「世界遺産 大シルクロード展」に展示されていた「史君墓石堂」は西安で暮らしていたソグド人の墓だった。MIHO MUSEUMで度々見ていたのは棺床屏風と呼ばれるもので、同じソグド人でも墓の形式はそれぞれだ。
『MIHO MUSEUM 南館図録』は、中国北部の墓で出土したというこの棺床屏風は、当初は今では失われた長方形の棺台の上に立てられていた。パネルは両側壁および後壁を形成し、前面の門柱は入口をかたどっていた。棺床は死者の遺体を乗せるために造られたもので、中国固有の家具、とりわけ儀礼用の長椅子および覆いの付いた寝台と非常によく似ている。
5世紀から7世紀にかけての中国北部および西北部の墓葬には、こうした棺床を墓の調度品の一部として用いる例が含まれている。墳墓は在世時の住居を再現してしばしば多室のものが造られ、棺床は死者の寝室にあたる墓内の後室に置かれた。
この珍しい石棺床が置かれていた墓に葬られていたのはだれだろうか。ゾロアスタ-教の葬儀であるサグディドの儀式を表した浮彫は重要な手掛かりを与えてくれる。ゾロアスタ-教徒であったソグド人は中国と中央アジアの間を往来した主要な商人であった。彼らはまた中国に恒久的な共同体を設立し、当時、主に鮮卑族と漢民族で構成されていた地方の住民と国際結婚した。この棺床が中国で死んだある中央アジア人(最も可能性が高いのはソグド人)の遺骨を置くための場所であったとみなすことはできるだろうかという。
現在の中央アジアには現在、ウズベク族、キルギス族などテュルク系の人々が多く暮らし国名にもなっているが、当時は東アーリア系のソグド人が暮らしていた。
同図録は、門柱は中国建築に典型的にみられる諸特徴(隅棟の造られた屋根をもつ二重の塔、おのおのの頂部両端に付いた特徴的な鉤状の突起など)を示している。
中央アジア人と鮮卑人の男性が計4人浮彫で表されており、そのうちの一人は騎手のいない馬を引いているという。
馬から下りた人物が墓主で、中に遺骨が安置されているということを表しているのかな。
A 狩猟 エフタル人
4人の馬に乗った射手が逃げる獲物に向かって矢を放つ、狩猟の場面である。この射手はササン朝のイランの銀製の皿に表された多くの狩猟を行う王の像を想起させる。これらササン朝の王の像は、王冠の後ろに翻るリボンが特徴的である。
秀明コレクションのパネルの狩猟者のうちの二人も翻った長いリボンをつけているが、その服装と顔付きから、彼らがイラン人ではないことがわかる。その顔付きの特徴と偏平な頭部はエフタル人に似ている。エフタル人は好戦的な民族で、5世紀にササン朝ペルシアを打ち破り、それに続く約100年間にわたってソグディアナを含む中央アジアを支配した。これに似た形の頭部をもつ人物像はエフタルの金工品に現れるという。
東方アーリア系のソグド人だと思って見ていたが、エフタル人だったとは。でも何故エフタル人がソグド人の墓の浮彫に登場するのだろう。
B 騎馬と葬送 ソグド人かテュルク系
上段に二人の騎馬人物が見える。彼らはトルコ帽のような高い帽子をかぶり、中央アジアおよびトルコ系民族が典型的に身に着けている二重の襟の付いた上着を着けている。下方には人の乗っていない馬が大きな傘の下に立っており、その背後に4人の人物がいる。その左にはもう一人の人物が馬の前にひざまずき、馬に向けて杯を差し上げている。
上方の二人の騎馬人物は右へ向かって進むのに対し、 下方の騎手のいない馬は左に顔を向けている。騎手のいない馬は中国の墳墓美術、とりわけ5世紀と6世紀のものにみられるという。
次に登場したのはソグド人かテュルク系というが、左の人物はGの墓主に似た帽子を被っている。違いは顎髭があることだ。
墓主の馬に跪いて杯を差し上げるというのは何を意味しているのだろう。
C 野営と狩猟 テュルク系
野営の場面である。大きな人物が一人ド-ム型のテントのなかにおり、召使たちの供応をうけている。下方では一団の騎馬人物が狩猟を行っている。このド-ム型のテントはトルコ系民族の間で現在も用いられている折り畳み式のフェルトの家ユルト(包)である。この人物群はユルトからトルコ人に比定されるだけでなく、その髪型、長い髪を分けてお下げないしは房の状態にし(首のところで束ねる)もこうした遊牧民の特徴を示している。同様の長髪の人物は外国からの使節を描いたサマルカンドの壁画の中にも現れ、彼らは壁画の上にじかに書かれた銘文からトルコ人に比定できるという。
次の場面もテュルク系の人々という。長い髪を結わえて背中に垂らすのは、アフラシアブの丘の宮殿跡出土の壁画にも描かれ、西突厥人とされている。
D 騎馬のテュルク系、ラクダを使うソグド人たちの隊商
背中に品物を積んだ1頭の駱駝が表され、馬の背に乗った長髪のトルコ人たちが付き従っている。駱駝は中央アジアと中国を結ぶシルクロ-ドを往来した商品の主たる輸送手段であった。駱駝の重要性は当時の墳墓美術にも反映されるという。
馬に乗っているのはC図の人たちと同じ髪型なのでテュルク系だが、ラクダの傍にいる頭巾のようなものを被っているのは隊商のソグド人だろう。やっとここでソグド人が登場した。
E 婚礼の饗宴 中央アジア人(ソグド人)と中国人の婚礼と楽隊
堂々とした髭のある中央アジア人の紳士と中央アジア人ではない女性(漢民族である可能性が最も高い)の婚礼の饗宴の場面である。彼らは中国の長椅子ないし牀の上に座し、乾杯している。夫妻の前では婚礼の祝宴の一部として、楽隊が音楽を奏で、舞人が舞っている。
当パネルのこの部分は中央アジアとの間の接点を示す点で非常に重要である。楽隊と精力的に動く舞人は6世紀から9世紀、 北斉から唐にかけての中国で生産された陶製のピルグリムフラスコ (扁壺)に繰り返し現れる図像であるという。
中国の長椅子ないし牀の上にはユルトのようなドーム状の盛り上がりがあり、その下で婚礼の儀式が行われて、Cのユルタの中にいる人とは別の人物が主人公になっている。
F 棺床屏風の正面中央 ゾロアスター教の葬儀(サグディド)
上下2段の場面で構成される。上段中央にはパダム(ゾロアスタ-教の司祭が聖火をけがさないよう身に着ける白いヴェ-ル)を着た一人の人物が祭火壇の前に立っている。彼の側にはサグディドと呼ばれるゾロアスタ-教の葬儀で、中心的な役割を演ずる1匹の犬がいる。この儀式において犬は死者の遺体を見つめることになっていたという。
拝火壇の前には橋が少しだけ見える。ラクダに乗って墓主はチンワト橋を渡っていき、後方ではその死を嘆き悲しんで、自分の顔にナイフの刃を向けている人たちがいる。
下段は逆向きで、馬から下りて両手を前で組む人たちは葬儀に駆けつけたことを示しているのだろうか。
2本の小刀で胸を突く人物
敦煌莫高窟第158窟(中唐、781-848)では大きな涅槃像の背後に当たる西壁に、2本の小刀で胸を突く人物が描かれていて、その被る帽子からキルギス人(当時現在よりも中国に近いところで暮らしていた)とされている。顔と胸では違う民族かも。
敦煌莫高窟第158窟(中唐、781-848)では大きな涅槃像の背後に当たる西壁に、2本の小刀で胸を突く人物が描かれていて、その被る帽子からキルギス人(当時現在よりも中国に近いところで暮らしていた)とされている。顔と胸では違う民族かも。
G 天国の墓主 ソグド人、テュルク系
再度宴会を表している場面で、死者自身を表現している可能性が最も高い。 一人の大きな中央アジア人が宙に浮かんだ壮麗な天蓋の下に脚を組んで座り、この天蓋が彼の高い地位を示している。この天蓋は先端に宝珠とリボンの付いた蓮華を有し、中国仏教美術における浄土の場面の中心的な図像である精巧な天蓋を想起させる。この男性は杯をもち、両側に召使たちを従えているという。
これまで墓主かと思われる人物が複数登場したが、この人が墓主だった。
下段には顎髭をたくわえた深目高鼻の人たちもソグド人だろうか。
E・F・G(棺床屏風の正面中央部)
サグディドを表したパネルFおよびその両側の饗宴を表したEとGは、後壁の物理的な中心であるだけでなく棺床全体の視覚的中心となっているという。
H 騎乗の行進 テュルク系と中央アジア人(エフタル人)
馬に乗ったトルコ人および中央アジア人の行進の様子を表しているという。
髪型から前にいる二人はテュルク系と分かる。
葬儀を終えて帰る一団の奥の人物は宝珠とリボンの付いた蓮華ののる小さな天蓋を掲げている。他の鉢巻をした三人は、その顔貌の険しさからエフタル人のように思う。
I 象乗 エフタル人
象に乗ったエフタル人を表している。各パネルの中心人物の重要性(長髪のトルコ人および精巧な冠とリボンをつけたエフタル人)はその位置と頭の真上に差しかけれらた傘によって示されている。二人の貴人はいずれも右手を挙げ、人差し指を立てて拳を握っている。これはイラン・中央アジア世界においてよく知られた尊敬を表す身ぶりであるという。
誰に対して尊敬を表しているのだろう。Gの墓主だろうか。
トゥクルティ・ニヌルタ一世の祭壇 前13世紀後半 イラク、アッシュル出土 石膏石 高53㎝ ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、右手にこの祭壇そのものとまったく同じ形をした祭壇が描写されており、その上に1本の棒が立っている。これは光の神ヌスクを表す一筋の閃光で、神の姿は直接には表現されていない。神を人間よりはるかに偉大な存在ととらえ、神と人とのあいだに大きな距離をおく宗教観は、セム人が優勢となってからのメソポタミアでは一般的であったが、アッシリアではとくにそれを強く意識していたと思われる。
トゥクルティ・ニヌルタ王は盛装して、まず立ったまま礼拝し、つぎに祭壇に近づいてひざまずき礼拝している。一人の人物が時間をずらして行った2回の動作を、同じ場面に配していることが注目されるという。
屏風の浮彫では左を向いているので手のひら側、この図では右を向いているので手の甲側だが、同じ手振りである。
J 1枚に二つの別の場面が横に並べられている。
左側の場面においては、上下二つの騎馬人物のグル-プが反対方向に向けて動いている。上段においては、異常に高い頭飾をつけた中央アジア人でない女性が一人、二人の従者とともに左に向けて馬を進めている。
下方で右に向けて進むのは中央アジアの男性で、やはり二人の従者、および2頭の犬を従えている。その従者の一人は傘を持って彼の頭上に差しかけており、これがこの人物の地位の高さを示しているという。
この人がGの墓主と同一人物ではないのかな?
標識のもう一つは馬の首から垂れる房飾で、同様のものが上方の女性の馬の首にもぶら下がっており、彼女が重要人物であることを示しているという。
この馬の房飾りについては、かなり以前に『中国★美の十字路展』で見たことがある。
騎馬俑 隋、開皇17年(597) 山西省太原市斛律徹墓出土 山西省考古研究所蔵
『美の十字路展』は、儀仗騎馬兵の姿を表したもので、墓主人の乗る牛車を中心に前後に騎馬行列が並ぶ出行俑の一部をなす。兵は縁の反った帽子をかぶり、上衣には葉形の飾りを付けているという。解説がそれだけだったので、羊毛でつくった房飾りだろうと推測していたが、身分の高さを表すものだったとは。


右部分
右半分に彫られた浮彫は天上と地上の二つの別の世界を表現しているとみられ、何らかの終末論的な意味をもっていると思われる。
上方の天上世界には四臂の女神が一人おり、2本の腕を上に挙げて日月を持ち、もう2本は二つの獅子の頭の飾りがある壁の上に置いている。この女神はナナに比定される。その図像はソグディアナおよびその北のホラズムの絵画、ストゥッコ、木彫、金工などに広い範囲でみられ、そこでは彼女は特に葬礼と関係が深かったという。
四臂の女神が日月を持っているとは。
彼女の像はいずれも獅子のいる台座の上、ないし直接獅子の上に座しており、4本の腕のうち2本で日月を象徴するものを持っている。このナナの像は東方にも伝わり、中国領東トルキスタンの仏教美術に現れる。彼女は恐らく仏教の菩薩とみられる下方の二人の従者に目を向けている。二人の従者はおのおの楽器を演奏し、蓮の花の上に立っているという。
ナナ及び菩薩たちの顔は中国人ぽい。
日月を持っているのは東トルキスタンだけではなく、北魏時代の雲崗石窟、甘粛省慶陽北石窟寺、山東省青洲市の龍興寺遺跡や広饒県埠城店、西魏時代の敦煌莫高窟、唐時代の陝西省の彬県大仏寺にも見られる。それについてはこちら
ただし、これまで日月を持つものは山東省独特のもので、それが中国内に広まったのかと思っていた。
![]() |
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より |
ところがソグディアナから南西に2000㎞ほど離れたイランのスーサで出土したクドゥル(境界石)には月と太陽のシンボルが浮彫されている。
メリシパク二世の大クドゥッル 前12世紀 イラン、スーサ出土 閃緑岩 高90㎝ ルーヴル美術館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、カッシート王朝の終末、前1150年頃、エラムの王シュトルク・ナフンテ1世のメソポタミア侵入によって、各都市が破壊され、多くの神像やモニュメント等の戦利品がスーサに持ち去られた。
カッシート人の導入したクドゥルは、王の土地贈与を証明するものであり、不規則な形の石、通常は光沢のある黒い石灰石をカットしたものに記載された。これらクドゥルは公文書であり、クドゥルによりカッシート王たちは近親者や宮廷高官に土地を授与し、彼らの歓心を買った。土地贈与を公認する神々は、大半はカッシート王朝の採用したメソポタミアの神々だが、たいてい各神の象徴が石の上に描かれた。クドゥルは、大部分神殿内部で発見された。おそらく王の定めた土地区画に沿って設置した境界石の複製であろう。それらはメソポタミア南部では前7世紀まで使用された。
迎えの仕草をするナナらしい女神の傍に導く。星の三大神の象徴が場面の上方に張り出している。すなわちイシュタルの星、シンの三日月、シャムシュの日輪であるという。
女神ナナが日月を持っているのではないが、この辺りに起源がありそうだ。
![]() |
ルーヴル美術館蔵 メリシパク二世の大クドゥッル 前12世紀 イラン、スーサ出土 世界美術大全集東洋編16 西アジアより |
男性は中央アジア人、女性は中国人
下方の地上世界には、一人の女性の舞人を伴う楽団がいるという。楽士たちの風貌は鼻が高いので中央アジア人のようだが、女性たちは舞人も含めて中国人ではないだろうか。
長い袖を靡かせながら舞うのは中国で起こった舞と思っていたが、どうやら中国にやってきたソグド人の舞だったようだ。
![]() |
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より |
K 最後の場面 中央アジア人
全場面の中で最も「中国的」なものである。その主題である牛に引かれる2輪の車は4世紀以降の仏教石窟壁画と中国の墳墓に一般的にみられる。とりわけ重要なのは鮮卑族の高位の将軍、婁叡の墓の壁画に描かれたもので、そこには従者と旗を伴う同様の高い屋根のついた車が表されているという。
『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』には山西省太原市婁叡墓(北斉、武平元年 570)の壁画のうち人物図がたくさん紹介されているが、残念ながら高い屋根のついた車の図版はなかった。
従者たちはJ図の右側にいる楽士たちの風貌に似ているかも。
この棺床屏風に遺骨が納められた墓主はほぼソグド人なのだろう。ソグド人は、出身地であるソグディアナから中国へとネットワークを張った交易を行う民で、中には中国に居住していた者もあった。そういった人々の墓の一つがこの棺床屏風を備えた墓で、各地の人たちと交易を通じて知り合い、付き合って豊かな人生が送れたことをこの屏風に浮彫で表したのだろう。
関連記事
参考文献
「MIHO MUSEUM南館図録」 杉村棟 1997年 MIHO MUSEUM
「中国★美の十字路展図録」 2005年 大広
「世界四大文明展 メソポタミア文明展図録」 2000年 NHK
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館