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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/11/22

魚々子の起源は金粒細工か


『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、
金銀器の表面に文様を刻み、余白のすべてに魚々子を敷き詰めるという装飾が始まったのは、隋あるいは唐時代の初期、7世紀のことと推定されるという。
初期のものはどんなだったのだろう。

青銅鍍金走獣文珌 隋~唐初(7世紀) 高5.2㎝幅7.2㎝ 部分 
まばらに魚々子が刻まれている。
同書は、魚々子は全体は方形で、方形のなかに円い魚々子がある。主文の走獣の形式から隋あるいは唐時代初期と判断できるが、魚々子を打った例としてはきわめて早い1点であるという。
このあたりが魚々子の始まりだろうか。間地には方形の魚々子と円形の魚々子が刻まれているようだ。 青銅鍍金仏教図像舎利函 隋・大業2年(606) 河北省静志寺真身舎地宮出土 高19.5㎝辺長23.3㎝ 定州博物館蔵

蓋は唐の858年に重葬の際に作り替えたものと考えられる。函身の4面はパルメット唐草で縁取られており、その唐草文は石碑や青銅鏡の文様と同様の葉形に描かれている。函身各面に2像、さまざまな姿態の菩薩像が表され、隋の彫刻や壁画にも通じる顔つき。 
刻線の鏨使いは、初唐、盛唐期の銀器や鍍金器に比べてやや粗っぽいという。
魚々子が刻まれる以前のもののように思われる。紀年銘があり貴重である。金玉象嵌仏像獣面文耳飾 隋(581-618)1対 長2.7㎝、3.2㎝径2.1㎝ 白鶴美術館蔵
遊牧民風の貴石の象嵌のあるものなのに仏像も配され、魚々子状のものが見られるという不思議なものだ。
上部のハート形の装飾、獣面文、龍の角は、金の針金と金の粒を熔接して形をなし、文様を描く金糸金粒細工によっている。さかのぼれば北斉や十六国時代、さらに西アジア、エトルリアに至る。また金の小さな枠に紅玉、ラピスラズリ、トルコ石、真珠、ガラスなどを嵌入するのは、紀元前のスキタイ、匈奴、その影響を受けた前漢時代の金工品、下ってビザンティン文化圏の金工品にもあるが、この耳飾の象嵌はビザンティンの影響による遺物である。龍の造形によって中国の作品と判別できる。そして連珠のなかに人面や獣面を表すのは、隋時代の文物に頻出する西アジア起源の文様であるという。
連珠文帯はペルシアのものと長い間言われてきたが、ソグド起源のものであるというのを近年よくテレビでやっていた。
この魚々子文状の刻文のある耳飾は隋時代の製作とされているので、上図の魚々子文のない舎利容器との比較から、隋時代に魚々子文が出現したと思えなくもない。
ところで、この耳飾には魚々子文状の装飾と金粒細工が同時に施されていて興味深い。魚々子文は金粒細工を簡略化したものというのはどうだろうか。金粒を熔接するのと、鏨で刻むのと、どちらが簡単だったのだろうか。金珠宝象嵌首飾 李静訓墓出土 
外祖母である北周宣帝の皇后(隋の煬帝の妹)に養育され、608年に9歳で没した女の子である。
金糸金粒細工はエトルリアやエジプトに始まり、東に向かい、前漢時代の中国に伝わっている。隋唐時代の流行は、新たな伝播の結果かと考えられるが、すでにこの時代の中国にも定着している。という。
大きな金粒は熔接かも知れないが、小さな連珠帯は裏側から打ち出したようにも見える。画像が不鮮明でわかりにくいのが残念だ。金糸金粒嵌玉パルメット文飾 山西省太原市婁叡墓出土 北周時代(570年) 長さ15㎝
金糸金粒の他に真珠、瑪瑙、ラピスラズリ、緑松石、ガラス、青貝が象嵌され、やがて開花する唐時代工芸の先駆ともいえる華やかさがある。全体の意匠はいかにも北斉らしい、葉の裂開が広いパルメットで、その中央に文様中の文様として蓮華の唐草が表されている。・略・
李静訓墓にみられる隋時代の形式への歩みが北斉時代に始まっていたことを物語っている。金糸金粒細工の技法は漢時代に中国に伝わり、隋唐時代以後もすたれずに続く。ただそこにガラスや貴石を嵌入する装飾技法は西方に発し、六朝時代以後、むしろ隋時代になってから中国に普及したものである。これはそのきわめて早い時期の遺物であるが、パルメット文や蓮華文などは北斉時代の中国の形式をもち、外国で製作されたものがもたらされたのではないということも明らかである
という。
私には金糸金粒は確認することができない。これだけでは中国で生まれたという魚々子の起源が外来の金粒細工であると決めるわけにはいかないなあ。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国南北朝」2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」1997年 小学館