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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/01/18

新沢千塚126号墳には金がざくざく


新沢千塚126号墳にはガラス容器金製方形冠飾だけでなく、金製品が驚くほどたくさん副葬されていた。『海を越えたはるかな交流展図録』によると、
金製歩揺は全部で384個、その径は1㎝を中心に2㎜前後の大きさの違いがあり、それらは円形の座金具が付くものと無いものとに大きく分かれる。出土位置は、いずれも上半身に集中していて、ガラス小玉とともに、衣服か遺骸を覆う布に綴じ付けられていたと復元できる。
このような使用状況を知ることのできる一例として、北朝鮮安岳3号墳の壁画で、墓主夫人が着ている袖なしの衣服に、小円形の飾りを多数つけているのが注目できる。墓誌には、墓主の出身を遼寧地域と記していて、歩揺の系譜をたどる手がかりになる 
 
という。 遼寧地域は現遼寧省ということだろうか。安岳3号墳は、北朝鮮黄海南道安岳郡五菊里にある。『世界遺産高句麗壁画古墳展図録』によると、この墓の主人公の墓誌が768字にわたり墨で書かれる。これによれば、357年に没した中国遼寧省蓋平県出身の冬壽(とうじゅ)の墓であることがわかるということで、冬壽の夫人の着ている服には糸か何かでとめた歩揺が描かれている。しかし、天蓋も夫人の袖なしの服と同じ色で、やはり歩揺が取り付けてあるようだ。何故夫人の方には歩揺があり、墓主の方にはないのかわからないが、ひょっとすると、126号墳の墓主は女性だったかも知れない。天蓋にも歩揺が付けられていることを考えると、魔除けかなとも思える。そして、一対の耳飾りと指輪が多数副葬されていた。『海を越えたはるかな交流展図録』によると、最大長21.7㎝あり、3条の垂飾で構成される。そのうちの1条は、歩揺を多用した中間飾りが特徴で、針金の芯に歩揺を通した金線を巻きつけた7単位の垂飾を連結させて、歩揺付き空玉(うつろだま)と中空の山形垂飾が下に続く。あとの2条は細い兵庫鎖が主体で、あいだの針金に歩揺を巻きつけた飾りは前者に通じ、下端に空玉を下げる。  ・・略・・  朝鮮半島の例では、中間飾りに歩揺を多用するのは、新羅の冠に伴う垂飾に共通する特徴が見られ、それらのなかには20㎝前後の長いものも含まれるという。
『日本の美術445黄金細工と金銅装』で河田貞氏は、これほど長大な耳飾は、韓国でも余り出土例がない。  ・・略・・  この一対も冠付属の垂飾であった可能性が十分考えられる。冠は金冠や金銅冠ではなく、布製冠帽のような有機質の冠であったことは、痕跡をとどめていないことや被葬者の頭部の位置に、金製方形冠飾を残していないことからも明らかである。  ・・略・・
うち1条は先端には空玉1箇と三又を呈する鋤形装飾板を吊下している。類例は皇南大塚の金冠垂飾や慶州・校洞出土の耳飾にも見られるなど、新羅では必ずしも特筆すべき意匠ではなかったらしい。しかし中国東北地方には、この祖型と考えられる櫛歯形垂飾が瓔珞として使用されているから、これも北方系意匠の一つと考えることが可能であろう
と、冠の垂飾とみなしている。
複数の金製指輪も副葬されていた。貴石が象嵌されていたことを思わせる細工や粒金がついたものと、数重の螺旋状のものである。後者は粒金を一列に並べたような細工が施されているように見える。 金線を螺旋状にしたものに、螺旋状髪飾りと呼ばれている長いものもあった。『海を越えたはるかな交流展図録』によると、
太さ1㎜の金線の外周に刻み目をいれて、径10.5~12㎜になるように62回巻きつけ、長さ9.5㎝の一対の垂飾に仕上げている。この上端には、円形の座金をつけて挿入していた、ガラス棒が現状では2㎝ほどだが、現場では9㎝ほどの長さでのこっていたと確認されている。
この垂飾は、左右の耳飾りに近いところにあり、そして芯に挿入したガラス棒の本来の長さから考えれば、髪飾りとしての使用法が想定できる

としている。しかし河田氏は、
不可解なのはこの耳飾と重なるような状態で、両耳の位置から金線を螺旋状に巻いて筒状にした装身具が出土したことである。二種の異なった耳飾が同位置から出土することは想定できないため、報告書では螺旋状筒形装身具を束髪用であろうとされた。しかし冠帯が有機質の布製であったとすれば、腐食消滅するのが当然であり、垂飾だけが残ったともいえるのである。  ・・略・・ 7世紀に比定される東京国立博物館の観音菩薩立像(法隆寺献納宝物178号)やエジプト18王朝時代の彫刻にみられる類例を、参考資料として提示しているが、これもグローバル性を示す遺品として興味深いと耳飾りとされているものも、髪飾りとされているものも、冠帯につけていたものと考えているようである。
法隆寺献納金銅仏178号の観音菩薩の螺旋状の飾りは、髪ではなく耳についている。実際に耳につけるには重すぎるように思うが、このような装飾品が7世紀に造られた仏像につけられているということは、かなりの期間にわたって、存在していたのは確かなようだ。
また、河田氏は、当時わが国では金は産出せず、純金製品も作られなかったから、黄金文化の伝播は朝鮮半島までであり、日本列島には至らなかったとする説もある。しかし新沢千塚126号墳に見られるように、半島からの渡来人が各種の黄金製装身具を確実にもたらしていることを勘案すれば、黄金文化の伝播を否定するわけにはいかないであろう。本格的な金の産出や精錬は行われなかったとしても、砂金や自然金は存在していた筈であり、僅かではあっても、少い金を効果的に使用した金銅製品に加え、金環だけの耳飾や指輪などのように、細工を余り必要としない素朴で小さな若干の金製品は作られた可能性が高いと、これらが大陸から将来されたのではなく、日本製説をとっている。
また『海を越えたはるかな交流展図録』で千賀久氏は、その人物が埋葬された墓地を営んだ集団を、渡来系集団と在地の有力氏族のどちらに考えるかで、126号墳の国際色豊かな文物が、その人が属する集団に関わることか、その人個人のことだけなのか、評価が分かれるように思う。
管谷文則さんの、北燕の戦乱時に「中国北方の抗争から高句麗に逃亡し、さらに南下したのち、日本列島に至った逃亡胡の貴族の1人」という理解に共感をおぼえるが、その故地は加耶だろうと私は考えている。5世紀の朝鮮半島情勢のなかで育った人物、その半生を物語るのが、身の回りの装身具と熨斗・ガラス器・漆器などであり、そこに「海を越えた交流の時代」の実態を知る手がかりがある
という。 加耶は半島中南部に3~6世紀まであった小国家郡であるとウィキペディアにある。鮮卑族というのは飛躍しすぎだったのかも。

※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「日本の美術445黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)
「世界遺産高句麗壁画古墳展図録」(2005年 社団法人時事通信社)