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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2020/12/28

法隆寺 五重塔まで


久しぶりに法隆寺にいった。国道25号から南大門まで松並木の間の参道がある。
『法隆寺』はこの松並木の参道から始まる、優れた案内書である。

南大門は、平面は三間一戸。控柱が前後各4本、合わせて8本あるから八脚という(『日本古建築細部語彙 社寺篇』より)。
正面から写しているのでわかりにくいが、門自体の4本の柱の外側に、軒を支える柱が4本ある。門の向こう側にも4本あるので八脚門(はっきゃくもん、やつあしもん)。
簡素な四脚門(新薬師寺)に比べると屋根にも高さがあり立派。

永享10年(1438)、室町時代の再建というが、古い様式に近い様式で再建されたようで、整然とした造りである。

法隆寺の古い建物は一軒(ひとのき)の長い角垂木なのに、南大門は二重の角垂木で深い軒(二軒 ふたのき)となっているが、軒は古い建物同様に反りは少ない。

胴張りの円柱は節が残っている。これについては、12月27日同年1月4日放送の再放送BSフジで「令和の法隆寺 千四百年の伝承と聖徳太子の残響」という番組で、木の南側はよく日があたるので、枝がたくさん出ます。法隆寺では、木材は育ったように立てるので、柱の南側には節がたくさん見えますと言っていた。
しかし、木鼻のようなものが組物に出現。 
花肘木の上に斗が一対ずつ三段重なる。
木鼻や花肘木などは創建時にはなかったので、再建の時に付け加えられたらしい。

『法隆寺』は、これからはじまる遙かな古代への旅への出発点として、中門までたっぷりと保たれた空間は、訪れる人々の心を清浄にさせるという。
この空間は創建時のものではないようで、
『国宝法隆寺展図録』は、南大門は元来中門のすぐ南にあり、、それに続く大垣も現寺地の東西両大門を結ぶ道に面して北側にあったが、長元4年(1031)に今の位置に移転して寺域を拡大した。これは子院の増加に対応するものという。

版築の塀に囲まれた広々とした空間は、行きは期待が膨らみ短く感じるが、急ぎ足となる帰りは長~いのだ😅

松などの木々が成長して、金堂はほとんど見えず、五重塔でさえやっと見える。

救世観音の安置されている東院への参道。この日は秋の特別公開中だったので、後ほどいくことに。

中門
同書は、中門は仏国土への入口。奥行きは通常の門が二間であるのに対して三間と大きく、正面の柱間が四間となっている。四間二戸二重門。このように飛鳥時代の伽藍は中門が大きく、南大門はやや小さくするのが通例のようである。
廻廊に囲まれた内部は仏の世界である。中門は仏の世界と現世とを結ぶ仏門であり、左右に仏の世界を守護する金剛力士が立つという。
昔は通れたこの中門には結界ができてしまい、仁王たちを間近で見上げることはできない。
上層部は人字形割束と卍崩し高欄がめぐり、連子窓の上には雲斗、三段の通肘木、角垂木の木口が整然と並んでいる。
鬼瓦は額から垂らした髪や幅広の顔面という特徴あるつくりだが、以前調べた鬼瓦にはないので、江戸時代以降のものかも。
法隆寺の鬼瓦については関連項目に以前まとめた記事をあげています。

中門といえば仁王像
同書は、奈良時代に記された『法隆寺伽藍縁起併留記資材帳』には、両脇の金剛力士立像が和銅4年(711)に造像されたとあり、中門はそれまでに完成していたことがうかがえる。阿形は像高379.9㎝、吽形は378.5㎝。
像は心木をもとにして、その上に塑土で造形された塑像。完成後に損傷を負ったが、奈良時代にあらためて補修されたという。ダイナミックな動きと豊かな表情は、のびのぴとした奈良時代の金剛力士像の姿を伝えているという。
いつ見ても顔が小さくて格好いい仁王たち。
崩れやすい塑像(吽形は体部木造)なのに、よくぞ持ちこたえてその姿を見せてくれた😍

紅葉と連子窓を眺めながら拝観受付へ。
深みのある中門西側面
入母屋破風には懸魚がある。こんなに古くから懸魚ってあったのかな😶

中門と回廊
同書は、中門を基点に両側から東西にのびる廻廊。途中鉤の手に折れ曲がって真後ろの大講堂につながり、金堂・五重塔を懐に包み込む。
中門の造営に続いて建てられたといわれるが、建立当時の廻廊は、大講堂までのびずに金堂と五重塔だけを囲んで、北廻廊が一直線であったという。
それぞれの屋根の四隅に風鐸が下がっている。お寺で風鐸の音が聞こえることはほとんどない。
五重塔と金堂の間の参道より見た中門

五重塔と金堂を撮ったが、全部入ったと思ったが、相輪の先が切れていたもっとしゃがまないと😅


五重塔と礼拝石
『法隆寺』は、ちとせあまり みたびめぐれる ももとせを ひとひのごとく たてるこのとう
歌人会津八一の歌がある。1300年あまりの歳月を経ながら昨日建ったかのように凜然と立ちつくす塔に、心打たれて詠んだのだったという。
今までに何度も訪れている法隆寺なのに、その度に五重塔は見上げていたはずなのに、今回やっと五層目だけにあるものに気付いた。

今回初めて気が付いたものは、尾垂木を支える邪鬼だった。
沸き立つ雲を浮彫したような腰掛けの上に坐っているのはやっぱり邪鬼😄
頭の上には蓮華がのっているのかな😎 ピンボケだけと
補強のための支柱だけれど、その長さに合わせて、工夫して邪鬼の上下に付け足したのだろう。

相輪
薬師寺東塔の天衣をたなびかせる飛天と筋状の雲という華麗な水煙と比べるとなんと古拙という言葉を感じさせる水煙だろう。こういうのも好みだけれど🤗
でも『法隆寺』に記載された五重塔の水煙よりも短い。なんでやろ😵 でも『日本古建築細部語彙 社寺篇』の図版には、この水煙と同じものが写っている🤔
反花の上には雷除けの鎌が👀

近寄って軒先だけを写してみる。

隅部を裳階の軒から。
実際は木材に胡粉が塗られているので白く見えたが、写真になると透明なプラスティックの屋根のよう。
この裳階は奈良時代に付け加えられたという。
初層の垂木には木口には透彫の金具がよく残っている。
太く力強い蔓草文様
雲肘木の木口にはもっと細かい文様の透かし金具
初層と裳階の間で踏ん張る北西の邪鬼は、花冠のようにギザギザ眉とくりくり髪が額を囲っている
みごとな透彫の金具をつけた尾垂木を肩で一身に支える邪鬼。
北東側の邪鬼は両手で尾垂木を支える。
南東側の邪鬼は、なんと、頭で尾垂木を支えるなど、一体一体の荷重の受け方を変えている。
裳階が奈良時代のものなら、この邪鬼たちも奈良時代の製作ということになる。

五重塔初層には釈迦や初期の信仰に関する場面が塑造で表現されている。光の当たり具合や、何よりも金網に遮られて、よくは見えない。

東面 維摩詰像土
同書は、病の維摩居士を文殊が訪ね、「法」について問答する。それを聞こうとして、仏弟子たちが集まった場面を表現しているという。
敦煌莫高窟などでも壁画で維摩詰の場面はあったが、敦煌莫高窟中の維摩詰経変は、維摩詰経変が江南、中原から西漸して敦煌に伝えられる頃は、まさに中国の歴史が隋の統一王朝に入った時期であったという。
法隆寺五重塔初層東面 維摩詰像土 『法隆寺』より

北面 
涅槃像土
同書は、涅槃に入ろうとする釈迦が横たわり、名医の耆婆が脈をとり、取り囲む菩薩や仏弟子たちが箕をよじり、胸を叩き、慟哭して哀悼する光景を表現しているという。
法隆寺五重塔初層北面 涅槃像土 『法隆寺』より

上の場面、釈迦の足もとの背後には、他の弟子たちと同じように阿修羅が正座している。日月を持っていたかどうかは記されていない。
中国の慶陽北石窟寺165窟の阿修羅像(北魏時代)では、阿修羅は台の上に結跏趺坐しているので、場面に応じて立像だったり、坐像だったりするのだ。
法隆寺五重塔初層北面 阿修羅像 『法隆寺』より

西面 
分舎利仏土
同書は、象徴的に置かれた棺と舎利容器が、周囲の群像とともに釈迦の荼毘と分舎利の情景を表現しているという。
法隆寺五重塔初層西面 分舎利仏土 『法隆寺』より

塔の心柱は推古2年(594)に伐採されたもの。
五重塔心柱 法隆寺 日本美術の黎明展図録より

舎利容器
左端の透彫の2点は入れ子になっていて、緑色のガラス容器に仏陀の舎利が入っているはず。
法隆寺五重塔 地下に納置されている舎利容器(模造) 『法隆寺』より

南面 弥勒浄土
同書は、釈迦が入滅して五十六億七千万年後に、再びこの世に出現して衆生を救うという弥勒菩薩の説法の場面であるという。
法隆寺五重塔初層南面 弥勒像土 『法隆寺』より

         磯長谷古墳群←     →法隆寺 金堂

関連項目

参考サイト

参考文献
「日本古建築細部語彙 社寺篇」 綜芸舎編集部 1970年 綜芸舎
「法隆寺」くるみ企画室 2006年 法隆寺発行
「国宝法隆寺展図録」 東京国立博物館・奈良国立博物館・法隆寺・NHK他 1994年 小学館