長年の夢だったミダス王の墓と呼ばれ、現在ではMM墓とされている墳丘墓をやっと見学することができた。
『古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編』は、この墓はまず地表に大きな角材と丸太を組み合わせて墓室となし、その上を石で覆い、さらにその上に盛り土をして造られている。
リュディアとフリュギアの古墳については、北方草原地帯の遊牧民(スキタイなど)からの影響と見る考え方もある。確かにとりわけフリュギアの古墳の構造は前期スキタイ時代の古墳と類似する点が多いが、年代的にはほとんど同時かむしろフリュギアの方がやや古いくらいなので、簡単に認めるわけにはいかない。トンネルは発掘時に設けられたという。
その全景
フリギア時代の墳丘墓はどこから伝わったものだろう。
外観はミケーネのアトレウスの宝庫(前1250年頃)のようなトロス墓に似ているが、ドローモスと呼ばれるこの外側の通路さえフリギアの墓にはなかった。
切石を持ち送りながら積んでいき円錐ドームを架構している。下図から、最も下の石が大きく、段々小さな石を積み上げていることも分かったし、フリギアの墳丘墓には木槨墓室に一人しか埋葬しないのに対し、ミケーネでは複数の遺体がそれぞれ墓坑を掘って安置されていた。
『古代ギリシア遺跡事典』は、前1200年頃、ミケーネは他のミケーネ文明の諸王国の都と同様に、暴力的な破壊を受けて焼け落ちてしまうという。
この頃ミケーネだけでなくヒッタイトなども同じようなことが起こり、以前は海の民によるものとされてきたが、現在では、3.2kaイベントとよばれる(3200年前に起きた)地球規模の気候変動の一端(『古代オリエントガイドブック』より)とされている。
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気候の変動で食べ物を求めてよその土地を侵略し、侵略された者たちもに他の土地に侵略するということの連鎖反応で、次々と別天地を求めて移動していった。その中の印欧語族のフリギア人が前12世紀頃にヒッタイト帝国の領土に定着したのだが、前8世紀頃の墳丘墓はミケーネのものとはかなり違う。
これだけの年数の隔たりがあれば、伝統的な埋葬も受け継がれなかっただろう。
ともあれ、現在MM墓以外にも小さな墳丘墓はたくさんある。
『GORDION MUSEUM』は、ゴルディオン近郊には、円錐形の土盛りの墳丘墓である古墳が80-90基あり、そのうち約35基が発掘されている。埋葬時期は前8世紀半ばからヘレニズム時代(前3-2世紀)までと広範囲にわたる。7世紀後半までは、死者(ほぼ常に1基の古墳に1人)は木製の墓室に埋葬されていたが、その後、墓室を使わずに火葬する方式が好まれるようになった。この形式の埋葬は青銅器時代の中央アナトリアでは知られていなかったため、古墳埋葬の長い伝統を持つヨーロッパから来たフリギア人によってもたらされたと考えられている。古墳の数が比較的少なく、その多くに豪華な埋葬物が含まれていたことからもわかるように、古墳の下に埋葬されることは間違いなく社会のエリート層に限られていたという。
ゴルディオン古墳群について『古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編』(以下『古代王権の誕生Ⅲ』)は、1973年の調査で土葬の古墳が18基、火葬の古墳が9基発掘されているが、今のところ前者の報告書だけが二冊刊行されている。古墳群の中で最も古いとされているのはW号墳で、前750-740年という年代が与えられている。高さ22m、直径150mで、古墳群の中では二番目に大きい。原地表面上に角材で造られた木槨の墓室があるという。
残念ながらこんなにたくさんの墳丘墓があり、発掘されたものもあって名称も付けられていてもその位置が分からるものはほとんどない。 琥珀の首飾りがたくさん発見されたT52墓(前740-30年頃)も同様である。
KY号墳墓壙と木槨墓 『古代王権の誕生Ⅲ』より
『古代王権の誕生Ⅲ』は、やや小規模な古墳の中には木槨墓室を地下に造ったものもある。MM号墳と同じ時期に造営されたとされるKY号墳は墳丘がだいぶ削られているが現状で高さ4.5m、直径60mである。「堅い土層」に3mほど掘り込まれたほぼ方形の墓壙に角材造りの木槨墓室があり、木様と墓壙との間には銜を装着した馬が2頭伴葬されていた。報告者は「堅い土層」を一応カッコ付きで「人工」としている。したがって、人工の土層であればこれは地上墓ということになるが、たとえそうであったとしても、「堅い土層」に掘り込んであれば、意識の上では地下墓であったと見てよいであろうという。
❶軟らかい褐色土 ❷石灰岩のくず ❸「人工的に設けられた」堅い土 ❹地山、❺馬の伴葬
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、歴史記述を総合すると、フリュギア人はその故地であったマケドニアやトラキアからアナトリアに移住してきたというが、ゴルディオンのフリギア時代の墳丘墓は、マケドニアやトラキアの墓よりも年代が古い。
ヴェルギナ大墳丘の王墓 前4世紀
『世界歴史の旅 ギリシア』は、テサロニキの南西、ピエリア山脈の麓に位置するヴェルギナでは、初期鉄器時代から前6世紀にかけての小円墳やヘレニズム時代の王宮跡などが知られていたが、1977-78年に豪華な副葬品とファサードのみごとな墳墓が発掘されて大きな反響をよんだ。
調査にあたったテサロニキ大学のアンズロニコスは、未盗掘でもっとも副葬品の豊かな第2墳墓を、壁画や出土品の吟味にもとづいて「フィリポス二世の墳墓」と断じたという。
調査にあたったテサロニキ大学のアンズロニコスは、未盗掘でもっとも副葬品の豊かな第2墳墓を、壁画や出土品の吟味にもとづいて「フィリポス二世の墳墓」と断じたという。
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| ヴェルギナ フィリッポス二世の墓 ギリシャを巡るより |
フリギアがキンメリア人によって滅ぼされて以降、この地はリディアに支配され、その後はガラティア人がゴルディオンに住んだ時期がある。
チョルム考古学博物館の説明パネルは、ガラティア人はヨーロッパからアナトリアに移住した最後の部族。インド・ヨーロッパ語族の一つであるケルト人は、前278年に三つの大きな部族としてアナトリアに押し寄せ、ハリュス川に定住したという。
ハリュス川の現在名はクズルウルマク川
そのガラティア人の墓のすぐ近くまで来ていたのに見ることができなかったとは残念だが、幸いゴルディオン博物館の図録に掲載されいた。
トゥルムスO墓 前300年頃
PENN MUSEUM の Expedition Magazine の Of Outstanding Value to Humanityは、ヘレニズム時代の埋葬地、O号墳は1955年に発掘された。石室を持つこの墓は土塁で覆われ、ガラティアの他の王朝時代の埋葬地にも見られる特徴的な持送り屋根を有している。この墓は古代に略奪されていたが、テラコッタ製の石棺の破片が発見されたという。
外から見ると平たい石材を積み重ねただけのように見えるが、内部で見上げるとラテルネンデッケ(三角隅持ち送り天井)に近いのではないだろうか。
『GORDION MUSEUM』は、1954年、この古墳は不法に掘り起こされ、後にゴルディオン発掘隊によって「トゥムルスO」と名付けられた。その後50年間、古墳の状態は荒廃し、略奪と自然災害の被害を受けた。文化省の介入がなければ、ガラティア人古墳は数年のうちに完全に消滅していただろうという。
ドームとはほど遠い角錐形だったかも。
石室を持つこの墓は土塁で覆われ、ガラティアの他の王朝時代の埋葬地にも見られる特徴的な持ち出し屋根を有している。この墓は古代に略奪されていたが、テラコッタ製の石棺の破片が発見されたという。
中には入れそうもないが。
関連記事
アナトリアにはミダス王の木槨墓(古い記事)
参考サイト
ゴルディオンで発掘調査を続けているペンシルベニア大学のPENN MUSEUM Expedition Magazine の Of Outstanding Value to Humanity
参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」 角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸編 2003年 山川出版社
「ギリシャを巡る」 萩野矢慶記 2004年 中央公論社













