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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/06/25

嵩岳寺の十二角塔を見たら北涼石塔を思い出した



6 嵩岳寺の塔 河南省登封 北魏、正光4(523)年 磚造
北魏時代の仏塔があることがわかり、正直いっておどろいた。中国は度重なる戦乱で古い建造物は残っていないと思いこんでいたこともある。
そして、中国最古の塔が十二角形であったこともまた驚愕に値した。塔は四角形という先入観に囚われていたに違いない。
その上十二角形の塔が磚で造られていたのだから、これはもう想像を絶する。そのような時代に、レンガをそれぞれの形の部材として大量に焼成し、それを積み上げるなんて。しかし、角をできる限りたくさん作って円に近づけたのだと思うと、磚や石だからこそできることのようにも思う。
崇岳寺の塔を見ていると、北涼石塔が頭に浮かんできた。似ているような気がする。

7 高善穆石塔 五胡十六国時代・北涼、承玄元年(428) 高44.6㎝ 蘭州市甘粛省博物館蔵

『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、甘粛省の酒泉や敦煌など五個十六国の北涼の地域から発見されている小型の石塔は、国外に流出したものを含めると現在20件近くの作例が知られている。頂部に相輪、身部は上層に仏坐像7龕と交脚菩薩像1龕の計8龕、 ・・略・・ というほぼ共通した形式で造られ、北涼の年号や420-430年代の年記や干支が確認できる。
高善穆の石塔は1969年に甘粛省酒泉城内から出土した。7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、 ・・略・・ これらが過去七仏と未来仏の弥勒菩薩の計8躯であることは、他の作例に記された題記からも明らかである
という。

数は同じではないが、7つの相輪の全体から受ける雰囲気が、嵩岳寺の十二角塔の密檐式の15の軒と重なる。
8 仏塔 五胡十六国時代・北涼、太縁2年(436) 高43㎝底径12㎝ 甘粛省粛州区博物館蔵
『中国国宝展図録』は、北涼(397-439年)は五胡十六国の1つで、現在の甘粛省に興った。中国の西に位置し、中央アジアやインドに近いこの地域から、北涼石塔とよばれる ・・略・・
塔は、下から基壇、胴部、覆鉢、城塞文の区画、7重の傘蓋、鋸歯文のついた半球形で構成される。 ・・略・・ 覆鉢は、蓮弁の下に8個の龕を設け ・・ (上と同じのため略)・・ 相輪は7重、頂部は土饅頭形で表面は周縁部を除いて無文だが、類品には蓮弁文を刻出する例がある。最頂部に穴をうがつ。塔の形状はガンダーラやカシュミールの作例の影響を色濃く示し、七仏と弥勒の組み合わせもガンダーラにはよくみられる。インドと中国の要素が融合し、当時の信仰のあり方をうかがわせる興味深い作である
という。

北涼石塔は『中国の仏教美術』で北涼塔として紹介されており、興味を持ったが、同書には残念ながら相輪のないトルファン出土の北涼塔の白黒写真が掲載されていた。
中国国宝展でこの北涼石塔が展示され、何度も周りを回って眺めたので、嵩岳寺の塔の写真を眺めていて頭に浮かんできたのかも知れない。
『中国の仏教美術』は、北涼塔の基層は八角形につくられているものが多く、うち7基にはその一面一面に中国の占いで古来より方角を示す記号「八卦」が刻まれ、八卦の下には天部と思われる円形頭光をつけた男性像と女性像が各4体ずつ線刻されている。男性像は上半身裸形に腰巻きをからげた姿、手に植物あるいは武器を持つ者が多く、中インドあるいは北インドの守護神の姿に近い。  
以上のようにこれらの石塔は北涼という国が、漢文化を基に独自の文化を築く中で、インド、アフガニスタン等の西方文化も取り入れていったようすを物語っている
という。

そのような東西の文化を取り入れた小さな北涼の石塔が、巨大な北魏の磚塔に何かしら影響を与えたと考えられなくもない。

9 楼閣形仏塔 北魏時代(5世紀) 石造・金 高38㎝ 基部16x16 甘粛省粛州区博物館蔵

『中国国宝展図録』は、『三国志』劉繇(よう、遥のつくりと系)伝には、後漢時代の笮(さく、竹かんむりに作のつくり)融という人物が作った塔について、「上に九重の銅槃(般の下に木)を重ね、下面は楼閣を重ね」たものと記す。また、四川省出土の後漢時代の画像磚には、3重の傘蓋をのせた三重塔が表される。これらはわが国でもなじみの深い木造楼閣形で九輪をいただく塔を髣髴させる。もともと中国では高層の楼閣建築をつくる伝統があった。仏塔がそこに融合する形で、楼閣形の塔は仏教伝来からさほど時を経ずに作られ始めたのだろう。 ・・略・・
上部は欠損しているが、残存部分の形からみて、もともと3層塔として作られたとみてよい。表面の一部にごくわずかながら金箔が残る。
基壇に刻まれた銘文に、「曹天護」という発願者の名がある。銘文冒頭の干支「己卯」は、太和23(499)年と解されている
という。 北魏時代には四角形の三重塔があったことが、このような小塔の存在でわかる。四角形の方が一般的だったのだろうか?それなら、雰囲気は違うが法隆寺の五重塔などの原型も中国にあったと言えるのではないだろうか。

※参考文献
「中国の仏教美術」 久野美樹 1999年 東信堂
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社
「中国仏塔紀行」 長谷川周 2006年 東方出版