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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2020/08/21

メスキータ展


『メスキータ展図録』は、メスキータの日本で初めてとなる回顧展を開催します。サミュエル・イェッスルン・ド・メスキータ(1868-1944)は、19世紀末から20世紀前半にかけてオランダで活躍した画家、版画家、デザイナーで、長く美術学校で教鞭をとりました。
版画では、特に木版画に注力し、明暗のコントラストとシャープな線を生かした独創的な作品を数多く残しました。また、生涯を通じて描いたドローイングは、「自分ではまったく意図していない無意識の現れ」を記録したもので、豊かな空想力に満ちた、他にあまり例をみないものです。
メスキータは1944年にアウシュヴィッツで亡くなりました。アトリエに残された多くの作品は、エッシャーら教え子や知人たちが決死の思いで救い出し、大切に保管しました。周囲の人々のこうした行動がなければ、戦後もメスキータの名声が守られることはなかったでしょうという。
メスキータの日本初の回顧展は、クリスティアン・オルトヴィン・ヴォルタース氏とマリア・ヴォルタース=ヘーインク氏のコレクションということだ。

メスキータについて同展図録は、アムステルダムで生まれたポルトガル系ユダヤ人の家系。1882年、14歳の時に国立美術アカデミーを受験して不合格となったため、建築事務所に見習いとして勤め、1885年に国立美術工芸学校に入学する。一年後に国立師範学校に転籍、美術教員の資格を取得した。
初期のメスキータは油彩や水彩、ドローイングなどを制作したが、1890年代以降は、エッチング、リトグラフ、木版画など、さまざまな版画の技法を試みているという。

ハールレムの市庁舎 1911年 エッチング 42.1X52.0
メスキータはハールレムの応用美術学校にドローイングの教師として勤めはじめる。エッシャーはこの学校の学生であった。ハールレムの市庁舎を正面から描いたこの作品は、ほとんどすべての線が定規を使わず手描きであるにもかかわらず、都市風景というよりは、まるで建築の立面図のように見える。それは、遠近法による歪みがなく、建物表面の凹凸によってできる影もほとんど描写されていないせいであろう。メスキータは10代の頃に建築事務所で見習いをしていたので、立面図には親しんでいた。その時の経験がこの平面性の強い表現に生かされたのかもしれないという。
細部の装飾はともかく、屋根は見えている範囲で6枚矧ぎ合わせてある、しかも、それが等分でもなく、直線でないものもあるのが不思議。
wikipediaに現在の市庁舎の写真があった。左右反転させているのか、裏側なのか、ほとんど変わらない姿なのだが、屋根はレンガ形の石板が並んでいた。でも、1911年当時は何度も修復した跡が残る屋根だったのかも。

人物編

ファンタジー:稲妻を見る二人 1914年 木版 13.6X15.0
同展図録は、明暗のコントラストを巧みに用いた作品である。画面右側の黒い髪から始まり、手前の人物の白い顔、その奥の人物の黒い顔、室内の白、窓の黒という順番に、黒と白が交互に重なって、それぞれを強めている。さらに、同じような横顔のシルエットが反復し、稲妻の線と顔の皺の線が呼応するなど、構成にも工夫が見られ、緊張感のある画面となっているという。 
日本人ならジグザグの線で表すが、人物の皺に合わせて曲線的な稲妻とは、あまり轟きそうにないなあ😑
稲光で照らされた顔と部屋。手前の人の陰にいたので、照らされなかった奥の人物など想像が膨らむ。
夫婦なのか、姉妹なのか、それとも奥の顔には皺が2本ずつ刻まれているので、母娘かも。

ファンタジー:月を見上げる人 1914年 鉛筆・水彩・紙 24.8X20.6

トーガを着る男 1923年 木版 39.1X26.3
トーガという衣装は、古代ローマ時代に男性が着用した上着。袖などはなく、一枚布を肩から纏ったので、襞の多い外観となる。
この作品では、その襞を着衣の外側に表しているのか、後方からライトで照らされているのを表現しているのかな。サボテンかと思いましたがな😓 

少年(ヤンチェ・スケルペンゼール) 1927年 木版 19.5X14.5
まるで木目を描いたかのようでありながら、僅かな太さや線の揺らぎで凹凸を表している。
鼻筋の向かって左側が膨らみ気味で、右側がくぼみ気味。顎が前に出ているらしいことも感じられる。
二重格子模様のというか、チェックの帽子は複雑な形をしている。

父 1938年 木版 64.5X49.8
吹き降りの中、子供を肩車して急ぐ男。前方には更に強く雨が降っている。
下から見上げた視線で描いているので、父の脚は長く、子供の頭部が非常に小さい。

動物編
同展図録は、動物や植物のモチーフの多くは、アムステルダムのアルティス動物園に取材した。熱帯の植物やエキゾチックな動物など、オランダではふつうに目にすることのないモチーフが選ばれているのはそのためである。1916年には、この動物園で開かれた「動物と美術」展に委員長として携わっている。
人物の場合に、正面向きか横向きのポーズが多いのと同じように、動物画では横向きのポーズが圧倒的に多い。エッチングと木版という技法の違いはあるが、毛皮や皮膚を、それぞれの技法の特性を生かして、どう表現するかということに腐心しているという。

ラクダ 1914 木版 19.8X35.0
冬毛のフタコブラクダは毛がふさふさしているので、ヒトコブラクダよりも大きく見える。コブの先は前の方が向こうに倒れ、後ろの方が手前に倒れている様子や、その独特の座り方は、横向きでないと表せない。
ただ座っているだけではなく、ポーズを取っているかのような目👀

ラクダ 1916年 エッチング 23.8X28.7
ヒトコブラクダとフタコブラクダの分かれ目は中央アジア。
ヒトコブラクダの半身像は毛が短く、目を閉じて眠っているよう。おそらくコブは手前に倒れ気味だと思うのだが、メスキータは何故半身だけ描いたのだろう。上半身だけ小屋の外に出て、うたた寝でもしていたのかな。

コブウシ 1916年 エッチング 23.2X27.8
イランのカスピ海側で見たコブウシは、黒・白・茶が入り混じっていたが、メスキータが描いたのは白いコブウシ。
コブウシの立っている道や背後のレンガ積みの建物など丁寧に描き、建物内部のレンガの壁まで描写している。コブウシの回りを細かく表すことで、コブウシのなめらかな白い肌を強調している。

バイソン 1917年 エッチング 23.5X27.3
これも半身像。
最初は黒い体くらいに見ていたが、顔には顔面を覆う短い毛並みを幅のある線状にし、その先が顎鬚で終わる。体の方は毛並みが変わり、小さな菱形を並べているようにも見える。
じっくり見るほど味わい深い。

シマウマ 1918年頃 木版 27.3X41.6
図録の「M.C.エッシャーの語るサミュエル・イェスルン・ド・メスキータ」は、人柄が伝わるようなエピソードをあげるなら、彼はもともと鮮やかに黒と白に色分けされている自然界のモチーフを題材にして、黒と白の明確な表現の木版画を作ることには反対していた。私には彼の声が、昨日のことのように聞こえる-「シマウマっていうのは生きている木版画だ。そのシマウマをもう一度木版にすることは、自制しなくちゃいけない。」あとになって、彼自身が木版画で「シマウマ」を制作していたことを知り、どんなに驚いたことかという。
シマシマの動物の背後が、木目の縦縞や横縞とは👀
メスキータの遊び心と、それを真面目に受け止めていたエッシャーの驚き。そんな人間の世界のことなどどこ吹く風のシマウマのお目々は、探さないと分からないほど🧐

鹿 1925年 第9ステート(全10ステートのうち) 木版 45.2X41.5
木版画制作にあたってメスキータは、対象を単純化すると同時に、幾何学的な構成を行うことがすくなくないが、この作品は幾何学性を徹底的に推し進めた一例である。鹿の輪郭線や角は、ほとんど直線で描かれ、曲線は、わずかに耳や角の一辺などに用いられているに過ぎない。角はほぼ三角形で、単純化というよりは、現実にはあり得ない形にまで変形されている。背景はステートが進むごとに整理されていく。最終的には鹿のフォルムがくっきりと浮かび上がり、より幾何学性が強調される結果となったという。

二頭のガゼル 部分 1926年 木版 18.5X37.5
本来ガゼルの胴は白ではなく、茶色い毛皮に白や黒で模様が入っている。また毛はふさふさしているわけではなく、馬などと同じように肌に張りつくように生えている。習作ではそうした様子が写し取られているのだが、木版の完成作を見ると、胴体は真っ白で、まるで羊のような毛を生やしている。腰のあたりに入った一本の線は、習作と比較することで、初めて、後ろ脚の輪郭であることが理解されるが、それ以外の胴体の部分は大胆に省略されてしまっている。全体のポーズや頭部を除けば、全く別の動物と言っていいほどに改変されているのだという。
特徴的な角や顔でガゼルとわかるが、この解説がなければ、ふっくらした毛に覆われた妙な動物と不審に思っただろう。
木の幹を横にしたような表現の空🧐

鹿 部分 1933年 木版 15.5X16.6
作品としては小さいが、A4よりもおおきな図録の見開きで3/4を占めるくらいに大きく記載されているので、片側だけを取り込んだ。4歳の鹿は頭部から胸部にかけては直線的な毛並み、胴部は横向きとなっていて、線がやや乱れている部分が肢となっている。
動物は横向き描くことの多いメスキータだが、26年のガゼルのように横向きだが頭部は前を向いている。鹿の回りの綿雲のようなものは何を表しているのだろう。背後に池でもあるのかな。
最下段に小さな縦向きの白いものが並んでいるのは、草か芝生だろう。

鳥編

うずくまる鴨 1909年 
これを見て一瞬でカモに見える人はいるのだろうか。
丸まって首を後方に向け、クチバシを羽の中に隠して眠っている。前にある赤っぽいところが胸部。
カモにもいろんな種類があるが、目の周りが黒いものはエジプトガンくらい。

ワシミミズク 1915年 木版 37.2X22.4
メスキータの版画では、背景を省略して、モチーフの形に合わせて一種の枠組みを作り、その中にモチーフを据えたものがあるという。
頸部に凹みのある缶のような白地の片方に耳、ではなく羽角が接していることから、正面を向いているワシミミズクだが、体を斜めにして横木に留まっていることを知る。そして鋭い爪の出た肢も、均等には出ていないことも。

シロフクロウ 1927年 木版 20.0X22.0
東京ズーネットのシロフクロウが抱卵中ですの番いを見ると、雄の方が白く、雌は羽先に黒っぽいいろがのこっていたので、これは雌。
3本の線が何を表しているのか分からないが、この雌は抱卵しているのかも。

サギ 1928年 エッチング 17.8X12.2
ほぼ細い輪郭線だけで、頚をすぼめたシロサギの羽の膨らみも表現している。
飾り羽も簡略に描いているが、これがあることで、ダイサギと分かる。

植物編

アヤメ(部分) 第9ステート(全12ステートのうち) 1920年 木版 64.6X27.5
メスキータは、規則的な線の反復を装飾的要素として巧みに利用した。初期鉄器な要素とは全く関係のない線が、装飾的な目的のためだけに導入されている。早いステートでは、アヤメが直接的に表現されているだけだが、後の方のステートになると、葉の部分を中心とした背景部分に、長短の横線によるリズミカルな反復が見られ、これによって装飾性が強められているという。 
ステートを重ねてアールデコっぽくなってしまったよう。

カラフトアツモリソウ 1921年 エッチング 32.6X19.8
アツモリソウはもっとふっくらした花だったような・・・
『日本の野草』は、葉は広い楕円形で互生する。茎の先に径3-5㎝の淡紅色の美しい花を下向きにつける。唇弁は袋状で大きい。和名は敦盛草で、袋状の唇弁を平敦盛が背負った母衣(ほろ)に見立てたものという。
余談だが、アツモリソウがあればクマガイソウもあって、それはもちろん敦盛を討った熊谷直実で、同じラン科アツモリソウ属の花。 

サボテン 1926年 木版 18.2X9.6
トーガを来た男が1923年なので、このサボテンはそれよりも後に制作されたものだ。
棘と短い線とでサボテンの輪郭を表している。

アーティーチョーク 1934年 木版・加筆 31.3X27.0
アーティーチョークはキク科チョウセンアザミ属。緑の萼が覆う蕾を食用にするが、開花すると、当然ながらアザミのような花になる。
蕾を包んでいた萼が、一枚、また一枚と開き、そして下を向いてしおれていく様子が、肥瘦のある白い線で表す。大きな花にはあまり関心がないみたいな描き方。

エッシャーとその師メスキータ←

参考サイト
東京ズーネットのシロフクロウが抱卵中です

参考文献
「生誕120年 イスラエル博物館所蔵 ミラクル エッシャー展図録」 

「メスキータ展図録」 2019年 キュレイターズ


「山渓カラー名鑑 日本の野草」 1983年 山と渓谷社 

2020/08/14

エッシャーが描いたペルシャ神話の人面鳥


エッシャー作 球面鏡のある自画像 1934年 36歳 リトグラフ 28.6X32.6
『ミラクルエッシャー展図録』は、この版画は16-17世紀にかけてのオランダやフランドルの絵画の特徴であるキリスト教のヴァニタス画の伝統を表したものである。これらの絵画では、静物は、壊れやすい世界の空虚さや我々自身のはかなさを象徴するものとして描かれている。エッシャーの版画の多くにも見られる反射鏡の使用もまたルネサンスやバロック絵画からよく知られている。これらの作品の中の空間を広げる手段として用いられている。鏡は外界の存在を表すもの、つまり隠れた神の存在を暗示すると考えられていた。
この版画の中で最も目を引くものは人間の顔を持つ鳥だ。これはエッシャーが義父からプレゼントされたペルシャの金属製彫刻だ。この鳥は他の版画の中にも見られ、その特徴がエッシャーの戦後の作品に現れる名前のない人形のような人像の容姿にも見られるという。

画廊 1946年 メゾティント 220X165
同展図録は、『画廊』と題されたこの版画では、画面中央を消失点とする遠近法によって回廊状に中央奥へと展開する仮想空間が表現されている。しかしその仮想空間が歪なものであることにすぐ気づかされる。この回廊の左右のアーチ状の開口部には、シームルグというペルシャ神話の人面鳥が置かれ、その上部にはランプが吊されているという。
シームルグについては以前に幾つか記事にしたが、こんな姿ではなかった。有翼の獣が連珠円文の中に表されているものが多いが、時代を経て変化していったのだろうか。

シームルグ文 イラン、ターケ・ボスターン大洞内奧浮彫 7世紀前半
シームルグ文について『古代イラン世界2』は、今 日、イランの地でサーサーン朝ペルシア錦(324-641)とされるものの出土例は知られていない。それを具体的に知りうるのが有名なターケ・ボスターン の摩崖に掘鑿された大小二洞の大洞内壁に刻まれた浮彫(7世紀前半)の織物とみられるものの模様である。それは確実にサーサーン朝ペルシア後期の錦(サ ミット)の模様と言ってよい。
それら文様は身分や位階にもとづいて区別されて用いられていたと考えられる。その最高位に位置づけされているのがシームルグ(センマーヴ)文であっただろう。シームルグは犬の頭、孔雀の尾、グリフォンの羽、獅子の脚などいろいろな現実、非現実的な動物の部分から構成された霊獣である。ゾロアスター経典『アヴェスタ』においてはサエーナ・マラゴー(サエーナ鳥)と記され、鷲・鷹・隼などと同様の猛禽をあらわすとされる。
・・・略・・・ 王にのみこの神聖にして怪異な文様が用いられたのであろうという。
ゾロアスター経典では鳥とされているので、シームルグが後の時代に人面鳥になってもおかしくはないのかな。 

有翼人物像なら7世紀にイランで登場していた。

帝王猪狩り図 7世紀 ストゥッコ 84X142㎝ イラン チャハル・タルカーン・エシュカバード出土 フィラデルフィア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、テヘランの南ライからほぼ30㎞の地点には先史以来イスラーム時代に至る遺跡が点在しているが、そのなかにササン朝末期の城塞遺跡があり、アメリカの調査団によってその一部が発掘され、宮殿などの壁画を飾っていたストゥッコ装飾が断片ではあるが大量に発見された。ストゥッコはササン朝時代において、テシフォンやキシュの宮殿建築の装飾や塑像の素材として早くから使用されていた。この作品はその一部で、帝王の猪狩りを描写したものである。画面の周囲にはさまざまな植物文や動物文が配されているが、これらはササン朝の美術ですでに用いられていたものである。繰り返しの多い文様はすべて型押しで制作されているという。
テシフォン(クテシフォン)は現イラクにあるパルティアからサーサーン朝にかけての都。キシュは現ウズベキスタンのシャフリサブス、かつてはソグド人の都市国家であった。
同書は、下段の有翼人物像はしばしば、ササン朝のスタンプ印章の図柄にも用いられているが、おそらく、同種の牡牛文と同じく、若者に変身したウルスラグナ神の化身であろうという。
翼はそれ自体が鳥の翼を表わしているが、茎から出た対生の葉の間から人物が顔を出しているようでもある。

青釉金彩堆文細頚瓶 12世紀 複合陶土 高さ29.8径21㎝ イラン出土 MIHO MUSEUM蔵
『MIHO MUSEUM南館図録』は、この優雅に伸びる長い頸を持った瓶は、型押しで浮彫状に装飾モティーフを表し、トルコ青の釉薬を掛け、盛り上がった部分に金彩を施したペルシャ陶器のなかでも最も華やかな作品の一つである。細頸瓶にこの種の装飾技法を適用した例は殆ど見られないという。
金彩を施した陶器という伝統が、ラージュヴァルディーナのように金箔を貼り付けたタイルや陶器が、13世紀後半にイランで始まった技法へと受け継がれていったのかも。
同書は、向き合った有翼の幻獣グリュップス(グリフィン)、スフィンクス、翼を広げた人面鳥身のハルピュイア、蹲踞した獅子などを瓶の胴回りと頚の付け根に配置するという。
この人面鳥は、左右に伸びる蔓に肢を広げて立ち、翼と尾とでバランスしている。確かに顔は人間のもの。
ペルシアにはゾロアスター教のサーサーン朝からイスラームの王朝へと、人面鳥は受け継がれていったようだ。

それがもっと後の時代には、金属の工芸品となって、義父(ロシア革命によりスイスに亡命していた富裕な実業家 『ミラクルエッシャー展図録』より)からエッシャーのものとなり、その特徴がエッシャーの戦後の作品に現れる名前のない人形のような人像の容姿にも見られる(『ミラクルエッシャー展図録』より)ようになったのだ。


参考文献
「生誕120年 イスラエル博物館所蔵 ミラクル エッシャー展図録」2018年 産経新聞社・フジテレビジョン
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

2020/08/04

エッシャーとその師メスキータ


『ミラクルエッシャー展図録』は、エッシャーはなぜ絵を描くことよりも版画に魅かれたのか?彼の最初の木版への傾倒と特別な思い入れは、彼がとても尊敬していた恩師、サミュエル・イェッスルン・ド・メスキータの影響に帰する。エッシャーはハールレムの建築装飾美術学校で彼に学んだ。ド・メスキータは彼に版画伝統への愛情を語り伝え、彼が芸術の世界へ踏み出す第一歩を後押しした。初期の頃、エッシャーは黒と白のコントラストが際立つ風景やドラマティックな夜のシーンに対して興味を持ち、師はそれを支持してくれた。エッシャーはまた当時オランダで木版活動をしていた他のアーティスト-彼らの作品は後期のアールヌーヴォー、表現主義、写実主義のコンビネーションを特徴としていた-からも影響を受けた。しかし、彼には生涯忘れられない記憶(最初の師とその悲劇的な死)があった。ド・メスキータはナチスに捕らえられ、家族とともに殺されたのだ。エッシャーは師が連れ去られた後、師の作品を持ち出そうと彼のスタジオに足を踏み入れた最初の1人である。ド・メスキータの肖像はいつも彼の書斎に飾られていたという。
メスキータの肖像ってエッシャーの描いたメスキータの肖像画?それは今でも残っているのだろうか?

メスキータ作 小さな自画像部分 1896年 28歳 木版 37.0X12.0
同展図録は、メスキータが初めて木版画を制作したのは1896年のことだった。アーチ状の枠の中に、シンプルな輪郭線で横顔を表現している。枠の左側にあるスタンドのようなものは、メスキータが見ている鏡であろう。自画像はこの後、メスキータの重要なテーマとなっていく。画面の上下には、さまざまな太さ、形状の彫り跡が残されている。彫刻刀の様子を見るための試し彫りと思われるが、そのまま印刷されており、面白い装飾的効果を生み出しているという。
鏡の正面で自身の顔を見ている横向きの自画像とは。若い頃はふっくらとしていたのだ。

メスキータ作 マントを着たヤープ 1913年 45歳 木版 19.5X10.3
一人息子ヤープの少年時代。こんなに可愛い作品もあるのに、9年後にはあんな描かれ方をされようとは😒

メスキータ作 髭に手をやる自画像 1917年 49歳 木版 46.0X36.0
同展図録の「M.C.エッシャーの語るサミュエル・イェスルン・ド・メスキータ」(アムステルダム市立美術館で戦後初めて開催された「メスキータ作品展」1946年の図録に掲載された文章を翻訳して転載)は、彼の作品はひと握りの人々にしか評価されず、広く理解されないところがある。メスキータは常に我が道を行き、頑固で率直だった。他の人々からの影響はあまり受けなかったが、自分では強い影響を若い人たち、とくに学生たちに与えていた。とはいえ彼の影響を受けた学生たちの大半は、遅かれ早かれ、その影響から抜け出した。というわけで彼はひとつの流派を作らなかったし、そのことによって、メスキータの孤独で強烈なパーソナリティはさらに魅力的なものになっていくという。
上着の襟や袖の輪郭線、袖口などを斜線で表したり、柔らかく背中に添うソファを緩い弧の輪郭と細い密な線で表している。居心地の良い場所のはずなのに、眼には憂いがある。
癖なのか、右手を口に当て、そのために手入れの行き届いた髭が扇のように広がっている。癖毛の髪のウェーブがこのように表されるのは、今回出品された若い頃の自画像にはない。

エッシャー作 自画像 1917年 19歳 リノカット 21.6X13.1
『ミラクルエッシャー展図録』は、エッシャーが本格的に版画家としての道に進む前に制作されたリノカット技法による版。美術学校に入る以前に、エッシャーは学校の美術教授ファン・デル・ハーヘンからリノカット技法を学び、18歳頃にいくつかの版画を制作していた。この時にエッシャーが見せたグラフィックアーティストとしての片鱗は、ハールレムの建築装飾美術学校で開花することになるという。

同展図録の年譜には、1919年、ハールレムの建築装飾美術学校へ入学。当初建築を学ぶが、版画制作へ転じ、サミュエル・イェスルン・ド・メスキータのもとで版画技法を学ぶ(1922年卒業)とある。


エッシャー作 ひざに猫を置いて座る男 1919年 21歳 木版 11.7X9.0
2年前の自画像とはがらりと変わった
スーツを縦線だけで表して、襟、袖膝、ズボンの裾と、最小限の線で境界を示しているのは、メスキータの、髭に手をやる自画像(1917)の反対のようでもある。
本を膝の上で広げた上に猫が乗ってきたのかと思っていたが、縞のない黒い袖口から手が出ているのだった。
ほぼ左右対称だが、両足の靴の裏がそれを大きく破っている。

エッシャー作 椅子に座っている自画像 1920年 22歳 木版 19.5X17.0
同展図録は、自分自身を低い視点、彼の磨きこまれた靴のすぐ近くから描いている。まっすぐにこちらを見ず、物思いに耽っているように見える。この時期エッシャーはハールレムで建築学を専攻する若い学生であった。建築の勉強はしていたものの、彼は将来の職業についての不安を抱き始めた。版画の世界を発見し、その魅力に心が揺れていたからだ。版画の伝統、特に木版画の技術を彼に伝えたのは師である、ド・メスキータであった。ド・メスキータはエッシャーに最も影響を与えた師であり、彼のクリエイティブな興味をサポートしてくれた。この自画像の中にエッシャーの職業選択についてのためらいと同時に、悩んだ末の結果が見てとれる。彼の部屋に掛けられた額入りの絵によって、エッシャーは自身が版画家であることを明確にしているという。
ひざに猫を置いて座る男と同じ籐椅子に座っているので、上の作品も正面観の自画像で、本作品は床から斜め上に見上げる視点へと変化している。
壁に掛かっているのは自分の作品?

エッシャー作 男の肖像 1920年 木版(カウンタープルーフ) 34.5X34.4
『ミラクルエッシャー展図録』は、エッシャーは、ド・メスキータから木版画技法を学んだ。そのためエッシャーの初期の木版画には、ド・メスキータからの強い影響下にあったことを示す白と黒のコントラストの強い表現が用いられている。なお、この本作の刷りは、基準作品のカウンタープルーフ、すなわち左右反転の逆向きの版であるという。
反転しているおかげで、この横顔は、26年にメスキータが制作した「メメント・モリ」の横顔によく似ていることに気付いた。エッシャーがいつも書斎に飾っていたというメスキータの肖像画こそ、この作品だったのかも知れない🧐
また、『メスキータ展図録』でエッシャーは、学生たちが猿真似をしたとき-それはよく起きたことなのだが-メスキータはしばしば不機嫌になったという。
そういう師に対抗してほぼ曲線で仕上げたこんな肖像を制作したのでは😉

メスキータ作 ヤーブ・イェスルン・デ・メスキータの肖像、部分 1922年 54歳 木版 32.0X31.7
斜格子というよりは、籐細工が透けて奥の部分が見えたり、編み方が一様でなかったりと細かく描写した円内の背景を背にして、息子を描いているのだが、ホラー映画のポスターのようなおどろおどろしさがある 😵
13年には少年だった息子のヤープは、22年には大人になっている。とはいってもまだ若者なのに、そうは見えないこの顔貌。丸眼鏡の奥の眼の周りの黒い部分は、彫りが深いだけとも思えない。

メスキータ作 メメント・モリ(頭蓋骨と自画像) 1926年 58歳 鉛筆・紙 35.4X26.1
同展図録は、60歳を目前にしたメスキータの自画像である。ここでメスキータが眼前にしているのは鏡ではなく頭蓋骨だ。タイトルになっている「メメント・モリ」は「死を忘れるな」という意味で、西洋美術では伝統的な主題であるという。
髪も短く、口髭も顎鬚もない。自身の本来の姿を描こうとする意志を表しているようだ。 横顔の頬から頸部にかけて深い皺が何本も刻まれていて、しかも直線のものが多い。
メメント・モリ第3ステート 1926年 58歳 木版 32.7X61.7
頭蓋骨を傍らに置く人物像として表されるのが一般的で、死後の神による審判を想って正しく生きよ、という教訓的な意味合いを持つことが多いが、本作で頭蓋骨と向き合うメスキータの横顔には、死への畏れというよりは、諦めのような表情が浮かんでいるという。
髪は短くなったが、口髭はやはりたくわえている。深い皺に立体感が出てきた。
メメント・モリ第10(最終)ステート、部分 1926年 58歳 木版 31.0X61.0
首から顎にかけて刻まれた深い皺と、白い眉や髭は、老いの現実を感じさせずにはおかないという。
皮膚のたるみが丸みをもって表現されている。


メスキータ作 サボテンと自画像 1926-29年 木版 38.1X21.6
メスキータは、縦長の画面に一部だけ自画像を表している作品があるが、この作品では、逆さになったサボテンが頭上まで達していて、葉と花が分岐するところから、横縞が広がっている。その上にはギザギザの斜線が、横縞の輪郭と平行している。
見方を変えると、窓の外に上階から落ちそうになったサボテンが何かに引っかかり、こんな状態でとまっているのを部屋の中から眺めている。メスキータ家の窓にはギザギザの端のカーテンと、少し長い端の飾りのないカーテンが二重になっているので、その三角形の隙間から、サボテンが落ちるか落ちないか、メスキータは様子を見ている。
この正面向きの自画像は、「メメント・モリ」(1926年)を制作した年から、「髯のる眼鏡をかけた自画像」(1930年)までの間に制作された。
目の下には細い皺がたくさんあるが、26年の「メメント・モリ」のような深い皺はない。ということは、「メメント・モリ」は、自分かもっと年を取った顔を想像して描いていたのでは。

エッシャー作 自画像 1929年 31歳 リトグラフ 26.4X20.5
今までと違い、顎鬚に口髭、その上一文字に続く眉、ウェーブする髪など、今までのエッシャーの自画像とは全く異なる特徴を重点的に描いているように見える。

メスキータ作 髭のある眼鏡をかけた自画像、部分(下に続く長い空白部分は省略) 1930年 62歳 木版 17.0X12.0
輪郭のない人の顔だが、髭によってなんとなく顔が想像できる。

エッシャー作 球面鏡のある自画像 1934年 36歳 リトグラフ 28.6X32.6
『ミラクルエッシャー展図録』は、この版画は16-17世紀にかけてのオランダやフランドルの絵画の特徴であるキリスト教のヴァニタス画の伝統を表したものである。これらの絵画では、静物は、壊れやすい世界の空虚さや我々自身のはかなさを象徴するものとして描かれている。エッシャーの版画の多くにも見られる反射鏡の使用もまたルネサンスやバロック絵画からよく知られている。これらの作品の中の空間を広げる手段として用いられている。鏡は外界の存在を表すもの、つまり隠れた神の存在を暗示すると考えられていたという。
空き瓶の隣に笑っているような鳥については、エッシャーが義父からプレゼントされたペルシャの金属製彫刻であるという。
ペルシアの人面鳥?気になるので、ちょっと調べてみよう。
彼は版画の作業場で石版石の上に絵を描いているように見える。この年にエッシャーは芸術家として認知され、ローマにあるオランダ歴史研究所には彼の作品が展示された。彼の好きなローマに暮らした最後の年のことであったという。
36歳とは思えない。

エッシャー作 父の肖像 1935年 37歳 リトグラフ 26.2X20.8
同展図録は、エッシャーは、オランダ北部フリースラント州のレーウワルデンに、運輸省につとめる水力工学の技師と彼の2番目の妻サラ(政府要人の娘)の五男という。
その父78歳の時の肖像である。頭頂部のふわふわした髪の毛1本1本まで、細密に描写していて、自画像とは全く異なる表現なのは、父の好みなのだろう。
『魔術の芸術 エッシャー展図録』は、ジョージ・アーノルド・エッシャー(1843-1939)は、デルフトで、エンジニアリングの勉強を終えてから間もなく、彼は他のオランダ人技師と一緒に日本に行って、大阪の河川や港湾の改良事業に携わるという道を選んだ。1873年に来日して、5年間滞在しているという。

エッシャー作 写像球を持つ手(球面鏡の自画像) 1935年 37歳 リトグラフ・金色の紙 31.8X21.3
『ミラクルエッシャー展図録』は、「球面鏡にあらわれる自画像」は西洋美術史にしばしば登場する画題で、このようなゆがんた鏡の自身のイメージがエッシャー作品に現れるようになるのは1934年以降のことで、本作では、球面鏡を手に持つエッシャーが、当時の自宅の様子とともに描き出されているという。
エッシャーの顔ではなく目が球体の中央に配されているが、これはエッシャー自身が意図したことであった。彼によれば、本作の人物(エッシャー)は「彼がいくらよじったりひっくり返ったりしても、その中心点からは逃れられない。彼のエゴはゆるぎなく彼の世界の核であり続ける」と語っているという。
やっぱり眉は繋がっている。それよりも37歳の風貌とはとても思えない。
部屋の奥にある机でいつも制作していることが、窓やペンダントライトから推測されるが、この作品は、反対側の部屋の隅にあるソファに座り、球体を持っている。

エッシャー作 三つの球体Ⅱ 1946年 48歳 リトグラフ 26.2X46.5
左と中央の球体は、窓の外に映っているものから判断すると同じ部屋だが、左の球体にはぼんやりした輪郭の中にロゼッタ文(花を真上から見下ろした)が描かれ、右下には別の景色が描かれている。
球体に映る、三つの球体Ⅱを描く自分とその周囲にあるもの、あるいは映っているものを描いているが、左の窓の下の奇妙な形のものは何だろう。右側にある白く丸いものは、隣の球体が映っているのだと思う。

エッシャー作 写像球体の自画像 1950年 52歳 木口木版 直径8.2
今回出品されている自画像の中では最も高齢、とはいえまだ52歳。47歳の時よりも若く見える。白い歯が見えているのはやや不気味。
本来は直線のものが全て曲線になる球体の中の世界を楽しみながら制作しているのだろう。

                   →エッシャーが描いたペルシャ神話の人面鳥
関連項目

参考文献
「生誕120年 イスラエル博物館所蔵 ミラクル エッシャー展図録」 
「メスキータ展図録」 2019年 キュレイターズ
「魔法の芸術 エッシャー展図録」 1981年 アート・ライフ