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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2014/11/14

来迎図6 鶴林寺太子堂仏後壁2




鶴林寺太子堂仏後壁には九品来迎図が描かれている。
『鶴林寺叢書1鶴林寺太子堂とその美』は、太子堂は天永3年、つまり平安時代末期に建てられた建物である。平安時代の骨格を残しながら、建物を拡張し巧妙な改造が施され、壁画や厨子などの新たな荘厳が加えられて、鎌倉時代後期の正中3年にほぼ現状のような姿となったという。
このことから、正中3年(1326)に仏後壁の来迎図も描かれたと推定されている。

来迎図の下の方には、風景の中に、日常生活なども描写されている。
その復元模写図 高木かおり氏作
また、それらを隔てる山水の表現も素晴らしい。
『日本美術273来迎図』は、図はいわゆるやまと絵山水を背景にし、その山の端や山かげを利用して、往生者の家に下降する来迎の諸衆などを描くが、鳳凰堂のそれに比べれば空間的制約もあって著しく簡潔であるという。


⑦ 下品上生図 赤外線写真の絵葉書
絵葉書には中品下生図となっているが、見学している時にたまたま来られていた住職の幹氏に尋ねると、学者によって意見の分かれるところであるらしい。
並びから考えると、下品上生と見た方が自然でしょうとのことだった。
復元模写図
板葺きの屋舎に住まう人物の姿は見えない。阿弥陀三尊のみの来迎である。  

⑧ 下品中生図 赤外線写真の絵葉書
建物の左には放火している男が描かれている。
『日本の美術272浄土図』は、仏堂に放火するさまは下品中生相当の三宝破壊等の造悪の所行を表すという。
復元模写図
朱塗りの寺院の上方に、観音菩薩のみが来迎し、金色の蓮台を持っている。
放火する者、三層石塔に登って法輪を落とそうとする者。その者を射ようと馬上で構える者、その後ろの人物は武士ではないようだが、やはり馬に乗っている。そしてその下には、水辺では網を引く男達。これらは殺生と考えられていたようで、それでも悔い改めれば、観音菩薩だけしか来ないが、下品中生の往生ができることを表しているようだ。

⑨ 下品下生図 赤外線写真の絵葉書
このように、蓮華座に乗り来迎する日輪、つまり日輪蓮華だけが大きく描かれている。
仏後壁の赤外線写真の絵葉書には、日輪近くの部分のものがある。

その説明は、悪業の臨終者を火の車で迎えにきた冥府の使者と鬼たちという。
その右上に続く絵葉書
悪業の臨終者に説法し、懺悔による極楽往生をすすめる僧侶という。

これら3枚は、悪業を尽くした者の臨終に際し、冥府の使者と鬼たちが火車を用意して待ち受けている時に、僧侶達が懺悔を勧め、それに従ったので、下品下生ながら極楽に往生を遂げることができたという場面を描いているのだった。

下左隅 赤外線写真の絵葉書
裏の説明は、鵜飼をする鵜匠。最古の鵜飼図であろうという。
復元模写図
これも殺生のうちかな。

おまけ
仏後壁背面には仏涅槃図が描かれていた。
台の枕の辺と足元の辺が右上上がりに描かれている。これは日本では涅槃図の古い様式で、鎌倉後期になると左上がりになる。
その復元模写図 高木かおり氏作
時代が下がると様々な動物が嵩多く描かれるようになるが、ここでは、応徳涅槃図(金剛峯寺蔵、1086年)と同じく獅子一頭だけである。
また、釈迦の涅槃を知り、兜率天より飛来する摩耶夫人が、この図では兜率天に戻っていく途中に振り返ったような描き方がされていて珍しい。
涅槃図についてはこちら

        来迎図5 鶴林寺太子堂仏後壁1

関連項目
鶴林寺太子堂は変身していた
平成知新館3・蓮華座13・来迎図2 斜め来迎図
平成知新館4・来迎図3 山越阿弥陀図(やまごしあみだず)
當麻曼荼羅3 九品来迎図
涅槃図に飛来する摩耶夫人

※参考文献
鶴林寺の絵葉書 
「鶴林寺叢書1 鶴林寺太子堂とその美」 刀田山鶴林寺編 2007年 法蔵館
「刀田山鶴林寺」
「日本の美術272 浄土図」
「日本の美術273 来迎図」

2013/03/05

釈迦金棺出現図の截金



京都国立博物館蔵の釈迦金棺出現図は、金剛峯寺蔵の応徳涅槃図(1086年)と比べると、ずっと華やかな色彩だ。截金ももっとたくさん使われていそうな気配がある。
制作時期は、『日本の美術373截金と彩色』(1997年)では応徳の仏涅槃図と制作時期の近いとし、『王朝の仏画と儀礼展図録』(1998年)では様式的にみて11世紀後半から末頃の制作であろう。この時期は、いわゆる末法が到来してからまもないころで、院政期の開始時期にも相当するという。応徳涅槃図よりも後の作品ということなので、ここでは11世紀末ということにする。

釈迦金棺出現図 絹本着色 平安時代後期(11世紀末) 縦160㎝横229㎝ 京都国立博物館蔵
『日本の美術373截金と彩色』は、応徳の涅槃図と制作時期の近い京都国立博物館の金棺出現図(京都・長法寺伝来)も同様に画面の中心をなす釈迦如来と仏母摩耶夫人、弥勒菩薩とされる立像人物の着衣および釈迦の僧伽梨衣に総截金が押されているという。
釈迦の袈裟の地文は九ツ目菱入り変り(三重)七宝繋ぎ文、主文が菊花丸文という。
金箔が剝がれて黒い線が残り、返って文様がよくわかる。截金を漆で貼り付けた跡だろうか。

截金師の故江里佐代子氏を以前にテレビで見たことがあるが、下絵は全く描かずに、2本の筆の先に截金の両端をのせて、すばやく貼り付けていくのだった。
その故江里氏は、『日本の美術373截金と彩色』に「截金の技術と工夫」という記事を寄稿されていた。
右手には截金筆を、左手には取り筆を持ち、その筆先を湿し、先ず細く切った金箔の一端を巻き付けて取り出す。施そうとする位置に接着剤(にかわとふのりを混合した溶液)を含ませた截金筆が待機する。截金筆の背に、垂らした金箔の先端を乗せ、デザインに沿って左右の筆を操りながら金箔を貼ってゆく。区切り点に達したとき截金筆(右手)は金箔の上に置き換え、やや押さえ気味にして、取り筆(左手)を優しく引き上げるとその位置で切れる。そしてこの作業は繰り返し続けてゆくことになる。金泥(金粉をにかわで溶いた液)で描いたものと截金とは一見して異なり、截金の1本1本が重なり放たれる光の美しさは魅力あるものである。
漆ではなく膠と布海苔だった。長い時代を経て黒くなってしまったらしい。

これは金剛峯寺蔵仏涅槃図の釈迦の着衣と同じで、地文が九ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋ぎ文、主文が菊花丸文。
袈裟の襟元は、幾何学文様ではなく、草花文のような小さな文様を小さな切り箔を組み合わせて作っている。
截金文様で注目されるのは、、釈迦如来の袈裟襟や立像人物の腰布に菊唐草文が置かれていることであるという。
菊唐草文か、そういえば細い曲線がつながっている。
化仏の金色は金箔か金泥か。金箔のような気がする。
釈迦はなんといっても金棺から起き上がったので、棺は金色のはず。内底は大きな黒い丸文のある錦でも貼られていたのだろう。丸文の中には赤い色も見えるので、何かの文様を表していたようだ。
棺の内側は二重線で区切られて、8段の文様帯がある。じっくり見るとアカンサス唐草文のようだ。こちらも金色の痕跡がある。
このような金彩が金箔なのか金泥なのかがわからない。金箔だったら箔と箔の継ぎ目があるはずだが、それが見当たらないので、金泥だろう。
ということは化仏も金泥ということになる。
棺の縁に掛けられているのが僧伽梨衣、私がいつも大衣と呼んでいるもの。斜め格子文のようで、これも截金らしい。
拡大すると、格子が二重で、ところどころに小さな切り箔が見える。いや、二重線と一重線が交互に引かれ、一重線どうしが交叉する箇所に切り箔が1つずつ配されて、四ツ目文様となっている。これを辻飾り二重斜格子文というのかな。
図録の綴じ目に近いため、なかなかスキャナで取り込むのが難しいのだが、白い布の下あるいは裏側の袈裟には、小さな正方形の区画とみえる箇所に一つ一つ卍繋ぎ文が截金で表されていた痕跡が見受けられた。
摩耶夫人の着衣には地文が辻飾り格子・変り(三重)七宝繋ぎ重ね文、主文が菊花丸文のものと、辻飾り二重斜格子文の地文、主文が菊花丸文の二組がある。その外に主文のない長菱格子文、斜格子文、四ツ目菱入り七宝繋ぎ文があるという。
それぞれの文様を確認していくと(参考にした文献の図版によって色が異なる)、

襟と胸元に見える、一番外側の着物の文様は地文が辻飾り二重斜格子文、主文が菊花丸文。
地文は僧伽梨衣と同じ。
上図の柿色の上着は下図では朱色に発色している。同じ衣の続きなので、文様も同じく地文が辻飾り二重斜格子文、主文が菊花丸文。
左腿に掛かった白っぽい長衣は、地文は四ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋ぎ重ね文、主文が菊花丸文。
緑青色の布には長菱格子文かな。
白い長衣との間の同じく白っぽい布は小さな切り箔が鏤められているが、何という文様かわからない。
主文のない長菱格子文、斜格子文などはこの辺りにあるのかな。
弥勒とされる立像人物というのは、釈迦の手前で左の人物から大盛りの枕飯を受け取ろうと手を差し出している人物のことらしい。
柿色の天衣や赤い裙などに斜格子の文様が幽かにわかる。
同書は、裳の地文は網格子文、主文は菊花丸文。主文のない四ツ目菱入り二重立涌文。そして僧伽梨衣は卍繋ぎ文、辻飾り二重斜格子文(裏)のみで主文はないという。
拡大図版のおかげで、赤い裙は地文が網格子文、主文が菊花丸文だと確認できた。
しかし、四ツ目菱入り二重立涌文、卍繋ぎ文、そして辻飾り二重斜格子文はどこにあるのかさえわからない。

京都国立博物館の平常展示館は現在建て替え工事中。
(写真はミュージアム・カフェにて。抹茶パフェの背景が建て替え中の新平常展示館)
14年に完成したら、釈迦金棺出現図などが展観されるかも。
細部の截金文様は京博で見てからということにしよう。そして、化仏などが金箔か金泥かも確かめよう。

ところが、2012年春に東京国立博物館で開催された『ボストン美術館 日本美術の至宝』展のNHKの関連番組に、『極上・美の饗宴 ボストンの日本美術超傑作② 平安の超絶ミクロアート~華麗なる仏画の秘密~』があった。
録画を見直していると、絵仏師の長谷川智彩氏が、馬頭観音菩薩像(12世紀中頃)の截金部分を復元していて、裳の截金のところどころに黒いものがあることに気づいた。
そしてその部分の截金は、上着の截金とは色が少し白っぽいという。それで智彩氏は、何枚か重ねた金箔を極細に切って使う截金の間に銀箔を挟んだため白っぽく見え、かつ銀箔が時を経て酸化したために黒くなったのだろうと、その箇所には銀箔を挟んだ截金で文様を描いていた。やはり截金は下書きなしで貼り付けていくものだった。
仕上がった馬頭観音菩薩像は、金箔だけを重ねた截金の文様部分と、銀箔を挟んだ截金のそれとでは、金の色が異なっていた。

そういうと、金箔を使うことで知られるトンボ玉作家の田上惠美子氏に、金色にもいろいろあるというようなことを教えてもらったことがあった。惠美子氏は何種類かの金箔を使っていて、銀の含まれている箔は白くて好みだが、黒くなりやすいとのことだった。その黒くなることを惠美子氏は硫化と言っていたような気がする。
銀が黒くなるのは酸化か硫化か?化け学出身の夫に聞くと「どちらでもある」という答え。

また智彩氏は、光背の唐草文は、文様部分に接着剤を付けて、上から金箔を貼り付け、乾いた所で筆で接着剤を付けていない部分を払うと文様部分が金色になる、箔押しという技法を用いていた。化仏はこの箔押しによるのではないかと思われるほど、金色が煌めいている。

幸い『ボストン美術館 日本美術の至宝』展は、関西では大阪市立美術館で2013年4月2日から開催されるので、馬頭観音菩薩像を見ることができる。

つづく

関連項目
現存最古の仏画の截金は平等院鳳凰堂扉絵九品往生図
応徳涅槃図の截金
釈迦金棺出現図
日本の仏涅槃図
截金の起源は中国ではなかった
中国・山東省の仏像展で新発見の截金は
唐の截金2 敦煌莫高窟第328窟の菩薩像
唐の截金1 西安大安国寺出土の仏像
東大寺戒壇堂四天王立像に残る截金文様

※参考文献
「日本絵画館3 平安Ⅱ」 白畑よし・濱田隆編 1970年 講談社
「国宝大事典 1絵画」 濱田隆編 1985年 講談社
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥隆 1997年 至文堂
「王朝の仏画と儀礼 善をつくし 美をつくす 展図録」 1998年 京都国立博物館

2013/03/01

応徳涅槃図の截金



金剛峯寺蔵の応徳涅槃図や京博蔵釈迦金棺出現図を実際に見たのはかなり昔のことなので、もう細かいところは忘れてしまった。
昨秋大和文華館で開催された「清雅なる仏画-白描図像が生み出す美の世界-」展で涅槃図を久しぶりに見たことが、涅槃図にもう一度目を向けるきっかけとなった。
何度も図版を目にするにつれて、果たしてここは截金で荘厳されていたのだろうかなどと疑問が出てきた。しかし、記憶を辿ろうとしても、もう忘却の彼方である。
それでも、古い書籍の図版で、少しは截金による装飾が見えて来た。

涅槃図 応徳3年(1086) 和歌山金剛峯寺
『日本の美術268涅槃図』は、第一形式。日本に現存する涅槃図の最古の作品。釈迦は光背をつけず、両手を体側につけ、仰向けに横たわる。唐画をもとにしたのであろうが、その優美な姿は和様化の極地を示し、それに荘重な風韻が加わる。会衆の総数39、動物はシシ1頭のみ。沙羅双樹は4双8本。画面全体に清澄な趣が漂うという。
あれ、釈迦の体は金色ではないか。それとも、そう見えるだけかな。
截金が使われているとすれば、何と言っても釈迦が身に着けた衣だ。
図版では白っぽくしか見えないが、昔、私はこの部分に、どのような截金文様を見ていたのだろう。
釈迦の体は金色というよりも黄色っぽい。
『絵は語る2仏涅槃図』は、透き通るような黄白色の肉身、それになにより截金の荘厳をまとった白い着衣が、絵の中心のありかを雄弁に物語る。そして、肉身の黄白色も実は金色に輝く体軀を表現しているのである。つまり、ここには金箔や金泥などの「金」素材そのもの(金彩)を用いた金色の表現と、色のみによって金色を表わす表現が見られるのであるという。
そして、この図版ではどんな文様かわからないが、截金が用いられていることも確認できた。
もう少し拡大すと、寝台にも青い色で一面に細かな文様が丁寧に描かれている。このような箇所にさえ文様を描くほどの丁寧な作品なのだから、きっと截金でも極上の装飾が施されていたに違いない。
釈迦の着衣には、右肩にある大きな丸文と、何かが地文様として截金で表されていることがなんとかわかる。
こういう時に頼りになるのは『日本の美術』シリーズだ。
『日本の美術』は至文堂から毎月発行されていた。1966年という、私がまだ子供の頃からあった小さな薄い美術雑誌で、主に東博・京博・奈良博の国立博物館3館の学芸員が執筆していた。白黒写真が多いなど、残念なこともあったが、美術史を勉強する上で非常に参考になったシリーズだったのに、書店でバックナンバーをあまり見かけなくなってきたなと思っていたら、いつの間にかなくなってしまった。2011年10月以降休刊とのこと。

『日本の美術373截金と彩色』にはっきりとわかる図版があった。
同書は、仏像の文様表現である「地文截金、主文截金」のいわゆる総截金の最古の遺例は11世紀中頃の法界寺薬師如来立像であるが、地文に曲線を帯びた七宝繋ぎ文や主文に丸文が突然に完成した文様で登場しているので実際はもう少し遡る頃から用いられていたと思われる。いずれの時期に仏像の素地総截金が仏画に採り入れられたと考えられるが、その最古の遺例は高野山金剛峯寺の仏涅槃図で応徳3年(1086)である。総截金は画面の中心となる宝台の上に横たわる釈迦の袈裟に押されている。地文に九ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋ぎ文、主文に菊花丸文を置き、衣文に截金を置く。白い袈裟の衣文に沿って施された桃色のほのかな色隈と総截金の輝きが夢幻的な美しさを醸し出しているという。
以前に截金でとりあげた東大寺戒壇堂四天王立像に残る截金文様は、奈良時代の「地文截金、主文彩色」についての記事です。

釈迦の着衣も、地文は中央に点を9つ配した七宝繋文で、上下左右の円が重なった二重の枠ではなく、三重になっている。同書は九ツ目菱入り変わり(三重)七宝繋ぎ文と呼んでいる。
主文は二重の円で囲まれた小花文散らしと見たが、菊花丸文という名があるらしい。

そのような装束の織文様だけでなく、身に着けた時にできる折り目、衣文あるいは衣褶線と呼ばれるものも文様の線よりも太めの截金で表されている。
そして、ここまで拡大された図版の有り難いことは、その太い黒線までもがわかることだ。これは下絵の墨線だろうか。截金と黒線が微妙にずれている部分もある。
きっと、絵師が彩色の後の仕上げとして墨で描いた衣褶線と、截金師が置いていった截金の線とが少しずれたのだろうか。
釈迦以外の人物は截金が用いられていないというが、それは着衣のこと。菩薩の頭光は截金に違いない。金泥と截金は、輝きで違いがわかるものだ。
ちなみに寝台隅の金具や、菩薩の瓔珞などは金泥で描かれてる。
そして、釈迦の死を嘆き悲しむ人物の持つ棒も部分的に截金が使われているように見える。
右上に飛来する摩耶夫人の着衣には截金が使われていたのではないかとじっくり見たが、截金を貼り付けたものではなく、描かれたものだった。

つづく

関連項目
現存最古の仏画の截金は平等院鳳凰堂扉絵九品往生図
釈迦金棺出現図の截金
涅槃図に飛来する摩耶夫人
日本の仏涅槃図
截金の起源は中国ではなかった
中国・山東省の仏像展で新発見の截金は
唐の截金2 敦煌莫高窟第328窟の菩薩像
唐の截金1 西安大安国寺出土の仏像
東大寺戒壇堂四天王立像に残る截金文様

※参考文献
「日本絵画館3 平安Ⅱ」 白畑よし・濱田隆編 1970年 講談社
「国宝大事典 1絵画」 濱田隆編 1985年 講談社
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥隆 1997年 至文堂
「絵は語る2 仏涅槃図」 泉武夫 1994 平凡社

2013/02/15

釈迦金棺出現図 



釈迦金棺出現図 絹本着色  平安時代後期(11世紀末) 縦160㎝横229㎝ 京都国立博物館蔵
『涅槃図の名作展図録』は、摩耶夫人は棺側に至り曼荼羅華を棺上に散らし、釈迦の僧伽梨衣を顧み、鉢と錫杖を執って号泣した。このとき、釈迦は大神力をもって棺蓋を開き、獅子奮迅の勢いで棺中より合掌して身を起こし、身の毛孔から千百の光明を放ち、その一つ一つの光明中に千百の化仏を現じ、化仏も皆ことごとく夫人に向かって合掌した。そこで釈迦は母たる夫人のため、
一切の行は無常にして、住もこれ生滅の法なり、生滅既に滅し巳って、寂滅を至楽となす
と諭し、諭しおわって、棺蓋を閉じて棺内に隠れた。
以上は摩訶摩耶経が説く一説であるが、この図は横長の大画面に、今しも釈迦が合掌して身を起こした劇的な場面を描く。その背後には、あたかも孔雀が羽を広げたかのように、白く輝く半円形のうちに、無数の化仏が出現しているという。
どちらかというと地味な涅槃図の中で、この図は煌びやかで異彩を放っている。
摩耶夫人は釈迦の視線の延長上に横向きで登場している(矢印)。
応徳3年の金剛峯寺本仏涅槃図と大治2年(1127)の京都国立博物館本十二天像との中間あたりの11世紀末期に制作された作品で、その背景には、整斉たる古典様式に挑戦しようとする院政初期の鬱勃たる気運がみなぎっているという。
このような仏画を見なくなってもう30年も経ってしまった。

なお、金棺出現図は仏伝の1こまとして八相涅槃図中に描かれることもあるが、独立した絵としては、これが唯一の作品で、もとは比叡山に伝来し、織田信長の叡山焼討のときに山を下りたと伝えているという。
では八相涅槃図ではどのように金棺出現の場面が描かれているのだろう。

再生説法図 八相涅槃図内 絹本着色 鎌倉時代(13世紀) 岡山自生院安養院蔵
『ブッダ展図録』は、釈迦入滅(涅槃)の場面を中心にして、まわりに涅槃前後の事蹟を描き込んだ形式の八相涅槃図である。各場面の傍には短冊形が設けられ、そこに事蹟名を記している。順にたどると、画面左下の純陀(チュンダ)供養、その上の虚空上昇(臨終遺誡)、画面中央の涅槃、画面右下から上に再生説法、金棺不動、金棺拘尸城(クシナガラ)旋回、画面中央上部の迦葉接足・荼毘、左上の分舎利となるという。
涅槃図では右上部に忉利天より飛来する摩耶夫人が描かれるのが一般的だったが、ここでは左上方から飛来している。
涅槃図と摩耶夫人についてはこちら
こういった八相涅槃図の制作背景には、鎌倉時代における釈迦信仰への回帰運動が根底にあり、なかでも明恵上人の『涅槃講式』には涅槃前後の諸事蹟を詳しく述べる箇所があり、あわせて新渡来の宋代の八相涅槃図の影響を受けて成立したものと考えられるという。
この金棺出現(再生説法)図は、上の釈迦金棺出現図とは逆の向きになっており、釈迦は左を向いて、座り込んだ摩耶夫人(矢印)を見ている。
金棺出現図 八相涅槃図内 鎌倉後期(1267-1333) 岡山遍明院蔵
『日本の美術268涅槃図』は、涅槃のしらせを聞いて忉利天から飛来した摩耶夫人に対して、釈迦が金棺から出現して説法する場面。再生説法図ともいうという。
やはり釈迦は左向きで表される。八相涅槃図では、右下に金棺出現図が描かれるのが決まりとなっているらしく、画面の構成上、釈迦を内側向きにせざるを得ないのだろう。
劣化が進んでわかりづらいが、左から2人目(矢印)が摩耶夫人。
金棺出現図は再生説法図とも呼ばれたらしい。京博本金棺出現図にしろ、八相涅槃図の中の金棺出現図にしろ、金棺の蓋を開けて釈迦が出現した瞬間を表現したものではく、摩耶夫人にない。それよりも、生母の摩耶夫人を諭すことが重要視されていたのだろう。
その点京博本は、釈迦の体から放たれた光明が、釈迦が棺から身を起こした瞬間を捉えているようで、臨場感がある。

このような金棺出現図というものは、日本にしかない主題だろうと思っていた。
ところが、中国にもあって、しかも棺の蓋が宙に浮かぶ様が浮彫されていた。

金棺出現図 浮彫 北宋時代、11世紀末 黄陵千仏寺
『絵は語る2仏涅槃図』は、ブッダが宝台に横たわり、仏弟子たちが嘆くなか、上空より摩耶夫人の一行が雲に乗って飛来する。これは次に続く金棺出現図、つまり摩耶のために釈迦が一時蘇生し説法するという場面と対になっているという。
金棺の蓋が宙に浮かび、蓋の内側から2本の幅の広い帯状のものが下がっている。きっとこの棺の蓋も傾斜があったんだろうなあと勝手に思っている。
傾斜のある木棺についてはこちら

蓋の下には釈迦が蓮華に結跏扶坐しており、摩耶夫人は釈迦の方を向かずに手を合わせている(矢印)。
中国では、金棺から出現した釈迦を表したものはこの北宋時代の浮彫だけだったが、棺の上に坐って摩耶夫人に説法する図は敦煌莫高窟にある。

涅槃経変部分 敦煌莫高窟第332窟南壁後部 初唐(618-712年)
『中国石窟 敦煌莫高窟3』は、釈迦が母に説法をする場面。釈迦の母摩耶夫人は釈迦を哀悼するために忉利天から降下した。仏は神通力で棺の蓋を開き、棺に坐って母に説法したという。
ひょっとして、この絵の前に金棺出現図があり、更にその前に涅槃図があったのかも。
このように、摩耶夫人は涅槃図には忉利天から飛来する姿で表され、金棺出現図では釈迦の間近に登場する。
そうすると、莫高窟の隋代(581-618)の涅槃図に見られた釈迦の枕元で椅子に腰掛ける夫人は、養母のマハプラジャパーティではなく、生母の摩耶夫人とみる方が自然だ。
ひょっとして、隋代の涅槃の場面は、釈迦が金棺出現と涅槃を同時に表したものだったのではないだろうか。キジル石窟の涅槃図が荼毘と同時に描かれているように。

しかし、『中央アジアにおける仏教と異宗教の交流』というシンポジウムで、宮地治氏は、釈尊の枕辺で項垂れる女性が出て来ます。これはどうも釈尊のお母さん、摩耶夫人ではないかと見られます。敦煌でも隋代に枕辺で悲しむ女性が涅槃図に出て来ます。これもガンダーラの図像には見られなかった特徴で、涅槃経のテキストにも出て来ません。おそらくこれは曇景訳とされる、実は偽経ですけれども、『摩訶摩耶経』という経典に、仏涅槃、仏入滅に際して、摩耶夫人が忉利天から降りてきて、悲しむ話が出て来ます。その経典では釈尊はお母さんのために生き返って、再生説法したという話が語られます。涅槃に入った釈尊が生き返ったら元も子もないというか、涅槃の意味がなくなってしまうわけですから、インドでは考えられないことですが、中国唐代の則天期にこうした図像が成立しますという。
なんと摩訶摩耶経は偽経で、しかも初唐の則天武后期に再生説法図は成立したのだった。

すると、バーミヤンや敦煌莫高窟隋代の涅槃図で、釈迦の枕元で椅子に腰掛ける夫人は誰なのだろう。
バーミヤンの涅槃図についてはこちら
敦煌莫高窟隋代の涅槃図についてはこちら

関連項目
釈迦金棺出現図の截金
涅槃図に飛来する摩耶夫人
バーミヤンにも涅槃図
クシャーン朝、マトゥラーの涅槃図浮彫
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
傾斜のある木棺1

※参考サイト
龍谷大学アジア仏教文化研究センター国内シンポジウム中央アジアにおける仏教と異宗教の交流

※参考文献
「涅槃図の名作展図録」 1978年 京都国立博物館
「ブッダ 大いなる旅路展図録」 1998年 NHK
「日本の美術268 涅槃図」 中野玄三 1988年 至文堂
「絵は語る2 仏涅槃図 大いなる死の造形」 泉武夫 1994年 平凡社 
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 日本放送協会
「中国石窟 敦煌莫高窟2」  敦煌文物研究所 1984年 文物出版社

2013/02/12

涅槃図に飛来する摩耶夫人



バーミヤン石窟や敦煌莫高窟の隋代(581-618)では涅槃図の中に、摩耶夫人(まやぶにん、『中国石窟敦煌莫高窟2』はマハプラジャパーティとする)が釈迦の枕元で椅子に腰掛ける姿で表されている。
摩耶夫人は釈迦誕生の7日後に亡くなり、妹のマハプラジャパーティが釈迦を育てたとされているが、釈迦の涅槃とはどんな関係があるのだろう。
『涅槃図の名作展図録』は、釈迦が拘尸那城の尼連禅河のほとり、沙羅双樹のもとで涅槃に入ったとき、阿那律は忉利天に昇り、仏母摩耶夫人にこのことを報告した。夫人は急ぎ天上から飛来したという。

涅槃図 絹本着色 掛幅装 応徳3年(1086) 縦267㎝横271㎝ 高野山金剛峯寺蔵
『日本の美術268涅槃図』は、図の右上隅に仏母摩耶夫人の飛来するさまを描き、摩耶夫人に向かいあって勝音天子が坐る。鎌倉時代の涅槃図では、摩耶夫人はすべて立像だが、この図は坐像で、ここにも古い形式があらわれているという。
古い形式とは、日本に請来された唐時代の涅槃図の形式のことで、唐代は摩耶夫人は坐って降下するように描かれていたことが、日本に残る涅槃図によって推測できる。
摩耶夫人 同拡大図
拡大してやっとわかった。摩耶夫人の乗る雲は膝の下に小さく描かれているだけだ。来迎雲のように沸き上がるでもなく、紐のような尾を3本ほど引くのみで、静かな降下となっている。
摩耶夫人は感情を表に表さない。
唐時代には摩耶夫人をこのように表していたのだろう。
摩耶夫人は雲の上に坐して釈迦のもとに駆けつけるのだと思っていたが、調べてみると他の図では確かに立っている。

飛来する摩耶夫人 涅槃図右上隅 絹本着色 鎌倉前期(1192-1224) 和歌山浄教寺蔵
やはり涅槃図の右上隅に描かれている。宋時代になっても、摩耶夫人は右上に描かれていたのだろう。
沸き立つ雲に乗る摩耶夫人は、顔を袖で隠し悲嘆に暮れている。
摩耶夫人を導く僧形の人物は阿那律だろうか。
飛来する摩耶夫人 涅槃図右上 絹本着色 鎌倉後期(1267-1333) 京都知恩寺蔵
数人のお供と共に飛来する摩耶夫人はほぼ沙羅双樹の上まで達し、釈迦を取り囲む弟子や比丘たちと変わらない大きさで表される。
摩耶夫人は両手で顔を隠し、悲しみを表現している。
やはり僧形の人物に伴われている。 
宋末元初の中国の涅槃図が、日本に残っていた。

飛来する摩耶夫人 涅槃図中央上方 絹本着色 陸信忠筆 宋末元初(13世紀後半) 奈良国立博物館蔵
『日本の美術268涅槃図』は、会衆は10人の仏弟子と長い筒袖の赤衣を着た異様な二天のみ。2本の沙羅双樹は装飾化著しく、一風変わった涅槃図になっているという。
縦長の画面には沙羅双樹が高く描かれ、その間に大きな来迎雲に乗る摩耶夫人が飛来する。つまり、上方中央に摩耶夫人が描かれているのだが、解説に「一風変わった」と表現されているように、中央上方に摩耶夫人が描かれるのは特殊な涅槃図で、あまり参考にはならなかった。
日本では鎌倉後期になっても、摩耶夫人は上方右端あるいは右寄りに描かれているので、日本に請来された宋時代の涅槃図も、やはり上方右寄りに描かれていたのだろう。 
応徳涅槃図が描かれた頃、中国ではすでに五代十国時代も去り、北宋時代に入っていた。その頃の涅槃図浮彫が残っている。

涅槃図 浮彫 北宋時代、11世紀末 陝西省延安市黄陵千仏寺
『絵は語る2仏涅槃図』は、雲に乗って下降する摩耶夫人と侍者の立像3体が上方右寄りにはっきり表され、中国における摩耶飛来の図様の存在が確認できるのであるという。
右寄りと言われれば、やや右寄りだが、限りなく中央に近いような。
侍者2名と雲に乗る図様は、すでに11世紀末には成立していたようだ。
つづく

関連項目
涅槃図に飛来する摩耶夫人
バーミヤンにも涅槃図
クシャーン朝、マトゥラーの涅槃図浮彫
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
傾斜のある木棺1

※参考文献
「絵は語る2 仏涅槃図 大いなる死の造形」 泉武夫 1994年 平凡社
「涅槃図の名作展図録」 1978年 京都国立博物館

「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 文物出版社