ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/03/29
マルグシュ遺跡の出土物3 祭祀用土器が鍑(ふく)の起源?
トルクメニスタンのマリという街に、メルヴやマルグシュの遺跡の出土品が展観されていた。
その中で鍑好きの私の目を惹いた土器がある。しかも、鍑は青銅製なのに、トゴロク遺跡で発見されたものは土器だった。
祭祀用容器 前3-2千年紀中頃 トゴロク1号神殿出土
分厚い器体の広い口縁部には動物が乗っている。
マルグシュ遺跡でヴィクトールさんが見せてくれた図面には、人物や動物が口縁部に取り付けられた容器の図版が幾つかあり、その上に英文の解説があった。それを適当に訳すと、
原則的に壺は無文で、特殊な場合にのみ波状の刻文や出っ張った注ぎ口の装飾がある。もっと希に見られるのは口縁部に立体的な像が付けられたものだ。その場合はどれも同じ形式で、1本の木の両側に1対の山羊を象っている。これは明らかにシリア-アナトリア系で、マルギアナの土器では山羊が後ろ肢で立っていることがある。
北ゴヌールの拝火神殿で、木に留まる鳥が刻まれた土器が見つかった。儀式用の土器の一つに中央の木の両側に1対の山羊が立ち、木の枝には2羽の鳥が留まっていたという。
北ゴヌールの拝火神殿から出土したものは見つけることはではなかったが、トゴロク1号神殿から出土した容器は展示されていた。
この容器の口縁部には左側には3頭、右側には2頭の動物が取り付けられているが、樹木はない。紐状のものは何だろう。
『シルクロードの古代都市』には異なった方向から写した図版があり、また底はすぼまっていることもわかる。
タシケントのウズベキスタン国立歴史博物館には、やはり口縁部に動物が取り付けられた青銅製の鍑が展示されていた。大きな容器を青銅でつくるようになってからも、祭祀用のものには動物が取り付けられたものを使用することが受け継がれてきたのだろうか。
サカの青銅製大鍋 前6-4世紀 フェルガーナ渓谷出土
リング状の把手が4つ、その間にオオツノヒツジが1頭ずつ配される。見込みは平たい。
細い足が3本か4本だが、寸胴な点が共通する。
近くには似た形の土器もあった。
土器 前7-5世紀 出土地不明
やはり分厚い器体で、動物はいないが、鳥にも見えるものが黒で描かれている。土器は祭祀用ほど重要でない場合に使われたのかな。
トゴロク21号神殿 平面図
『シルクロードの古代都市』は、「要塞」の外側、東側の隅に、平面図では大小2つの円が見えるが、ここが火の祭壇であった。小さい円の部分には聖火を燃やした後の聖灰が積もっていたという。
同書は、大きな円の内部は構造が複雑であった。まず深さ3m、幅7mの穴を掘り、その穴底を焚火で焼いて清めた後、その上に十字形に日干煉瓦の壁を積み上げて空間を4セクションに分け、それぞれにフーム(大きな甕)を5個逆さに高さ1m以上にして埋め込み、土をかけて平らにし、その上に50㎝の半円形に煉瓦を積み、真ん中を炉にした。これが祭壇であったという。
伏せて置かれたフームは、トゴロク1号出土の祭祀用容器に似た圏足である。口縁部に向かって開いたベルのような形のものはチャンかも知れないが、寸胴形容器もある。
もし祭祀用で、トゴロク1号出土の土器のように動物が口縁部に付属しているとしたら、それをわざわざ下に向けて埋める意味がわからない。あるいは、以前は祭祀に用いられたが、動物などが破損したために、下向きに埋められたのかも。
同書は、この祭壇の「要塞」をはさんで反対側に鎖のように長くのびた5つの四角形の部屋があり、その壁が炎でひどく焦げていた。この部屋とならんで、低い壁に囲まれた天井のない2つの台があった。この壁もひどく焦げていたので、ここには常時火があった可能性がある。時空を越えて、現代のゾロアスター教徒の儀礼もほぼ同じであるという。
常に火のある台から煙が立ち昇っている様子が想像復元図に描かれている。
同書は、サリアニディほか多くの研究者は、トゴロク21号の宗教がゾロアスター教の源流、つまりツァラトゥストラによって改革される前の原(プロト)ゾロアスター教だと考えているという。
それならば、後世に青銅でつくられるようになった鍑もまた、ゾロアスター教の祭儀に使われたものだったのだろうか。
尚、タシケントのウズベキスタン国立歴史博物館には青銅製の鍑が幾つか展示されていた。それについては後日
マルグシュ遺跡2 青銅製印章←
→マルグシュ遺跡の出土物4 モザイクの聖櫃
関連項目
マルグシュ遺跡の出土物5 女神像
マルグシュ遺跡の出土物1 青銅製車輪の箍(たが)
マルグシュ遺跡4 王族の墓巡り
マルグシュ遺跡2 王宮
積石塚は盗掘され易い
フン以前の鍑(ふく)はサルマタイとスキタイ
フン族に特徴的なものは鍑(ふく)らしい
※参考文献
「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)
2015/06/16
ササン朝の首のリボンはゾロアスター教
サマルカンド歴史博物館に再現されているイッシュヒッド宮殿の壁画(7世紀後半)には咋鳥文やシームルグ文などもあったが、羊文もあることを想像復元図で知った。
それについてはこちら
左に描かている羊文がこのようだったという。
角は左右に開いて曲がり、顎鬚があり、咋鳥が銜えている首飾りのようなものをして、その端についたリボンが風で靡いている、体には鋸壁文のようなものがある。
見るからにササン朝っぽい。
羊に首飾りや後ろになびくリボンがついたのは、いつ頃だろうか。
自分がまとめたものでさがしてみたが、西方にあまり古い例はなく、アスターナ古墓群出土の高昌国時代のものだった。
霊獣灯樹文錦 五胡十六国-麴氏高昌国時代(5-6世紀) 絹 アスターナ186号墓出土
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、雄々しい角を持った雄羊ではあるが、頸にはササン朝の動物にしばしば登場するリボンをなびかせるという。
ただし、角は巻いていない。
連珠円文の中の鳥がリボンをつけた例も、あまり早いものはなかった。
鳥連珠文錦(部分) 経か緯か不明 唐(7世紀) 長28㎝幅16.8㎝ アスターナ134号墓出土 新疆ウイグル博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、黄土色の地に、赤や白などの色糸で文様を織り出した錦である。鳥と連珠文による文様帯を上下に配している。連珠文は白い連珠からなり、左右の連接部分を赤地 の方形で飾っている。連珠文の中は赤地に2羽の鳥が対面し、いずれも頭上に三日月と太陽を表す円形を戴き、台の上に立ち、首にはリボンが付く。なお、この錦が 出土した墓からは、唐の龍朔2年(662)の墓誌が出土しているという。
リボンはまっすぐ水平に表され、風にたなびく気配はない。
鴨連珠円文壁画 7世紀 キジル 縦52横110 ベルリン国立インド美術館蔵
『三蔵法師の道展図録』 は、キ ジル石窟の第60窟(最大窟)からドイツ隊によって採取されたもの。正壁に大仏を取り付けていた大きな石窟で、その側壁にベンチ状の台を設け、そこに仏像 が並べられていた(現在欠)。この壁画はその台の前面を飾っていた。連珠を円環形に配し、内部に首飾りをくわえる鴨を描いたもので、互いに向き合うように 2つずつメダイヨンがセットになっている。頸にリボンを翻した鴨はデザイン化した表現で、バーミヤーンをやアフラシアブの壁画に近いという。
リボンの端が2本、風翻っている。
では、このようなリボンの最初はなんだったのだろう。ひょっとすると、それは王の背後になびくリボンではないかと、羊を探しているうちに気付いた。
ペーローズ1世牡羊狩り文皿 銀・鍍金 径21.9㎝ ササン朝(5世紀末) イラン出土 メトロポリタン美術館蔵
『世界日大全集東洋編16西アジア』は、帝王が数頭の牡羊を追跡して狩るいわゆる追跡型狩猟の典型的な図柄を表している。帝王は2つの矢狭間と三日月よりなる王冠をかぶり、その上に大きな三日月と球体装飾を戴いているという。
2本の銀色の帯状のリボンの端が右手の上で翻っているが、そのリボンはどこに付いているのかがわからない。細い頸飾りだろうか。
また、右脇からは金色の薄く幅の広いリボンの端が波のようにたなびいていて、これもどこから出たものかはわからない。
ナルセー王叙任式図 ササン朝(293-303) 摩崖浮彫 縦3.5m イラン、ナクシェ・ルスタム
『世界日大全集東洋編16西アジア』は、右端には城壁冠と「アーケード冠」を合成したような冠をかぶったアナーヒーター女神を配し、その女神から正当・正統な王位の標識たるリボンのついた環を右手で受理せんとするナルセー王を描写している。国王の王冠も「アーケード冠」である。国王の衣装のなかで注目すべきは、胸帯の背の部分に結ばれた大きなリボンの先端に円形の装飾が加えられている点であろうという。
その円形の装飾がよくわからなかったが、王のつけたリボンは、環から出たものだった。
しかも、リボンは王位を正当・正統であることを示す環に付いているもので、このような壁画には欠かせないものだった。その環は首に巻くのだろうか、それとも鉢巻のように頭につけるのだろうか。
バフラム1世騎馬叙任は城壁冠式図 ササン朝、273-276年 摩崖浮彫 縦5.35m イラン、ビーシャープール
同書は、向かって右側の帝王がバフラム1世であることは、太陽神ミスラの旭光冠をかぶっていることから判明する。向かって左側のアフラ・マズダー神(ホルムズド)は城壁冠をかぶっている。その右手でディアデム(環)を握り、それをバフラム1世に授けようとしているのであるが、環に結ばれたリボン(鉢巻き)は風にたなびき、バフラム1世はその環をつかんでいるにすぎないという。
環は王冠(ディアデム)だった。リボンが大事なのではなく、環が重要なのだった。
アルダシール1世騎馬叙任式図 ササン朝(224-241年) 摩崖浮彫 縦4.28m イラン、ナクシェ・ルスタム
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、画面構成は左右対称的で、向かって左に騎馬のアルダシール1世、右に同じく騎馬のアフラ・マズダー(ホルムズド)神を描写している。帝王は王位の標識たるディアデム(リボンのいた環)を頭につけ、頭上には大きな球体(宇宙の象徴)を戴いている。神は城壁冠をかぶり、左手でバルソム(ゾロアスター教の聖枝)を持ち、右手には正当・正統な王位の標識たるディアデムを持ち、帝王に授けようとしているという。
それとも、この「リボンのついた環」がディアデムとして一体なのだろうか。
アルダシール1世銀貨(表) 銀 ササン朝(224-241年) 平山郁夫氏蔵
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、鷲文と耳覆いのあるティアラ冠を戴く、右向きの国王胸像という。
同王の銀貨には、ディアデムははっきりと表されず、リボンも短い。
ティアラ冠にしろ、ディアデムにしろ、リボンは王の冠につけられるものだったようだ。ササン朝は浮彫にもあるように王権神授なので、その宗教であるゾロアスター教にとって、リボンは権威や神聖さの象徴だったに違いない。
リボンが首に巻かれた動物もまた聖別されたものだったが、伝播されていく中で、動物の文様の一部となって、その意味は失われていったのだろう。
イッシュヒッド宮殿の壁画に羊文←
関連項目
連珠円文は7世紀に流行した
連珠円文は7世紀に流行した2
※参考文献
「AFROSIAB」 2014年 Zarafshon
「中国美術全集6 工芸編 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」 2008年 奈良国立博物館
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「正倉院裂と飛鳥天平の染織」 松本包夫 1984年 紫紅社
「中国★文明の十字路展図録」 2005年 大広
「西遊記のシルクロード 三蔵法師の道展図録」 1999年 朝日新聞社
「ガンダーラとシルクロードの美術展図録」 2002年 朝日新聞社
2015/06/12
イッシュヒッド宮殿の壁画に羊文
サマルカンド歴史博物館に再現されているイッシュヒッド宮殿の壁画(7世紀後半)には、人物の衣裳に連珠円文が多く使われていた。中には咋鳥文やシームルグ文などもあったが、羊文もあることを想像復元図で知った。
それについてはこちら
左に描かている羊文がこのようだったという。
角は左右に開いて曲がり、顎鬚があり、咋鳥が銜えている首飾りのようなものをして、その端についたリボンが風で靡いている、体には鋸壁文のようなものがある。
見るからにササン朝っぽい。
連珠円文の中に動物が表された文様については、すでに以前にまとめている。
それについてはこちら
『古代イラン世界2』で横張和子氏(古代オリエント博物館)は、連珠円文意匠はサーサーン朝錦としては例外とさえ見えるのである。サーサーン朝の連珠文はしかるべき意味(フヴァルナー)をもつものであったが、しかし装飾の典型とはしなかったようである。それを典型的にしたのはむしろソグド錦であったのではないかと考えているという。
ではこの文様はササン朝だろうか、ソグドだろうか。
牡羊文錦 7世紀前半 エジプト、アンティノエ出土 リヨン歴史織物博物館蔵
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』は、牡羊は王国の幸運と繁栄を意味するフヴァルナーであったという。
イッシュヒッド宮殿の壁画より少し早い時期に、ササン朝で織られた錦。
角が非常に大きいが、頸飾りをするなど、よく似ている。
石棺床色板部分 北周~隋時代(6-7世紀) 石製 個人蔵
『天馬展図録』は、遺体を安置するため、地下の墓室内に設置されたベッド状の台を「棺床」と呼ぶ。墓主は国際商人として中央ユーラシアの東西を往来し、ゾロアスター教を信仰したソグド人であった可能性が高い。
本品にみられる円形連珠文に天馬を配した意匠はペルシアに起源をもち、ソグド人によって、その故地であるブハラ、サマルカンドなど中央アジアのオアシス都市を経て、中国にもたらされたと考えられているという。
ここでは、連珠円文の中に天馬が表された意匠がペルシア起源であるとしているが、連珠円文に羊という意匠についてはペルシアだろうか、ソグドなのか。
また、この首に結んだリボンがなびく牡羊という意匠もまた、ペルシアに起源を求めることができるのだろうか。
双羊文錦覆面部分 高昌国時代(460-640) トルファン、アスターナ出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
『中国美術全集』は、緑の地に白い羊文があり、黄色で耳・角などの細部を表現し、羊の腹と足に紅色を飾り、配色に躍動感を与えている。双羊は立って鳴いている姿であるという。
頸飾りはなさそうで、リボンは風になびくものではなくなっている。もはや、それがかつてリボンだったことさえ、織り手はわからなかったのでは。
霊獣灯樹文錦 五胡十六国-麴氏高昌国時代(5-6世紀) 絹 アスターナ186号墓出土
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、雄々しい角を持った雄羊ではあるが、頸にはササン朝の動物にしばしば登場するリボンをなびかせるという。
首輪についたリボンが風になびいている。体の文様も鋸壁文風で似てるが、長い角は後ろに伸びている。
現在の中国の領土には、早くから牡羊文が入ってきて、それが新たな意匠として展開している。
一方、ササン朝でも、頸飾りもリボンもない牡羊は早くから登場している。
ペーローズ1世牡羊狩り文皿 ササン朝、5世紀末 イラン出土 銀、鍍金 径21.9㎝ メトロポリタン美術館蔵
『世界日大全集東洋編16西アジア』は、帝王が数頭の牡羊を追跡して狩るいわゆる追跡型狩猟の典型的な図柄を表している。帝王は2つの矢狭間と三日月よりなる王冠をかぶり、その上に大きな三日月と球体装飾を戴いている。
獲物は危険性が少ない羊で、しかも2頭が生存、2頭が死亡した状態で合計4頭描写されているが、このような図柄はササン朝中期から後期の銀製皿の特色であるという。
馬が前肢と後ろ肢を大きく広げて駆ける様子は、宮殿北壁の壁画にも見られる。ソグドは様々なものをペルシアから採り入れたことがこのような作品からも見て取れる。
外向きに曲がった大きな角をもつ羊も、すでにペルシアでは描写されている。
しかし、羊ノ首にリボンが付いたのがいつかはわからない。
おまけ
羊木臈纈屏風 8世紀 絁 正倉院蔵
角は大きく巻いているが、首には頸飾りもリボンもない。
日本には牡羊文は入ってきたが、そこには頸飾りもリボンもなかった。
ササン朝の首のリボンはゾロアスター教←
関連項目
連珠円文は7世紀に流行した
連珠円文は7世紀に流行した2
アフラシアブの丘 サマルカンド歴史博物館4
※参考文献
「AFROSIAB」 2014年 Zarafshon
「中国美術全集6 工芸編 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」 2008年 奈良国立博物館
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「正倉院裂と飛鳥天平の染織」 松本包夫 1984年 紫紅社
2014/10/14
来迎図4 正面向来迎図
山越阿弥陀図の中には正面向きのものが多い。それについてはこちら
その中で、最も優美な作品が、禅林寺本である。
山越阿弥陀図 鎌倉時代前半 絹本著色 掛幅装 138.0X118.0㎝ 京都禅林寺(永観堂)蔵 重文
同書は、大海をバックに二つの山の鞍部から阿弥陀仏(転宝輪印)のみが上半身を現わし、観音(持蓮台)と勢至(合掌)の両菩薩はすでに山を越えて山腹の左右よりゆるやかに迫る。のみならずその前方にすでに動きを止めた一対の持幡童子と四天王が描かれる。その対称的構図の基本には蓮華三昧院阿弥陀三尊像に通ずる浄土変的図相がうかがえるという。
海を越えてやってきた阿弥陀仏は、山を越えてもうすぐ臨終者の許にやってきそうな臨場感がある。放射光はないものの、五色の糸が阿弥陀仏と往生者を直接結ぶ、臨終仏として描かれている。
平安時代より制作されてきた来迎図は斜め向きのものが多いが、中には正面向きのものもある。
斜め来迎図についてはこちら
『日本の美術273来迎図』は、源信が来迎図を発案して以後久しく来迎図の存在を伝える記録もなく、実勢を窺うに足る材料はない。しかし大江匡房の願文集には、応徳3年(1086)9月に尼法念の発願した七七日間の逆修法会に、種々な阿弥陀関係の作善に混じって極楽迎接曼荼羅が供養され、承徳元年(1097)には匡房自ら亡母のために七七忌の本尊として迎接曼荼羅を図絵し供養を行うなど、臨終時に限らず各種修善の法会にもこれが用いられるようになる。来迎図は来迎像の流行とほぼ時を同じくして盛期を迎え、さまざまの図相のものが描かれるようになったものと推測される。
今日平安時代の来迎図として伝存する遺品は十指に満たないが、これを大別すると二つの系統に分けられる。その第一が阿弥陀仏を中心に諸菩薩がほぼ対称的に配され、来迎の全体が真正面に向かって飛来するもの。なお、同期の来迎図は聖衆すべてを坐像で表すところに特徴があるという。
阿弥陀聖衆来迎図 平安時代後期(12世紀) 左幅210.8X105.7㎝中央幅210.8X210.6㎝右幅211.2X106.0㎝ 高野山有志八幡講十八箇院蔵
同書は、もと比叡山別所横川安楽谷に伝来し、高野山に伝えられた。三幅が一連のつながりをもつ壮大な画面に溢れるように描かれた30余体の聖衆は何を意味するのだろうか。正面中央の阿弥陀仏とその前面左右の2菩薩で構成される三尊に加えて、やや背後に位する2比丘からなる五尊が、他の諸尊に比していかにも整然と位置し、結論から言えば、これが常行堂(とくに横川)の本尊阿弥陀五尊(観音・勢至・地蔵・竜樹の4菩薩をめぐらす)を写したと認められる。一方最後尾に位する三尊形-裏書の山越三尊化仏に当たる-を除外すると、残りは正しく25を数え、これらの供養や奏楽の菩薩は明らかに二十五菩薩を表すものと見られる。
本図の構成は、天台下の常行堂の阿弥陀五尊と、『往生要集』に引用される念仏者守護の二十五菩薩を巧みに組み合わせたものであり、天台浄土教の礼拝対象にふさわしい来迎図といえよう。
本図のような来迎図の形式や構成をみると、その背後に彫刻の来迎像の存在が彷彿されるが、その間に水波や山水を加えることにより理想と現実の共存をはかった作者の技倆が十分にうかがえるという。
観想系の来迎図である。
最後尾の山越三尊化仏というのは、左幅の幡を持ったり楽器を奏でる4菩薩の背後に小さく表された三尊のことだろう。まだ山越阿弥陀図というものが成立していない時代だと思うが、阿弥陀三尊は山を越えてやってくるという風に思われていたのだろうか。
同書は、中央に大きく阿弥陀如来、その手前左右に観音・勢至の両菩薩、中央の傍に地蔵・竜樹を加えて阿弥陀五尊という。
阿弥陀の脇侍、観音は斜め横向きで、蓮台を両手で支え、裙に隠れているが両足首を立てているし、勢至正面を向いて合掌しているが、右膝を立てて、すぐにも立ち上がりそうな気配がある。
また、2菩薩の蓮華座は子葉が宝相華文に表された蓮弁となっている。
彩色は白がかって、菩薩の裙や条帛、比丘の襟元などの赤い色が際立っている。
阿弥陀仏の体は何色というのだろう。ひょっとして金色?仏全体を金色に荘厳する皆金色は、鎌倉時代に入ってからだと思っていた。
『絵は語る3阿弥陀聖衆来迎図』は、中央に大きく描かれた阿弥陀仏ただ一体だけが体も衣裳も金色にあらわされている。一見宗教偶像なら何でもない表現に思えるが、実はほとけを絵に描くときに体も衣もすべて金色にあらわすことは日本では鎌倉時代以後にようやく一般的になったのである。現存する仏教絵画ではこの絵が最も早い例であるという。
着衣や光背には截金も見られる。光背の外側の幅のある金色のものは、阿弥陀仏の体よりも光り輝いている。蒔絵のように、金粉を暈かしながら周囲に貼り付けていったのだろうか。
着衣の截金は亀甲繋文・卍繋文・菱繋文、蓮華座の蓮弁の葉脈も截金が施されているが、体の輪郭などは朱線になっている。
また、蓮弁は両脇侍のものと同じように、子葉が宝相華文のように表された華麗なものだが、墨彩のため華やかさはない。
阿弥陀聖衆来迎図 平安-鎌倉時代(12世紀) 京都安楽寿院蔵
同書は、天台浄土教の注目すべき遺品に京都安楽寿院の阿弥陀聖衆来迎図がある。本図は前者に比してかなり小幅で、正面に向って来迎する阿弥陀仏を中心にその左右及び背後に重なり合うように15体の聖衆を配し、さらにその前衛に不動明王と毘沙門天を配するものである。
ところで本図の阿弥陀仏は来迎印を結ばず浄土変以来の古い伝統下にある転宝輪印をとる点に大きな特色があるといえよう。本図の如き来迎図が古典的な図相として比較的早い時期に完成した観想系の来迎図であることを推測させるという。
全員が一つの大きな雲に乗っている。阿弥陀仏は低い框付きの蓮台に坐しているように見える。
やはり観想系の来迎図だが、このような転宝輪印を結ぶ阿弥陀の表現から、正面向きの山越阿弥陀図ができたのではないかと思うような姿である。
阿弥陀来迎図 鎌倉時代前期(12世紀) 三重県西来寺蔵
『日本の美術273来迎図』同書は、正面来迎図の遺例、来迎印阿弥陀仏であり、典型的来迎本尊であろうが、何れにしても簡略化の進んだ念持仏的来迎図といえよう。阿弥陀は半跏、観音は片立膝と動勢を加えている。これに地蔵を加えたのは六道済度の教主を加え来迎の完璧を期したものであろう。すでに正面来迎図の本来的性格としての観想性が次第に希薄となり、末法の世に救済主として来迎する臨終本尊として性格が強く意識されつつあるように思われるという。
臨終仏というものが出現した。
正面向きの来迎図には珍しく、放射光が截金で表されている。
阿弥陀が半跏姿で来迎する場合、下ろした左足が小さな蓮台に乗っているものだが、ここでは蓮台にのせた右足の下にも小さな蓮台が描かれ、踏割蓮華としている。
臨終者の前に現れた時には阿弥陀仏は立ち上がることを想定したのだろうか。
阿弥陀三尊像 鎌倉時代初期(12世紀末) 高野山蓮華三昧院蔵 国宝
これが禅林寺本山越阿弥陀図に通じるとされる蓮華三昧院本。確かに阿弥陀三尊が左右対称に配置されている。
『国宝大事典1絵画』は、蓮池の上の虚空にとどまる阿弥陀三尊という表現は他に例がなく、また、雲に乗る阿弥陀如来は来迎の印ではなく転宝輪印(説法印)を結び、観音は蓮台を持たず両脇侍とも説法を聴く様に控えており、浄土図の中の阿弥陀三尊が雲に乗るのに似た構成も類例がない特異な作品である。本図を所蔵する高野山の蓮華三昧院は明遍(1142-1224)が創建した。明遍は高野山の浄土教における念仏聖の中心的存在であったが、その念仏思想は観想念仏により自力往生を目ざすものであったと推測される。本図は明遍が所持していたと伝え、さらに法然上人が本図を明遍に伝えたとの伝承もある。本図において三尊の着衣も肉身も淡い黄色に表わし、幽玄の趣きの背景の中に強く対比させたことは、本図が観想念仏の本尊として表現されたものであることを推測させる。三尊の姿が奈良時代の浄土図に見られる古様な形式を借りていること、三尊の着衣には文様を施さないこととは本尊画としての性格を重視した表現を意図したことを物語る。三尊を浮き立たせる背景の表現も優れており、画面下方に10数個見える蓮華の花と蕾とは暗い堂内にともる灯明に似て効果的であるという。
観想系の来迎図。
皆金色と思っていた三尊は黄色に着色されていたのだった。
金泥の線のみで描かれた来迎雲に乗り、左上より飛来したことを来迎雲の尾が示している。線に肥痩があることから、尾も截金ではなく金泥で表されたとみられる。
蓮弁や体の輪郭、着衣の衣文などは朱線で描かれている。阿弥陀仏の蓮台の框、光背の弧線、そして興福院本と同様に7方向に向かう放射光は截金で荘厳されている。
その下には水波も描かれない蓮池がある。何とも静かな情景である。明遍がこの図を前にして観想したのではなく、他の図を見ながら観想を続けた結果、脳裡に浮かび上がったのは、このように山岳風景も水波もない、虚空より飛来する阿弥陀陀三尊の姿だったのでは。そしてそれを描かせたのではないだろうか。
同書は、截金を用いた華麗な天蓋や宝台が藤原仏画の表現を伝えるが、全体的に重厚な彩色は鎌倉時代への転換を示唆する。鎌倉初期の復古的作風を示す貴重な作例であるという。
天蓋は垂飾などに截金がおかれ、この図にとって重要な荘厳物であることがわかる。
宝台にはもっと太い截金が使われているようで、寄木細工のような小さな面を、色を変えて構成している。
宝台の前に蓮華の上にやはり截金の施された八角の台がのる。台は朱漆だろうか、瓔珞をつけた一対の尾の長い鳥が左右に、もう1羽の鳥は天目のような円錐形の鉢を抱えるように後ろ向きになっている。鉢の口縁には2羽の鳥が足をかけ、蓮台を嘴で支えており、その上には3本の獣足のついた小さな香炉が乗っているらしい。
画面一番下には蓮華と共に葉も描かれていたことが、かろうじてわかる。
蓮華三昧院本を見ていると、法華堂根本曼荼羅図が思い浮かんだ。
法華堂根本曼荼羅図 麻布着色 縦107.1横143.5 奈良時代(8世紀) 1911年寄贈 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション
『ボストン美術館所蔵日本絵画名品展図録』(1983年)は、裏書にもあるように、本図は平安時代の昔から「法華堂根本曼荼羅」と呼ばれ、当時既に東大寺法華堂の主要法会に用いられる画像として伝来したことが判明する。なお同裏書によれば本図の主題は釈迦如来の「霊山之変相」であり、画題として霊鷲山説法図と言うべきであるが、今は旧来の伝称名に従った。因みに裏書によれば、本図は久安4年(1148)珍海によって修補されたが、その頃にはすでに釈迦の台座以下にかなりの破損欠失があったものとみられるという。
天蓋の形が蓮華三昧院本のものとよく似ている。印相や蓮華座、そして細かいところで異なる点もあるが、静かな雰囲気のなか、三尊が蓮台に乗り、両脇侍が内側を向くなど、明遍の心には、法華堂の法要で見たこの三尊図が印象強く残っていたのではないかと思うくらいだ。
平成知新館4・来迎図3 山越阿弥陀図(やまごしあみだず)←
関連項目
平成知新館3・蓮華座13・来迎図2 斜め来迎図
平成知新館2・蓮華座12・来迎図1 興福院本阿弥陀聖衆来迎図
※参考文献
「日本の美術273 来迎図」 濱田隆 至文堂
「絵は語る3 阿弥陀聖衆来迎図 夢見る力」 須藤弘敏 1994年 平凡社
「日本絵画館3 平安Ⅱ」 1970年 講談社
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「国宝大事典1 絵画」 1985年 講談社
2014/08/15
ギリシアとヘレニズムの獣足
獣足の椅子というのを見た記憶がある。昨年のギリシア旅行でも、獣足の付いた箱という妙なものを見かけた。
黄金製骨箱 前4世紀後半 ヴェルギナ第2墳墓主室出土 ヴェルギナ考古博物館蔵
四角い金属の箱なのに、獅子の獣足が付いているとは。王の権威の象徴として、骨箱に獣足を付けたのだろうか。それともただの流行か。
せっかくなので、獣足を遡ってみると、
詩人を訪ねるディオニュソス(詩人のみ) 後1世紀(原作前1世紀前半) ローマ出土 大理石 高さ91㎝ 大英博物館蔵
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』(以下『世界美術大全集4』)は、臥台の上の上半身裸の男はすでに宴会を始めており、臥台下の喜劇の仮面(略)は、男が詩人であることを示唆している。右側には食べ物や酒杯を載せた小卓が置かれている。この小卓の3本の支柱はライオンの脚を象っているという。
かなり写実的に浮彫された壁面だが、円卓の三脚を表現するのはこれが限界だろう。足の先だけが付いているのならすっきりしているのに、このテーブルの脚は全体がライオンの後肢になっている。当時の流行だろうか。
劇場の肘掛け椅子 前2世紀 大理石 幅約70㎝ トルコ、プリエネ
ギリシアやローマの劇場では、一般席と、貴賓席があった。これは後者の方で、ライオンの後肢が足から脛にかけて椅子の脚に表され、それが後方で渦巻になって終わっている。その上に別の石材で腰掛けと肘掛けが作られているのだが、肘掛けの端は何本かの溝のある渦巻になっていて、ライオンの前肢にも見え、席全体でライオンを表しているらしい。
足置き台は獅子の脚の間に設けられている。
アッティカ派赤像式渦形クラテル 前400-390年頃 プロノモスの画家 イタリア、ルーヴォ出土 高さ75㎝ ナポリ国立考古博物館蔵
『世界美術大全集4』は、画面上層中央のクリネ(臥床)に座した演劇の神ディオニュソスとその妻アリアドネを中心にして俳優、楽師、詩人たちがずらりと一堂に会しているという。
そのアリアドネが足を置く台が獣足。左側には短辺の獣足が2本向かい合せに描かれている。長辺では同じ方向に2本あって妙な印象を受ける。左側が後肢、右側が前肢を表していると思えば、納得できる。
犬と猫とで遊ぶ人々(部分) 前510年頃 クーロス像台座浮彫り アテネ出土 高さ32㎝ アテネ国立考古博物館蔵
向かいに坐って犬をたきつける人物は背のない四脚の椅子に坐っているが、このネコを向かわせる人物は折り畳み椅子らしきものに坐っている。その脚の先がネコ科の足になっている。
墓碑浮彫り 前550-540年頃 スパルタ近郊クリュサファ出土 大理石 高さ87㎝ ベルリン国立古代美術館蔵
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』(以下『世界美術大全集3』)は、死者たる男女はライオンの脚をかたどった豪華なエジプト風の玉座に座っているという。
ライオンの前肢と後肢が玉座の部品に使われている。足置き台は薄い板状のもの。
ヘラクレスの神化 前570-560年頃 アテネ、アクロポリスの破風飾り 石灰岩 高さ94㎝ アクロポリス美術館蔵
『世界美術大全集3』は、アルカイックのアクロポリスには二大神殿のほかに、所在および機能とともに不明ながら、破風彫刻をもつ小建築物が多数存在していたことを、残存の破風そのものが物語っている。
主題はヘラクレスの12の功業を完了した後の「ヘラクレスの神化」である。ひときわ大きく威厳をもった有髥のゼウスが完全に横向きで玉座に座し、左手を上げながら、ヘラクレスを吟味するかのように見据えているという。
玉座の脚は獣足では全くない。パルメット文や小さな渦巻文を切り出している。玉座の前に足置き台がある。
レリーフ・ピトス 前680年頃 ティノス島出土 ギリシア、ティノス考古博物館蔵
同書は、鳥の頭をかたどった背当て付きの玉座にゼウスが座り、その頭頂部から兜と槍で身を固めたアテナ女神が上半身をのぞかせている。 ・・ひげがないからゼウスではなく ・・ 誕生場面にはちがいないという。
アテナはゼウスの頭から生まれたのだった。
玉座の背当ては先が鳥の頭の華奢なつくりなのに、脚はかなり太くて頑丈そうだ。果たしてこれが獣足だろうか?
大鍋の鼎 東方化様式時代(前8世紀末-7世紀) 青銅製 デルフィ出土 デルフィ考古博物館蔵
ギリシアではその前の幾何学様式の時代には、大鍋に直接長い板状の足を取りつけた鼎が作られたが、東方化様式の時代になると、大鍋と鼎が別々に作られるようになった。その三脚の土付きは草食獣の足となっている。
これはアッシリアから出土した三脚台とそっくりの形だった。アッシリアではこのような草食獣の足だけでなく、ライオンの足も出土しているので、ギリシアにも同時に将来されただろう。
ギリシアでは、東方化様式の時代に将来された獣足が、椅子や家具の脚の一つとして生き残っていったようだ。
獣足を遡るとエジプトとメソポタミアだった←
関連項目
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
古代マケドニア1 ヴェルギナの唐草文
ギリシア神殿10 ギリシアの奉納品、鼎と大鍋
※参考文献
「ベルギナ 考古学遺跡の散策」 ディアナ・ザフィロプルー 2004年 考古学遺跡領収基金出版(日本語版)
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
2014/08/12
獣足を遡るとエジプトとメソポタミアだった
ガンダーラ仏の台座には、獅子ではなく獣足の表されたものがあった。
弥勒菩薩坐像 2-3世紀 ガンダーラ出土 片岩 高さ78.0㎝ 松岡美術館蔵
『仏教の来た道展図録』は、獣足脚をもつ方形台座に結跏扶坐し、禅定印を結び、手指の間に水甁を挟み持つ菩薩像。ガンダーラでは、頭髪を束ねて結い、水甁を持つ菩薩像は弥勒と推定されるという。
の獣足はどこからきたものだろう。
クセルクセス1世謁見図 アケメネス朝ペルシア、前5世紀前半 石灰岩 テヘラン、イラン・バスタン博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』(以下『西アジア』)は、帝王は刳形の多数ある玉座に、足台に両足を載せて座っている。帝王や国王が玉座に座るときには、かならず足台を置くのが古代西アジアの定法であるという。
椅子の脚は刳形の下部に獣足がついている。
国王のライオン狩り部分 前645-640年頃 ニネヴェ北宮殿浮彫 大英博物館蔵
『アッシリア大文明展図録』は、背の高いスタンドは香炉であり、布を敷いた祭壇の上には、犠牲獣の脚部の肉と顎の部分を入れた容器の他に、ネギの束のように見えるものと小さな容器が載せられているという。
祭壇は三脚の台で、前に2本の獣足が表され、のもう1本の脚はその間から向こうに見えている。
おそらくライオンの足を象ったものだろう。
アッシュールバニパルと王妃の饗宴図 前645年頃 ニネヴェ宮殿出土 大英博物館蔵
『アッシリア大文明展図録』は、アッシリアの浮き彫りやその他現存する出土品から判断する限り、少なくともアッシリアの宮廷においては、一連の標準的な家具の型が存在していたといえる。そのような型は、アッシリア本来の国土を越えて、広くアッシリアの影響力の及ぶ範囲にわたって見出すことができる。それを「アッシリア帝国様式」の家具と呼ぶこともできよう。背もたれのついた玉座にも、また、背もたれのない玉座にも、常に足載せ台が一緒に描かれている。足載せ台にはライオンの足の装飾が施されていることがあり、その部分が横木の上に載せられて、さらに松かさの形の脚部によって支えられている。ライオンの脚の装飾は、それ以外にはテーブルの脚部に使われている。テーブルは通常、3本の脚によって支えられているという。
この図では、テーブルの脚にライオンの足と思われる獣足が付き、更にその舌に松毬状の足がついている。
また背の高い香炉も必需品であったらしく、王の寝椅子の右下に置かれている。
三脚台の脚部 前9-8世紀 ニムルド北西宮殿出土 青銅 大英博物館蔵
三脚台の脚を形成していた3本の青銅製の牛の脚と蹄(上)、ライオンの脚と鉤爪(下)。
ライオンの足と牛の蹄はどのように使い分けていたのだろう。
三脚台の復元品 青銅および鉄製 ニムルド「青銅の間」出土 大英博物館蔵
『アッシリア大文明展図録』は、12個の青銅製の大甕とともに、それらを支えていた三脚台の断片も、レヤードによって発見された。三脚台は全部で少なくとも16個は存在していたらしく、それは本来、この部屋にあった大甕の数が12個以上であった可能性を示唆する。三脚台は全て青銅製の牛の蹄、ないしはライオンの鉤爪を備えた脚を持っていた。ニムルドから出土した三脚台に関していえば、そこに刻まれた銘文は、シリア起源説を支持するものと考えられるという。
青銅製の大甕を載せる三脚には牛の蹄がついているが、これはデルフィ考古博物館で展示されていた、大鍋を載せた三脚とよく似ている。どちらかというと、この方が武骨な造りだが、もちろん東方化様式時代に、西アジアで作られた三脚がギリシアに将来され、まねて制作されたものだ。
獣足の三脚台はシリアから将来されたものという。シリアの三脚台は探し出せなかったが、獣足のある椅子は見付けることができた。
王の供物をうけるエール神 古代シリア
『シリア国立博物館』は、エール神はバアル神とともにカナアンで崇拝されたという。
ライオンの獣足とその下にも脚部のついた椅子にエール神が坐っている。
エジプトにもライオンの足の獣足があった。やはり足の下には台がある。
棺台上のミイラの図 第3中間期、第22王朝(前945-716年頃) 高さ15.6幅1.5㎝ カルトナージュ、彩色 大英博物館蔵
牛のような草食獣ではなく、ライオンのような肉食獣の脚が碗形の脚部の上にのっている。
イリとイネトの墓の偽扉からの石板 古王国時代、第4王朝(前2613-2494年頃) 石灰岩 高さ71幅63厚さ16㎝ 大英博物館蔵
『古代エジプト展図録』は、石板には、墓の主人イリとその妻イネトが、パンを載せた供物台をはさんで向かい合って座る場面が、浅浮彫りで描かれている。ふたりの座る椅子には背もたれがなく、古王国時代に特有の描写であるという。
どちらもライオンの獣足の椅子に坐っている。ライオンの足の下には、丸みのある円錐形の台がついている。
ウルのスタンダード ウル第1王朝時代(前2500年頃) イラク、ウル王墓出土 木、貝殻、赤色石灰岩、ラピスラズリ 大英博物館蔵
『西アジア』は、君主であろう。手にはゴブレットを持っているというが、椅子の獣足には言及していない。
椅子の4本の脚のうち、1本だけが草食獣の足となっている。その下には何もついていない。
獣足は、エジプトが先か、メソポタミアが先か、エジプトの墓が微妙な年代なので、どちらとも言えない。ライオンの獣足はエジプトで、牛の獣足はメソポタミアで始まったのかも。
獅子座を遡る← →ギリシアとヘレニズムの獣足
関連項目
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「大英博物館 アッシリア大文明展 芸術と帝国 図録」 1996年 朝日新聞社
「大英博物館 古代エジプト展図録」 1999年 朝日新聞社・NHK
「世界の博物館18 シリア国立博物館」 増田精一・杉村棟 1979年 講談社
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