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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2021/10/01

通肩に大衣をまとう如来 


通肩という大衣のまといかたはガンダーラから始まった。

仏陀立像 2-3世紀 灰色片岩 高さ109㎝ ガンダーラ出土
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、典型的なガンダーラ仏立像。施無畏印という右掌を正面に向けて挙げるポーズは西アジアの神像・王像に、左手で衣の一端をとるのはローマの皇帝像に由来するという。
ガンダーラ美術はヘレニズムの影響と解釈されがちだが、仏像が制作される頃(後2世紀、後1世紀とする説もある)はローマとの交易が盛んで、ローマ文化の影響も受けている。
ローマの男性は、長い布を左肩後方に回して、背中に回した布の端を左手で握っているのだろうか。今までガンダーラ仏は見てきたが、この端がどこからどのように続いたものなのかを注意して見てこなかった。
背中側から長々と続いた衣端ではないにしたら、どこの衣端だろう。左腕から垂れるものとも思えない。
目立たないが翻波式衣文もある。翻波式衣文についてはこちら


仏坐像 3-4世紀 ガンダーラ 灰色片岩 高さ96.5㎝
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、両端にライオンを配した獅子座は西アジアに起源し、王権の象徴であった。仏教でも仏陀や弥勒菩薩の台座に用いられた。衣を台座正面に垂らす裳懸座はガンダーラに生まれ、東漸した表現であるという。
この如来が左手で握るのは巾着のようでもある。その巾着によって大衣が細かな襞をつくり、台座に懸かっているにも見える。どうも大衣の端には見えない。
ギリシア・クラシック期に始まった翻波式衣文がはっきりと現れている。


通肩に大衣を着た如来像はシルクロードを通って東漸し、中国へも伝わり、古式金銅仏と呼ばれるものが五胡十六国時代につくられた。幸いにも『中国の金銅仏展図録』には、小金銅仏の背面の図版が掲載されていた。


金銅如来立像 高さ15.8㎝ 五胡十六国時代(4-5世紀) 京都国立博物館(京博)蔵
『中国の金銅仏展図録』は、五胡十六国時代の唯一の如来立像である。肉髻に毛描きはせず、地髪部は太い黒線によって大きく区分けして中に細線で毛筋を刻すが、この線は、正面中央から両側に同心円状に展開する。
この時代の坐像と同じU字形衣褶で、大衣の端を同じく左肩より後ろに垂らす。左手に衣を掴み、指に関節を刻むという。
左肩に掛かった大衣の端は折畳文に近い襞が刻まれて、薄くて広い布が折畳まれた様子をよく表現している。その端は短いので、表側で如来が握るのは別の衣端ということになる。
蛇足だが、左下の大衣の裾の襞が折畳文にならずに動物の耳のような形が3つ付いている。これは騎馬遊牧民の好む貴石の象嵌に形が似ていること、内側がくぼみ縁が高くなっていることなどから、制作当初は貴石が象嵌されていたのではないだろうか。
金銅如来立像-五胡十六国(4-5世紀) 京都国立博物館蔵 『金銅仏展図録』より


金銅如来坐像 五胡十六国時代(4世紀) 高さ13.5㎝ 東京国立博物館(以下東博)蔵
『中国の金銅仏展図録』は、肉髻は大きく、上に孔があり、五胡系の肉髻は舎利容器に用いられたという言い伝えを信じさせる。
胸前の衣褶の片流れ、大衣の端を左肩より背後に垂らす方法も、フォッグ美術館像と類似し、地髪部正面のアーモンド形の毛描きも共に、ガンダーラ風が強く、中国初期の仏像が、中央アジアの仏像を通じて西方の様式を反映していることが分かるという。
左肩の衣端が短冊状に付属する。
フォッグ美術館像の画像はこちら
金銅如来坐像 五胡十六国時代(4世紀) 『中国の金銅仏展図録』より

金銅如来坐像 五胡十六国時代(4-5世紀) 高さ14.7㎝
『中国の金銅仏展図録』は、肉髻が異様に大きく、舎利壺の役目をした名残りにも見える。衣褶は片流れであるが両腕より垂れる衣端が三角状に下に向かう点や台座両脇の獅子や、その内側の供養者らしい人物や指の関節の表現は東博像と異なり、フォッグ美術館像との繋がりを考えさせる。しかも台座は東博像と同様に横断面が半円形で、後頭部に枘をつけて頭光を備えていたことを示すなど、東博像とそれより古いフォッグ美術館像との両方に通ずる要素を持つ点が注目される。五胡十六国の如来坐像が以下の像のような形に固まる以前に多様な形体が存在したことを示す例であろうという。 
左肩より背後の背後にかかる衣端は幅広に折られている。
金銅如来坐像 五胡十六国時代(4-5世紀) 『中国の金銅仏展図録』より

金銅如来坐像 五胡十六国時代(5世紀) 高さ8.9㎝
『中国の金銅仏展図録』は、このタイプが五胡十六国仏の形体として固定したものであるらしく、現存のものでは最も多いタイプである。元は後頭部に頭光が取り付けられていたという。
左肩から垂れる大衣の端は上の像と同じように幅広に折りたたまれている。
金銅如来坐像 五胡十六国時代(5世紀) 『中国の金銅仏展図録』より


西秦は431年に滅亡する。北涼(匈奴沮渠氏、397-439)では北涼石塔と呼ばれているものが幾つか出土している。

高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428)高44.6㎝ 酒泉城内出土 蘭州市甘粛省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかであるという。
3体の如来坐像は左肩から衣端を背中側に垂らしているらしく、左肩から腕にかけて添っている様子はない。
高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428) 甘粛省博物館蔵 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

その少し後の通肩の仏像は、

金銅如来坐像 劉宋時代(南朝・宋)、元嘉14年(437) 高29.3㎝ 永青文庫蔵
『中国の金銅仏展図録』は、光背・台座も完備する南朝の数少ない仏像として貴重である。頭部は髪を大きな束に分けて細線を施し、京博像と同工の面がある。頬から首に至る面に区分がなく自然味を欠くが、着衣や印相、四脚座も五胡十六国仏と同工。
左肩に回る衣端が肩の外に僅かに張り出すのは太平真君像に似るという。
五胡十六国時代の如来像と異なる点として、表側に左肩から腕にかけて衣端が線状に添う。背中側を見ると、右腕に比べて左腕がやや張っている。
永青文庫蔵金銅如来坐像 南朝宋時代元嘉14年(437) 『中国の金銅仏展図録』より


如来立像 北魏・太平真君4年(443) 銅製鍍金 高さ53.5㎝ 
『小金銅仏の魅力』は、北魏金銅仏最古の紀年銘像で、スケールの大きな逞しい造形と肉体の起伏にあわせた着衣の写実的表現には、ガンダーラに起源をもつ中央アジアの彫像からの影響が考えられるという。
如来坐像のものは大衣の衣端は折りたたまれて左肩から背中に垂れているが、本像はその衣端が鰭のように左肩から腕にかけて続いている。

このように五胡十六国時代(304-439)において、通肩に大衣をまとう古式金銅仏には、通肩の衣端は左肩から腕にかけて表されることはなく、背中側に折りたたまれれて表現されていたが、炳霊寺石窟の169窟では、左肩から腕にかけて、幅広く衣端が表されている。


おまけ 菩薩立像とその後ろ姿
金銅菩薩立像 高さ33.6㎝ 西晋-五胡十六国時代(4世紀初) 伝陝西省三原県出土 藤井斉成会有鄰󠄄館蔵
『金銅仏展図録』は、束ね上げる髪、もみ上げ、口髭、耳や首の飾り宝櫃を両側から喰わえる獣頭付きの胸飾、腕釧、それらはいずれもガンダーラの菩薩像にみられる。出土地は古都長安の近くと伝えられるが、黒眼に象嵌のあとを残す眼やサンダルの着用などは独特であり、地肌のクレーター状の多孔から鉛含有量が多いと判断されるなど中央アジアとする説も古くからある。本像のように左手に瓶を持つ菩薩はガンダーラでは弥勒菩薩とされるという。
衣端には折畳文が表されている。
背中側の片流れの大衣の表現が京博の如来立像と似ている。しかし、裙や天衣の裏側は着衣らしい衣文は刻まれていない。
藤井斉成会有鄰󠄄館蔵金銅菩薩立像-西晋~五胡十六国(4世紀初) 『金銅仏展図録』より



関連項目

参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作隊・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「インド・マトゥラー彫刻展図録」 2002年 NHK
「パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録」 2002年 NHK
「平山郁夫コレクション ガンダーラとシルクロードの美術展図録」 2002年 朝日新聞社
「小金銅仏の魅力」 村田靖子 2004年 里文出版
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「仏教美術の名宝展図録」 2018年 泉屋博古館
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館

2019/05/24

北野天満宮展 束帯天神像は忿怒相


菅原道真は日本では初めて神格化された人物である。
『日本の美術479』は、奈良時代末に始まるとされる神像が、その神性を表現するのに人間の姿を借りたのは仏像の影響といわれるけれど、八幡神をはじめ祖先神・地域神などどれも特定の人物をあらわすことはなかった。神のあるべき姿としてのきまりごとはあったにせよ、具体的に誰それを髣髴させるのでなく、個々の具象を捨てた抽象的なものでよかったのである。そのような初期神像の行われたのは8世紀末から9世紀全般にかけてであったが、その最終段階に位置する熊野速玉大社神像も、祖先神らしい威厳をもちながら特定の個人を表現したとはいえない。
故人を恐れうやまうのは誰にでも自然な感情であろうが、それを国家や氏族レベルで行うとなると、廟が建てられそこに奉祀される対象が必要になる。本格的な礼拝対象となった初期の例として菅原道真を考えてみよう。

菅原道真(845-903)は宇田・醍醐天皇に重用された官吏だが、延喜元年(901)藤原時平の中傷のため太宰府に左遷され、そこで没した。しかし同9年、時平が39歳で急死、延長元年(923)保明親王が夭折し、さらに延長8年(930)に宮中清涼殿に落雷、病に臥した醍醐天皇もまもなく崩御する。それらのできごとは道真の怨霊のしわざとみなされ、恐れられた。やがて天慶5年(942)右京七条に住む多治比奇子(あやこ、文子)に道真の託宣があり、また同9年または10年、近江国比良宮の禰宜神良種の子太郎丸にも同様の託宣があり、それをうけて10年、北野の右近馬場に天満宮が創設された。
太郎丸にあった託宣は、「我が像を作りて、笏は我昔もちたりしあり、それを取らしめよと仰給なり」とあり(『北野天神御神託記文』)、生前使っていた笏を執る像容が求められたものであった。当然これは彫像のはずであり、その姿は、北野宮曼荼羅図(北野天満宮蔵、室町時代)の本殿内に描かれた、笏の上下を手で執る束帯姿の道真像に近いものだったと想像される。後世いうところの怒天神である。つまりここに、神格化された故人をまつる神社、およびその神体として近過去の人物肖像が出現したのである。これを肖像と呼ぶのに異論もあろうが、対看写照にもとづく写実的な肖像ではなく、特定の個人でありながら神威をも備えるという意味での肖像であるという。
現存最古の天神像は鎌倉時代のもの。

束帯天神像 根本御影 鎌倉時代(13世紀) 縦84.3横34.3㎝ 絹本著色 北野天満宮蔵
『北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録』(以下『天神さんの源流展図録』)は、彫像や絵像で天神の姿を表現することは平安期に始まるとみられるが(『扶桑略記』天慶4年所収『道真上人冥途記』など)、その出現の契機や時期は明らかでない。ただし遅くとも鎌倉初期には絵像の存在が記録され(『明月記』元仁2年3月4日条)、貴族社会における主要な社の一柱として天神像が比較的早くから図像化された可能性はある。
根本御影は、着用する束帯が古様な萎装束である点で、平安期に祖本が成立した「板絵神像」(薬師寺)などとの表現の類似が指摘される。吊り上がった眉や歯を覗かせて開口する表情は説話に基づく忿怒相の表現で、天神ならではの表象として、後世に広く踏襲されたという。
現在は学問の神さんと親しまれているが、鎌倉時代ではまだこんな忿怒相として描かれてた。 

竜田明神画像 鎌倉時代永仁3年(1295) 南都絵所堯𠑊(ぎょうごん)筆 薬師寺蔵
『日本の美術18』は、南都薬師寺の鎮守として有名な、休が丘八幡宮の社殿にかかげられていた板絵着色神像画の一つ。永仁3年に、古くからあった障子絵に基づいてこの板絵を作ったと、裏銘に書いてある。竜田明神は四脚の床座にすわり、背後には美しい紅葉を描いた障屏を立て、少し剥落してはいるが立涌文様、うす色の袍をつけるまことにおだやかな貴紳の姿。一個の大和絵肖像画としても優れた作品であるという。
着衣や笏・刀などの描き方は共通するが、顔は穏やか。天神像の怒りをあらわにした表情は特異なものだ。

北野天神縁起絵巻 承久本 天拝山 鎌倉時代(13世紀) 北野天満宮蔵
『天神さんの源流展図録』は、筑紫において道真公は、自らが潔白であるという祭文を作り高山に登り、7日間にわたって無実を訴えた。すると祭文は天高く舞い上がり、祈りが通じ、道真公は「天満大自在天神」となったという。
鎌倉時代には、道真公が生前に神となったとされていたようだ。こちらは菅公の表情まで読み取れない。

その後も天神像は描き続けられ、正面向きの立像なども多く描かれた。同展でも数点展示されていたが、

北野曼荼羅 室町時代(15世紀) 縦125.8横73.3㎝ 絹本著色 京都 北野天満宮蔵
同展図録は、室町時代の北野社社頭・境内の景観を描いた作例として確かに北野社の絵図ではあるが、本殿内の束帯天神像が他を圧して描かれ、また画面上部の天上に円相内五尊(不動明王・釈迦金輪・薬師如来・愛染明王・慈恵大師)があるのも、いわゆる垂迹曼荼羅型の図であり「北野曼荼羅」と呼称されるにふさわしい。本殿とそれを囲む廻廊を画面やや上方中心に置き、その向かって右には法花堂や大塔・鐘楼など仏教に関わる建物が描かれるが、左には毘沙門堂や朝日寺もあって、当時の神仏習合の社頭の様子が丁寧に描かれるという。
当時北野天満宮には多宝塔もあったのだ。
この面貌は忿怒相なのだろうか、正面を見据え、笏を両手を上下にして持つ。
室町時代ともなると、菅公は学問の神さんになっていたかな。

北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金← →神像を遡る

参考文献
「北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録」 2019年 京都文化博物館
「日本の美術479 十世紀の仏像」 伊東史朗 2006年 至文堂

2012/03/02

ウラルトゥの美術3 象牙

ウラルトゥの家具の部品には、青銅製品だけでなく、象牙細工もある。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、象牙製の像、飾り板は、それ自体で独立していたものではなく、玉座をはじめとする家具を装飾していた一種の部品であったと考えられているという。

ライオン坐像 前8世紀後半 トルコ、アルトゥンテペ出土 金・象牙 高10㎝幅4.8㎝ アンカラ、アナトリア文明博物館蔵
象牙の飾り板やライオン像には金箔の一部が残っているものがあり、もともとは全体が金箔で覆われていたと考えられる。ライオン像は、牙をむき出して咆哮する表情をとらえ、獰猛さを強調する形で表現されているという。
ライオンは歩くなど横向きに表されることが多いが、このライオンは横向きに坐って、顔だけ前にむけて威嚇している。魔除けだったのだろう。
それにしてもこの尖った頭。
有翼精霊像 前8世紀後半 アルトゥンテペ出土 象牙 高12.4㎝ アナトリア文明博物館蔵
同書は、鳥頭有翼の精霊は、新アッシリアの浮彫りに表現されているのと同様、片手に松毬状のものを持ち、もう一方の手にバケツを持っている。衣服や装飾品などもアッシリアのものと共通しているという。
青銅製冑の生命の樹の横にいる有翼精霊は人頭だったが、これは鳥頭になっている。
こちらも左膝あたりの衣服に金箔が残っている。
生命の樹の表現や、人頭・鳥頭の有翼精霊というのは、アッシリアからもたらされたものだろう。ウラルトゥの領域、というよりもアナトリアではナツメヤシはできないからだ。

守護聖霊と聖樹 紀元前875-860年頃 ニムルド北西宮殿I室 石製板17? 縦141.0横95.0厚4.0 大英博物館蔵
『アッシリア大文明展図録』は、鷲の頭部を持つ有翼人物は、アッシリアの聖霊の古典的なタイプであり、この種の像は王宮の装飾に数多く使用された。右手に持つ円錐形のものは、アッシリアの文献によれば浄めの儀式に使うためのものであり、左手に持つバケツの中の液体に浸して使ったものと考えられる。
画面右手には、アッシリア美術において重要な意義を持つ聖樹の左半分が描かれている。幹の先端には大きなパルメット文(ナツメヤシの葉文)が描かれ、その周囲を連なり合ったパルメット文が取り巻いている。
アッシュール・ナシルパルⅡ世の治世において、呪術的な彫刻には頻繁に聖樹が描かれた。それはおそらく聖霊が守護している国土の豊穣を象徴しているのであろうという。
大きな浮彫と、小さな象牙細工とでは表現に違いは出てくるだろう。ウラルトゥの聖霊とは、翼が一番異なっている。
頭部は、アッシリアではかつらのような髪、ウラルトゥでは線状の飾りをつけている。アッシリアの鷲の顔も鋭いが、ウラルトゥの鷲はどちらかというとライオンのような表情に見える。

関連項目
生命の樹を遡る

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」2000年 小学館
「大英博物館アッシリア大文明 芸術と帝国展図録」1996年 朝日新聞社

2012/02/24

ウラルトゥの美術1 青銅製品

ウラルトゥという国に興味を持ったのは、岡山市立オリエント美術館で見つけた『ウラルトゥの美術と工芸展』の図録だった。その特別展はとっくの昔に終わっていたが、表紙の青銅製のベルトは、薄板に動物や戦車図が打ち出され、それ以前に見たことのないものだった。
以来、ウラルトゥは青銅工芸に秀でた国というのが頭の片隅に残っていた。

ベルト 前9-7世紀 出土地不明 青銅 長109幅13.5 神奈川県シルクロード研究所蔵
『世界美術大全集16西アジア』は、ウラルトゥの美術作品のなかでもこのような青銅製のベルトは周辺地域に類例を見ない特殊なものである。多くは幅が10㎝以上あり、周縁部に小さな穴が等間隔に穿たれているのは布や革に縫い合わせたのだろう。裏側にモティーフを彫り込んだ型(おそらく石製)を当てて打ち出された文様には、種々の動物、合成獣、神像などがあるという。 
本作品は2頭立ての戦車に乗ってライオンや牛を弓で追ったり、槍を持った騎馬人物が描かれた狩猟の場面がロゼット文や植物文をところどころに挟みながら連続して表され、留め金のある端部は聖樹の両脇で前脚を掛け立ち上がった2頭の山羊、片膝をついてライオンに弓を向ける兵士が表されている。文様の題材は総じてアッシリア帝国の浮彫りに見られるような展開であるが、ありとあらゆる動物を組み合わせてしまう(人面、胴体は有翼の魚、脚はライオンや猛禽類、尾は蠍など)合成獣の表現はウラルトゥの独創性が発揮されているという。
型を当てて打ち出したものだろうというのは想像がついたが、ロゼット文が一つ一つ異なっていたり、戦車の前後にいる矢を射られた動物の種類や動きを別のものにするなどといったことが目に留まった。
武人像 カルミル・ブルール出土 木製
『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、金属製のベルトが付けられており、盛装や武装した際の腹帯として用いられたものと思われるという。
上のようなベルトは、身につけるともっと幅が広いだろうが、儀式用など特殊な場合に使われたのだろう。 
下図から当時トゥシュパと呼ばれた都(現ヴァン)は、下図で見るとウラルトゥ王国のほぼ中央部にあったことがわかる。
カルミル・ブルル(カルミール・ブルール)は現在のアルメニア、ハッサンルはイランとなっている。
冑(部分) 前8世紀 アルメニア、カルミル・ブルル出土 青銅 高30㎝ サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、カルミル・ブルル(アルメニア語で赤い丘の意)は、アルメニアの首都エレヴァンの北西に位置し、1939年以来発掘調査が行われてきた。その結果、この都市の古名がウラルトゥの天候神ティシェバに由来するティシェバイであったことも明らかにされ、神殿や大型の建築物などの存在が確かめられた。出土した碑文などによれば、ルサ2世の時代にこの地の中心地として新たに築かれたものとのことである。
この青銅製の冑には、ウラルトゥの最盛期の王の一人、アルギシュティ1世の銘が刻まれ、彼によって主神ハルディ神に供献されたものであることがわかっている。
前面は水平方向に2段に区画され、そのあいだには生命の樹を挟んで両側に立つ有翼の聖霊をモティーフにした図像が五つずつ、そして最上段にもう一つ、計11配される。これらの装飾は、ウラルトゥ独特の打出し技法によるものという。
生命の樹と有翼精霊というモティーフはアッシリアに見られるものだ。生命の樹はそれぞれの特徴によって種類が異なるらしいが、有翼精霊が授粉する生命の樹といえばナツメヤシ。ウラルトゥの地にナツメヤシは育たないので、儀式だけが伝わったのだろうか。
主文の上下には鋸歯文が2列ずつあって、それぞれ上下の鋸歯に点状の刻み文があり、この文様を口を開けて並んだ歯を見せているような印象を与える。刻み文はよく見ると縦横に細い線を刻み込んでできている。
この冑の背面はこちら
ウラルトゥの金属技術は打ち出しだけではなかった。

兜 トルコ東部出土 青銅
『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、ウラルトゥが栄えたのは、考古学の時代区分から言うと初期鉄器時代Ⅱ、Ⅲ期に相当するが、最も重要な武器である剣も鉄製と共に青銅製のものも多く使われていた。ウラルトゥ人の用いた武器としては、剣のほか、槍、兜、楯、弓と矢筒などが知られている。これらは青銅で作られ、神像や怪獣の文様で飾られていた。人々は武器を戦の神ハルディの神殿に奉納し、神の加護を願ったのであるという。 
他の地域でも鉄器時代になっても青銅製の武器は多く作られている。
額の上に牡牛の角のような形で打ち出され、その下に左耳から右耳の上あたりにヘビが打ち出されていて、それぞれに動物などの文様がある。
それが白黒写真では金象嵌のように白く光って見える。ウラルトゥの工芸には象嵌もあったのだろうか。
ところが、同じ図録のカラー写真では象嵌というよりも線刻に見える。この線刻は、帯や冑のものよりもずっと細く優れている。
描き起こし図によると、牡牛の角状部分には、両側の有翼牡牛像が中央の人物に首を掴まれている。中央の人物は戦いの神ハルディだろうか。
そして、左後方から兜をまわってきたヘビの頭部は、上からみたように細かく線刻され、その上にライオンを先頭に有翼の牡牛と有翼の鳥グリフィンが進んでいる様子が表されている。

関連項目
生命の樹を遡る

※参考文献
「ウラルトゥの美術と工芸展図録」(1985年 岡山市立オリエント美術館・古代オリエント博物館)
「世界美術大全集16 西アジア」(2000年 小学館)

2012/02/07

アンティオコスⅠの右腰に付けているのはアキナケス型短剣

ネムルート山西のテラスには石像と並んで王権神授を主題にした浮彫石板が並んでいた。現在は博物館にでも収蔵されているのか、見ることはできなかった。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、国王の王権神授を表した。国王と神が右手で握手(デクシオーシス)をしている点を特色とするという。
そのような場面で、浮彫にはアンティオコスⅠの右腰に装飾的な剣が提げられている。
『コンマゲネ王国ネムルート』は、刀の鞘にもライオン頭の飾りが5つ見えるというがよくわからない。
ネムルート山近くのアルサメイアにもアンティオコスⅠとヘラクレスが握手する浮彫が残っている。その描きおこし図でライオンの頭部がはっきりと表されている。
それと同時に、この短剣は環頭になっていることもわかった。
そのような剣はコンマゲネ王国独自のものではない。

短剣・鞘 ロストフ州「ダーチ」墓地1号墳1号隠し穴出土 1世紀後半 金、ザクロ石、紅玉髄、トルコ石、鋳造、打出し、鍛造、鑞付け 長36.5㎝・27.1㎝ アゾフ博物館蔵
『南ロシア騎馬民族の遺宝展図録』は、柄には双峯ラクダと、双峯ラクダを襲う鷲がレリーフで表現されている。裏側には植物文がある。刃には白と赤の顔料が付着しているが、腐ってなくなってしまった革の鞘に塗られていた顔料であろうという。
時代はコンマゲネ王国の短剣よりも下がるが、アンティオコスⅠが儀式の時に提げていたとしたら、おそらくこのような絢爛豪華なものだっただろう。
鞘本体には鷲が双峯ラクダを襲う場面と後ろを振り返るグリフィンが表現されている。
鞘入りのこの短剣は、サルマタイの首長の儀式用軍装に伴うものであろうという。
こちらも儀式用である。
ロストフ州出土の短剣鞘にはライオンではなくフタコブラクダになっている。フタコブラクダは黒海東岸のロストフよりも東の中央アジア以東にしか生息しないといわれているが、隊商が物資の運搬に連れてきていて、見慣れた動物だった可能性もある。
柄の頂部は横向きのフタコブラクダで、その下にワシが横向きのラクダを上から襲っているシーンが表されている。
鞘中央には足を曲げて坐るラクダを上からワシが襲うシーンが4回繰り返され、一番下は丸まったラクダとなっている。突起部は左上だけが獅子グリフィンで、あとの3つは丸まったラクダである。
実用的なアキナケス型短剣とはどんなものだったのだろう。

短剣鞘 ウランドリク古墳出土 木製 パジリク文化(前4世紀)
ウランドリク型に似たものは南シベリアのオグラフティ古墳とコケリ古墳(匈奴のものとされている)からも発見されている。
このタイプの短剣鞘は、4つの穴に紐を通して右大腿部にしばりつけたものであることは、図像によって明らかである。シベリアエヴェンキ族も鞘の形はちがうが、ナイフを右太腿にしばりつけているという。
実用的な短剣の鞘とはこのようなものだったようだ。
アキナケス型短剣は、本来は太腿にしばりつけて使用したものだった。
それが儀礼的な短剣となってからは、右腰に提げるようになったようだ。
古代ユーラシア美術史学者、田辺勝美はこのタイプの短剣鞘が前5-4世紀にアルタイ地方などの中央アジアにおいて「スキタイ、メディア、ペルシャなどのイラン系民族が用いていたアキナケス型短剣の影響を受けて発明せられ、それが中央アジアのイラン系の遊牧民、サルマタイやパルティアに伝播して、彼等が南ロシアやイラン高原・メソポタミアに進出するに及んで、このような地方にも伝播した」と考えている。さらにこのタイプの短剣鞘は、「パルティア文化圏においては、一般の人が佩用するものではなく、ある特定の地位の人間(王侯貴族)が用いる短剣として定着し、それがササン朝ペルシャへと継承されていったのである。」(「ササン朝帝王の短剣に関する一考察」1985)。たしかに、このタイプの短剣鞘はズボンをはいて絶えず馬に乗り降りする遊牧騎馬民において発明され、それがオリエント方面へ伝播したことは充分考えられるという。

では、アキナケス型短剣ではなく、アキナケス剣とはどんなものだったのか。

聖樹と有翼神・動物文の剣と鞘覆い スキタイ(前7世紀末期) ロシア、クラスノダル地区ケレルメス1号墳出土 金・鉄 鞘覆い:長47.0㎝幅14.1㎝ 剣の柄:長15.5㎝ サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、鉄剣は柄と刃が一体になっており、鐔は蝶あるいは逆ハート形に近い形をしている。このような鐔をもつ剣をギリシアではアキナケスと呼ぶ。アキナケス剣は、いわゆるスキタイの三要素(動物文様、馬具、武器)の一つである武器のなかで、三翼鏃とともに本来スキタイ固有の要素と考えられ、スキタイ時代にはユーラシア草原地帯とその周辺の中国やイラン、ギリシアにも広まったという。
アキナケス剣は、鞘の出っ張りが一つだけで、そこに紐がついている。太腿に巻き付けたのではなく、腰に提げていたらしい。
鞘には前進する鳥グリフィンと弓を引いて前進する鳥グリフィンが交互に4対表されている(下図の矢印は同じ鳥グリフィン)。
パルティア美術圏では、その後もこのようなアキナケス型の装飾短剣を腰に提げることが続いたようで、パルミラの饗宴図にも見られる(中央人物の右腕と右脚の間)。
アキナケス型短剣については、他にもまとめておきたいが、それはいつの日にか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「南ロシア騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 古代オリエント博物館・朝日新聞社)

2012/02/03

ヘラクレスの棍棒が涙の柱に

ヘラクレスは必ず棍棒を持っている。
ネムルート山東のテラスでは、頭部が地震で崩れ落ちても、左手に持った棍棒は残っていた。
西のテラスでは、神々の石像と並んでヘラクレスーアルタグネス-アレスはアンティオコスⅠと右手で握手をし、左手は棍棒を上向きに持っていた。
いつからヘラクレスが棍棒を持って表されていたかはわからないが、数年前に京都ギリシアローマ美術館でギリシア陶器を見た時にもヘラクレスが棍棒を持っていた。

黒絵式レキュトス(香油入れ) ギリシア、アッティカ式 ライオン狩りのヘラクレス 前490-480年 高30.6㎝ アテナーボードウィンの画家の作品 京都ギリシアローマ美術館蔵
同館図録は、ライオンは穴から出てうなり声を上げ、子鹿に一撃。棍棒を肩にしたヘラクレスは一瞬振り返って、アテナを見ます。劇作家アイスキュロスはサテュロス劇『レオン』にヘラクレスのネメアへの冒険物語を上演。この香油壺は画家がアイスキュロスに感動して、劇場の一場面を描いた唯一の作品ですという。
前5世紀にはすでにヘラクレスは棍棒を持っている。
このレキュトスを見た時、イスタンブールで見た涙の柱の起源はヘラクレスの棍棒ではないかと思ったのだった。
イスタンブールの涙の柱は、考古学博物館の中庭にあった。
しかし、最初に見たのはイエレバタン貯水池 Yerebatan Sarniciだった。

『イスタンブールが面白い』は、イェレバタン通りの下に縦141m、横73mの空間が、高さ8m、12列各28本、計336本の大理石柱に支えられて横たわっている。
532年、ユスティニアヌス帝のとき、以前の小さい貯水池を改築する形で完成された。宮殿に水を供給し、外敵に備えるためであった。
立派な石材を使っているように見えるが、多くは遺跡からの部品を流用したリフォームである。
涙の柱と呼ばれる支柱。貯水池建設のため異教の神殿から運ばれたものらしい。オルドゥ通りの南側歩道に同じ紋様の柱がおかれているという。
イエレバタンで最も有名なのは、なんと言っても横や逆さになったメドゥーサの顔が支柱の台座に使われていることだが、メドゥーサの頭部も涙の柱も、キリスト教からみれば異教の神殿にあったものだ。
17年前にイスタンブールに来た時、ガイドのアティラさんは、早く造るために、いらなくなった所の柱でも何でも、運んで来ました。アヤソフィアの円柱も、エフェソスのアルテミス神殿から運んだものですと言っていたのを思い出す。
そしてその後、「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」で棍棒を下ろしたヘラクレス像を見て確信した。涙の円柱の起源はヘラクレスの棍棒だと。

ヘラクレス立像 イラク、ハトラ出土 石灰岩 高88.0㎝ アルサケス朝時代 2~3世紀 東京国立博物館像
同展図録は、頭にディアデマ(冠帯)を巻く。右手に棍棒を提げ、左手には鉢を持ち、また「メネアのライオン」の毛皮をぶら下げている。
この像が出土したイラク北部のハトラは、アルサケス朝パルティア帝国の対ローマ軍事都市、シルクロードの隊商都市として1~3世紀に隆盛をきわめた。ここはメソポタミア的要素のほかに、イラン世界から地中海世界に至る様々な建築・美術が集まり、東西の文化的交渉を物語っているという。
黒絵式レキュトスがライオンを狩る直前のヘラクレス、この立像がライオンをやっつけてその皮を剝ぎ、酒杯を手にするヘラクレスで、物語は完結する。
イエレバタンの涙の柱は、ヘラクレス神殿から持ち出されたものだったのかも。

※参考文献
「コンマゲネ王国ネムルート」(2010年 A Tourism Yayinlari)
「ギリシアローマ美術」(1996年 京都ギリシアローマ美術館)

2008/01/09

玉簾状ガラス製品も魔除け?-藤ノ木古墳の全貌展より

藤ノ木古墳の全貌展では北側被葬者のものとして、ガラス丸玉・ガラス玉・ガラス小玉が出土している。同展図録は展示物の写真が素晴らしいので、眺めているだけでも楽しい。そして驚いたのが、玉簾状ガラス製品の出土状況だった。びっしりと敷き詰められたように並んでいた。 そのガラス玉の間から平絹と緯糸が発見されたという。同展図録によると、ガラス玉約4000点、ガラス小玉8000点以上、ガラス丸玉(大・小)70点からなる簾状の構造物である。ガラス玉は縦65㎝、横20㎝の範囲で、約150個の連珠を横に27条つなぎ、黄色と青緑の列を交互に配置しているのだそうだ。橿原考古学研究所にはその復元品も展示してあった。紺色ガラス玉の並んだ部分を額に回して、背中に着用するものと見られているようだ。同展図録で大谷千恵氏によると、重量(復元品約1.8㎏)と絹糸の強度からすれば着装は無理である。ただし実際の遺骸への着装は、背中側に遺骸を包む繊維の上から紐で縛って着けていたということなので、これも金銅製歩揺冠同様死者の魔除けのためのもののようだ。

朝日放送で2007年11月2日に放送された 「蘇る古代ファッション 正倉院展2007」で、ファッションの話は藤ノ木古墳出土品にまで及び、ポーラ文化研究所蔵のトルクメニスタンの花嫁衣装(現代)との類似点などを同研究所の村田孝子氏が語っていた。今でもトルクメニスタンでは背中飾りを付けるが、それは背中から悪霊に襲われないようにする一種の護符らしい。ジャラジャラ音を鳴らすというのが魔除けのポイントともいう。 歩揺冠は文字通り「歩いたら揺れる」ように作ってあるので、揺れたら音がするだろう。ということは、歩揺のついたものは全て魔除けのためだったのだろうか。

音がするものと言えば、美豆良(みずら)飾りに取り付けられた垂飾りにもある。複数のガラス小玉の連が歩いて揺れるだけで音がするだろうが、その先の銀製剣菱形飾り金具も、揺れるとかなり音がしそうだ。
そして、もう一種類音がしそうなものがある。垂飾りに数個ずつ取り付けられた金銅製空勾玉である。復元品は、金銅製の板を管にして曲げ、両端部は後から鍛造し形を整えた。中に金製の小さな粒(丸)は純銀で代用し、納めてから棒状のガラスをカットし尾端の穴に差し込んでからガラスを溶着したと内堀豪氏は同書で述べている。管を塞ぐためにガラスを使っていることも面白いが、金の粒を入れていたのは、音が出るように作ってあったということだろう。 こんなにも厳重に魔除けやら護符などを身につけられただけでなく、頭部や足元にも置かれて黄泉の国に旅立っていった若者は、大和の出身なのか、渡来系の人物なのかわからないが、かなりの有力者の子息だったのだろうなあ。

※参考文献
「金の輝きガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)

※参考番組
「蘇る古代ファッション 正倉院展2007」(2007年 朝日放送)

2007/01/24

騎馬時の服装は



「中国 美の十字路展」は珍しい俑や画像磚を見ることができたという印象が強い美術展だった。 その後買った『中国文明史5魏晋南北朝』も様々な俑・画像磚が小さな本に随所にちりばめられた本だった。当時の人々の様子を主にその2冊から、馬に乗った人々がどんな服装だったかをみていくことにする。

25 漢彩色騎馬俑-前漢(前2世紀) 咸陽市長陵陪葬墓出土 漢陽陵考古陳列館蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、高祖劉邦の墓・長陵の陪葬墓で発見された。 ・略・ どの馬にも鞍の下に引く韉したぐら(革へんに薦)が朱・青・紫・緑の鮮やかな色で彩画され ・略・ 上衣は腰までの短襦で、胴には黒色の鎧をつけ、足には長靴をはいている。両手は左右対称の位置で何かを握る仕草であり、手綱と武器を手にしていたのであろうという。

2つの像で異なるのは脚の位置である。左は中国最古騎馬像はで示した前漢(前206-後8年)・後漢(後25-220年)の騎馬俑と同じように脚を前の方に伸ばしているが、右の方は脚を真横に出している。違いは何か。
服装は、戦国時代の騎馬俑の胡服と比べると少し漢化が進んだのかなと感じるのは襟のせいかも知れない。
26 外出時の貴族の儀仗図 魏晋時代(220-386年) 甘粛省嘉峪関
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、貴族が馬に乗って外出している。その周りは、鎧甲を身につけ、武器や旗指物を手にした侍従が取り巻いていて、たいへん賑やかである。北方の貴族の間では、かわらず馬に乗ってつきしたがうことが主であったことをあらわしているという。

ということは、漢民族の貴族は馬には乗らなかったということらしい。王は車馬に、貴族は輿に乗っていたようだ。
儀仗隊はかなりゆったりした衣装を身につけている。そして3列目から後方の人物は妙な格好の帽子を被っている。それにしても、皆よく太っているのは実戦部隊ではないからだろうか。
27 騎馬伎楽俑 五胡十六国(316-439年) 西安市北郊出土 陝西省考古研究所蔵
『中国 美の十字路展図録』は、南北朝に突入し北方遊牧民が政権を握るようになると、馬上楽はきわめて隆盛をみたらしく、出土する大量の騎馬楽俑がその事を物語る。馬には鞍や轡など、必要最小限の馬具がとりつけられる。騎者はフードのついた帽子をかぶり、右手を口につけて左手をその前に構える。角笛のような吹奏楽器をもっていたのだろうという。

衣装はよくわからないが、細身の体にぴったりとそったものだったようだ。 上衣にくらべるとズボンは幅広かなあ。
28 外出の図 南北朝(439-589年) 甘粛省嘉峪関
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、荘園の生産と生活のありさまを描いた墓の壁画のなかには、武装した人々が隊列を組んで行進する場面を描いたものがある。このことから、荘園の領主が武装勢力を有していたか、あるいは武装勢力と何らかの関係があり、一定の軍職を任されていたと推測できる。左上の先導する人物はかなり身分の高い先導員とのことだという。

人物はゆったりした衣装を身につけている。26の儀仗隊の描き方と比べるとかなりええ加減にも見えるし、厚手の服なのかなとも思う。やはり先の尖った丸い帽子を被っている。29 人物画像磚 南朝5世紀後半 河南省鄧州市南朝墓出土 中国国家博物館・河南博物院蔵
上図は楽器を演奏する楽隊、下図は故事を主題にしたもの2点漢民族の兵士の服装と一般人の服装がうかがえるものかと思う。
30 伎楽騎馬俑 北魏、太和元年(477) 山西省大同市宋紹祖墓出土 大同市考古研究所蔵
『中国 美の十字路展』は、頭に鶏冠形の装飾をつけた風帽をかぶる。上衣は袖口の締まった服を前あわせにし、袖口や縁には紅色で縁取りする。ズボンも裾が締まっており、乗馬に適した装いであるという。

馬も人物もずんぐりしている。北魏の孝文帝が洛陽に遷都し、漢化政策を進めるのが494年、胡服も禁止された。それまでの北魏の都が平城、現山西省大同。31 馬に乗った文官の俑 東魏、武定8年(550) 茹茹公主墓出土 河北省文物研究所蔵
『
図説中国文明史5魏晋南北朝』は、戦争が頻発したため、文官にも軍馬と体を保護する鎧が配備された。ただ、文官の甲冑は軽装で、馬にも甲冑を着けていないという。
29図下側の人物と同様に袖口が開いている。
32 騎馬俑 北斉、天保4(553)年 山西省太原市賀抜昌墓出土 太原市考古研究所蔵
『
中国 美の十字路展図録』は、太原は北斉の重要拠点晋陽。髪型は鮮卑族など北方遊牧民に特有の弁髪で、額を剃り上げ、長い頭髪は13条に結って、先の部分で一束ねに括っている。ズボンをはいた上に、膝まで届く長い上衣を着る服装も、遊牧民のものであるという。
楽器を吹く姿らしい。 服装の描き方が簡素なのは、同時代の仏像にも繋がるかも知れないが、この人物が馬に乗る時には、鐙だけでなく、台が必要だったかも知れない。
33 騎馬俑 隋、開皇17(597)年 山西省太原市斛律徹墓出土 山西省考古研究所蔵
『
美の十字路展』は、儀仗騎馬兵の姿を表したもので、墓主人の乗る牛車を中心に前後に騎馬行列が並ぶ出行俑の一部をなす。兵は縁の反った帽子をかぶり、上衣には葉形の飾りを付け、左腰には武器を帯びている。よく似た騎馬俑が、30年ほど前の北斉の婁叡墓(570年葬)から出土しているという。
婁叡墓には鐙はどこで、何のために発明されたのか? の20 騎馬回帰図が墓道東壁に描かれている。
このように馬に乗る人々は、漢化政策が進んでも、動きやすい胡服が多いが、 甘粛省嘉峪関の墓壁画の26・28は胡服なのか漢族の服装なのかよくわからない。

※参考文献
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国文明史5魏晋南北朝」 羅宗真著 2005年 創元社