『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』(以下『鉄の王国の実像』)は、ヒッタイト帝国を説明する語句としてよく使われるのが、「鉄と軽戦車(チャリオット)を駆使して古代オリエントの大国になった」というものであるという。
このことは他の文献にも記されており、定説となっていて私もそう思っていたが、発掘調査や研究が進むにつれ、そうではなかったということになってきた。
大村幸弘氏の『鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘』にヒッタイト民族が鉄と軽戦車を駆使し、前17世紀頃から前12世紀にかけてアナトリアに一大帝国を築き、オリエント世界で一大勢力を持ち、一時はエジプトさえ脅かしたという文がある。
ラメセス二世と闘ったカデシュの戦いでは、軽戦車の軸受に鉄を使っていたので負けなかったのだと思っていたのに。
出土している鉄製品
『鉄の王国の実像』は、1930年代に行われたトルコ中央部のアラジャホユックでの発掘で、「王墓」と呼ばれる前期青銅器時代(前3千年紀後半)の墓地群から、世界最古級の鉄剣が発見された。この鉄剣はのちに分析の結果ニッケルを多く含んでいることが判明し、宇宙から地球に落下した鉄でできている隕石、つまり隕鉄で作られたものであろうと推測されるようになった。隕鉄は地球のどこにでも等しく落下する可能性があるのだが、ヒッタイトの先住民であるハッティ人の時代に、このような隕鉄を利用した製品があったということで、「アナトリア=製鉄の発祥の地」という印象がさらに強くなったという。
ハッティ人の製鉄技術をヒッタイトが受け継いだと思っていた。
アナトリア文明博物館で見落としたものの中の一つがこれ。
またアジェムホユック出土の象牙製容器にも鉄が使われている。
象牙製容器 カールム時代(アッシリア植民都市時代、前1950-1750) アナトリア文明博物館蔵
『シリーズ「古代を学ぶ」 古代オリエントガイドブック』(以下『古代オリエントガイドブック』)は、ラピスラズリとともに鉄の小球が装飾として嵌め込まれているという。
これもアナトリア文明博物館で見逃したものの一つ。
『鉄を生みだした帝国』で大村幸弘氏は、鉄器ではなく鉄滓が出土したところが製鉄を行った地であるとして、調査を続け、最終的にアラジャホユックの博物館で鉄滓が展示されているのを発見し、その金属滓と思われる遺物のそばには、小さな真新しい白いカードの上に「デミール・ジュルフ (鉄滓)」と書いてある。そしてそこに前17世紀と書いてある。
ヒッタイト帝国の鉄のふるさとを追いつづけて8年間、その鉄が目の前にあるのであると記している。
実はこの本はずいぶん前に読んでいたのを読み返し、アラジャホユック博物館でこの鉄滓を見ることを楽しみにしていたのに、私が行った時には同博物館ではなく前々日訪れたチョルム考古学博物館にあると知らされた。チョルム考古学博物館でも旅の皆さんと「鉄はありませんねえ」などと言いながら巡ったのに、見落としていたのだった。
鉄滓 ヒッタイト帝国時代 前17世紀 チョルム考古学博物館蔵
鉄と人間という関係でみると、『古代オリエントガイドブック』で増渕麻理耶氏は、ヒッタイト時代よりはるか昔、少なくとも今より5000年以上前から、利器としてではなく宝石のような扱いで装飾品や儀礼用具に用いられてきました。それが、ヒッタイトのみならずオリエント各地で、いったいいつから利器に変化していったのか、そして鋼の製造技術がいつごろ産業レベルに到達したのかなど、まだまだ多くの不明な点があります。今後、出土製品の調査に基づく客観的な研究が進むことで、今までの定説をくつがえすような事実が明らかになることが期待されますという。
ところで、ヒッタイト帝国は、ミケーネを皮切りにやウガリトその他の東地中海世界と同じように前1200年ごろ滅亡してしまった。それが「海の民」によるものだと言われてきたが、それも近年では否定されている。
このことについて『古代オリエントガイドブック』は、東地中海世界の秩序を一変させた「文明崩壊」。その背景に何があったのでしょうか。近年、各地で実施された古環境調査から、この時期に長期にわたる旱魃(降水不足)があったことが明らかになっています。この大旱魃は、3.2kaイベントとよばれる(3200年前に起きた)地球規模の気候変動の一端で、青銅器時代に終止符を打った「文明崩壊」の要因の一つになったと目されますという。
NHKの「フロンティア 古代文明 同時崩壊のミステリー」(2023年)では長期間の旱魃、相次ぐ大地震、天然痘の流行などが広範囲に起こったためとしていた。
『古代オリエントガイドブック』は、東地中海を覆った騒乱をもっとも鮮明に伝えているのが、エジプトのラメセス三世がメディネト・ ハブ神殿に残した浮彫です。地中海東岸を荒らし回り、エジプトを目指して南下した外来の集団を、 海と陸の戦いで撃破する様子が刻まれています。この諸集団は現在「海の民」とよばれ、エーゲ海方面から新天地を求めて移住してきたさまざまな人々の混成集団であったと考えられます。その中心となったのが当時ペレセトとよばれた人々で、最終的にはレヴァント南部の南部海岸平野に定着したようです。後のペリシテ人であるととらえることができますという。
メディネトハブ葬祭殿の浮彫 ルクソール左岸
『古代オリエントガイドブック』は、エジプト軍の舟と「海の民」の舟が入り乱れる水上戦の場面。「海の民」の兜や装束には種類があり、出自の異なる人々の混成集団であることがわかるという。
諸集団を撃退することができたのがエジプト第20王朝のラメセス三世だったので、その時の様子を自ら造った葬祭殿の外壁に浮彫で残すことができた。
『「鉄の王国」の実像』は、ヒッタイト帝国では、その末期に限られた量の鉄製品が流通していたのは間違いないが、独占状態ではなく、秘密にしていたとも考えられない。ヒッタイト帝国はまぎれもなく「青銅器時代」の帝国であった。「鉄製武器を持ったヒッタイト兵が、カデシュの戦場で青銅製武器を持ったエジプト軍を圧倒し・・・」というのも空想の産物ということになる。
しかし解明されていない謎がある。前1200年頃のヒッタイト帝国滅亡と時を同じくして、西アジアは世界で最初に鉄器時代に入る。
鉄器時代がいつ、どこで、どのように、どうして始まったのかは、なお不明といわざるを得ない。
さらに最近、キプロスやパレスチナと並んで、南コーカサスや北シリアなどアナトリアの隣接地でも、前12-11世紀頃の実用的な鉄製品(剣やナイフ)が発見されている。先に紹介した文字資料に見たように、少なくとも前13世紀後半には、実際の出土品はまだほとんど発見されていないものの、ヒッタイトやアッシリアである程度の鉄器が流通していた可能性がある。シリアやコーカサスの鉄器は、ヒッタイト領内で開発された製鉄技術の流れを汲んでいるのだろうか?
肝腎のアナトリアでは、鉄器時代初頭の鉄製品がまだほとんど発見されていない。一方カマン・カレホユックでは近年ヒッタイト帝国期の遺構が広く発掘され始めており、もしそこからヒッタイト帝国期の鉄器が出土すれば、後期青銅器時代と初期鉄器時代の鉄器を繋ぐ鍵となるかもしれないという。
『「鉄の王国」の実像』は、前1200年頃に始まるヒッタイト帝国後の時代(初期鉄器時代)のアナトリアでは、文学史料はおろか土器も何も見つかっていなかった。そのためこの時代は「暗黒時代」と以前は呼ばれていた。しかし、日本隊が発掘するカマン・カレホユック、ドイツ隊が発掘するボアズキョイ、アメリカ隊が発掘するゴルディオンなどの遺跡で、1990年頃以降、その「暗黒時代」の土器が次々と認識されるようになり、「暗黒時代」はもはや存在しなくなった。という。
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参考文献
「鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」 大村幸弘 1981年 NHK BOOKS
「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館
「ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像」 津本英利 2023年 PHP新書1376
シリーズ「古代を学ぶ」 「古代オリエントガイドブック」編者阿倍雅史・津本英利・長谷川修一 2024年 新泉社
参考にしたもの
「フロンティア 古代文明 同時崩壊のミステリー」 NHK 2023年




