ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2015/10/23
サーマーン廟4 平たい焼成レンガを重ねた文様
サーマーン廟には焼成レンガを組み合わせた20数種類の文様があるという。
内部では幾つ見つけられるだろう。
ドーム頂部からみていくと、
1:無地 平レンガの薄い面を持ち送って、凹凸のない、無地の壁面になっている。それも一つとしよう
ドームの下端、円形の最後の部分は、
2:菱繋文 上下平レンガと比べると、1辺が小さいが、その平たい側を、対角を縦横にして一列に並べている
3:連珠文 平レンガを4枚重ねると円形になるように加工して、目地材で貼り合わせているのかな
2枚の平レンガの帯が下にある
円形を導く十六角形をなす、16の地小さな区画には、
4:四弁花文 平レンガを小さく切り、その両側に円形にモルタルを盛り花びら状にし、それを4つ組み合わせて四弁花文をつくったものに見える
その下の菱繋文も高さのない区画だが、八角形なので四弁花文の区画の2倍の長さがある
3枚の平レンガの帯と1枚だけの平レンガの帯も
その下
5:矢筈文 尖頭アーチ上の壁面は斜めに積み上げた平レンガの列を、向きを変えて交互に並べて矢筈文に
6:円文 よく言えば青銅鏡、悪くいえば鍋の蓋のようなつまみのある形を、平レンガを弧状に歪めたような部品を組み合わせる
これは外側の扉口上の壁面に四角い紋のようなものが左右一対あるのと同じデザイン
それについてはこちら
この丸い形の由来は不明だが、日月を表しているのかななどと勝手に思ったりする
7:名称は不明だが、尖頭アーチの枠を2枚ずつ貼り合わせ、その間に半分の大きさの平レンガを2枚2列入り込ませて、細い隙間を破線状に作っている
8:十字文 2枚の平レンガの外側に、モルタルで丸みをつけた形に成形し、それを縦横に組み合わせて、隙間が十字に見える
9 七宝繋文 レンガ2枚とモルタルで膨らみのある形にし、上下左右に繋いで文様を構成する
両端も凹面に仕上げているので、4つの部品が合わさった箇所に小さな円ができている
10 玉縁 焼成レンガの端を丸みのある形に成形し、小さな半円筒2つと大きな半円筒1つを1単位として横に並べる
ギリシア時代からみられる玉縁(astragalまたはbead)は楕円形が多いが円形もあるし、ローマ時代には丸くなる。その変形ではなかろうか。
スキンチ部
11 幅違い石畳文 2枚の平レンガをモルタルで貼り合わせたものを、縦にほぼ平レンガ一つ分の間隔を空けて、上下交互にモルタルで重ねている
12 菱形文 ムカルナス形の部分、アーチ形開口部の上にモルタルに平レンガを菱形にして埋め込む、あるいは貼り付けている
入口上
13 斜文 平レンガを斜めに並べた帯が1列
14 連珠文ドーナツ型 8枚平レンガを放射状に配し、隙間をモルタルで埋める
連珠文ではあるが、中心が円形に空いているので、別の文様とした
15 狭い石畳文 平レンガを2枚ずつ組んで、上下交互に配置
石畳文よりも幅がせまいのでこう呼んでみた
16 広い鋸歯文 正方形の平レンガを数枚重ねて角を出して配置
アーチと四角い枠の両端には、非常に小さな2つの円形と、3つの三角形がある。これは平レンガの組み合わせではないので、文様には入れないが、こんな隅々にまで装飾を施すが、これは平レンガを組み合わせたものではない。
17 立体的鋸歯文 アーチ上部は平レンガの角が立つように、しかも上下で交互に配置している
斜めから見ると、鋭角の三角形に焼いた平レンガを2枚重ねている
南側アーチ内
18 平レンガを数枚重ねて角を見せるものが2つ、隔てのように2枚重ねたものを縦におく
壁面上部
19 変形石畳文 石畳文は上下交互に正方形を配置するが、ここではできた空間に正方形を90度回転させた菱形で埋めている
正方形のものは平レンガ5枚を厚めのモルタルで繋ぎ、菱形の方は小さめの平レンガを4枚貼り付けている
しかも、菱形の方は1段毎に向きを変えるという凝ったもの
壁面下部
20 変形石畳文2 3枚の平レンガを繋いだものと。立体的鋸歯文を交互に配置したもの
おそらく17と同じ鋭角の三角形を、頂点側と底辺側交互に組んで密着させているのだろう
廟の外壁面へ
ほぼ20:変形石畳文2で埋め尽くされている。
四隅の付け柱の石畳文はもう少し大きい。
21 変形石畳文3 4枚の鋭角三角形の平レンガを4枚貼り合わせて、文様が大きくなっている
遠くから見ても、この円柱がはっきりとわかるようにしたのかな
玄関部
22 縦縞文 付け柱は平レンガを縦に並べて円形にしているが、横段の目地が幅広なので、文様が途切れている
アーチ部分
23 四弁花文入り七宝繋文 下から見上げているので七宝繋文が円形なのか楕円形なのかがわかりにくい
9:七宝繋文に4:四弁花文を組み入れたと思っていたが、よく見ると尖った四弁花文もある
ここでは、テラコッタはそれぞれの形の輪郭をなしていて、白いのがモルタルらしいのが、ひびの入り方でわかる
柱廊部分
24 円文と2本の直線による枠文様
小さな円はテラコッタとモルタルで作っている
ドーム部分
25 名称不明 正方形の平レンガの広い面を外側にして貼られている
26 雪止め? 三角の出っ張りが2段あり、屋根の雪止めのよう
『ウズベキスタンシルクロードのオアシス』は、モンゴル来襲による破壊をまぬかれたのは、当時、この廟は砂に埋もれていたためで、1926年に考古学者のピャトキンが掘り起こし、イスマイル親子の遺体を発見するまで暗黒の中で静かに眠っていたことになるという。
日にさらされるようになって約90年、ウズベキスタンの真珠と呼ばれるサーマーン廟にも塩が上がって劣化が見られる。
サーマーン廟3 浮彫タイルの起源?←
関連項目
サーマーン廟1 入口周りが後の墓廟やメドレセのファサードに
サーマーン廟2 建築の起源は?
ブハラのサーマーン廟
ウズベキスタンの真珠サーマーン廟1 美しい外観
ウズベキスタンの真珠サーマーン廟2 内部も美しい
※参考文献
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年
「シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術選書32
「イスラーム建築の見かた-聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「岩波セミナーブックスS11 イスラーム建築の世界史」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「ウズベキスタン シルクロードのオアシス」 萩野矢慶記 2000年 東方出版
2010/12/03
第62回正倉院展3 あの五絃琵琶の細部
今年は平城遷都1300年ということであの五絃琵琶が出陳された。
会場では五絃琵琶の展示ケースの周りを順番待ちの列が何重も巻いていて、10分は待った。夫によると20分という。やっと正面に近づいたと思ったら、係員の「立ち止まらないで下さい」という声。素直に従って立ち止まらずに見たのだが、後で目録を開いて、細部が何も見えていなかったことがわかった。
螺鈿紫檀五絃琵琶 正倉院北倉 螺鈿紫檀五絃琵琶 全長108.7幅30.3厚9.0
捍撥にはフタコブラクダに載った人物が後ろ向きで琵琶を弾いている。この構図も面白いが、五絃琵琶に表された図柄が四弦琵琶を弾く人物というのが面白い。その図はこちら
腹板の花文と槽の唐花文に用いられた玳瑁(たいまい)には、あらかじめ地に彩色を施してから玳瑁を被せる伏彩色(ふせざいしき)を見ることができるという。
中央の四弁花文や周りの花弁には細い線で輪郭や花脈が表されている。これが金なら解説にあるはずなので、黄色っぽい顔料を使っているのだろう。
唐の時代に、これだけ贅を尽くして作ったものでも、截金や金泥は使われなかったようだ。
槽の全面に飾られた唐花文がとりわけ印象的であるが、この文様は一つの花の周りを左右に分かれた蔓がめぐり、蔓に花と葉が付くという華麗な構成に特徴がある。これときわめて近似する唐花文が、唐の玄宗皇帝が天宝4載(745)に造立した石台孝経(中国、西安碑林博物館所蔵)の台座部分に見ることができる点は興味深い。本品の製作地を考える上で注目に値する必要があろうという。
背面に回ると唐花文が一面に広がっていた。重そうな花や葉が左右になびく表現もさることながら、蔓の柔らかい描写がみごと。こんな細く玳瑁を切ることができた技術はすごい。
『日曜美術館』で正倉院展の回に、螺鈿紫檀五絃琵琶を復元した人が、蔓が分かれるところの曲線を糸鋸で引くことができず、針金に刻みを打って使ったというようなことを言っていた。
きっと盛唐期に長安の一流の工人が製作したものだろう。
そして、図録を見なければわからなかったものは、捍撥部の菱形だ。
会場では、五絃琵琶の置かれたケースの外を回っている間に、拡大鏡であちこち見ていた。それで、やっと菱形を4つの小さな菱形で構成しているのは見えたが、菱形と思っていたものが、実際には菱形っぽい四弁花文になっていたのだ。
※参考文献
「第62回正倉院展目録」(奈良国立博物館監修 2010年 財団法人仏教美術協会)
2009/12/04
アスターナ出土の連珠動物文錦はソグド錦か中国製か
連珠円文の内側に動物意匠を表した錦はササン朝ペルシア製ではなくソグド製であるという。しかし、同じ作品を中国製としている文献もある。ソグド錦という決め手はどこなのだろう。
連珠猪頭文錦 アスターナ325号墓出土 緯錦 顕慶6年(661年)以前 新疆ウイグル自治区博物館蔵
ソグド錦の代表とされる作品である。
しかし、『中国美術大全集6染織刺繍Ⅰ』は中国製と見ているようだ。黄色の綾地に濃紺・灰緑・白色の綾文で文様を織り出している。連珠の円環内には猪頭文があり、連珠の環の上下に方文を、左右両側には小連珠円環と花を飾っているという。
唐時代の制作としているのは、顕慶6年の墓誌が出土しているからだろうか。織り方の特徴などは書いていない。
『シルクロード絹の道展図録』は、332号墓出土。緯錦。主文は上下に方形文を置いた連珠円文で、円圏内には牙をむき出しにした厳めしい猪の頭のみが横向きに納められている。隣の連珠円文とは四弁花文を置いた小連珠円でつなぐ。
ササン朝ペルシアにみられる意匠のひとつであるという。
制作地を特定していないなあ。
連珠華冠鳥文錦 アスターナ332号墓出土 緯錦 唐 新疆ウイグル自治区博物館蔵『中国美術大全集6染織刺繍Ⅰ』は、黄色の綾地に、濃紺・白・灰緑色の綾文で文様を織り出している。連珠円環内には鳥文を飾っており、その鳥は口に連珠をくわえて、頭には華冠をかぶり、首と翼に連珠を飾っている。非常に華麗であるという。
こちらも上下に方形を、左右に小連珠円を配している。
キジル石窟出土の鴨連珠円文壁画(7世紀)やトルファン出土の連珠紋錦(時代不明)と比較してみると、キジルが首飾りとすると、アスターナは耳飾り程度、トルファンはもっと小さい。
キジルの風にたなびく2本のリボンは、トルファンは1列で2つの三角を繋いだものになっている。アスターナは三角というよりもV字形が3つずつ2列になって横に伸びている。同書では華冠と見ているようだ。
カモの体には、キジルは胸・羽の付け根・尾の付け根の3箇所に連珠帯があるが、トルファン・アスターナ共に尾の付け根にはない。しかし、アスターナは体の表現がキジルより自然だ。トルファンは大きな円文となっている。
キジルは足の下に連珠帯があるが、トルファン・アスターナ共に何も踏んでいない。またキジルの足は平たいが、トルファン・アスターナ共に大きな爪のあるしっかりとした足に表現されており、蹴爪がある。
大鹿文錦 緯錦 アスターナ332号墓出土 唐(7世紀前半) 新疆博物館蔵『中国美術大全集6染織刺繍Ⅰ』は、黄色の綾地に濃紺・果緑・灰緑色の綾文である。円環の中央には頭を高くして歩いている姿の鹿文があり、周りには連珠文を、その上下左右には花を飾っている。文様の様式は、ササン朝ペルシア時期の錦とすこぶる類似するという。
やはり中国製とみている。
『シルクロード絹の道展図録』は、連珠文を巡らした円圏内に、頸に付けたリボンをなびかせ、胸を張るごとく堂々と行進する雄々しい姿をした1頭の鹿文を納める。頸にリボンを表す文様は、ササン朝ペルシアで流行した意匠といえる。なお、隣の連珠円文帯とは中央に方形を置いた小連珠円でつないでいる。織りの技法は、漢代の錦の伝統を受け継いだ経錦(たてにしき)ではなく、西方に起源のある新出技法の緯錦(ぬきにしき)となる点が注目される。この技法は、中国内地では唐代に入ってから織られるようになるという。
同図録も唐とみているようだ。
ササン朝で6世紀に猪頭文はすでに成立していたが、『古代イラン世界2』で横張和子氏(古代オリエント博物館)は、連珠円文意匠はサーサーン朝錦としては例外とさえ見えるのである。錦に表されたのはソグドの方が早かった。それを典型的にしたのはむしろソグド錦であったとして、この大鹿文錦を挙げている。
この3つの連珠動物文錦は綾地だが、それは中国製の決め手とはならないのだった。それについてはこちら黄色の地に似たような地味な色遣いの緯錦であることも共通しているので、同じ土地で織られたのだろう。中国製となると、中国の連珠文錦とは全く異なる表現なので、高昌近辺の制作かなとも思った。
いずれ成分分析が進み、どこで制作されたか特定できるだろう。今のところは、この中では一番新しい文献ということで、「古代イラン世界2」の横張和子氏の説をとって、これらはソグド錦としておこう。
関連項目
ササン朝の首のリボンはゾロアスター教
連珠円文は7世紀に流行した
※参考文献
「中国美術大全集6 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 2000年 小学館
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
2009/09/04
亀甲繋文と七宝繋文の最古はインダス文明?
首飾りをいろいろ見ていて亀甲繋文に出くわした。しかも、現在までに見つけた亀甲繋文の最古は、エジプト新王国第19王朝ラメセスⅡ世期(13世紀)のネフェルタリ王妃墓壁画に描かれたものだったが、今回見つけたものはそれよりずっと遡るものだった。
ビーズ装身具 イラン、ケルマーン州シャハダード出土 紅玉髄 インダス文明(前3千年紀) イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展』は、紅玉髄(カーネリアン)の平型方形ビーズ20珠。それぞれの珠には、小円を加えた亀甲様の幾何学文様が丁寧に施されている。原石の産地はインド亜大陸(ラージャスターン?)で、実験によれば、施文法はある種の植物から作られる薬液によって腐蝕させたものであり、インダス文明に特有の技法とされているという。
赤い色が鮮やかで、風化していないので、現代からすると4000~5000年も前に作られたものとは思えない。実はそんなにネフェルタリの墓よりも古いとは思ってもみなかった。
タイル モヘンジョダロ出土 テラコッタ 17.0X-X2.0 インダス文明期(前2600-1800年頃) カラチ国立博物館蔵『インダス文明展図録』は、家屋の部屋の多くは土間であったが、一部には十字文や交差円文を施したタイルが敷きつめられ、生活に彩りを添えていた。あらかじめ円形に固定した縄を繰り返し押しつけるという、手の込んだ手法で作られているという。
この時代にテラコッタでタイルが作られ。それが宮殿や神殿ではなく、家屋に敷きつめられていたとは驚く。
タイル カーリーバンガン出土 テラコッタ 21.5X16.0X2.5 インダス文明期(前2600-1800年頃) インド考古局蔵この十字文は繋がっているらしい。これを見ていると、十字文から四弁花文になっていきそうな気がするなあ。
亀甲繋文、七宝繋文そして十字文、あるいは四弁花文はインダス文明期にすでに成立していたのだ。このようなタイルは1つがどの程度の大きさだったのだろう。そう言えば、「アッシリア大文明展」でかなり大きな床面の石製浮彫を見たなあ。もっと花弁の多い七宝繋文状の文様が一面に広がっていたような。
石の絨毯 前645-640年頃 クユンジク、北西宮殿I室b出入口ないしはd出入口 縦127.0横124.0厚7.5 大英博蔵
『アッシリア大文明展図録』 は、これはアッシュールバニパル(前668-631年頃)の玉座の間から出土した敷居の一部分である。アッシリアの王宮の床には、鮮やかな色彩の織物が敷かれていた。一方、出入口付近には、このように敷物に似せて作った丈夫な「絨毯」が置かれた。矩形の内側には、コンパスを使って描かれた多数の円文が組み合わされ、あたかも六弁開花文が描かれているかのような効果を発揮している。その周囲をロゼット文が取り巻き、最も外側の部分には、ロータス(蓮)の花と蕾が連なって縁飾りを形成している。このロータスのモチーフはエジプトから、フェニキアを経由してアッシリアにもたらされた。そして紀元前8世紀末頃までには、アッシリアにおいても、一般に普及した。フェニキアの織物はアッシリアに輸入されていたので、この石製絨毯のデザインも、そのような織物に由来すると考えられるという。
クユンジクはニネヴェの現代名である。
六弁花文とも見えるが、もっと小さく、縦に花弁状の文様のある七宝繋文にも見える。それはエジプト第21王朝(前1086~935年頃)の木棺内側に描かれた女神の衣服にも似ている。こちらは色の異なる八弁花文、あるいは七宝繋文となっている。
インダス文明の頃にすでにあった七宝繋文が、近くのメソポタミアを通り越してエジプトに伝播したとは考えにくいが、アッシリアの石の絨毯の場合は、エジプトからフェニキアへ伝わったものがアッシリアに輸入されたというのは納得できる。しかし、インダス文明期の七宝繋文をエジプトに伝えたのも、ひょっとするとフェニキア、あるいは東地中海沿岸の交易の民だったかも。
※参考文献
「世界四大文明 インダス文明展図録」(2000年 NHK)
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝展図録」(2006-2007年 朝日新聞社)
「アッシリア大文明展図録」(1996年 朝日新聞社)
2009/08/11
円筒印章に四弁花文?十字文?
円筒印章に気になる文様があった。
円筒印章と印影 花文様 前3000年頃 メソポタミア出土 石彫 古代オリエント博物館蔵
加工し易い石だったのか、かなり深く彫ってあるので、印影にははっきりした四弁花文が表されている。
円筒印章と印影 前3千年紀前半 加熱凍石 5.0X1.1㎝ 大英博蔵『オリエントの印章』は、オーステン・ヘンリー・レイヤードが1845年から1851年にかけて、メソポタミア地方でおこなった発掘で見つかった円筒印章。細長い形状、印材、十字形のデザインは、前3千年紀初めの数百年にわたってみられる、いわゆる「ニネヴェ第5層」様式に特有のものであるという。
上の円筒印章とよく似ているが、こちらは花文様ではなく、十字形と考えられているようだが、私には四弁花文に見える。
印影を描いた図 印章はウル出土 前3千年紀初頭 高約3.5㎝ 捺印物は大英博蔵『オリエントの印章』は、ほとんど同一の図柄がイラン東部でアフガニスタンとの国境に近いシャワル・イ・ソホタ出土の印章のかけら(テヘラン・イラン・バスタム博物館蔵)にも見られる。ウルとシャワル・イ・ソホタのあいだは直線距離で1300㎞あり、商人の活動範囲の広さを物語っているという。
こちらは十字形を菱形に近い六角形で囲んだ幾何学文である。
1つの図柄の円筒印章は、1人の商人あるいは1つの商団が使用したということなら、かなりの範囲を移動したんやなあ。
円筒印章と印影 初期地不明 初期王朝時代(前2900-2700年頃) 方解石 6.1X1.9㎝ 大英博蔵 『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、十字形、ロゼット、同心円、ジグザグ形などからなる幾何学文の円筒印章。このほかにも三角形、楕円、アーチ形、波状線、平行線、格子文等々が組み合わされ、隙間なく画面を覆う幾何学文印章は、いわゆる「豊かな三日月地帯」の山裾一帯に広範囲に分布するので、「山麓様式」などと総称されることもあるという。
これはどう見ても十字形である。その右には八弁花文がロゼット文として表され、また下には六弁花文も表されているので、花を幾何学的に表現したのではなさそうだ。
高い山で日の出を待つ時、まず縦に光の帯が伸びてくる。ひょっとして、メソポタミアの平たい大地に日が昇る時、このように四方に光が広がっているように見えるのかも。
四弁花文から十字文のデザインが生まれたのだろうか。よくわからないが、その逆ではないと思う。花弁が4枚の花は実際にあるのだから。※参考文献
「世界の文様2 オリエントの文様」 (1992年 小学館)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 (2000年 小学館)
「大英博物館双書 古代を解き明かす4 オリエントの印章」(ドミニク・コロン 1998年 學藝書林)
2009/03/06
新羅の積石木槨墳群から出土する耳飾や指輪に粒金細工
新羅の都慶州では金冠・冠帽・冠飾・銙帯と腰偑などの大量の金製装身具が大型の積石木槨墳から出土した。これらを図録にしろ見ていると、原料の金はどこから調達したのだろうといつも不思議だった。
『日本の美術445』は、現在もなお産出した場所は特定できないという。王陵と目される慶州の積石木槨墓の中には未調査の古墳もかなり残っており、まだまだ未知数の部分が多いはずである。
北方騎馬民族が活躍の舞台として往来した草原の道(ステップロード)の途中には、モンゴル語で「金の山」と称された、最大の金の産地アルタイ山脈がある。黒海北岸を中心に生み出されたスキタイの黄金製品も、ここで採掘された金が使用され、各地にもたらされたといわれている。したがってその一部が鮮卑族など北方騎馬遊牧民の手を介し、交易品として朝鮮半島まで及ぶことも充分ありえたに違いない。朝鮮半島の黄金製品に北方系要素が看取されるのも理由の一端はここに起因しているのである。
そのルートを解明してこそ、はじめてユーラシア大陸を横断して朝鮮半島の新羅に至りさらには倭国にまで波及した、気宇壮大な黄金文化伝播の様相を辿ることができるという。
しかし、高句麗や百済では、新羅ほどの金製品は出土していない。高句麗系の冠は5世紀中葉とされる皇南大塚南墳から出土したが銀製だった。現在のところ新羅最古の金冠は5世紀、銀冠よりも以前に制作されたとみられているようで、皇南大塚のある邑南古墳群の南に位置する校洞から出土している。
朝鮮半島の三国時代、高句麗という国が半島の付け根から中程までの版図を持っていたのに、遊牧民が高句麗を素通りして、新羅にのみ大量の金あるいは金製品を運べたとは思えない。
ところで、多くの積石木槨墳から金製の耳飾りや指輪も出土している。できたとすれば、中国の五胡十六国時代、中国東部の鮮卑系の小国から、船で運ぶ海上ルートがあったのだろうか。
垂飾付耳飾 金製 天馬塚出土 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、中間飾と垂下飾が一連のもので、高句麗の耳飾と類似した製作技法がみられる。表面全体は細長い菱形による金板の突起と鏤金により装飾されているという。鏤金は粒金細工のことで、金冠などにはなかった装飾技法だ。このような粒金による線状の装飾をみていると、金冠の打ち出しによる列点文は粒金細工を模したものではないかとも思う。
「金板の突起」には、皇南大塚北墳出土の金製嵌玉釧のように、貴石がはめ込まれていたのかも。
太環耳飾 金製 夫婦塚出土 6世紀前半 ソウル、韓国国立中央博物館蔵『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、普門洞夫婦塚(プブチョン)は丘陵上に築かれている。夫墓は積石木槨墳で、地山を約5.4X1.4m掘り下げて墓壙をつくり、木棺を据える。耳飾り・指輪・釧・土器が出土している。婦墓は横穴式石室墳で、追葬されたものである。2基とも積石木槨墳として築造されたのであり、横穴式石室墳が築造される以前の6世紀中葉ごろまでは、この地域においても主要な墓制であったものと推定されるという。
『日本の美術445』の解説はこちら。
この耳飾りは素人目には、貴石を象嵌するには、天馬塚出土の耳飾に比べて輪郭の金線が低すぎるように思う。実用のための金線も装飾の一つになってしまっているようだ。
耳飾 金製 銀鈴塚出土 6世紀前半 韓国国立中央博物館蔵耳飾りになっているが、作りは鈴のようだ。そして粒金ではなく、金線を粒金が並んでいるようにみせかけた細線細工になっている。
丸い貴石を囲むのも同じ擬似線だが、上の2点と比べると、金線と粒金という組み合わせが簡便化されたものといえる。また、貴石ではなく、ガラスが象嵌されている。
指輪 金製 金鈴塚出土 6世紀前半 韓国国立中央博物館蔵上の指輪は、貴石に金線を巻き、その周囲に粒金を並べて四花文としている。その下も同じもので、貴石がはずれてしまったように見える。しかし、貴石は金線の輪郭に合っていない。貴石ではなく、ガラスを溶かしてはめ込んだように見える。
指輪 金製 奈良、新沢千塚126号墳出土 『日本の美術445』は、細い帯状の金線を環状にしつらえ、正面になる部分に半球状の鋺形を鑞付けしたのち、その表面に細粒と帯板で四弁花文を象っている。弁内は剥落しているが、当初は嵌玉であったと想定される。形状といい嵌玉を意図した細粒細工の花形文様といい、極めて西方風であるのが特徴的であるという。
この指輪は金鈴塚出土の指輪とよく似ている。しかし、金鈴塚の指輪はリングの部分が完成度の高い物なのに対して、新沢126号墳の指輪のリング部分は金板を切っただけのもので、技術的には稚拙なもののように思える。
金製品が倭国の古墳に登場してくるのは、倭国が朝鮮半島の三国や伽耶と積極的に交流関係を保つことになった5世紀中葉、ちょうど古墳時代後期に入った頃からである。奈良・新沢千塚126号墳は5世紀後半前後に造られたとみられているが、各種の金製装身具を副葬した最初の古墳である。金製装身具は新沢千塚108号墳や109号墳からも垂飾付耳飾を出土しており、その金製品はいずれも三国時代朝鮮半島製であることが、韓国出土の類例に徴して確かめられている。
したがって新沢千塚古墳群は、まさに朝鮮半島からの渡来人集団が築造した群集墳だったのである。とりわけ質の高い各種の金製装身具を埋葬していた126号墳は、規模の点では目立つ存在ではないものの、集団を統率した人物が被葬者であったことは疑う余地がないという。
そうだとすると、古墳の形も異なるし、大きさが全く違う。慶州の巨大な積石木槨墳を見学した今では、違和感があるのは否めない。新沢千塚古墳群の分布図はこちら。
新沢千塚126号墳の金製品はこちら。歩揺冠はこちら。ガラスはこちら。
※参考文献
「日本の美術445黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「金の輝きガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
2007/12/17
亀甲繋ぎ文の最古?
中国の南北朝時代(439-589年)に亀甲繋文はあったが、パルミラではすでに2世紀に地下墓のヴォールト天井部に亀甲繋文が描かれている。
パルミラには四角形の繋文様や八角形の繋文様など、様々な幾何学的な繋文様があり、それらは建築物の天井部を装飾している。シルクロードの西の端に近いパルミラは、東の端の中国(当時は後漢、25-220年)と交易があり、中国の絹織物は珍重された。ひょっとすると、亀甲繋文は中国から将来されたのかも知れない。しかし、後漢で「亀甲」と名の付く文様はほとんど見あたらなかった。
亀甲塡四弁花文毛織品 ニヤ遺跡出土 後漢 新疆ウイグル自治区博物館蔵
毛織物であること、四弁花文という西方的な文様なので、果たして中国で作られたものかどうか。また、「亀甲塡」とあるが、今まで見てきたような正六角形に近い形の亀甲繋文とは趣がちがう。
前漢時代(前207-後7年)もやっぱり亀甲繋文は見つからなかった。幾何対鸞文綺 湖南省長沙市馬王堆一号前漢墓出土
綺について『中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ』は、平織の地に地揚げによる綾組織で文様を織り出した絹織物で、漢代には錦と同じく高級織物という。
松皮菱を繋いだような文様である。
同書は、杯形の幾何学の骨組みの中にそれぞれ一対の鸞鳥文と一組の四角放射式の対称変体草花文をうめているという。
幾何対龍文綺 パルミラ出土 後漢上の前漢とほぼ同じ図案の綺がパルミラの古墓より出土している。
同書は、異なる点は、うめられた動物が龍文であることだけであるという。
パルミラの地で、この文様から亀甲繋文が生まれたのだろうか。
ところが、ばさら日本史というウェブサイトの飾履を作るに、もともとは前9世紀頃の西アジアが起源で、支配者の権威や霊性のシンボルだったそうですという文が目に付いた。やっぱり中国ではなかったのか。西アジアの紀元前のものを調べていると、前9世紀のものは見つけることができなかったが、もっと古いものがあった。
バビロニアのクドゥッル 前11世紀 黒色石灰岩 高61㎝ 大英博蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、このクドゥッルは、イシン第2王朝の6代目の王マルドゥク・ナディン・アヘ(在位1098-1081)の治世年間に起こった土地の譲渡を記録したもである。 ・・略・・
碑面の上方には、この碑文のなかにその名を言及されている12の神々のシンボルが並べられている。碑面の中央に姿を見せているのは、ときの王マルドゥク・ナディン・アヘである。 ・・略・・ 王が盛装をして公式の場面に現れる折の姿であろう。衣装の表面の細かな文様は実際には刺繍か、あるいはアップリケの手法で施されたものと考えられるという。
神々の象徴の中に亀がある(上矢印む)。そして、王の盛装の衣装に亀甲繋文(下矢印)があった。しっかりと亀甲繋となっていて、中に八弁花文が表されている。
亀甲繋文は前11世紀初期に、すでに完成した装飾文様だったのだ。これが現在わかる範囲での亀甲繋文の最古です。『古代メソポタミアの神々』に亀の図案が載っていた。
同書は、征服した地バビロニアの文化をそっくり受容していたカッシート人も、後代に残る文化的な貢献をしなかったわけではない。その最たるものが、「クドゥル」である。
1mほどの高さの石碑に、臣下への土地分与などの証文とそれを保証する神々の象徴を彫り込んだもので、境界石という意味合いを持ち、カッシート崩壊後のイシン第二王朝や新バビロニア時代にもさかんに制作されている。
クドゥルの上部には、所狭しとばかりに神々の象徴が並べられている。神をこのように特に象徴で表すようになったのはカッシート時代からのことであるという。
亀が長寿というのはいつの時代から言われていたことかわからないが、水の少ないメソポタミアで、亀は水神エアの象徴として表されてきた。しかし、これだけで亀と日本で亀甲繋文と呼ばれている文様を関係づけてよいものだろうか。関連項目
杯文(松皮菱)の起源は戦国楚
※参考文献
「世界の文様2 オリエント」 1992年 小学館
「中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「古代メソポタミアの神々」 岡田明子・小林登志子 2000年 集英社
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
※参考ウェブサイト
ばさら日本史の飾履を作る
2006/10/24
四弁花文、五弁花文、六弁花文
夢ばかりなる日さんが六葉で猪目もに「柿蔕文、ありましたよ。仏足石に、それも取り巻くように沢山。かかとに少しおおきいのが」とコメントされていたMIHO MUSEUM蔵「仏足石」について、図録を調べてみると、それは中国のものではなく、ガンダーラ出土のものであることがわかった。とすれば、柿蔕文が西漸したものというより、ヘレニズムの意匠が伝播したものと考えた方が自然であると思う。
このような蔓草文と四弁花文の組合せは他にも遺品がある。下図の執金剛神は獅子の頭を被ったヘラクレスの姿に表されており、西方からの影響が明らかである。
四弁花文はかつてのシルクロードの西の要衝パルミラにもよく見られる意匠である。下図のように敷き布団(クッション)や衣服の帯文様によく用いられている。
上図の四弁花文は細い花弁であったが、衣服と同じ意匠が建物にも用いられているのがパルミラの特徴のようだ。下図の建物の一部と思われるものにも四弁花文が表され、先が尖っている。
また、ガンダーラ出土のものには五弁花文や、五弁花文と蔓草文を組み合わせたものがある。
五弁花文はパルミラにもあるだろうと探したが、六弁花文しか見つけることができなかった。下図は六弁花文と蔓草文の組合せだが、ガンダーラのものよりも洗練された意匠になっている。当時のパルミラは貝紫などの交易で潤っていたので、各地からそれぞれの一級品や腕の良い職人が集まったのだろう。
もっとも、五弁花の蔓草文は中央アジアにもある。紀元前のMIHO MUSEUM蔵線刻文皿(解説文・各種拡大図等が出てきます)に見ることができる。同解説は、この種のギリシャ起源のモティーフを線刻したヘレニズム期の銀器はいくつか知られているが、下顎の描写を忘れたとしか思えないライオンのリングハンドル意匠、かなり簡略化された四弁花文やあまり構造を理解しているとは思われない蔓草文などは、中央アジアという辺境の工房で作られたことを示しているという。
このように、すでに紀元前にすでに中央アジアにも蔓草文や花文という意匠は伝播していたのだ。
ところで、以上の画像のうち明記のないものは、シリアのパルミラ遺跡で撮ったものである。こういう風に見てみると、奇数信仰の強いオリエントの地にあって、パルミラの人たちは偶数信仰だったのだろうかと思うくらい奇数がない。この他にも6弁花と8弁花もあった。その中から6弁花の1つが下図である。
これはパルミラの記念門の中央の門のアーチ形(ヴォールト)天井部の写真だが、夢ばかりなる日さんの六角形の釘隠によく似ている。似て非なるものということか。という訳で、柿の蔕はすごかった 中国古代の暮らしと夢展よりで示した副葬品の望楼(後漢)の屋根の先に付いた柿の蔕と、夢ばかりなる日さんがお持ちの釘隠がよく似ているというコメントに端を発し、中国の後漢以前の柿蔕文あるいは四葉文を遡ると戦国時代に行き着き、また、今回は西方由来のものは花弁の数がいろいろある花文であることを見てきました。いかがでしょうか、夢ばかりなる日さん。
※参考文献
「MIHO MUSEUM南館図録」同館
「三蔵法師の道展図録」1998年 NHK
「ブッダ展図録」1999年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」2000年 小学館
登録:
投稿 (Atom)





















