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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2021/02/05

法隆寺大宝蔵院 百済観音像


大宝蔵院は塼が敷き詰められた中庭を囲む4つの棟からなっている。南棟は出入口で、まずは左手の東棟から仏像群を拝観していき、その突き当たりで玉虫厨子の四面を見た後は北棟へ。北棟の中央には宝形造の百済観音堂が造られている。そこには百済観音像だけがガラスケース内に安置されて、四方から眺めることができる。
百済観音は何度か拝見したが、その度に惹かれていく、不思議な仏像である。

百済観音 飛鳥時代 像高209.4㎝ 木造・彩色
『法隆寺』は、丸みをおびた全身からは柔和な優しさが漂う。頬の輪郭、やや小さめに浅く刻まれた口辺、眼と眉の間を少し広くした感じなどは女性的で温雅である。
頭・体部・足下の蓮肉部まで樟の一材からなり、面部から上半身にかけては、乾漆の盛り上げがほぼ全面に施されているという。
この手法は木心乾漆だろう。木心乾漆は脱活乾漆の後に造られるようになり、平安時代にはなくなった技法だと思っていた。
古都奈良の名刹寺院紹介、仏教文化財解説など木心乾漆のお話は、乾漆の厚みが薄いとはいえ乾漆を均一に塗らなければ干割れを起こすため容易な作業ではありませんでした。が、逆に「法隆寺百済観音像」は上半身に施された「木屎漆」が細かい干割れを起こして、その影響でお顔の表情が憂いを富んだ柔和な感じになっており、それが日本女性の感性を揺さぶってうっとりさせる原因となっておりますという。

『法隆寺』は、上半身の肉付け、棟や下腹部のかすかな盛り上がり、天衣の表面を側面へ向け鰭状の突起を前後にする表現、肩にかかる垂髪の側面へのひろがり、さらに宝珠形の光背を竹竿を模した支柱に取り付けるなど、側面からもみられることを意識している。また浅い彫りで表現された衣の重なりや裾の部分にみられる柔らかな布の感じは、飛鳥時代前期の木彫像である夢殿安置の救世観音が、深めの彫り口で正面性を基調としているのに比べ対照的であるという。
特に、正面では細くやや鰭状の天衣が、側面から見ると帯のような天衣が腕のはいごからゆるい曲線を描いて先が前方に向く。正面からは予測できない鋭さで、天衣は幾重にか折りたたまれて、下方で開きかげんで2つの端が開いているのだ。

『法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録』(以下『金堂壁画と百済観音展図録』)で三田覚之氏が「百済観音像誕生の謎」で、この時にもよく見なかった、或いははっきりとは見えなかった百済観音の装身具の細部を、東京国立博物館(以下東博)の法隆寺献納宝物の灌頂幡との比較されている。

「百済観音像誕生の謎」は、百済観音の宝冠から垂れ下がった冠繒と灌頂幡天蓋の蛇舌上部に見られる唐草文様の共通性であるという。

冠繒とは冠から両脇に垂下する帯状のものである。

「百済観音像誕生の謎」は、その文様が灌頂幡天蓋の蛇舌上部の文様と共通性があるという。
法隆寺献納宝物灌頂幡図解 『法隆寺宝物館』より

「百済観音像誕生の謎」は、描き起こし図で比較したように、複雑な唐草の巻き込み方が両者で一致しているという。
灌頂幡天蓋と百済観音冠繒の唐草文様の類似点 法隆寺 百済観音展図録より

「百済観音像誕生の謎」は、この宝冠は明治44年(1911)に法隆寺内の土蔵から発見された。どこまでこの宝冠がオリジナルの状態を保っているかについては慎重を要するが、臂釧・碗釧とともに灌頂幡の意匠を共有していることから、改めて像本体と本来一具であることが確認できるだろう。
重要なのは、灌頂幡について資材帳に記されていることである。これにより具体的な日時は不明ながら、片岡御祖命という人物が灌頂幡を奉納したことがわかる。百済観音像もまた片岡御祖命の周辺で制作が進められ、同時期に法隆寺へ奉納された可能性がみえてくるという。
灌頂幡坪堺金具と百済観音の臂釧碗釧の類似点

「百済観音像誕生の謎」は、化仏を戴く宝冠は『観無量寿経』に由来する。同経には「その天冠の中に、一の立てる化仏あり」とあり、坐像と立像の違いはあるが、浄土思想にもとづく造形であることがわかる。
青い玉の付いた花形の鋲は後補であり、本来は簡素な銅鋲であったと考えられるという。
青い玉を見つけたと思っていたのに🤔
柔らかい笑みが口元にはあるが、全体の表情としては不可思議😮
眉から頰の膨らみなどの表現は救世観音よりも自然になっている。

「百済観音像誕生の謎」は、左手の水瓶だが、宮地治氏によると、水瓶は本来ブラフマー(梵天)の持物であり、修行に励む行者的な性格を象徴する。グプタ朝時代からポスト・グプタ朝時代(5世紀中頃-8世紀中頃)になると、西インドの後期石窟において、水瓶を執る観音菩薩が見られる。どこにでも赴き、救いを垂れる観音菩薩の性格により、行者の持物である水瓶が選ばれたのだろう。
水瓶を執る観音菩薩は、浄土からこの世に現れた姿を意味しているという。
水瓶を持っているかどうかを菩薩を見分ける目安としていたが、こんな風に観音菩薩が水瓶を持つようになった歴史があったとは🤗

「百済観音像誕生の謎」は、同経の「この宝手をもって、衆生を接引したもう」という文言からすれば、百済観音像の仰いだ右手は、衆生を救い取るかたちを示すと考えられる。
また、西村公朝氏は「現在は何も持っていませんが、掌には、何かを固定していた小さな枘穴があります。これはおそらく、如意宝珠をささげ持っていたのでしょう」と述べられており、修理技術者の貴重な証言として注目されるという。
百済観音はどんな如意宝珠を持っていたのだろう。救世観音の持つ火焔宝珠?左手の水瓶と同じく木製のものだったかも。

頭光は宝珠形
中心の八葉単弁蓮華文はふっくらとした花弁で、稜線が浮き出ているが柔らかな雰囲気。この蓮華が瓦から採用されてモティーフだとしても、型づくりの軒丸瓦の蓮華とは比べようもない。
その外側の幅の狭い区画には、おそらく五色だったと思われる線が配される。その外側の2つの区画の文様はよく分からない。
一番外は火焔文で、上へ上へと炎が昇っていくように、宝珠形の下の方に同心円文を置いていて素晴らしいデザイン😊

頭光の支柱
「百済観音像誕生の謎」は、竹を模した百済観音像の光背支柱には、その根元に4つの山岳が表されている。肥田路美氏が考察されたように、山岳はこの世の表象であり、山岳を伴った仏はこの世に現れた姿を示している。特に観音菩薩の場合は補陀洛山を意味する可能性があるだろう。像に対して小さすぎるようにも見えるが、『観無量寿経』は観音菩薩の身長を「80万億那由他由旬」としており、小さな山岳との対比において広大無辺な姿が強調されている。支柱自体が竹をかたどっているのも「材木は欝茂して地草は柔軟なり」(『華厳経』)という補陀洛山のイメージにもとづくと考えられるという。
竹のように節や皮を彫り出しているのに、最下部は山を表しているようで不思議だった👀
百済観音像頭光の支柱部分 法隆寺金堂壁画と百済観音展図録より

「百済観音像誕生の謎」で三田覚之氏は、様式的に見た百済観音像の制作年代はどうだろうか。百済観音像の造形をみると、法隆寺金堂本尊の釈迦如来像に代表されるような止利仏師の様式には属しておらず、側面鑑賞性や自然な肉取りにおいて進歩がみられる。このため、止利仏師を重用した蘇我氏が滅んだ後、大化以降から斑鳩寺火災以前あたりを想定するのが現在の基本的な見方と思う。およそ645年から670年が想定されているわけである。
灌頂幡と一具として制作された以上、百済観音像は当初より法隆寺に安置されていたのであり、江戸時代以来その存在が確認できる金堂内陣北側こそ、本来の安置場所として相応しいと。
金堂の建立以来、山背大兄王の追善像たる百済観音像が安置され、聖徳太子の追善像である釈迦如来像とともにあったと考えるが、果たしてそれが妥当な推定かどうか、古代史の大きな謎の前で、百済観音像は微笑みを湛えて立ち続けていると締めくくられている。

東廊を足早に進み、その南端の雲斗雲肘木などをゆっくりと鑑賞するひまもなく、4時半ぎりぎりで大宝蔵院を出た。
奈良時代の食堂と綱封蔵に光が当たり、桜の紅葉が朱塗りの木材と同じ色だった。

前にも拝観を終了したのは日暮れ時だったように思う。
法隆寺の有料区間から出てしまったとはいえ、日が沈んでしまわないかと心配で、足早に歩く。それは、藤ノ木古墳も見ておきたかったから😄 欲張り🦔
次に来る時はもっとゆとりを持って拝観できるように来よう、といつも思う😅


      法隆寺大宝蔵院 玉虫厨子←   →信貴山朝護孫子寺は夜に

関連項目
参考サイト

参考文献
「法隆寺」くるみ企画室 2006年 法隆寺発行
「法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社・NHK 2020年 朝日新聞社・NHK発行


2021/01/29

法隆寺大宝蔵院 玉虫厨子

 

東院から西院へと急いで戻っていく。

西院伽藍の塀

八脚門をくぐって、大宝蔵院へ。4時半には閉まってしまう🥶


大宝蔵院について『法隆寺』は、平成10年(1998)10月22日。多くの人々の結縁によって「大宝蔵院・百済観音堂」が落慶。7世紀後半の伽藍様式を伝える建物には、安住を得た百済観音をはじめ、玉虫厨子などの寺宝が多数おさめられているという。
残り時間がどんどんなくなっていくので、建物を写す余裕はなかった。

大宝蔵院では六観音像などを大急ぎで見て、展示室の角にガラスケースに入った玉虫厨子を眺める。

玉虫厨子 飛鳥時代(7世紀) 木製、黒漆塗、漆絵、密陀絵、金銅装 総高226.6㎝
『法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録』(以下 『黎明展図録』)は、腰高の宣字形台座に入母屋造の屋根をいただく宮殿を置く形式の木製黒漆塗の厨子。宮殿部に打たれた金銅透彫金具の下に無数の玉虫のはねを敷くため、この名がある。
台座は持ち送りを表した四脚を有し、その上に三重の框を載せている。三段目の框の上に反花を置き、その上に箱形の台座腰部を据えているという。
台座腰部須弥座とも呼ばれている。

『法隆寺』は、
玉虫厨子は飛鳥時代の建築・工芸・絵画・彫刻などの技術による総合芸術である。低平な台脚と腰高の宣字形台座須弥座で構成された台座の上に宮殿部が置かれる。錣葺の屋根、軒回りの組み物などは写実的に仏殿の姿をかたちどり、細部まで丁寧に造られている
という。
大宝蔵院蔵玉虫厨子 飛鳥時代 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

『法隆寺』は、宮殿部の正面扉には二天像、側面扉には二菩薩像、背面には釈迦の霊鷲山説法図を描くという。

宮殿部 正面扉 二天像 
左天王像は顔もよく残っていて、威嚇するような表情は見られない。二天共に中央を向いて身を屈している。その頭光や、頭部の翻る紐状のもの、両端の細い木の捻れる表現などは、かなりこなれた技量を示している。
法隆寺大宝蔵院蔵玉虫厨子宮殿部正面 二天像 国宝法隆寺展図録より

側面 二菩薩像
どちらも三面頭飾をつけて、それを結わえた紐の端が翻っている。左の菩薩は右手で、右の菩薩は左手で、それぞれ長い茎の蓮華を持つ。
やはり両端には細い植物が描かれているが、蓮華でも唐草文様でもない。
法隆寺大宝蔵院蔵玉虫厨子宮殿部側面 二菩薩像 国宝法隆寺展図録より

背面 霊鷲山説法図 
どの図録を探しても、宮殿部背面の図版だけはない😑
検索してみると、奈良国立博物館の収蔵品データベースに、模造の玉虫厨子があり、その中で、霊鷲山説法図の画像を拡大してみると、中程にC字を反転させたような窟があり、そさこで瞑想する比丘と、水瓶が描かれていた。
『金堂壁画と百済観音展図録』は、宮地治氏によると、水瓶は本来ブラフマー(梵天)の持物であり、修行に励む行者的な性格を象徴する。グプタ朝時代からポスト・グプタ朝時代(5世紀中頃-8世紀中頃)になると、西インドの後期石窟において、水瓶を執る観音菩薩が見られる。どこにでも赴き、救いを垂れる観音菩薩の性格により、行者の持物である水瓶が選ばれたのだろう。
禅定の比丘形には傍らに水瓶があり、行者の持物という性格を確認できるという。
玉虫厨子宮殿部背面部分 霊鷲山説法図 国宝法隆寺展図録より


『法隆寺』は、鎌倉時代の寺僧顕真が著した『聖徳太子伝私記』に詳しい記述がある。そこには推古天皇の御厨子で、唐草文様を透かし彫りした銅板の下に玉虫の翅が貼られていること。橘寺の衰退にともなって法隆寺へ移入され、金堂に安置されていたという。 
大宝蔵院では照明を落としてあるため、こんなにたくさん玉虫のはねが残っているのには気付かない。それとも加齢によるものか😥
大宝蔵院蔵玉虫厨子部分 飛鳥時代 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

『黎明展図録』は、框の側面、腰部の四隅、宮殿部の基壇、柱や長押、軒下組物などに金銅透彫金具が打たれている。このうち、宮殿部の金具には下に玉虫のはねが敷かれており、かつては青や緑に発色するはねと金色の対比の妙が目に鮮やかであったことであろう。
金具の文様は唐草文様が主流であるが、猪目透かしのある火焔宝珠形を随所に表す点に特徴がある。この火焔宝珠文は腰部の四隅金具では主文として用いられ、内側の火焔宝珠を外側の大きな火焔宝珠が包み込む構成となっているという。
玉虫厨子部分 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

金堂透彫金具 百済時代(6-7世紀) 韓国・扶余陵山里中塚出土 韓国国立博物館蔵
『黎明展図録』は、猪目透かしのある火焔宝珠の上に山形の火焔を重ねており、玉虫厨子金具の祖形と見なすことができよう。玉虫厨子の造立に朝鮮半島からの帰化人が関わったことがうかがえる。
猪目透かしのある宝珠文様は金堂四天王像の宝冠にも見え、この像が7世紀半ばの作と推定されていることも厨子の年代を知る手掛かりとなろうという。
韓国国立博物館蔵金堂透彫金具 百済時代(6-7世紀) 日本仏教美術の黎明展図録より

『黎明展図録』は、腰部の上に蓮華座、三段の框を重ね、その上に宮殿部を載せている。宮殿部は格狭間のある低い基壇にのり、正面と両側面の三方に観音開き扉を有する。屋根は入母屋造であるが、軒まわりの屋根と切妻を別々に作る錣葺きであり、甍に鴟尾をいただく。軒下には雲形肘木が取り付くが、これは中心より放射状に広がるように配されているという。
玉虫厨子部分 飛鳥時代 『法隆寺』より

『黎明展図録』は、錣葺は天寿国繍帳の鐘楼などにも見え、法隆寺金堂よりも古い形式とされるという。

天寿国繍帳の鐘楼部分 飛鳥時代(7世紀) 奈良 中宮寺蔵
屋根の傾斜が途中で変わっているものを錣葺というようだ。鐘楼というよりも、鐘撞き堂の方が相応しい建物である。

宮殿部扉の内側の千体仏
『法隆寺』は、
宮殿部の内側には一万三千の千体仏が打ち出された銅板が貼られ、古い記録では中央に釈迦像が安置されていたということ。また、この時には、金銅阿弥陀三尊像が安置されていたが、盗人に盗られたことなどが記されている。現在は白鳳期の金銅菩薩立像が安置されているという。
玉虫厨子宮殿部内側の千体仏 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

『法隆寺』は、厨子各面に描かれたこれらの絵には、全体的にみて中国的要素が強く、背景の風景や、ところどころに描かれた天人や動物などに神仙的な雰囲気がうかがえるという。

須弥座正面 舎利供養図
舎利は下の容器に入れられ、向かい合う2人の僧侶が香炉で香を焚き、供養していると、その行いを賛美する天人たちが上空に現れた。
玉虫厨子須弥座正面 舎利供養図 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

須弥座背面 須弥山世界図
中央に高い峰のある須弥山世界が表されているが、細かいところが何を描いているのかがよく見えない。上方左に三足烏のいる太陽、右に月が描かれていることや建物が描かれていることくらい。
玉虫厨子須弥座背面 須弥山世界図 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

月の中にいるのはウサギだろうか。天寿国繍帳に描かれた月には、壺を中央につねウサギと木が描かれているので、似たようなモティーフが配されているのではないだろうか。

須弥座左側面 施身聞偈図
『法隆寺』は、左側面には『大般涅槃経』「聖行品」による「施身聞偈図」が、油性の含まれた顔料や漆および墨で描かれている。
雪山童子が食人鬼である羅刹から「諸行無常 是生滅法」の偈を聞き、後半の「生滅滅已 寂滅為楽」の偈を教えてもらう代償として、自己の肉身を与えるため岩頭から身を投げると、羅刹はその本性である帝釈天となって空中で受け止めたという説話という。
玉虫厨子を見る時はいつも、この面が先になり、「捨身飼虎図」だと思って、虎親子を探してしまう。
玉虫厨子須弥座左側面 施身門偈図 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

須弥座右側面 捨身飼虎図
『法隆寺』は、側面に描かれた絵画は、釈尊の前世の菩薩行をあらわす仏教説話で、向かって右側面に『金光明経』「捨身品」による「捨身飼虎図」。
摩訶薩埵王子が山中竹林の七仔を連れた餓虎を哀れみ、崖から飛び降りて自己の肉身を喰わせたという説話という。
暗くて下の方は見にくいなあと思っていたが、薩埵王子や虎たちの前に竹林が描かれていて、はっきりとは見せない工夫がしてあったのだ。
このような生々しい場面のある本生譚は、インドでは生まれず、ガンダーラで作られたというのを何かの本で読んだことがある。
玉虫厨子須弥座右側面 捨身飼虎図 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

『国宝法隆寺展図録』は、上框下方の反花に、菱形の切金文の痕跡も確認され、わが国最古の切金遺品として注目されたというが、気がつかなかった。次回こそは突き止めよう🧐

「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994年 東京国立博物館・奈良国立博物館・法隆寺・NHK他
「法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社・NHK 2020年 朝日新聞社・NHK発行

2021/01/22

法隆寺東院夢殿 救世観音立像


西院伽藍を出て東院に向かう。
法隆寺西院伽藍から東院伽藍図 国宝法隆寺金堂展図録より

東大門 三間一戸 八脚門 切妻造 本瓦葺 奈良時代
『法隆寺』は、もとは現食堂の前方に南向きに建っていたが、平安時代に現在の位置に移され、東西に通り抜ける門となったと推測されている。
天井を見上げると、虹梁の上に蟇股がのり、その上に母屋桁が南北に通り垂木を受けている。中央の真の棟木と、この両脇の母屋桁(棟木)とを合わせた形式は三棟造といわれ、奈良時代の門の典型とされているという。
時間がなくなってきたので、構造を見上げる余裕がなかった😅

東大門の際から若草伽藍が見学できる時期があるらしいことが、検索していてわかった。
そのうちのだから歩いていくんだよ。のブログ法隆寺夏期大学 その6(若草伽藍現地説明)には、門際の木戸(右端にちょこっと見えます)が開いていたので入っていくと、説明も受けたというようなことが、写真と共に紹介されていた。

東院伽藍まではかなりの距離があるが、門越しに夢殿の大きな屋根が見えている。近づいていくと見えなくなった。
まだかまだかと焦っている目に飛び込んできたのは、南側の塀に並んだつっかい棒👀


西門は四脚門
門をくぐると連子窓が並ぶ回廊の西門、入口専用。

『法隆寺』は、推古9年(601)、斑鳩の地に聖徳太子の宮殿が建てられた。推古13年には飛鳥より斑鳩宮へ移り、仏教の研鑽に励まれた。
推古30年2月22日、この斑鳩で太子は薨去される。49歳だった。
皇極2年(643)、蘇我入鹿に攻められた山背大兄王をはじめとする上宮王家の一族は滅亡し、斑鳩宮は廃墟と化した。
その後、100年近い歳月が過ぎ、斑鳩宮の故地を訪れた行信は、その荒廃した姿を嘆き東院の建立を発願したというので、東院伽藍は奈良時代の創建である。
東院伽藍 法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録より

夢殿 八角円堂 一重 本瓦葺 天平11年(739) 
『古代寺院』によると、761年(天平宝子5)勘録の『法隆寺縁起并資材帳』(以下『東院資材帳』)には、737年に光明皇后と行信が経や鉄鉢を施入したとある。すなわち、『東院縁起』にみえる八角円堂の正堂(夢殿)もその頃の建立になり、創建とともに中央厨子内に観音菩薩像(救世観音)が安置されたに違いない。八角円堂には廟としての性格があり、夢殿は聖徳太子の霊廟として建立されたとみられるが、観音菩薩像は『東院資材帳』に「上宮王等身」記されるように、観音を聖徳太子と同体とみる信仰が萌芽していたと考えられる。
現在の建物は、寛喜2年(1230)の大修理により、屋根部分が改造されている。内外二重に八角の柱が8本ずつ立つ正規の八角円堂。屋根のいただきには、舎利塔をかたどった華麗な青銅製の宝形(露盤)が大空に身光を放つという。 

『国宝法隆寺展図録』で鈴木嘉吉氏は、八角円堂はもともと故人追善のための建築様式で、屋頂の「宝形」が舎利瓶を象った宝瓶・光明を飾る特異な形式であるのは、この堂の性格をよく表している。仏殿(夢殿)と講堂の間に宝蔵殿を置くのも異例で、救世観音を太子等身とする伝えのとおり、この伽藍が太子を祀る目的で建てられたことがわかる。天平創建当初は夢殿と伝法堂が瓦葺きであったほかは、南門、中門、回廊、宝蔵殿などがすべて掘立柱、桧皮葺の建物であった。これはおそらく太子の住まわれた宮殿への連想を意図したものであろうという。

ふと見上げると古そうな鬼瓦を見つけた。
一の鬼 仁平2年(1152)または永万元年(1165)の修理瓦 
『鬼瓦』は、法隆寺における最後の型づくりである。眉にはへらできざみ目、口端が下がり迫力に欠けるという。
でもこんな鬼瓦の方が和みます🤗 いや和んでいては邪気が忍び込み放題か😁
二の鬼の方が迫力があるが、時代が下がりそう。

別の棟の一の鬼2
型で造っていても、ヘラで仕上げるときに少しずつ変わってしまうものなのだ。
目力がある

一の鬼と二の鬼3
額には皺、牙が軒丸瓦を掴んでいる。

一の鬼と二の鬼4
盛り上がった眉が飛び出た目の庇となっている。

そして秋の特別公開中の救世観音立像
『古代寺院』は、夢殿本尊救世観音は、楠材製で、表面は金箔をはって金色相を表し、宝冠や装身具は銅板透かし彫りで、鍍金を施している。「上宮王等身」と言いながら、像高は宝冠を含めると190㎝以上と大きい。一方、『東院縁起』には太子が在世中に造立した像と伝えるが、確かにその大ぶりな目鼻立ちは釈迦三尊よりも飛鳥大仏に近く、釈迦三尊より先行する作例とみてよいと思われるという。
救世観音像は太子存命中に造られたとうことで良いのかな。

飛鳥大仏は『日本仏教史』によると、本尊となるべき銅造と刺繍の丈六仏(ともに左右脇侍をもつ三尊像)については『書紀』推古13年(605)条に、ようやく仏工の鞍作鳥により着手されたことを伝えている。その完成は『書紀』が翌14年、『元興寺縁起』所収「丈六光銘」は同17年(609)のこととし、一般には後者が正しいとされるという。
また、金堂の釈迦三尊像は推古31年(623)に鞍作止利が造っていることが光背の銘文に刻まれているので、救世観音は610年代に造られたのかも。
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『法隆寺』より

菩薩立像 百済(4世紀前半-660) 金銅製 新潟・関山神社蔵 
『古代寺院』は、救世観音像はその像容が新潟・関山神社に伝来する菩薩像に酷似することが指摘されている(久野 1973)。
救世観音の像高は関山神社像の10倍ほどになるが、長身で腰高なプロポーションのみならず、緩くS字を描く側面観、頭髪や衣の構成にいたるまでよく似ている。
関山神社像は精緻な出来映えに加え、錫と銅を1割近く含む青銅の組成や鉛の同位体比から百済からの渡来仏とみて間違いなく(藤岡 2014a)、救世観音がそうした渡来仏を手本としていることを物語っているという。 
三曲法の著しい菩薩像だが、肩には2つの蕨手があり、右側面が失われていなければ、控えめな鰭状の天衣という特徴ももっと分かり易かっただろう。
新潟・関山神社蔵 菩薩立像 『古代寺院』より

菩薩立像 宮城・船形山神社蔵
『古代寺院』は、渡来仏との類似という天衣点では、宮城・船形山神社(黒川郡大和町)の御神体として知られる菩薩像の天衣の形が救世観音にきわめて近いことも注目されるという。
鰭状の天衣という特徴がみごとに表されている菩薩立像である。救世観音像と同様に独立した像として造られたのだろう。
宮城・船形山神社蔵 菩薩立像 『古代寺院』より

『古代寺院』は、近年、棲霞山石窟千仏岩区の南朝の諸像は、表面を覆っていたモルタルが除去されて本来の面目を取り戻した。なかでも第22屈の脇侍菩薩は、腰高なプロポーション、複弁の反花を2段重ねる台座の形式など、救世観音像と共通の特徴をもち、あらためて救世観音が梁様式を源流とすることが明らかとなった。
救世観音は両手で腹前に宝珠をとる。梁と百済の菩薩像には両手で腹前に球状の持物をとる例が散見される(金 1990)。様式とともにこうした図像も梁代の仏像に由来し、それが百済を通じてもたらされたことがうかがえる。救世観音は天衣を背面で膝裏あたりまで長くU字形に垂らすが、こうした形式も百済の作例に見られることが指摘されているという。

棲霞山石窟千仏岩区の仏像は分からないので、梁朝の浮彫像を見てみると、

力士立像 梁(6世紀前半) 石造 浙江省紹興市 大仏寺千仏禅院
『世界美術大全集東洋編3』は、大仏寺の山門と隣接して、現在千仏禅院と呼ばれる小寺院があり、ここに自然洞窟を利用して開鑿した千仏造像がある。左右2つの区域からなり、向かって左側の大きな区域は、横長に全部で13の区画に分かれ、外側の一つにはそれぞれ蓮華座上に大きな頭光をつけ棒状の物を持つ力士像を浮彫りで表しているという。
仁王立ちしてはいるが、棒状の物がなければ菩薩に見える。X状に交差する天衣は両肩にかかり、背後から体側面に鰭状に広がっている。
浙江省紹興市 大仏寺千仏禅院 力士立像 梁朝 『世界美術大全集東洋編3』より

小金銅仏の作品では、

菩薩立像 北斉武平3年(572) 金銅 高さ20.5㎝
『中国の石仏展図録』は、幅広の魚鰭状天衣とX字状天衣を見せる。天衣の魚鰭状とX字状を組み合わせることは、わが国では法隆寺金堂釈迦如来の脇侍菩薩に初出し、それは北魏~東・西魏の影響であると言われるが、本国では北斉までも依然として行われていることが分かるという。

観音菩薩立像 北魏正光2年(498) 銅造鍍金 高さ27.5㎝ 河北省出土 静嘉堂文庫美術館蔵
『金銅仏東アジア仏教美術の精華展図録』は、重厚な着衣表現に重点を置いた北魏後期様式の典型的作例である。
光背はゆらめくような火焔・連珠文の縁取り・二重蓮弁を入れた頭光などの装飾意匠で充填される。蓮座は痩躯の像に対応するかのような鋭い複式蓮弁という。

観音菩薩諸尊立像 梁時代・中大同3年(太清2年、548) 砂岩、彩色 高43.6幅39.5奥行16.5 四川省成都市万仏寺址出土 四川省博物館蔵
『中国国宝展図録』は、万仏寺は成都市の西北にあった寺で、19世紀末から20世紀半ばにかけての数度にわたる調査で200余点の仏像が発見された。
銘に観音と記される中尊は、菩薩形ながら右手施無畏印、左手は瓔珞をつかみ、宝冠はターバン飾りとして、尊名を特定する標幟をとくに備えないという。
中尊の菩薩とその両脇侍菩薩ともに、鰭状の天衣である。三像ともに体を三曲に曲げているために、救世観音像に似ているようには思わなかったが、あらためて見ると確かに鰭状であるだけでなく、両脇侍が胸前で宝珠のようなものを両手で持っている点など、共通する特徴が多い。
今までは北朝の影響ばかりを追ってきたが、南朝の影響も受けていることをしっかり理解できた😎
四川省成都市万仏寺址出土観音菩薩諸尊立像 梁時代 『中国国宝展図録』より

『日本仏教美術史』は、平安時代以降、その御影(肖像)の救世観音と呼ばれたことがわかる。「救世観音」の呼称は経典に説かれず、「法華経観音菩薩普門品の「観音妙智力 能救世間苦」に由来して中国唐時代に流行した「救苦観音」が日本では救世観音となったとも推測されている。
宝冠が金銅製のほかは、本体・台座・光背とも楠製で、それぞれ白土地に金箔を押して仕上げている。本体は両手に持つ宝珠を含み台座まで一材から彫出し、体側に広がる鰭状天衣の先端部分に別材を矧ぐ。
正面観に明らかなそのプロポーションは絶妙なバランスを保ち、肩をひいて下腹部を少し突き出す「く」の字の側面観も、他の像の類型的なそれとは異なり、余分な力が抜けた自然な立ち姿を示す。左右対称に広がる天衣も斜め後方へ、実に伸びやかなカーヴを描くという。
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良』より

宝冠及び頭光
『古代寺院』は、救世観音の宝冠は中国由来の虁龍文系の唐草文が透かし彫りされるが、歩揺をつける点に古墳の副葬品との関連も認められる。法隆寺金堂釈迦三尊を作った止利仏師が「鞍(作)首 くらつくりのおびと」、すなわち馬具製作に携わる家系の出身であったことがあらためて想起されようという。

『日本仏教美術史』は、宝冠は大きな三山形を呈するもので、虺竜文系の唐草を主体とした透彫り文様をあらわし、頂上には釈迦三尊の脇侍と同じ三日月と宝珠の組み合せ文様をあしらう。
光背は宝珠形の頭光で、素弁8葉の蓮華文の周囲に虺竜文系の雲気唐草文帯、連珠文帯、半パルメットによる蓮華唐草文帯をめぐらし、周縁部はやはり虺竜文系の火焔文を表して頂上に宝塔形を配するという。
これだけ拡大しても、文様の細部はよく見えない。
しかし、頭光頂部には多宝如来が湧出させたという三柱九輪塔だった。
それについてはこちら

『建築を表現する展図録』は、空中に浮いた宝塔の中には多宝如来の舎利が納められており、中から多宝如来が釈迦の説法が真実であることを大音声で宣言した。その後、宝塔内に入った釈迦は十万世界から集まった諸仏や菩薩とともに多宝仏の分身を拝し、さらに、釈迦如来は多宝如来に座を与えられ並んで結跏趺坐し、ともに法華経を説いたという。
ここから二仏並坐像が生まれている。聖徳太子と等身の観音像ということで、聖徳太子を釈迦に見立てた像であることを宝塔は示しているのかも。
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『日本仏像美術史』より

救世観音のお顔
法隆寺東院 救世観音像 飛鳥時代(7世紀)  国宝法隆寺展図録より


『日本仏教美術史』は、頭髪は髻をあらわさず、左右振り分けの総髪として蕨手状の垂髪を肩に表す。上半身には僧祇支、下半身には裙を着けるとともに、両肩に天衣をまといその先端を鰭状とするという。
蕨手は曲線的だが、金属の道具のような硬い観じを受け、左右に広がる典型的な鰭状の先端は、上から下へと大きくなり、一番下のものは、曲がっているとはいえ、両刃の剣のよう。
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『日本仏像史』より

夢殿では前に台が置いてあるためこの前面が見えないので、斜め隅からのぞいてみると、膝下で交差する3本ずつの天衣の膨らみが、とても新鮮な発見だった。その上の結んだリボンも柔らかな素材をみごとに彫り出している。平面的な鰭状の衣端とはえらい違いや🤗
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『日本仏像美術史』より

救世観音を拝観した後は、北西側から外へ出るようになっている。その前に再び夢殿を眺めて、中門に素屋根が掛かっているのに気付いた。
屋根を修復中のよう。

北西から回廊の外へ出ると、目の前に立ち塞かっていたのは鐘楼😮

『法隆寺』は、下階の部分が、袴を穿いたようになった鐘楼を袴腰付鐘楼といい、中世以降に流行する。東院鐘楼は応保3年(1163)に建立したと考えられ、袴腰付鐘楼の最古例とされている。
現在の建物は鎌倉時代初期に再建に近い大修理をうけている。
なお、上階に吊された梵鐘は天平時代のもので、かつては中宮寺の鐘であったとされるという。


関連項目

参考文献
「法隆寺」くるみ企画室 2006年 法隆寺発行
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994年 東京国立博物館・奈良国立博物館・法隆寺・NHK他
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂
「日本仏教美術史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国国宝展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社編集 2004年 朝日新聞社
「建築を表現する展図録」 2008年 奈良国立博物館