莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
中心柱北向き壁
427窟 隋代(581-618)
平面図では前室は窟門もなく開放されているようだが、見学した時は下図のように木造の建物のようになっいて、内部も柱や梁も木材で、天井は化粧屋根裏になっていた。
『敦煌莫高窟2』は、この窟は前室と主室がそのまま残っていて、隋代では最大。前室は幅6.8m、奥行3.4mで、三間四柱の宋代の木造建築であるという。
崩壊した窟前半を南宋期(1127-1279)に修復したのだろう。
入るとまず巨大な天王像群に圧倒された。
同書は、南北各塑造の天王2体は高さ約3.6mで宝冠を戴いている。四天王像四方を護る仏法の神である。東方は持国天、南方は増長天、西方に広目天、北方に多聞天が配されている。
西壁の両側には塑造の金剛力士像があり、高さ約3.7mで宝冠を被り、上半身は裸、披巾に裙をまとう。四天王と金剛力士は隋代に新たに加わった像である。それらの像は宋代に重修されている。
また前室窟頂には宋代の涅槃変相図があるが、その中に隋様式の涅槃図があるという。
壁画や天王像なども宋代の色彩の特徴を示している。
中国で邪鬼を踏む天王像を見るのは珍しい。四天王像や金剛力士像が加わったのは隋代からだったのだ。では、北魏時代の北石窟寺165窟前の天王像は何?
北壁東側で宝塔を左手で掲げているのが多聞天、西側は広目天、
持国天の踏む邪鬼
広目天の踏む邪鬼
多聞天の踏む邪鬼
427窟前室南壁東側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より |
427窟前室北壁西側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より |
427窟前室北壁東側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より |
邪鬼は日本のものに比べると人間ぽい。
日本の四天王像が踏む邪鬼については下の関連項目参照のこと
『敦煌莫高窟2』は、主室前半は人字披天井、後部は平天井で、北朝の中心柱形式にのっとっている。しかしながら変化もあり、中心柱正面には龕がなく、大型の仏立像が安置されている。一仏二菩薩の組み合わせで、蓮台の上に立つ。中尊は紅色で袖口の広い大衣をまとい、高さは4m余りあるという。
中心柱東向き壁 釈迦三尊像
前室の巨大な二天像や四天王像を見た衝撃で心が落ち着かないまま主室に入ると、これまた背の高い三尊像が立ち塞いでいるのに驚くことになる。しかもその背後が中心柱だとは気付かなかった。それは主室壁面のほぼすべてが千仏で覆われているので、空間的な把握ができなかったこともある。
床から2段の反花と一重の受花の蓮台があり、その上に現在仏の釈迦と二菩薩が立っている。釈迦の着衣は通肩で、体の線が出るくらいに薄くて密着している。
とりあえず千仏だらけの天井や壁面の中を、中心柱を左繞していった。
中心柱北向き壁
図版にはないが龕内には説法する塑像、龕外には二菩薩が描かれている。細身の菩薩たちは、それぞれの身の動きで描かれるが、左手には水瓶を下げている。
中心柱南向き壁の説法像
427窟 中心柱北向き龕外 二菩薩図 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より |
中心柱西向き壁
龕内には年老いて痩せた迦葉が合掌している。
主室前半人字披天井のところに未来仏の弥勒三尊像が安置される。三尊像が前方に傾いているのは、信者に顔がよく見えるように造られているからだと、黄土高原の石窟めぐりでお世話になったガイドの丁さんが言っていた。
『仏教美術のイコノロジー』は、弥勒下生経典には弥勒が大仏となって出現することが説かれているというので、莫高窟にはもっと巨大な仏像も2体あるが、窟内の大きさからすると大像として表されたのかも。
その隣の何も描かれていないところには何があったのかが気になるなあ。
中心柱を回って主室に戻ると、左右の側壁にも大きな三尊像が立っているので、三世仏であることを知るのである。
萩原哉氏の三世仏の造像-鐘山石窟第3号窟の三仏を中心としては、三世仏は本来過去仏(過去七仏の一体)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)だったが、賀世哲氏は、敦煌莫高窟の三世仏造像について検討を加えるなかで、莫高窟には北涼時代以来、過去七仏中の一仏と、現在仏・釈迦、未来仏・弥勒の三尊で構成される三世仏造像の伝統があったこと、過去仏として阿弥陀仏をあらわす新たな三世仏は、隋代造営の第276 窟に出現し、以後、唐代を通じて盛んに造像されたこと、そして、阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊で構成される新たな三世仏の出現と流行の背景には、隋唐時代に隆盛した阿弥陀浄土信仰の影響が認められることなどを指摘しているという。
北壁 過去仏の阿弥陀三尊像
関連項目