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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2024/10/11

コンスタンティノープルの第1の丘 ビザンティン時代の遺構


イスタンブール第1の丘の上について『建築巡礼17 イスタンブール』は、海神ポセイドンとケロエッサの子ビュザスは太陽神アポロンの助けを借りてビュザスの町ビュザンティオンを作った。この神話を母胎として新しい伝説も生まれた。前658年頃、ギリシャのメガラの人々が航海者ビュザスに率いられ、デルフォイの神託に従ってこの地に都市を建設したが、ビュザスは勇者アンテスを連れていたので、二人に因んで新しい都市はビュザンティオンの名でよばれるようになった。 
現在の研究では、すでに前3千年紀前半から前2千年紀はじめに青銅器文化を担うトラキア人がこの岬に定住し、かなり古くから彼らの都市が成立していたことが知られている。ビュザンティオンという市名もギリシャ語ではなく、元来はトラキア語であったらしい。前記の伝説は、前8世紀以降のギリシャ人による植民都市建設の過程でこのトラキア人の小都市が徐々にギリシャ化されていったという歴史的経緯を反映したものであろう。ビュザンティオンはそもそもの成立において混肴の都市であった。
ギリシャ都市ビュザンティオンのアクロポリスは岬の先端の小高い丘であった。現在そこはトプカプ宮殿が位置しているという。
ギリシア時代は街ではなく、アクロポリスがあったという。きっとポセイドンやアポロンの神殿があったのだろう。

ビザンティン時代の遺構は第1の丘に集中しているので、Google Earth の地図に書き加えてみた。
聖パウロ孤児院とアギオスゲルギオス修道院教会跡 ⓑゴート人の柱 ⓒアギアイレーネ聖堂 ⓓサムソンのホスピス ⓔアギアソフィア聖堂 ⓕ総主教宮殿 ⓖアウグステオン ⓗミリオンの柱 ⓘイエレバタン地下貯水池 ⓙゼウスシッポスの浴場 ⓚヒッポドローム ⓛグレートパレス ⓜラウソス宮殿 ⓝ聖ユーフェミア教会 ⓞアンティオコス宮殿 ⓟコンスタンティヌスの柱 ⓠコンスタンティヌス広場 ⓡテオドシウス二世の地下貯水池
イスタンブール ビザンティン時代の遺構 Google Earth より


現在はギュルハネ公園になっているこの岬の端にはビザンティン帝国期に造られたものが残っている。

聖パウロ孤児院とアギオスゲルギオス修道院教会跡 
説明パネルは、ビザンティン皇帝ユスティニアヌス一世とその妻ソフィアが579年に建設し、長年孤児たちの世話をしていた孤児院の遺跡。現代の「セラピー」という用語の起源と考えられているという。


ⓑゴート人の柱
説明パネルは、これはローマ時代から今日まで無傷で残っている最古の記念碑。高さは18.5m。プロコネシア大理石の単一柱で、柱頭はコリント式で鷲の紋章がある。この名称はその台座に書かれたラテン語の銘文に由来する。一般的にはクラウディウス二世がゴート族に勝利たことを記念するとされているが、331-332年にかけてのコンスタンティヌス一世によるゴート族に対する勝利を記念するものと捉えることもできるという。
これもコンスタンティヌス帝時代のものの可能性も。


ⓒアギアイレーネ(アヤイレーネ)聖堂
『望遠郷』は、トプカプ宮殿の第1庭園をまっすぐ行くと、左手にピザンティン時代の聖イレーネ聖堂、アヤ・イレーネ博物館がある。ここにはビザンティウム時代にすでに聖堂が立っていた。コンスタンティヌス一世がこれを建て直し、ハギア・イレーネ(聖なる平和)に捧げた。聖イレーネ聖堂はこの町の最古の聖堂であり、聖ソフィア大聖堂が建てられるまでは、主教座が置かれていた。その後もこの聖堂は、第2回全教会会議の会場となるなど、重要な役割を果たしていた。現在の建物は、532年のニカの反乱で破壊されたあと、537年にユスティニアヌス一世により再建されたものであるという。
この教会は武器庫として使用されたため、モスクにならずに済んだ。


サムソンのホスピス
『イスタンブール歴史散歩』は、アヤ・エレーネ教会の南側に塀で囲われた一劃がある。窪地をのぞくと、大理石の円柱が立ち並ぶ、放置されたままの遺跡がある。1946年に発見されたこの遺跡は、6世紀のビザンティンの史家プロコピウスが言うところのサムソンのホスピスであることはほぼまちがいないとされている。プロコピウスは、アヤ・ソフィアとアヤ・エレーネ教会の間に、サムソンという篤志家が建てた貧しい重病人のためのホスピスがあり、532年のニカの反乱で二つの教会といっしょに焼失したが、ユスティニアヌス帝によって再建されたと記録している。
窪地に下りてよく見ると、教会とこのホスピスが廊下でつながっていただろうこともわかる。しかるべき発掘と研究が待たれるという。
イスタンブール サムソンのホスピス跡 イスタンブール歴史散歩より


ⓔアギアソフィア聖堂(アヤソフィアジャーミイ)
オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落して、メフメト二世がキリスト教会からモスクにしたが、トルコ共和国になって、アタチュルクが宗教から切り離して博物館としていたので、前回は二階まで見学できたが、近年エルドアン大統領がモスクに戻した。
2023年に訪れたときは地上階のみ見学ができて、後陣の聖母子像は何枚かの白い布で覆われ、一部しか見えなかった。2024年になると、外国人は有料となり、二階だけ見学できることになったが、また変わるかも知れない。

ⓕ総主教宮殿 
『イスタンブールの大聖堂』は、大聖堂の南にはコンスタンティノポリス総主教の宮殿が隣接していて、大聖堂とはいくつかの通路で直接つながっていた。この総主教宮殿の建物は現在までにほとんど失われてしまったが、聖ソフィア大聖堂の二階にある小部屋(西ギャラリーの南突き当たりにあり、現在は非公開)が、大聖堂と総主教宮殿とを結ぶ渡り廊下的な部屋のひとつであったと考えられているという。
スレイマン大帝の跡継ぎセリム二世や孫のムラト三世、そして早世した王子たちの墓廟が並ぶ辺りに総主教宮殿があったものと思われる。


ⓖアウグステオン 
『イスタンブールの大聖堂』は、聖ソフィア大聖堂とブルー・モスクとの間には、現在も大きな広場がある。一部は石畳、一部は花壇や噴水になっている。 このうち、聖ソフィア大聖堂に近い部分は、かつてはアウグステオン、すなわち「皇帝広場」と呼ばれる広場であった。柱列で囲まれた壮麗な広場で、儀式などに用いられたという。
ひょっとするとこれも広場の続きで、アウグステオンの遺構の発掘現場なのかも。


ⓗミリオンの柱 
『イスタンブールの大聖堂』は、市電の走る道沿いに出ると石の柱が立っている。これは、ミリオンの跡である。ミリオンとは、街道の出発点に設けられた、一里塚の原点のようなものであったという。

かつてはドームの屋根をもち、彫刻で飾られた建物であったらしいが、いまはそのおもかげはまったくないという。
このオレンジ色のシートで養生されているのがドームをいただく建物の一部だったとは。


ⓘイエレバタン地下貯水池 
『イスタンブールの大聖堂』は、かつてバシリキと呼ばれ、現在はトルコ語でイェレバタン・サライ(「地下宮殿」の意)と呼ばれている、地下の大貯水槽である。コンスタンティノポリスは海に突きだした台地なので、川はない。もちろんローマ都市の常として、市外の水源地から水道橋で水を引いてきていたが、敵の包囲を考えて、備蓄のために市内にいくつかの貯水槽を作って水をためていた。
バシリキは地下に設けられた貯水槽としては最大級のもので、長さ約140m、幅約60m、8mの高さの336本の柱で天井が支えられているという。
イエレバタンはユスティニアヌス帝(在位527-565)がつくった。
柱頭は装飾のないものもアカンサスなどさまざま。ローマ時代の建造物の円柱をあちこちから集めてきて再利用したから。

涙の円柱と呼ばれているもの


そしてメドゥーサの首は逆さにおかれたものと、


横向きのもの。キリスト教時代になると、古代の彫像は貴重な物ではなくなってしまったために、こんなところにリユースされることとなった。



ⓙゼウスシッポスの浴場 
『イスタンブールの大聖堂』は、古代ローマの都市には公衆浴場がなくてはならなかった。ローマの浴場というのは、ただの大きな風呂ではない。サウナやプール、スポーツジムなどが併設された、市民の娯楽の場であった。
アウグステオンの南西、ヒッポドロームの東には、ゼウクシッポスの浴場という大浴場があった。この浴場はセプティミウス・セヴェルス帝が建設し、コンスタンティヌス帝が増築したといわれている。内部には数十を越す古代彫刻が飾られていたといわれ、さながら美術館のようであったというが、これもまた「ニカの乱」で焼失した。再建はされたらしいが、『テオファネスの年代記』の713年の記述を最後に、文献には登場しなくなる。公衆浴場という文化自体が、次第に廃れたことをうかがわせる。現在では跡形もないという。

ⓚヒッポドローム、現在はアトメイダヌ広場と呼ばれている


ⓛグレートパレス 


ⓜラウソス宮殿 ⓝ聖ユーフェミア教会 ⓞアンティオコス宮殿 


ⓟコンスタンティヌスの柱
現在はチェンベルリタシュの柱 Çemberlitaş Sütunuと呼ばれている。
330年頃にコンスタンティヌス帝が建てた記念碑。


ⓠコンスタンティヌス広場 
『イスタンブールの大聖堂』は、道路は昔とほぼ同じところを走っている。ここから西に向かう、市電の通る現在のディヴァン・ヨル通りが、かつてメセと呼ばれた大通りと重なる。メセの途中には、コンスタンティヌスのフォールム(広場)などの広場や、聖堂、店などが並んで、非常な活況を呈していた。昔も各国の人々が行き交う、国際色豊かな大通りであっただろう。メセは街を貫いて、市の西をぐるりと取り囲む城壁にいたる。城門を出た街道は、エグナティア街道と呼ばれ、帝国第三の都市、北ギリシアのテサロニキを経て、デュラキオン(現在のアルバニアのデュレス)に延び、さらにアドリア海を渡ってイタリア半島に着き、ふたたび陸路となってローマ市に到達したのであるという。
ビザンティン帝国初期にコンスタンティヌス広場があった。
日の当たっているところは17世紀のハヌ(隊商宿)


ⓡテオドシウス二世の地下貯水池
円柱にはプロジェクションマッピングの一部が映っている。




関連記事

参考文献
「イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国」 浅野和生 2003年 中央公論新社
『建築巡礼17 イスタンブール』 監修香山壽夫 1990年 丸善株式会社

2024/10/04

イスタンブールの七つの丘


ローマにいる時に七つの丘を意識して眺めたことはない。イスタンブールでは海を隔てて
旧市街を眺めることができるが、ぽこぽこと「丘」があるようには感じなかった。ただ旧市街は小さな半島のように突き出ていて、トラムT1線から道路の交差点を眺めると、下り坂となっていてマルマラ海が見えることがあるので、坂の上にいる程度には感じていた。

『トルコ・イスラム建築』は、イスタンブル市壁内には七つの丘がある。テオドシウスの市壁を建設した後に、ローマ市内にある七つの丘に対抗して、「コンスタンティノープルの七つの丘」として数え上げられた丘であるという。
ということは、コンスタンティヌス帝がこの地に、いや半島の端に都を置いた頃は、もっと小さな街だったので、七つの丘は意識していなかったのだろう。

第1の丘から第6の丘までの六つの丘は、金角湾にほぼ平行に沿って、トプカプ宮殿が建っている丘からエディルネ門まで細長い山脈状に連なっている。
この丘の連なりの北側すなわち金角湾側は、大きく五つの谷が食い込んでいるので、六つの丘の広がりが舌状に出ている。第3の丘と第4の丘の間が最も低い鞍部になっていて、金角湾側の波止場ウンカパヌとマルマラ海側の波止場イェニカプを結ぶ通りの峠になっている。そこにヴァレンスの水道橋が架けられている。
南側には、市壁の西側からバイラムパシャとアクサライを経てイェニカプに達する幅広い谷間が広がり、昔は川が流れていた。この谷の南西側には台地が広がり、そこが第7の丘であるという。

同書にはこのような図(白黒に着色)があったが、①・②・⑮以外はオスマン帝国時代の史跡である。

七つの丘
トプカプ宮殿 ②アヤソフィア ③イブラヒムパシャ邸 ④スルタンアフメットジャーミイ ⑤カドゥルガ、ソコルルメフメトパシャジャーミイ ⑥カパルチャルシュ(グランドバザール) ⑦ベヤズィットジャーミイ ⑧エスキサラユ(古宮殿) ⑨スレイマニエキュリエ(モスクと複合施設) ⑩シェフザーデジャーミイ ⑪ヴァレンス水道橋 ⑫ファーティヒキュッリエ(アギイ・アポストリ聖堂跡) ⑬ヤウズスルタンセリムジャーミイ ⑭エディルネカプ、ミフリマースルタンジャーミイ ⑮テオドシウス市壁 ⑯カラアフメットパシャジャーミイ ⑰ハセキヒュレムスルタンキュッリエ ⑱リュステムパシャジャーミイ ⑲ムスルチャルシュ(エジプシャンバザール、スパイスバザール) ⑳アザブカプ、ソコルルメフメトパシャジャーミイ ㉑ガラタ塔 

⑦ベヤジットジャーミイ・⑩シェフザーデジャーミイ・⑫ファーティフキュリエがそれぞれの丘の上に建てられている。スレイマン大帝の早世した息子メフメトを忍んで建てたシェフザーデジャーミイは、その立地条件の良さから、実はスレイマン大帝のためのモスク建設用地だったのではないかと推測されているくらいだ。

この図を見ると、昔は川が流れていた谷を隔てて第7の丘の突端に⑰ハセキヒュレムスルタンジャーミイと複合施設が建てられたようだが、今日ではその川もなく、平坦で、トラムT1線からはさほど離れていない。なんといってもハセキという電停があるくらいの近さである。
「オスマン帝国外伝」というドラマでは、ヒュッレムがスレイマン大帝にモスクを建てたいと申し出て、ミマールスィナンに要請する場面があった。建設現場の場面はなかったが、イスタンブールにどんどんと人が移住してきて、その人々が礼拝するモスクが必要になった時代だったのだ。
七つの丘と主要建造物 トルコ・イスラム建築より


第1の丘を新市街のガラタポートから眺めると、左より①ディワンの角塔が目印のトプカプ宮殿、②4本のミナレットあるアヤソフィア、③6本のミナレットのあるスルタンアフメットジャーミイと、少しずつ高さが減少している。

ガラタポートから眺めると、橋や港の建物があって良くは撮せなかったが、第3の丘の斜面にある⑨スレイマニエジャーミイが墓廟まではっきりと見えていたが、⑩シェフザーデジャーミイは他の建物に隠れて、こんなにはっきりとは見えない。


では、ビザンティン帝国期の建造物はどこにあったのだろう。
『地中海紀行 ビザンティンでいこう!』(以下『ビザンティンでいこう!』)に概略図があるので、七つの丘を入れてみた。以前記事にしたものは、クリックすると出てきます。

七つの丘
アギアイレーネ聖堂 ②アギアソフィア聖堂 ③グレートパレス ④ヒッポドローム(現アトメイダヌ広場) ⑤ブーコレオン宮殿 ⑥アギオスセルギオスケバッコス聖堂(現キュチュクアヤソフィアジャーミイ) ⑦イエレバタン地下貯水池 ⑧テオドシウス二世の地下貯水池 ⑨コンスタンティヌス広場 ⑩テオドシウス広場 ⑪ミレレオン修道院(現ボドルムジャーミイ Bodrum Camii) ⑫ボヴィス広場 ⑬アルカディウス広場 ⑭コンスタンティヌ・リプス修道院 ⑮テオトコスキリオティッサ教会(現カレンデルハネジャーミイ) ⑯パントクラトール修道院(現モーラゼイレクジャーミィ) ⑰アギイ・アポストリ聖堂(現ファティフジャーミイ) ⑱テオトコス・パンマカリストス修道院(現フェティエジャーミイ) ⑲コーラ修道院(現カーリエジャーミイ) ⑳テクフル宮殿 ㉑ブラケルナエ宮殿 ㉒黄金門(イエディクレ Yedekule)
コンスタンティノープル概略図 地中海紀行 ビザンティンでいこう! より


第1の丘

『ビザンティンでいこう!』は、コンスタンティヌス大帝がやったもうひとつの改革が、遷都である。様々な思惑があって、歴史のある古都 ローマでは不便と考えた皇帝は、ヨーロッパとアジアの境に位置し、三辺のうち二辺が海に臨むビザンティオンの地に、新しいローマ帝国の都を定めるのである。ボスフォラス海峡を遡れば、船で黒海にまで出ることだって可能だ。これが334年のこと。皇帝は大急ぎで首都に必要な建物を造らせ、6年後の330年には、街を聖母に捧げる「献都式」を盛大に執り行う。ローマ人の考え方では、街を守護するのは運命の女神テュケであった。このテュケの役割を、聖母マリアに担わせてしまったことになるという。
コンスタンティヌス帝の後もこの辺りに様々な建物が造られた。それについては次回。


第2の丘

⑨コンスタンティヌス広場
広場とは思わなかったが、少し広くなっていた。コンスタンティヌスの柱という巨大な台座にたつ円柱が鉄の輪っかで縛られている。
『望遠郷』は、ディワン大通りの北はずれにチェンベルリタシ(輪のある柱)がある。この柱は1779年に火災にあい、焦げた柱とも呼ばれる。
コンスタンティヌス1世はコンスタンティノープル開都の330年5月11日にこの柱の除幕式を行った。当初この柱の下には斑岩の台座が、さらにその下には5段の柱脚が置かれており、この柱は合計7つの斑岩の柱身から成る柱であった。
この柱は416年に破損し鉄の輪で補強され、近年鋼鉄の輪に替えられた。頂上にはコンスタンティヌスの像をつけた柱頭が据えられ、その後巨大な十字架が取りつけられたが、それも失われた。現在この柱には6つの柱身が残されるのみであるという。


第3の丘

⑩テオドシウス広場
『イスタンブールの大聖堂』は、道路は昔とほぼ同じところを走っている。ここから西に向かう、市電の通る現在のディヴァン・ヨル通りが、かつてメセと呼ばれた大通りと重なる。メセの途中には、コンスタンティヌスのフォールム(広場)などの広場や、聖堂、店などが並んで、非常な活況を呈していた。昔も各国の人々が行き交う、国際色豊かな大通りであっただろう。メセは街を貫いて、市の西をぐるりと取り囲む城壁にいたるというが、どの城門に続いているかがわからない。
テオドシウス帝が造ったのでこの広場は、現在ではベヤズィト広場辺りではないかと思われる。そしてトラムT1線沿いに行くと、トルコ語でトプカプ(大砲)門と呼ばれ、ビザンティン帝国期にはロマヌス門と呼ばれた門に行き着くが、上図ではバレンスの水道橋に近い通り Macar Kardeşler Cd. はエディルネ門(ビザンティン帝国期にはカリシウス門)に向かっている。
この2本の通りが分岐するのが現在のベヤズィト広場の近くなので、ここがテオドシウス広場だろうと推測している。
イスタンブール大学周辺 Google Earth より


しかし、丘の上に建っていない修道院聖堂もある。ビザンティン帝国時代は、丘の上に聖堂を建てることに執着がなかったのだろう。

⑪ミレレオン Myrelaion 修道院
『世界美術大全集6 ビザンティン』は、中期ビザンティン建築で最も特徴的なのは方形ギリシア十字式プランである。その流布と変遷のなかで三つのタイプが見られる。第1のタイプはいわゆる典型的な方形ギリシア十字式の聖堂で、円蓋を4本の円柱が支え、平面図で見ると、正方形の中にギリシア十字を描いたプランで、それに内陣部が付加されている。
この中期ビザンティン聖堂建築における方形ギリシア十字式の典型的な例は首都コンスタンティノポリスに多く見られ、コンスタンティノス・リプス修道院北聖堂、ミレレオン修道院聖堂などがこのタイプに属するという。
アギアソフィア聖堂(アヤソフィア)のような巨大ドームの聖堂が建てられることはなく、オスマン帝国期になってから、巨大ドームのモスクが建てられたとは。
イスタンブール ミレレオン修道院外観 地中海紀行 ビザンティンでいこう!より

同書は、十字形に張り出す四つの腕の部分は筒形ヴォールトの天井を構成している。そして身廊の東側のヴォールト天井は内陣部の中央アプシスに通じる天井と連結する。内陣部は三つのアプシスからなり、東南小室はディアコニコンと呼ばれる典礼準備室で、東北隅はプロテシスと呼ばれる典礼用具室である。内陣部は他の空間と区別され、その仕切りとしてテンプロン(内陣障柵)が設けられる。それは中央通路の両側に小円柱を置き、それが横桁の楣石(エピスティリオン)を支え、下方に腰板を備えたものであるという。

平面図 『世界美術大全集6 ビザンティン美術』より
①聖堂入口 ②玄関廊(ナルテクス) ③身廊 ④後陣(アプシス) ⑤プロテシス(典礼用具室) ⑥ディアコニコン(典礼準備室)
イスタンブール ミレレオン修道院平面図 世界美術大全集6 ビザンティン美術 より


⑭コンスタンティヌ・リプス修道院
トラムT1線とファティフキュリエのある通りの間の通り(場所によって通り名が変わる)に面した修道院
『ビザンティンでいこう!』は、10世紀の政府高官コンスタンティノス・リプスの創建になると言われる修道院は、現在フェナリ・イサ・ジヤミイと呼ばれて、イスタンブールの大通りのひとつに面して建つ。パントクラトール修道院の重厚なドームに比して、こちらのドームはすらりと高く、華麗である。残ったわずかな壁面装飾は現在、考古学美術館に展示されているが、今でも内部に入れば、10世紀の大理石の浮彫りを見ることができるという。
一昔前にイスタンブール考古学博物館を訪れたときは、ビザンティン美術のコーナーには多数展示されていが、写真撮影が禁止だった。、今回こそと思って考古学博物館に出直すと、なんと修復中なのだった。
イスタンブールコンスタンティンリプス修道院外観 地中海紀行 ビザンティンでいこう!より

テオトコスキリオティッサ教会(現カレンデルハネジャーミイ) 
聖堂の南面
詳しくはジャーミイのページへ


⑯パントクラトール修道院(現モーラゼイレクジャーミィ
詳しくはジャーミイのページへ
『ビザンティンでいこう!』は、12世紀に建立されたもので、それぞれ大天使ミカエル、キリスト、聖母に捧げられた三つの礼拝堂からなる。内部には皇族の墓が造られた時期があった。キリストの遺体を横たえた板、という聖遺物も安置されていたが、無論、今では失われている。
ここからはステンドグラスの断片が発掘されて、西欧でおなじみの技法の起源に関して議論をよんだという。
なんと12世紀のステンドグラスが出土していたとは。このステンドグラスは、 The Byzantine LegacyPantokrator Monasteryのず-っと下の方に画像があります。

⑰アギイ・アポストリ聖堂
現在ファティフジャーミイの建つ広大な区域にはアギイ・アポストリ(聖使徒)聖堂があったが、コンスタンティノープルを陥落したメフメト二世が建物を壊して整地し、征服者という意味のファティフを冠したモスク複合施設を建造したために、何も残っていない。


⑱テオトコス・パンマカリストス修道院(現フェティエジャーミイ)
『イスタンブール歴史散歩』は、聖使徒教会の後、 1568年までギリシア正教会の総主教座だった テオトコス・パムマカリストス教会である。教会の建設は12世紀。ビザンティン美術の宝庫と言われている。この教会は 総主教座になって数年後、ムラト三世によってモスクに変えられた。その後、ムラト三世はグルジアとアゼルバイジャンの征服を記念して、これを フェティエ、すなわち勝利のモスクと名づけたという。
修復中で見学できなかった。


⑲コーラ修道院(カーリエジャーミイ)
同書は、カーリエ・モスク(Kariye Camii)も見落とすわけにゆかない。ビザンティン時代にはコーラ修道院と呼ばれたこのモスクは、いまは美術館として公開され、モザイクとフレスコ画はアメリカ・ビ ザンティン研究所の手で保存されている。アヤ・ ソフィアと並んで、この都市で最も重要なビザン ティン教会である。
コーラ(Chora)とはギリシア語で田舎を意味する。この教会が当初は城壁の外にあったためにこの名があるといわれるが、異説もあり、定かではない。
トルコ征服後もこの教会はしばらくは教会として使われていたが、16世紀初め、バヤジット二世の治世にモスクに変えられた。その後、何世紀にもわたって、モザイクやフレスコ画は漆喰や埃に蔽われ、また地震で剥げ落ちたりもしたが、いまはできる限りの修復が行われ、慎重に保存されている。カーリエ美術館のモザイクとフレスコ画 は、一日眺めていても飽きることはないというほどの聖堂だが、再び修復が行われていた。
実はビザンティン美術など全く分からなかった30年近く前に見学しているのだが、写真に残っていない。写したと思っていたが、撮影不可だったのだろうか?
イスタンブール コーラ修道院外観 ビザンティン美術への旅より


平面図
①外玄関廊(ナルテクス) ②内玄関廊 ③本堂の身廊 ④後陣(アプシス) ⑤北ドーム ⑥回廊 ⑦南ドーム ⑧葬礼用礼拝室 ⑨葬礼用礼拝室の後陣
『建築巡礼紀行17 イスタンブール』は、この教会が最初に建てられたのは4世紀、コンスタンティヌス一世の時代で、テオドシウス 二世(在位408-450)の治世に壁の内側に建てられたという。558年、大地震によって損壊したが、ユスティニアヌス帝(527-565)によって修復された。8-9世紀の聖画像破壊期には、この教会も被害を受け、その後しばらくは廃墟になっていたようである。現在の建物はアレクシオス一世コムネヌス(1081-1118)の義母のマリア・ドゥカニアによって建てられた。その後は1204年の第4次十字軍の被害もまぬがれ、正教会の僧侶の手で守られてきた。アンドロニコス二世(1282-1328)の治世に、この教会と僧院の修理のために全財産を投げうったのが、当時、財務長官であり哲学者でもあったテオドロス・メトキテスである。彼はこの建物に外ナルテックスとパレクレッション(教会の南側の葬儀用チャペル)を付け加え、それを最高のモザイクとフレスコ画で飾ったという。
11世紀後半-12世紀前半に建てられた「初期」とされている濃く塗られた部分の三方を囲むように、薄く塗られた部分が13世紀後半-14世紀前半に建て増しされた。元はなんと小さな教会だったのだろう。
イスタンブール コーラ修道院平面図 ビザンティン美術への旅より

葬礼用礼拝室(パクリシオン)後陣のフレスコ 復活(アナスタシス)
『ビザンティン美術への旅』は、西欧で「復活」は、墓から立上がるキリストによって表現されるが、正教圏ではハデスの扉を破り、アダムやエヴァを救う「冥府下り」のキリストが「復活」を表象する図像である。 死者の復活を願って、この墓廟用礼拝堂にはアナスタシスの主題が描かれたという。
冥府下りの場面よりも、下段の聖人たちの衣装の文様が印象的だった。
以前のテレビ番組で、染織家の志村ふくみ氏がここを訪れて、聖人あるいは歴代の司教たちの着衣の文様に魅入っていた姿を思い出した。100歳になられてもなお染織を続けられていることをしむらのいろで知った。100歳になっても海外旅行に行くぞと思っている私にとっては励みになります。リハビリ頑張ろうっと。

キリスト教美術を少し齧った今、再訪してゆっくりと眺めてみたいものだ。
イスタンブール コーラ修道院葬礼用礼拝室後陣のフレスコ ビザンティン美術への旅より


⑳テクフル宮殿
同書は、ふたたび城壁沿いに北へ進む。エディルネ門か600mくらい先でテオドシウスの城壁は終わる。
そこから先は後に築かれたマヌエル・ノープル攻防戦に際して、なぜかこの門の守備が薄かったため、トルコ軍のイエニチェリたちはこの門から市内に攻め入ったといわれる。三日月の旗が最初にこの都に翻ったのは、この門の近くの塔であった。
クシロケルコウ門と接して、いまは廃墟と化しているが、ビザンティン時代の重要な建物の残骸が残っている。トルコ語でテクフール・サラユ (Tekfur Sarayı=王宮)と呼ばれるこの宮殿は、13世紀後期から14世紀初期にかけて建造され、ビザンティン末期の2世紀の間、皇帝の宮殿のひとつとして使われた。三階建てで、城壁の外壁と内壁の間に築かれている。すぐ近くにあったという。
現在では修復されているので見学してきたそれについてはこちら

テオドシウスの城壁の外壁と内壁 

こぢんまりした三階建ての宮殿


㉑ブラケルナエ宮殿はどの辺りにあったのだろう。


㉒黄金門
『ビザンティンでいこう!』は、テオドシウスの城壁は観光用に修復再建された部分も少なくない。その部分はいかにも色が新しく、風情がないが、中世の趣をよく残しているのは、三角形の底部西隅、黄金門のあたりである。
ビザンティン皇帝が外国で戦争をして街に凱旋してくるのが、この黄金門からであった。かつてコンスタンティノープル市民が、この一帯に立錐の余地のないほど集まって、凱旋する皇帝を歓呼で迎えたことなど、今日では想像し難いほど人気のない場所である。門のいちばん外側にお堀、内側に三重に、だんだんと土台が高くなる壁。壁の要所要所には、方形や八角形の塔が造られ、兵士が警護にあたったという。
イエディクレ平面図 イスタンブール歴史散歩より

『イスタンブール歴史散歩』は、城壁に組み込まれた4本の塔の中央に、アーチ型の門がある。これが有名なローマ時代の凱旋門黄金の門である。390年頃テオドシウスⅠ世がこの門を建てたときは、城壁はなく、門だけであった。門はその名のとおり黄金の板で蔽われ、ファサードは彫刻で装飾されていた。20年後、テオドシウスⅡ世が城壁を拡張するとき、黄金の門は城壁に組み入れられたのであるという。





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ギュルハネ公園

参考サイト

参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「世界美術大全集6 ビザンティン」 責任編集高橋滎一  1997年 小学館
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「建築巡礼紀行17 イスタンブール」 監修香山壽夫 1990年 丸善株式会社
「ビザンティン美術への旅」 写真赤松章 文益田朋幸 1995年 平凡社
「地中海機構紀行 ビザンティンでいこう!」 益田朋幸 2004年 山川出版社

2024/09/13

ミマールスィナンとアヤソフィア


ミマールスィナンはアヤソフィアジャーミイ(ビザンティン時代にはアギアソフィアと呼ばれていた)の修復と共に、ミナレットやスルタンの墓廟も境内の中に築いたという。

『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』(以下『Architect Sinan』)は、1453年、メフメト征服王がイスタンブールを征服したとき、アヤソフィアが街と同様に壊滅状態にあることを発見した。征服の3日目に当たる金曜日、メフメトは兵士たちとともにアヤソフィアで金曜礼拝を行い、キリスト教の主要な聖堂をイスラム教のモスクにした。その時期、メフメトはアヤソフィアの半円形のドームの上に木製のミナレットを建てさせた。メフメトはアヤソフィアを非常に崇敬し、彼の後のスルタンたちも彼と同様にこの建物に敬意を払ったという。
半円形のドームは二つあるがどちらだろう。


また同書は、1566年にセリム二世が即位した。その時期、アヤソフィアは家々に囲まれており、家々のいくつかは建物の壁に寄りかかっていた。
また、同じ時期に、建物の本体にわずかなずれが見られていた。
セリム二世は、ミマールスィナンとともに、現場の問題を観察した。スルタンは、これらの問題を解決するとともに、ディヴァン会議でアヤソフィアを周囲の家々から救う決定を下す任務を建築家に与えた。まず支柱に寄りかかっている家屋を所有者に代金を支払って取り壊し、その後周囲の家屋もすべて取り壊して周辺を清掃することになっていたという。
セリム二世の父スレイマン大帝時代にマトラークチュユスフが描いたイスタンブールの絵図にトプカプ宮殿とアトメイダヌ広場に挟まれたアヤソフィア聖堂が描かれている。その周囲には今はない建物がいろいろと描かれているが、寄りかかるほど近くには建物はない。マトラークチュユスフは、当時の主要な建物だけを描いたのだろう。
この絵には2本のミナレットが描かれているのは、メフメト二世の時代に建てられた半円形のドームの上に置かれていた木製の塔(15世紀後半)と、❻南東にあるレンガ造りのミナレット(1509年頃)しかないはずだが、半ドームの上にミナレットはのっていない。
マトラークチュユスフ画スレイマン時代のイスタンブール絵図部分 アヤソフィア近辺 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より 


モスクに改築されたアヤソフィアには、異なる時期に四つのミナレットが追加されたという。
➊主ドーム ➋ミフラーブ ➌北東のミナレット(セリム二世) ➍北西のミナレット(ムラト三世) ➎南西のミナレット(ムラト三世) ❻南東のミナレット(レンガ造り) ➐セリム二世廟 ➑ムラト三世廟
イスタンブール アヤソフィアジャーミイ平面図 MUSEO DI SANTA SOFIA より


付近を歩いていても4本のミナレット全てが見える所は少ない。
左より➍北西のミナレット、❻南東のミナレット ➌北東のミナレット

MUSEO DI SANTA SOFIA』に4本のミナレットが見える写真があった。
イスタンブール 南方より眺めたアヤソフィアと4本のミナレット MUSEO DI SANTA SOFIA より


ミナレットが建てられた年代順に、

後陣側の❻南東のミナレット
同書は、メフメトの息子バヤズィト二世はトプカプ宮殿側のアヤソフィアの角にミナレットの建設を命じた。 1509年にそのミナレットが取り壊されると、現在南東の角に見られるレンガ造りのミナレットが建てられたという。
1509年というとまだバヤズィト二世(1481-1512)の時代、そしてこのレンガ造りのミナレットを建てたのは、ミマールスィナンよりも前の建築家である。

その基壇には三角形を立体的に配置した「トルコ襞」と呼ばれるものがある。
『トルコ・イスラム建築紀行』は、トルコ三角形の手法を高度に発展させたものである。衣装の襞に似ているので、トルコ襞とも呼ばれる。平面の三角形に替わり、立体的なプリズム状の三角形を複雑に組み合わせ、装飾性を高めた手法である。
初期の例は、オスマン朝の最初の建物イズニキ・ハジュオズベキジャーミシで見られ、以後のオスマン朝の建築で使用された。ブルサ・イェシルジャーミの時代に最高度に発達した。15世紀後半からは、ドームの架構法としてはペンデンティブの手法が主流になったので、この手法は廃れたという。
ブルサのイェシルジャーミイは後に行ったので、後日旅編にて。
16世紀初頭にトルコ襞というドームを架構するための古い技法が、ドームではなくミナレットの基部に使われたとは。

ただし『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、アヤソフィアがモスクに改築されてすぐに、征服王メフメト二世は半ドームの一つの上に木製のミナレットを建てた。南西側のレンガ造りのミナレットの建築様式を詳しく見ると、基部から胴体に向かう移行部に大きな菱形のモチーフが存在することから、メフメトの時代のものであることは明らかであるという。
このトルコ襞が1453年にコンスタンティノープルを陥落したメフメト二世時代のものならば納得できるが、半ドームの上に造られたものでもなく、木製のミナレットでもない。


後陣側に建てられた➌北東のミナレット(セリム二世)
Architect Sinanは、1573年6月21日、セリム二世は、メフメト二世の時代に建てられた半円形のドームの上に置かれていた木製の塔を撤去するよう勅令を出した。
スィナンは木製のミナレットを撤去したという。
この時まで、つまり父スレイマン大帝の長い統治期もずっと、アヤソフィアの半ドームの上には木造のミナレットがあったのだった。


同書は、アヤソフィアを高く評価していたセリム二世は、建物に2本の新しいミナレットと墓を増築することを望んだ。その作業はスィナンによって開始されたが、スルタンは自分の願いが叶うのを見ずに没した(1574)。
バブ・イ・ヒュマユン(皇帝の門)側のリブ付きミナレットは、セリム二世の時代にミナレットの半円形のドームがあった基壇の前にミマールスィナンによって建てられたという。
頂部にタイルパネルはないが、何かが嵌め込まれていた痕跡がある。アザーン(トルコではエザーン)を朗唱するムアッズィンが登ったバルコニーにはムカルナスの装飾がある。
また、基部には鋭角の三角形を用いて円筒形へと収縮させている。これもトルコ三角形と言えるのかな。ミマールスィナンがこういうものを用いていたとは。
アヤソフィアジャーミイ セリム二世のミナレット Architect Sinan His Life, Works and Patrons より

残念ながら修復中だった。今はもう完成しているだろうか。


Architect Sinan』は、その後、ミマールスィナンは建物の修復と強化に関連する問題にとりかかった。まず、重い建物が動かないように、マルマラ海まで50mごとに地中に強固な壁を建てた。
その後、ビザンティン時代に建設された建物を支えるために、基板を増築して建物を強化した。ミマールスィナンが使用したこれらの対策のおかげで、建物が今日までしっかりと残っている。
建物は強固な基壇で支えられ、勅令で命じられた通り、鉛材料で必要な部分を覆うとともに、内外装の修復が行われた。
セリム二世の時代に開始されたアヤソフィアの修復、維持、拡張作業は、彼の後に即位した息子のムラト三世(1574-95)の時代にも継続されたという。
ミマールスィナンは100歳近くまで長生きし、1588年に亡くなっている。

MUSEO DI SANTA SOFIA』は、南西と北西を向いた一対のミナレットも、ムラト三世の治世下に建築家ミマールシナンによって建てられた。高さ 60mのミナレットは、太いリブとずんぐりした胴体を持つ。 15世紀、16世紀、19世紀に行われたミナレットの修復中に、それぞれの時代に特有のさまざまな装飾が追加されたという。
細かな修復での改変はわからないが、アザーンのバルコニーにムカルナスがない。またミマールスィナンは、基壇にはセリム二世のミナレットと同様に細長いトルコ三角形を用いている。
アヤソフィアジャーミイ ムラト三世の2本のミナレット Architect Sinan His Life, Works and Patrons より

➎南西のミナレット
スレイマニエジャーミイのミナレットと同様にトルコブルーのタイルが貼り付けられている。

ミナレットの基部については、これまで注意して見てこなかったことに気がついた。次回イスタンブールで訪れたミマールスィナンのミナレットがとんなだったかまとめよう。


話は変わってセリム二世とムラト三世の墓廟。もちろんどちらもミマールスィナンが建てた。
残念ながら修復中で内部はおろか、外側も木々に阻まれて、なんとか右の➐セリム二世廟と左の➑ムラト三世廟が見えた。


セリム二世廟
MUSEO DI SANTA SOFIA』は、セリム二世は、ミマールスィナンにアヤソフィアの近くに自分の墓を建てるよう命じたが、1574年に亡くなった時点では未完成で、3年後(1577)に完成したという。
この間、セリム二世はエディルネにセリミエジャーミイを建設させている(1566-74)が、何故セリム二世はイスタンブールではなく、遠く離れたオスマン帝国の古都エディルネにモスクと複合施設を建てようと考えたのか、そしてそこに自らの墓廟を併設せずにアヤソフィアの境内に造らせたのか不思議だったが、『Architect Sinan』は、トプカプ宮殿に入ったセリム二世は、いかなる戦争にも参加することなく、8年間の治世を享楽と贅沢の中で過ごした。国務のすべてを大宰相ソコルル・メフメト・パシャに委譲したスルタンは、1567年6月23日にエディルネ宮殿に行き、イスケンデル・パシャをイスタンブールの衛兵に任命し、そこで狩猟や娯楽の宴会を続けた。その期間中、国家が必要な秩序と技能をもって統治できたのは、主にスレイマン大帝時代の賢明な政治家たちがまだ在職していたという事実によるところが大きい。
スルタン・セリムは1574年12月7日に死去した。スルタンの死は2日間秘密にされ、当時マニサの知事であった息子のムラトにそのことが知らされた。その後イスタンブールにやって来たムラト三世は、同日の朝に行われた即位式の後に父の葬儀を執り行い、スルタンの遺体はアヤソフィアの庭に埋葬された。ミマールスィナンは後にアヤソフィアのスルタンの墓の上に墓を建てたという。
セリミエジャーミイについてはこちら

同書は、八角形の建物の外観は全面大理石で覆われている。角のうち四つを広く、残りの四つを鋭角に保つことで、建物は非常に独特であるという。
イスタンブール アヤソフィアのセリム二世廟 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より

同書は、ファサードに大きな庇を設けた柱廊玄関によって堂々とした外観となったという。
柱廊玄関の奥行きでいうとスレイマン大帝廟よりも深いのでは。
イスタンブール アヤソフィアのセリム二世廟ファサード THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より

玄関ポーチのタイル
同書は、入口両脇に白地に紫、赤、緑、青の花の装飾が施されたタイルパネルが2枚配置された。ただし、左側は修復のためフランスに輸送されたが、オリジナルの作品は現在、ルーヴル美術館で保管されていて、ここにはそのコピーが展示されいている。
コーランの一節は、コーニスの前面の上の大理石の板に金で刻まれたという。
あれ、柱頭が左右で異なっている。右はムカルナスで左はロータス形。誰に、あるいはどの本でこの形をロータスと思うようになったのだろう。THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』ではダイヤモンドとされていた。
イスタンブール アヤソフィアのセリム二世廟ファサードの装飾 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より 


平面図 『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』より
左:平面の外枠は八角形というよりも面取りした正方形だが、ドームを支える8本の円柱は等間隔に配置され、上部にペンデンティブをのせるための正八角形をつくっている。
右:ペンデンティブの下からの平面図。外からは狭い四隅に半円よりも深い奥行きを造っている。
イスタンブール アヤソフィアのセリム二世廟平面図 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より 

内部
同書は、中には42基の石棺がある。ファサードに面して、セリム二世、その隣には1585年に亡くなったヌルバヌ、ムラト三世の母親。他には、ソコルルメフメトパシャの妻であり、後にカライルコズアリパシャの妻となったエスマハンが葬られているという。
この時はまだイズニクタイルの最盛期なので、ふんだんに使っている。
スレイマン大帝廟は外観も内部も正八角形で、その角々に円柱を立てているが、ここでは床は正方形で、円柱で八角形をつくっている。
イスタンブール アヤソフィアのセリム二世廟 MUSEO DI SANTA SOFIA より 


残念ながらムラト三世廟は図版も説明文もない。
修復中で見られなかったジャーミイ(ビザンティン時代の聖堂をモスクにしたものも含む)がいろいろとあるので、修復が終わったいつの日にか一緒に見学したい。


現地ガイドのギュンドアンさんは、「スィナンはアヤソフィアのドームの補強にバットレスを使いました。その技術がこのセリミエジャーミイにも用いられています」と、エディルネのセリミエジャーミイのドームを見上げながら教えてくれたのだが、書物にはそのことを書いたものがない。
ギュンドアン氏が指摘したのは、ドーム下の窓の間にある分厚い控え壁(バットレス)のこと。

自分の消えかかった記憶では、ミマールスィナンはアヤソフィアのドームか何かの修復に携わり、その時に「いつかこのアヤソフィアを超えるドームを造ってみたい」と思うようになったと思っていたが、それがどの本に書いてあったかもわからない。




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参考文献
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication 
MUSEO DI SANTA SOFIA」Anatolian Cultural Entrepreneurship
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社