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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2021/11/05

涼州式偏袒右肩は敦煌莫高窟現存最古の窟にも 


偏袒右肩の如来像はクシャーン朝期に現インドで造られるようになった。当時の僧たちの着衣を写したもので、蒸し暑いインドでは肌を露出していたからだという風に言われている。

仏三尊像 クシャーン朝、2世紀前半 総高71㎝ 砂岩 北インド、カトラー出土 マトゥラー博物館蔵
『インド・マトゥラー展図録』は、初期のマトゥラー仏の典型とされる作品である。中央の仏陀は、目を見開き、厚い唇の口元を強く引き締めた明るい表情であり、胸板は厚く、肘を張って堂々結跏扶坐していて、像高わずか40㎝に過ぎないが、たくましく野性的な力強さに満ちているという。
インド、カトラー出土仏三尊像 クシャーン朝、2世紀 『獅子 王権と魔除けのシンボル』より


それが中国に伝わり、肌の露出を嫌う中国人たちが涼州式偏袒右肩という形式を編み出したと言われ、その最初のものが炳霊寺石窟169窟6龕の如来坐像である。

無量寿仏(阿弥陀如来)坐像 炳霊寺石窟169窟6龕 西秦建弘元年(420)頃 像高1.55m
『北魏仏教造像史の研究』は、浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と名づけたこの地位形式は、筆者も、肩を露出しないという点で着衣の中国的な変化とする見解を提示している。炳霊寺石窟第169窟(西秦時代、420年頃)に出現したこの新しい着衣形式が、河西地区では434年頃に現れるとする殷氏の指摘は、この着衣形式の伝播を考える上で重要である。
建弘銘は、前半は判読できない部分も多いが、末尾に「建弘元年歳在玄枵3月24日造」の文字が確認できる。ただし、題記の中ほどには「請妙匠容慈尊像」云々とあり、慈尊すなわち弥勒を造ったという内容が見え、無量寿三尊像の題記としては疑問が残るという。
ということで、著者の石松日奈子氏は420年頃としている。

着衣の彩色が残っていないので、少し補色してみた。左胸の大衣の縁に緑色が残っていたが脚部の下側に赤茶けた色がある程度で、大衣自体の色彩はわからなかった。右首に回した大衣は、縁が剥落しているが、大衣自体は右腕を半分覆っている。そして両脚部をすっぽり覆った大衣は、左手下から分かれて縁が外側にきて蓮台にかかる。
涼州式偏袒右肩の最初とされる本像の大衣のまとい方は以上である。
炳霊寺石窟169窟6龕如来坐像 西秦建弘元年頃 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


『北魏仏教造像史の研究』は、北涼制圧の際には涼州の民3万余家が平城へ移され、塔寺盛況だった北涼の仏教文化が一気に平城へ流入した。
5世紀後半の平城仏教の隆盛は涼州仏教、涼州造像の存在なしにはあり得なかったと言っても過言ではない。仏教文化の最先端地区であった涼州からの徒民は、河北造像を基盤とするやや旧式の平城造像界に、インドや中央アジアの新しい流行様式を吹き込み、さらに、石窟造像という未知の造像世界をもたらしたという。

そして敦煌莫高窟の窟について同書は、従来明確な根拠がないままに北涼期とされてきた早期3窟のうち、少なくとも第275窟に関しては年代を北魏時代、5世紀半ば以降に下げるべきであろうという。
これについては前回記事にしたので、今回は北涼時代の制作とみなされ、北魏時代とは断定されていない他の2窟、268窟・272窟の如来の着衣について。


268窟 窟頂平棋 北涼
『北魏仏教造像史の研究』は、奥壁に塑像の如来交脚像を造り、左右には2つずつの房室を設ける僧房窟であるという。

西壁如来交脚像 高さ0.76m 
『敦煌莫高窟1』は、偏袒右肩に着て左右両側に供養菩薩が描かれる。龕庇は火焔文で装飾され、莫高窟唯一のギリシア式柱頭が描かれる。龕外には供養菩薩が跪き、上方に2飛天、龕下には供養者が描かれるという。
今回見学した中原の石窟では、アーチ形の龕庇を柱頭のある柱で支えているものを見てきた。炳霊寺石窟でも128窟(北魏時代)では、龕庇の龍下端に龍頭、それを支える柱頭は蓮華になっている。アーチ形龕庇と柱頭という組み合わせが定着して、中国化していった様子が窺える。

『北魏仏教造像史の研究』は、上段南側には女性の供養者が描かれ、一人は漢族の大袖に裙襦、もう一人は漢胡混交して小袖に衫裙を着る。北側は男性の供養者で、ひとしく漢族の深い袍で、漢族晋の衣冠制である。敦煌や酒泉では、魏晋十六国時代の墓の壁画に描かれた衣冠に似ているという。
敦煌莫高窟に現存する最古の窟の一つは、どうやら漢族が奉献したもののよう。前漢の武帝がシルクロードを拓いて以来、敦煌は漢族の町だったので、漢族がこの窟を開鑿したとしても不思議ではない。
敦煌莫高窟268窟西壁如来交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

『北魏仏教造像史の研究』は、如来交脚像は袈裟を偏袒右肩に着けるが、インドの偏袒右肩と異なり、右肩に衣を少しずつ懸ける形は、炳霊寺第169窟の如来像に見られる特徴(涼州式偏袒右肩)と共通するという。
如来の右腕が失われているのは残念だが、右肩から腕に浅く懸かる大衣の縁が腕の裏側から、ぐるりと脇腹に回り、それが腹部と胸部を斜めに交差して左肩に懸かる様子がよく表されている。
涼州式偏袒右肩という点で、169窟6龕の如来坐像から中国風に変化していく様子が分かる如来坐像である。この図版では着衣の衣文線が見えない。
ただ、私には頭部が北涼や北魏風ではないように思える。石松氏は後補とは指摘されていないのだが。
敦煌莫高窟268窟西壁如来交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


272窟 
『北魏仏教造像史の研究』は、方形のプランで、奥壁に塑像の如来倚坐像(頭部は補作)と多数の供養菩薩像の壁画という。
敦煌莫高窟272窟西壁如来倚像 『敦煌への道上 西域道編』より

如来倚像  
本像は右肘まで残っているので、右肩から腕へと懸かる大衣は肘下から左肩へと上がり、その衣端は左肩から腕にかけて、折畳文をつくりながら垂れている様子が表現されている。
しかしながら、見方を変えると、通肩に着ていた大衣をぐっとゆるめて胸をはだけ、右腕を出しているとも解釈できる。内着の僧祇支は団花文のよう。
また、アーチ形龕頂部には、天蓋が四半球の形に合わせて描かれている。
後半の最外側には火焔文、その内側は頭光には化仏、身光には飛天が描かれるが、身光の更に内側に描かれているものはわからない。
敦煌莫高窟272窟西壁如来倚像 『敦煌への道上 西域道編』より

左肩に懸かる衣端が折畳文になっているのも特徴的だが、左手から垂下する大衣の衣端がひらひらとしていて、その着衣の薄さの表現は169窟7龕の如来立像に近い。
炳霊寺石窟169窟7龕 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

しかしながら、身体に密着した大衣のU字形衣文線は凸線で表されるのは、敦煌莫高窟275窟の菩薩交脚像と共通する特徴である。
じっくり見ると奇妙な着衣表現の本像が、272窟の衣文線を真似たのかも。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『世界美術大全集3 三国・南北朝』より

如来説法図 側壁
『北魏仏教造像史の研究』は、左右壁は如来坐像の説法図を描くという。
肉髻がなく、涼州式偏袒右肩の大衣を極端にはだけているが、これは炳霊寺石窟169窟6龕(西秦)の如来坐像に似る。ただ、6龕の如来坐像は禅定印を結ぶのに対し、本像は施無畏与願印にも見えるが、右手は胸前に挙げ、左手は衣端を握っているのだろう。
このような手の表現は、炳霊寺石窟169窟の西秦像では立像にみられる。
脚部の張り出しの少ない如来坐像である。
敦煌莫高窟272窟左右壁如来説法図 『北魏仏教造像史の研究』より

坐像としては右手が残っていないので断定できないが、20龕の五如来坐像のうち、窟口から2番目の如来坐像が左手で衣端を握っている。
炳霊寺石窟169窟20龕如来五尊うち 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


268窟と272窟にも炳霊寺石窟169窟(西秦)の如来像の特徴が見られ、それが変化せずに採用されている。北涼時代としても良いのではないだろうか。



関連項目
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「敦煌への道上 西域道編」 石嘉福・東山健吾 1995年 日本放送出版協会
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社
「獅子 王権と魔除けのシンボル」 荒俣宏・大村次郷 2000年 集英社
「中国石窟芸術 炳霊寺」 甘粛省炳霊寺文物保護研究所編 2015年 江蘇鳳凰美術出版社
絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦」 主編鄭炳林 2021年 


2021/02/26

敦煌莫高窟20 427窟に四天王像、金剛力士像、そして新たな三世仏


北周期の428窟に隣接して隋代に427窟が開鑿された。
莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

427窟 隋代(581-618)
平面図では前室は窟門もなく開放されているようだが、見学した時は下図のように木造の建物のようになっいて、内部も柱や梁も木材で、天井は化粧屋根裏になっていた。
『敦煌莫高窟2』は、この窟は前室と主室がそのまま残っていて、隋代では最大。前室は幅6.8m、奥行3.4mで、三間四柱の宋代の木造建築であるという。
崩壊した窟前半を南宋期(1127-1279)に修復したのだろう。

入るとまず巨大な天王像群に圧倒された。
同書は、南北各塑造の天王2体は高さ約3.6mで宝冠を戴いている。四天王像四方を護る仏法の神である。東方は持国天、南方は増長天、西方に広目天、北方に多聞天が配されている。
西壁の両側には塑造の金剛力士像があり、高さ約3.7mで宝冠を被り、上半身は裸、披巾に裙をまとう。四天王と金剛力士は隋代に新たに加わった像である。それらの像は宋代に重修されている。
また前室窟頂には宋代の涅槃変相図があるが、その中に隋様式の涅槃図があるという。
壁画や天王像なども宋代の色彩の特徴を示している。
中国で邪鬼を踏む天王像を見るのは珍しい。四天王像や金剛力士像が加わったのは隋代からだったのだ。では、北魏時代の北石窟寺165窟前の天王像は何?

北壁東側で宝塔を左手で掲げているのが多聞天、西側は広目天、
427窟前室 隋代と宋代 『敦煌莫高窟2』より

南壁西側のこの像は増長天、東側は持国天だろう。
427窟前室南壁西側 広目天及び邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

持国天の踏む邪鬼
427窟前室南壁東側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

広目天の踏む邪鬼
427窟前室北壁西側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

多聞天の踏む邪鬼
427窟前室北壁東側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

邪鬼は日本のものに比べると人間ぽい。
日本の四天王像が踏む邪鬼については下の関連項目参照のこと

『敦煌莫高窟2』は、主室前半は人字披天井、後部は平天井で、北朝の中心柱形式にのっとっている。しかしながら変化もあり、中心柱正面には龕がなく、大型の仏立像が安置されている。一仏二菩薩の組み合わせで、蓮台の上に立つ。中尊は紅色で袖口の広い大衣をまとい、高さは4m余りあるという。

中心柱東向き壁 釈迦三尊像 
前室の巨大な二天像や四天王像を見た衝撃で心が落ち着かないまま主室に入ると、これまた背の高い三尊像が立ち塞いでいるのに驚くことになる。しかもその背後が中心柱だとは気付かなかった。それは主室壁面のほぼすべてが千仏で覆われているので、空間的な把握ができなかったこともある。
床から2段の反花と一重の受花の蓮台があり、その上に現在仏の釈迦と二菩薩が立っている。釈迦の着衣は通肩で、体の線が出るくらいに薄くて密着している。

とりあえず千仏だらけの天井や壁面の中を、中心柱を左繞していった。
427窟 東向き壁仏三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱北向き壁 
図版にはないが龕内には説法する塑像、龕外には二菩薩が描かれている。細身の菩薩たちは、それぞれの身の動きで描かれるが、左手には水瓶を下げている。
427窟 中心柱北向き龕外 二菩薩図 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱西向き壁
龕内には釈迦が説法し、右手には若々しい阿難が女性のように美しく表されている。通肩の衣を着けた阿難は珍しいのでは。
427窟 西向き龕内 阿難像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱南向き壁の説法像
龕内には年老いて痩せた迦葉が合掌している。
主室前半人字披天井のところに未来仏の弥勒三尊像が安置される。三尊像が前方に傾いているのは、信者に顔がよく見えるように造られているからだと、黄土高原の石窟めぐりでお世話になったガイドの丁さんが言っていた。 
427窟 中心柱南向き龕内 説法する釈迦と迦葉 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

南壁 未来仏の弥勒三尊像
『仏教美術のイコノロジー』は、弥勒下生経典には弥勒が大仏となって出現することが説かれているというので、莫高窟にはもっと巨大な仏像も2体あるが、窟内の大きさからすると大像として表されたのかも。
その隣の何も描かれていないところには何があったのかが気になるなあ。
427窟 主室前半南壁 弥勒三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱を回って主室に戻ると、左右の側壁にも大きな三尊像が立っているので、三世仏であることを知るのである。

萩原哉氏の三世仏の造像-鐘山石窟第3号窟の三仏を中心としては、三世仏は本来過去仏(過去七仏の一体)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)だったが、賀世哲氏は、敦煌莫高窟の三世仏造像について検討を加えるなかで、莫高窟には北涼時代以来、過去七仏中の一仏と、現在仏・釈迦、未来仏・弥勒の三尊で構成される三世仏造像の伝統があったこと、過去仏として阿弥陀仏をあらわす新たな三世仏は、隋代造営の第276 窟に出現し、以後、唐代を通じて盛んに造像されたこと、そして、阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊で構成される新たな三世仏の出現と流行の背景には、隋唐時代に隆盛した阿弥陀浄土信仰の影響が認められることなどを指摘しているという。 

北壁 過去仏の阿弥陀三尊像
427窟 主室前半北壁阿弥陀三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

主室最下段には供養者図が一巡する。


関連項目
東大寺戒壇堂の四天王像

参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館

2021/02/19

敦煌莫高窟19 428窟は一仏二弟子二菩薩像の最初


莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌莫高窟の428窟(北周)と427窟(隋)は、隣り合う中心柱窟で、それぞれの特徴がそれぞれの時代の様式を表している。
敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

428窟 北周期(557-581)
『敦煌莫高窟1』は、敦煌の早期では最大の中心柱窟、幅10.8m、奥行13.75m。北魏の254・257・248窟などとほぼ同じ形である。
中心柱四面龕内には結跏趺坐する如来が説法する様子を表現している。如来の顔は四角く、着衣は褒衣博帯という。

『中国の仏教美術』は、この時代を代表するのは第428窟である。莫高窟の北周塑像もまた、坐像にあっては胴長、全体としては頭部が大きめで、いわゆる童子形といえるという。
やはり中心柱を右繞する通路の天井はラテルネンデッケが並んでいる。
428窟中心柱東向き壁 釈迦説法像 北周 『敦煌の美と心 シルクロード夢幻』より

龕外にいるのは菩薩で、天王ではない。龕内には、上図では釈迦の右手に阿難が、下図では釈迦の左手には迦葉という十大弟子の最年少と最年長が釈迦の説法を聴いている。
『敦煌の美と心』は、仏弟子は右が迦葉、左が阿難である。莫高窟の初期の塑像は仏・菩薩・天王だけであったが、北周から仏弟子があらわれるようになる。この窟の仏弟子は最初期のものであるという。
なんと、そうだったのか🤗 一仏二弟子二菩薩という群像の成立は北周期だったのだ。
428窟中心柱東向き壁 一仏二弟子二菩薩像 北周期 『中国の仏教美術』より

どの図版にも阿難と迦葉を写したものがないので合成してみたが、若い阿難はそれなりに見分けることができるものの、『中国の仏教美術』では、清代の彩色もあって、年老いた雰囲気が伝わってこない。
428窟中心柱東向き壁 一仏二弟子二菩薩像うち阿難と迦葉 北周期

主室北壁
人字披天井とは、切妻天井で、頂部に平たい部分がある中国式の天井のこと。
この狭い三角形の頂部にも、説法図が描かれているが、千仏の下にはもっと大きな説法図が描かれているのが、下図に部分的に見える。
428窟前室北壁 釈迦説法図 北周 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

説法図の続きには千仏の下に仏伝図が並ぶ。 
『中国の仏教美術』は、北周の莫高窟において顕著な現象は、本生、仏伝、因縁といった、小乗仏教的な壁画主題の扱われ方に変化が生じた点である。5世紀に造営された現存左の窟からも北周が敦煌を治める6世紀中頃にかけて、多くの場面を連続して表す形式の小乗的主題は、後壁や側壁といった石窟内の目立つ部分に描かれている。しかし、6世紀後半の北周時代にそれらは前壁に移され、やがて追いやられるようにして天井に表されるという。
428窟北壁 千仏と仏伝図  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

仏伝図としては、

釈迦説法図の左に降魔成道図
『シルクロードの仏たち』は、釈尊が菩提樹の下で禅定に入り、成道(悟り)の時が近づくと、マーラー・パピヤス(波旬)が現れた。マーラーは欲望を満たしてくれる最高神で、釈尊のように欲望を棄てようとする菩薩にとっては邪魔者である。降魔は悪魔のマーラーとその一族が降伏する意味で、降魔の後に釈尊は清浄な四禅定と呼ばれる状態に至ったという。
428窟北壁 降魔成道図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

涅槃の場面
『敦煌莫高窟1』は、敦煌の早期壁画の中では唯一の涅槃図。釈迦は沙羅双樹の下で涅槃に入り、右脇を下にして臥しているという。
キジル石窟では中心柱の奥の壁面には必ず涅槃図あるいは涅槃像があるが、この窟では西壁に描かれている。釈迦の足をさすっているのは、説法に出掛けていて釈迦の涅槃に間に合わなかった迦葉。顔料が変色してしまって、人物の顔貌は想像もできない。
横向きに臥しているのに、その足だけは上を向いている。こんな絵が私は好き😊
428窟西壁 仏涅槃図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

『シルクロードの仏たち』は、インドでは古代から輪廻が信じられてきた。過去における前生の出来事の物語-これをジャータカ(本生譚)と呼び、釈尊が過去における別の生涯で善行をした物語が多い。初期仏教(上座部)では「ジャータカ」が多く、大乗仏教が盛んになると「仏伝」(釈尊の生涯)が比較的多くつくられるようになったという。

スダーナ太子本生図
自分の持ち物を請われるままに与えてしまうスダーナ太子の物語。
『敦煌莫高窟1』は、上段は白象をバラモンに求められたため与える太子の場面。中段は宝象に乗ったバラモンたちが国に帰り、太子にもらったことを告げる場面。下段は太子が山に入り修行する場面を表すという。
428窟東壁北側 スダーナ太子本生図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

サッタ太子本生図または捨身飼虎図 
左上の場面では、太子は寝そべったが、弱った母虎は食べることが出来なかった。その右の場面では、自分の首を落として崖から飛び降り、肉体が砕けた状態で地面に落下したので、母虎も子虎たちも肉を食べて生き延びることができた、というような話。
下段では、そのことを聞いた2人の兄が遺骨を拾い、国王が供養塔を建てたという。
428窟東壁南側  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

盧遮那仏 南壁中層
『敦煌莫高窟1』は、通肩の袈裟を着けた盧舎那仏は、立ったまま説法をしている。左右には眷属の菩薩たち、敦煌莫高窟で最初期の盧舎那仏説法像であるという。
大乗仏教の毘盧遮那仏は隋代に登場する。上座部仏教の本生図などもあって、その分岐点が428窟なのだった。
428窟  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

同書は、袈裟に描かれた絵画は、「欲界」を表している。上部は天で、仏像、天宮、阿修羅、飛天。
大衣の裾までの中部には人界の4場面。赤い衣文線で4つに分けている。
下部は無間地獄で刀の出た山、剣の池、餓鬼などが表されている。図の下には供養者が描かれているという。
428窟  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

北魏による長期の統治の後、東魏、北周、隋と短い政権がころころと建っては滅んでいった。短期ではあっても、それぞれの時代の特徴が仏教美術に表れている。


「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣
「図説釈尊伝 シルクロードの仏たち」 久野健監修・山田樹人著 1990年 里文出版