西方系の人々の小国)を訪れている。そこでは、当時のシルクロードであった塩水渓谷を通ったと、ガイドの丁鋳さんが行っていた。実際に我々も下りてみたが、水のほとんど流れない川を羊の群れが通っていた。
『シルクロード キジル大紀行』は、亀茲国に60日間滞在したといわれる玄奘三蔵だが、その痕跡を証明するものは現在まで発見されていない。しかし、クムトラ石窟には玄奘が訪れたといわれる場所が残っている。その場所は、クムトラの代表的な石窟として名高い第68窟から第72窟までの5連洞であるという。
残念ながらキジル石窟には行っていないようだ。もし行っていたとしても、第47窟の大仏はすでに地震で崩壊していたのではあるが。
※参考文献
「Shotor Museum アフガニスタンの美」 谷岡清 1997年 小学館
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館
「シルクロード キジル大紀行」 宮治昭 2000年 NHK出版
「季刊文化遺産14 文化の回廊アフガニスタン」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版
2007/11/20
ガンダーラの半跏思惟像
半跏像は弥勒菩薩とは限らないでインドやガンダーラに菩薩半跏像はなかったと書いたが、ガンダーラにはあることがわかった。
『ガンダーラ美術の見方』は、日本では半跏思惟像といえば「弥勒菩薩」だと思われている。しかし、これは朝鮮半島と日本だけでのことであって、西域から中国大陸における半跏思惟像で、弥勒と銘刻のある作品は全くない。
ガンダーラで彫られた半跏思惟像には、釈迦が悟りを開く以前の釈迦菩薩(シッダールタ太子)像と、観音菩薩とがある。半跏思惟像の考え深い姿は、瞑想に耽る若き釈迦の姿としてふさわしい。また、観音菩薩と釈迦菩薩は、図像上も共通するところが多く、ガンダーラでは半跏思惟像の姿で彫られたものも少なくない。
中国大陸で彫られた半跏思惟像にも、「太子」の銘がある作品があるが、弥勒菩薩像と断定できる半跏思惟像はない。「太子」とは、シッダールタ太子のことである。
ガンダーラで完成された釈迦菩薩半跏思惟像(太子像)の図像は、花郎の前世の姿「弥勒菩薩」とみなされ、6世紀中頃の真興王(540-576年)の頃から大いに流行して作られた。
我が国に渡来した最初の仏像は百済から来た釈迦像は『日本書紀』によれば欽明13年552年『元興寺縁起』では宣化3年、538年である。続いて、日本最初の弥勒像は『日本書紀』によれば敏達13年、584年が、やはり百済から渡来した。この最初の弥勒像は半跏思惟像と推定されている。
ガンダーラで最初に作られた釈迦菩薩半跏思惟像(2世紀)の姿は、西域、中国を経て、朝鮮半島で「弥勒」と名を改められたという。
日本の弥勒半跏像にもいろんな説があるようだ。
『ガンダーラ美術の見方』に記載された2体の釈迦菩薩半跏思惟像を紹介すると、
釈迦菩薩半跏思惟像 スワート出土 砂岩 2~3世紀 マトゥラー博物館蔵
写す方向にもよるのかもしれないが、私にはガンダーラの作風というよりもマトゥラーの作風が色濃くみえる。
釈迦菩薩半跏思惟像 出土地不明 片岩 3~5世紀 竹林寺蔵こちらはガンダーラ彫刻に近い顔つきだが、どうもガンダーラ仏と思えない体つきだし、瞑想しているにしては過度の動きのある表現に思える。そして左肩の着衣は他のガンダーラ仏に見られない襞である。
釈迦菩薩半跏思惟像なのだろうが、どちらもガンダーラ彫刻とは思えないところがある。自分の勉強不足を思い知った。※参考文献
「ガンダーラ美術の見方」(山田樹人 2001年 里文出版)
2007/11/16
半跏像は弥勒菩薩とは限らない
インドやガンダーラに菩薩半跏像はなかった。
『カラー版日本仏像史』は、朝鮮半島や日本の作例は、造形的にも中国6世紀代の河北や山東で隆盛した半跏思惟像との共通性が強く、こんにち安易に弥勒菩薩と称している半跏思惟像のなかには、多くの太子像や尊格不詳の思惟菩薩像が含まれていると思われるという。
中国の仏像をみてみよう。
菩薩半跏思惟像 北斉時代(550-577) 石灰石・彩色・金箔 清州市龍華寺遺跡出土 清州市博物館蔵
菩薩としか解説にない。弥勒菩薩と特定しないようになってきているのだろうか。
如来半跏像 河北省邯鄲市北響堂山石窟北洞中心柱北面 北斉 石造『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、北面龕中尊像は通肩に袈裟をまとい、蓮華座から右足を組み上げて坐る姿で、如来像が片足踏み下げの姿をとるのは珍しい表現であるという。
私も仏半跏像は初めて見た。
敦煌莫高窟にはもう少し遡る菩薩半跏像がある。敦煌莫高窟第257窟菩薩半跏像 北魏(439-535) 塑造
上の方を見上げて撮影された写真なので、台座がなくても右膝下の布の出っ張りがある。このように膝の形がわかるようにぴったりで、その下に余り布が出るような服装があったのだろうか。『中国石窟 敦煌莫高窟1』の解説(中国語のため意訳)には、闕形の下に帷幔が出る龕内に弥勒菩薩が半跏に坐すとのみ書かれている。
敦煌莫高窟第275窟菩薩半跏像 北涼(420-439) 塑造敦煌莫高窟で現存最古の北涼時代の石窟にも菩薩半跏像が1体ある。275窟は小さな窟で、入ると正面に獅子を両側に従えた大きな菩薩交脚像がある。石窟の左右壁の上段に各3つの龕があるが、ほとんどが闕形龕と呼ばれる中国建築となっていて、中には菩薩交脚像が置かれている。そして、この写真の菩薩のみが半跏像で、双菩提樹龕に坐している。同書によると、
闕形龕にはひとしく交脚菩薩があり、弥勒が兜率天宮にいることを表現している。双菩提樹龕には半跏坐思惟菩薩像が造られていて釈迦の後に弥勒が下生し、仏道を修行する姿である
という。私はこの窟を見学していて、日本にも留学したことのある莫高窟専門ガイドの丁さんが「弥勒菩薩」と説明してくれたように思うし、私自身もそれに何の疑問も感じなかった。
敦煌では半跏思惟像は弥勒菩薩であるとみなしているようだ。これが、『カラー版日本仏像史』で石松日奈子氏がいうところの、野中寺の菩薩半跏像の銘文に「弥勒御像」の文字が刻まれていることから、「半跏思惟像=弥勒菩薩」説が有力となり、日本や朝鮮半島にとどまらず中国や欧米所在の作品にまで及んで定説化しつつあるということなのだろうか。敦煌よりも西、天山南路中央に位置するキジル石窟の壁画をみてみると、キジル石窟第110窟正壁仏伝図「宮中娯楽図」 6-7世紀
『中国新疆壁画全集 克孜爾2』の解説(中国語のため意訳)は、太子はその座に坐しという。
これが半跏像かどうか確かではないが、交脚か結跏趺坐が一般的なキジル石窟では、半跏像に近いと思われる。そして、半跏で坐しているのは弥勒ではなく、シッダールタ太子である。
キジル石窟第114窟「一切施王本生図」壁画 4世紀中-5世紀末 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』は、隣国国王が台座の上に坐っているという。
これが半跏像か確かではないが、半跏像に近い坐り方をしてるのは、国王だった。
このように、キジル石窟では弥勒半跏像はなく、半跏に近い坐り方をしているのは、国王あるいは太子などの世俗の人々だった。このことは、石松日奈子氏のいう、半跏思惟像のなかには、多くの太子像や尊格不詳の思惟菩薩像が含まれているということなのだろう。※参考文献
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編著 1999年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾2」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国・山東省の仏像-飛鳥仏の面影-」 2007年 MIHO MUSEUM
2007/11/14
弥勒菩薩は半跏像ではなかった
野中寺の菩薩半跏像に刻まれた銘文にある丙寅年(666)という制作年代に疑問の目を向けられているが、『カラー版日本仏像史』で石松日奈子氏は、大正7年に大阪・野中寺で発見された銅造菩薩半跏思惟像の台座に「弥勒御像」の文字が刻まれていることから、「半跏思惟像=弥勒菩薩」説が有力となり、こんにち日本や朝鮮半島にとどまらず中国や欧米所在の作品にまで及んで定説化しつつある。 ・・略・・ この銘文を根拠として他の半跏思惟像すべてを弥勒菩薩と断定するわけにはいかない。とくに、朝鮮半島や日本の作例は、造形的にも中国6世紀代の河北や山東で隆盛した半跏思惟像との共通性が強く、こんにち安易に弥勒菩薩と称している半跏思惟像のなかには、多くの太子像や尊格不詳の思惟菩薩像が含まれていると思われると、菩薩半跏像が弥勒であることが通説となっていることの発端もまた、野中寺の菩薩半跏像の銘文だとしている。
私はといえば、「菩薩半跏像」または「菩薩半跏思惟像」と書いてあるものを疑問を感じることもなく「弥勒」として見ていたように思う。疑問に思ったとしても、何故弥勒を省略するのだろうくらいだった。
そういえば、最近は書籍や展覧会の図録などで、「弥勒半跏像」と明記されることは少なくなったように思う。ひょっとすると「菩薩半跏像は弥勒ではない」というのがすでに定説になっているのかも知れない。
では、たしかにこれは弥勒菩薩像であるというのはどのような像だろうか。
『仏教美術のイコノロジー』で宮治昭氏は、インドでは過去七仏と菩薩像1体を並べた作例が多く、その菩薩像は釈迦を嗣ぐ弥勒菩薩に相違ない。
インドの弥勒菩薩の図像は、歴史的に、頭髪を結う行者的タイプと、冠飾をつける王者的タイプとに分かれ、しかもこの2つのタイプは、釈迦菩薩や観音菩薩のタイプと対応しつつ、展開を見せるのである。
行者的イメージと王者的イメージという二項対立は、実は菩薩像だけでなく仏像の造形とも関係し、仏教美術の展開を考える上で大きな視点となる問題でもある。
インドでは釈迦菩薩のほかに、弥勒菩薩と観音菩薩の造形がクシャーン朝時代以来行われ、この両菩薩の造像がとりわけ盛んであった。 ・・略・・ 弥勒菩薩と観音菩薩の占める比重は大きく、仏三尊像の両脇侍にこの2菩薩を配することがガンダーラ美術以来見られる。
弥勒菩薩像が最初に造形されたのは、クシャーン朝時代(1~3世紀頃)のガンダーラ美術においてであった。現在のパキスタンにおいてであった。現在のパキスタンのガンダーラでは単独の仏陀像と並んで、菩薩像も数多く造られている。それらの菩薩像はいずれも首飾り・腕飾りなどの装身具をつけるが、 ・・略・・ 束髪・髻型、持水甁の菩薩像 ・・略・・ が弥勒菩薩像であることは、カニシカ1世の銅貨に表された在銘弥勒像(但し銘ではマイトレーヤ・ブッダ、弥勒仏とある)、および過去七仏と並置された弥勒菩薩像が、束髪型もしくは髻型に髪を結い、手に水甁を持っていることから証明されるという。
過去七仏と弥勒菩薩 パキスタン、ガンダーラ出土 2-3世紀 ペシャワール博物館蔵
『パキスタン・ガンダーラ彫刻展』図録の解説は、ガンダーラでは過去七仏に加え、将来この世に降下して衆生を救うとされる弥勒菩薩を組み合わせて並置する作例がいくつか知られている。弥勒は七仏の右あるいは左端に置かれるのが普通である。この作品の場合、向かって左端に束髪で水甁を執る弥勒菩薩像が立つという。
確かに弥勒菩薩であるが、立像として表されている。ガンダーラとは遠く離れて、中国で五胡十六国時代の北涼の領土で発見された、いわゆる北涼塔と呼ばれるものの胴部の八面に過去七仏と弥勒菩薩像が1体ずつ表されている。それは仏7体が坐像で弥勒菩薩が交脚像として表されている。
弥勒菩薩立像 インド、マトゥラー、アヒチャトラー出土 ニューデリー国立博物館蔵一方、マトゥラーで表された弥勒もまた立像である。
『仏教美術のイコノロジー』は、マトゥラーの弥勒菩薩は、ガンダーラの弥勒菩薩と同様に、耳飾りや首飾りなどの装身具をつけ、左手に水甁を執っている ・・略・・ 仏陀に準ずる者としての求道性・超世俗性を反映し、肉髻をつけないことによって仏陀と区別しているという。
インドでは仏像は結跏趺坐像か立像であらわされている。『インド・マトゥラー彫刻展』図録に、頭部・両腕は欠損しているが、本像と非常に似たマホーリー出土の菩薩立像(ニューデリー国立博物館蔵)が2世紀ということなので、本像も2世紀としておく。
仏三尊像 ガンダーラ、サハリ・バハロール出土 3-4世紀 ペシャワール博物館蔵『パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録』は、・・略・・ 左脇侍菩薩は、束髪で、右手を肩の高さにあげ、手の甲を正面にむける。右脇侍菩薩は、ターバン冠飾をつけ、左手に花綱を持つ。左脇侍は左手を失うが、水甁を執る弥勒菩薩であったろう。また、右脇侍は観音菩薩とみてよいという。
宮治昭氏が先述した仏三尊像の組み合わせである。
弥勒菩薩交脚像 アフガニスタン、ハッダ出土 ストゥッコ 3-4世紀 フロランス・マルローコレクション『アフガニスタン 悠久の歴史展』は、二重の首飾りと上腕に豪華な飾りをつけ、左手に水甁をもつ姿は、弥勒菩薩である。人差し指と中指で水甁の首を挟む持ち方はガンダーラの弥勒菩薩と同じである。足先は失われているが、両足首を交える交脚に坐しているという。
やっとここで交脚像の弥勒菩薩が現れた。
このように、インドやパキスタンという仏像の源流から弥勒菩薩像をたどってみたが、立像と交脚像はあったが、半跏像はなかった。半跏像はどこから出てきたのだろうか。※参考文献
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館
「アフガニスタン 悠久の歴史展図録」 2002年 NHK
「パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録」 2002年 NHK
「インド・マトゥラー彫刻展図録」 2002年 NHK
2007/09/25
ブハラのサーマーン廟
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』の「サーサーン朝の都市と建築」で岡田保良氏が、正方形につくって丸屋根のドームを架けた建築がサーサーン朝ペルシアの世界で発達を見た。とくに「四つのアーチ」を意味する「チャハルターク」というゾロアスター教の神殿建築様式として広く受け入れられたと著しているが、残念ながら、そのようなゾロアスター教の神殿は現存していない。
多くの方のイラン旅行のウェブサイトでゾロアスター教の神殿としている、ナグシェ・ロスタムにあるドームのない建物は、平面が正方形でもない。澤野建築研究所の建築紀行イラン3-ペルセポリス2にはその画像と神殿とは特定できないことが記されています。
『イスラーム建築の見かた』で深見奈緒子氏は、・・略・・ 先のクッバット・スライビーヤは、一説にはカリフの母親であるキリスト教徒出自の女性を納めた墓だともいわれる。しかし、その形をみると煉瓦造りで、移行部にもスクインチを使っており、サーサーン朝に遡る古代ペルシアのドームの影響が大きい。
これに継ぐ古さを誇るサーマーン廟は、ブハーラにあり、ゾロアスター教のチャハール・ターク(拝火神殿)を写し取ったような形であるという。大きな地図で見る
四つのアーチを意味するチャハール・タークとは、聖なる火を祀る拝火壇で、四角い部屋の四方にアーチを開口させ、その上にドームを戴く。
サーマーン廟は、中央アジア一帯に支配を確立したイスマーイール・サーマーン(849-907年)の墓として有名である。近年、建設年代は10世紀半ばまで下り、被葬者はサーマーン朝(873-999年)の皇子ではないかと言われている。
サーマーン王朝時代の文化、つまりペルシアの伝統文化とアラブ・イスラムの文化、それからソグド地方の固有文化の特色をよく具現した貴重な建築物であることはいうまでもない。前嶋信次著『シルクロードの秘密国』
このような四角い部屋にドームを戴く建築が最も世界中に普及した形で、キャノピー・トゥーム(天蓋墓)と呼ばれる。10世紀初頭以来今日まで、マグリブから中国、インドまで広まったという。
高昌故城β寺院講堂のドームは風化したためか天蓋よりも、青空天井と言った方が良いくらいだったが、サーマーン廟は、10世紀半ばともなるとドームはほぼふさがっている。
平たい焼成レンガで円形に持ち送っていくと自然にドーム屋根ができていくのが、この天蓋の写真でよくわかる。
また、サルヴィスタン宮殿(イラン、5世紀半?)の大ドームを支えるスクインチ(一般にはスキンチと記される)部分が、サーマーン廟ではもっと整った形となってドームを支えている。
『世界のイスラーム建築』は、内部に入れば、四角い部分から円形のドームへと移行するために、四隅にアーチを架けて、八角形を導き、さらに水平な梁で十六角形を導き、その上にドームを架けている。スキンチ・アーチ(四隅のアーチ)の中には、ムカルナスの祖型となった小曲面が見えるという。
天蓋墓と呼ばれるイスラームの墓廟は、西域でも見かけた。トユク石窟を見学するために、トルファンから火焔山の南を東進し、やがて火焔山の中に入っていった。火焔山と同じ色をした土で造られたイスラームの民ウイグル族の墓が点々とあった。
ガイドの丁さんが、市場はバザール、お墓はマザールです。丸い屋根のお墓には4人入ります。6人の家族の場合は、大きなお墓1つと一人ずつのお墓が2つですと教えてくれたのを懐かしく思い出す。
上のトユク村の墓はやや尖頭形のドームだったが、トルファン近郊の蘇公塔のあるモスクに付属の墓地にも天蓋墓はあった。こちらは丸みのあるドームに仕上がっていた。
これが、サーマーン廟から広まったイスラーム教徒の墓であったとは。関連項目
ウズベキスタンの真珠サーマーン廟1 美しい外観
ウズベキスタンの真珠サーマーン廟2 内部も美しい
ムカルナスとは
ムカルナスの起源
サーマーン廟のスキンチはイーワーンに
スキンチ部分のムカルナスの発展
※参考文献
「季刊文化遺産13古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「イスラーム建築の見かた-聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「世界のイスラーム建築」 深見奈緒子 2005年 講談社現代新書1779
※参考ウェブサイト
澤野建築研究所建築紀行イラン3-ペルセポリス2
2007/07/04
アカンサスと人物の柱頭は
アカンサスの葉を表した柱頭はコリント式柱頭と呼ばれ、古代ギリシア時代に誕生した。それが東漸していくうちに、葉の間に人物、あるいは人頭が出現する。中央アジアで2から3世紀の頃である。
そして、アカンサスと人物という組合せは雲崗石窟では中期(470-494年)にあらわれる。
この時空間を埋めるものは見つけられるのだろうか。数少ない蔵書を探してみたが、雲崗石窟が影響を受けたといわれる河西回廊の石窟は、壁画も浮彫も、建物に関する写真を見つけることができなかった。
そこで、敦煌莫高窟の初期窟を探してみた。
14 敦煌莫高窟第248窟南壁上部 天宮伎楽 北魏(439-535年)
鴟尾付きの屋根のある建物に楽人、アーチに伎天という配置が交互に並んでいるが、柱は見えない。上部にアカンサスの葉や半パルメットの帯状装飾はあるのに。
15 敦煌莫高窟第257窟西壁中層 鹿王本生部分 北魏(439-535年)小さな屋根にも1対の鴟尾があるが、柱は線程度にしか描かれない。建物の周囲に矢狭間や望楼のある壁が巡っている。望楼には1対の白いギザギザがあるが、これがアカンサスではないだろう。
16 敦煌莫高窟第275窟南壁 北涼(397-439年)敦煌莫高窟で最も古い北涼時代の窟の1つだが、敦煌は前漢より漢族が居住していた町だけあって、建物は漢族風で斗栱まで表現されている。
下に四門出遊のうち2つが描かれ、上には並ぶ闕形龕の中にそれぞれ交脚菩薩像が表されている。 異国風なものと言えば、中層の忍冬文帯くらいだ。
17 克孜爾(キジル)石窟第77窟左甬道外壁上部 天宮伎楽部分 3世紀末-4世紀中敦煌莫高窟より西にあるトルファン郊外のトユク石窟にもアカンサスの柱頭の写真はなかったので、キジル石窟で探してみた。
『中国新疆壁画全集 克孜爾1』(中国語のため、適当に訳した)によると、
一条の忍冬文帯飾りは上の菱形の禅修図と分割するもので、その下には円形の垂木の先が出ている。下部には一条の欄干が台のようである
ということで、この段には交脚菩薩像を中心に菩薩や伎楽天などが並んでいるのだが、軒を支える柱は全く描かれていない。
ということで、私の持っている本からは探し出すことができなかった。※参考文献
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社
2007/01/26
パルティアン・ショットは北方遊牧騎馬民族のもの?
騎馬像をいろいろ見ていると、鐙のあるなしだけでなく、乗り方にも気になってくる。それは後漢(後100年頃)の画像石にも表されているパルティアンショットだ。
34 狩猟文夾纈絹 唐(8世紀) トルファン、アスターナ出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
獲物に向かって矢を射るというよりも、襲いかかる獅子から逃れるために振り返って矢を放とうとしているように見える。
35 四騎獅子狩文錦 7世紀後半 法隆寺蔵『正倉院裂と飛鳥天平の染織』は、馬上の人物は半月をいただく宝冠を着け、頬髭豊かな雄偉な顔立ちをしており、乗馬もまた有翼で瑞祥性を帯びている。ササン朝ペルシャの銀器浮彫などにみえる帝王狩猟図の伝統を忠実に伝えている。主文中の馬腹に「山」「吉」の織文字があるところから中国製と考えられている。という。
36 狩せき(けものへんに昔)図 敦煌莫高窟249窟 西魏(535-557年)『中国石窟 敦煌莫高窟1』は略字の中国語で書いてあるので解説はほとんどわからないのだが、「反身張弓、箭射猛虎」が左下隅のパルティアンショットで虎を狙っている図のことだとわかる。文字を見ていると、反弾琵琶のように、実際にはできないことのように思ってしまう。
37 狩猟図 魏晋時代(220-386年) 甘粛省嘉峪関出土嘉峪関は河西回廊にあり、騎馬民族が古来より住んできたところなので、 パルティアンショットのような離れ業も難なくこなせたのかも知れない。
38 シャープール2世狩猟文杯 銀鍍金 ササン朝ペルシア(4世紀) ロシア、ウャトゥカ地方で偶然による発見 エルミタージュ美術館蔵ササン朝ペルシアには王が騎乗よりライオンや虎などに矢を放ったり、直接刀で斬りつけるという図が数多くある。それらに共通するのは標的の動物と同じ種類の動物が馬の下で横たわっている。
39 騎馬狩猟図 2-3世紀 パキスタン、ガンダーラ出土パルティアンショットだと思っていたが、よく見ると騎乗の人物は皆後ろ向きに乗り、ライオンやグリフィンと戦っている。そんなことできるのだろうか?
40 雑技図 画像磚 後漢(1-3世紀) 河南省出土 同省新野県漢画磚博物館蔵「斜索戯車の雑技を表し、右半分が欠けている。 ・略・ ほかに馬に乗って後ろ向きに弓矢を放つパルティアンショットの曲芸も描かれる」という解説から、中国では戦いや狩猟の技ではなく、曲芸になっている。 この図は文頭で紹介した「16 墓門上部の彩色画像石」 と同じ時代のものである。
41 猪狩猟文帯飾り板 スキタイ・シベリア(前4-3世紀) ピョートル・コレクション エルミタージュ美術館蔵私はパルティアンショットというのは、名前がわかるまでは北方遊牧騎馬民族の狩りの方法だと思っていた。ところが、どの本からも探し出すことができなかった。狩猟文そのものがほとんどなく、やっと見つけたのが、下図だった。解説には「かなり多くの象嵌が施されているが、これはスキタイではなくもやはつぎのサルマタイ時代の美術の特徴で」としている。
北方遊牧騎馬民族はパルティアンショットはしなかったようだ。
42 安息式射法? 壺絵 スキタイ・シベリア(前4-3世紀)パルティアンショットは紀元後に行われた射法なのだろうか。
『ウマ駆ける古代アジア』は、騎射しながら進行方向と逆、うしろ向きに矢を射るのを安息式射法(英語パルティアンショット)といっている。安息(アルサケス朝ペルシア、パルティア)の名が冠されているが、これがスキュタイ系諸文化の軍事力の強さの特徴とされてきた。これはプルタルコスなどの西洋古典古代の記録に、対戦相手のアルサケス朝軍が退却(ローマ人からみたら恥ずべき行為)をしながらも、適を攻撃できる戦法をとる、という賞讃とも皮肉ともとれる記述があるのでこの名がある。
それでは安息式射法とは、何か。従来は下図のように、前向きにまたがりながら、上半身を180度ひねって後方を射ることと解されてきた。もちろんこれでも進行方向とは逆の方を射ることはできよう。しかしわざわざ特別な名をつけるほどのむつかしい技術であろうか。
最近、むしろ後方向きに馬に騎ることこそが、特筆に値する技術であるとの説が出たという。
パルティアンショットよりも「39 騎馬狩猟図」のような乗り方の方が難しいというのは確かだろう。
しかし、パルティアンショットが北方遊牧騎馬民族によって行われてきたことが明らかとなったし、それはアルサケス朝パルティアの建国よりずっと以前のことだということもわかった。
43 騎士狩猟文ファレラ 銀鍍金 前4世紀中葉 レトニツァ遺宝 ブルガリア、ソフィア考古学研究所博物館蔵パルティアンショットではないが、狙っている動物と同じものが馬の下に横たわっている。これは複数の動物を殺したことを示すのではなく、異時同図法による表現で、1頭の獣を狙っている場面と仕留めた場面を表しているのだろうか。ササン朝ペルシアでは「38 シャープール2世狩猟文杯」のように狩猟図はすべて同様の表現をしている。その起源はバルカン半島の騎馬民族だろうか。

※参考文献
「中国美術全集6 工芸編 染織刺繍」 1996年 京都書院
「正倉院裂と飛鳥天平の染織」 1984年 紫紅社
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国文明史5 魏晋南北朝」 羅宗真 2005年 創元社
「世界美術大全集東洋編2 秦漢」 1998年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 島根県並河萬里写真財団
「ウマ駆ける古代アジア」 川又正智 1994年 講談社選書メチエ11
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」 1993年 京都文化博物館・京都新聞社
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