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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2024/10/11

コンスタンティノープルの第1の丘 ビザンティン時代の遺構


イスタンブール第1の丘の上について『建築巡礼17 イスタンブール』は、海神ポセイドンとケロエッサの子ビュザスは太陽神アポロンの助けを借りてビュザスの町ビュザンティオンを作った。この神話を母胎として新しい伝説も生まれた。前658年頃、ギリシャのメガラの人々が航海者ビュザスに率いられ、デルフォイの神託に従ってこの地に都市を建設したが、ビュザスは勇者アンテスを連れていたので、二人に因んで新しい都市はビュザンティオンの名でよばれるようになった。 
現在の研究では、すでに前3千年紀前半から前2千年紀はじめに青銅器文化を担うトラキア人がこの岬に定住し、かなり古くから彼らの都市が成立していたことが知られている。ビュザンティオンという市名もギリシャ語ではなく、元来はトラキア語であったらしい。前記の伝説は、前8世紀以降のギリシャ人による植民都市建設の過程でこのトラキア人の小都市が徐々にギリシャ化されていったという歴史的経緯を反映したものであろう。ビュザンティオンはそもそもの成立において混肴の都市であった。
ギリシャ都市ビュザンティオンのアクロポリスは岬の先端の小高い丘であった。現在そこはトプカプ宮殿が位置しているという。
ギリシア時代は街ではなく、アクロポリスがあったという。きっとポセイドンやアポロンの神殿があったのだろう。

ビザンティン時代の遺構は第1の丘に集中しているので、Google Earth の地図に書き加えてみた。
聖パウロ孤児院とアギオスゲルギオス修道院教会跡 ⓑゴート人の柱 ⓒアギアイレーネ聖堂 ⓓサムソンのホスピス ⓔアギアソフィア聖堂 ⓕ総主教宮殿 ⓖアウグステオン ⓗミリオンの柱 ⓘイエレバタン地下貯水池 ⓙゼウスシッポスの浴場 ⓚヒッポドローム ⓛグレートパレス ⓜラウソス宮殿 ⓝ聖ユーフェミア教会 ⓞアンティオコス宮殿 ⓟコンスタンティヌスの柱 ⓠコンスタンティヌス広場 ⓡテオドシウス二世の地下貯水池
イスタンブール ビザンティン時代の遺構 Google Earth より


現在はギュルハネ公園になっているこの岬の端にはビザンティン帝国期に造られたものが残っている。

聖パウロ孤児院とアギオスゲルギオス修道院教会跡 
説明パネルは、ビザンティン皇帝ユスティニアヌス一世とその妻ソフィアが579年に建設し、長年孤児たちの世話をしていた孤児院の遺跡。現代の「セラピー」という用語の起源と考えられているという。


ⓑゴート人の柱
説明パネルは、これはローマ時代から今日まで無傷で残っている最古の記念碑。高さは18.5m。プロコネシア大理石の単一柱で、柱頭はコリント式で鷲の紋章がある。この名称はその台座に書かれたラテン語の銘文に由来する。一般的にはクラウディウス二世がゴート族に勝利たことを記念するとされているが、331-332年にかけてのコンスタンティヌス一世によるゴート族に対する勝利を記念するものと捉えることもできるという。
これもコンスタンティヌス帝時代のものの可能性も。


ⓒアギアイレーネ(アヤイレーネ)聖堂
『望遠郷』は、トプカプ宮殿の第1庭園をまっすぐ行くと、左手にピザンティン時代の聖イレーネ聖堂、アヤ・イレーネ博物館がある。ここにはビザンティウム時代にすでに聖堂が立っていた。コンスタンティヌス一世がこれを建て直し、ハギア・イレーネ(聖なる平和)に捧げた。聖イレーネ聖堂はこの町の最古の聖堂であり、聖ソフィア大聖堂が建てられるまでは、主教座が置かれていた。その後もこの聖堂は、第2回全教会会議の会場となるなど、重要な役割を果たしていた。現在の建物は、532年のニカの反乱で破壊されたあと、537年にユスティニアヌス一世により再建されたものであるという。
この教会は武器庫として使用されたため、モスクにならずに済んだ。


サムソンのホスピス
『イスタンブール歴史散歩』は、アヤ・エレーネ教会の南側に塀で囲われた一劃がある。窪地をのぞくと、大理石の円柱が立ち並ぶ、放置されたままの遺跡がある。1946年に発見されたこの遺跡は、6世紀のビザンティンの史家プロコピウスが言うところのサムソンのホスピスであることはほぼまちがいないとされている。プロコピウスは、アヤ・ソフィアとアヤ・エレーネ教会の間に、サムソンという篤志家が建てた貧しい重病人のためのホスピスがあり、532年のニカの反乱で二つの教会といっしょに焼失したが、ユスティニアヌス帝によって再建されたと記録している。
窪地に下りてよく見ると、教会とこのホスピスが廊下でつながっていただろうこともわかる。しかるべき発掘と研究が待たれるという。
イスタンブール サムソンのホスピス跡 イスタンブール歴史散歩より


ⓔアギアソフィア聖堂(アヤソフィアジャーミイ)
オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落して、メフメト二世がキリスト教会からモスクにしたが、トルコ共和国になって、アタチュルクが宗教から切り離して博物館としていたので、前回は二階まで見学できたが、近年エルドアン大統領がモスクに戻した。
2023年に訪れたときは地上階のみ見学ができて、後陣の聖母子像は何枚かの白い布で覆われ、一部しか見えなかった。2024年になると、外国人は有料となり、二階だけ見学できることになったが、また変わるかも知れない。

ⓕ総主教宮殿 
『イスタンブールの大聖堂』は、大聖堂の南にはコンスタンティノポリス総主教の宮殿が隣接していて、大聖堂とはいくつかの通路で直接つながっていた。この総主教宮殿の建物は現在までにほとんど失われてしまったが、聖ソフィア大聖堂の二階にある小部屋(西ギャラリーの南突き当たりにあり、現在は非公開)が、大聖堂と総主教宮殿とを結ぶ渡り廊下的な部屋のひとつであったと考えられているという。
スレイマン大帝の跡継ぎセリム二世や孫のムラト三世、そして早世した王子たちの墓廟が並ぶ辺りに総主教宮殿があったものと思われる。


ⓖアウグステオン 
『イスタンブールの大聖堂』は、聖ソフィア大聖堂とブルー・モスクとの間には、現在も大きな広場がある。一部は石畳、一部は花壇や噴水になっている。 このうち、聖ソフィア大聖堂に近い部分は、かつてはアウグステオン、すなわち「皇帝広場」と呼ばれる広場であった。柱列で囲まれた壮麗な広場で、儀式などに用いられたという。
ひょっとするとこれも広場の続きで、アウグステオンの遺構の発掘現場なのかも。


ⓗミリオンの柱 
『イスタンブールの大聖堂』は、市電の走る道沿いに出ると石の柱が立っている。これは、ミリオンの跡である。ミリオンとは、街道の出発点に設けられた、一里塚の原点のようなものであったという。

かつてはドームの屋根をもち、彫刻で飾られた建物であったらしいが、いまはそのおもかげはまったくないという。
このオレンジ色のシートで養生されているのがドームをいただく建物の一部だったとは。


ⓘイエレバタン地下貯水池 
『イスタンブールの大聖堂』は、かつてバシリキと呼ばれ、現在はトルコ語でイェレバタン・サライ(「地下宮殿」の意)と呼ばれている、地下の大貯水槽である。コンスタンティノポリスは海に突きだした台地なので、川はない。もちろんローマ都市の常として、市外の水源地から水道橋で水を引いてきていたが、敵の包囲を考えて、備蓄のために市内にいくつかの貯水槽を作って水をためていた。
バシリキは地下に設けられた貯水槽としては最大級のもので、長さ約140m、幅約60m、8mの高さの336本の柱で天井が支えられているという。
イエレバタンはユスティニアヌス帝(在位527-565)がつくった。
柱頭は装飾のないものもアカンサスなどさまざま。ローマ時代の建造物の円柱をあちこちから集めてきて再利用したから。

涙の円柱と呼ばれているもの


そしてメドゥーサの首は逆さにおかれたものと、


横向きのもの。キリスト教時代になると、古代の彫像は貴重な物ではなくなってしまったために、こんなところにリユースされることとなった。



ⓙゼウスシッポスの浴場 
『イスタンブールの大聖堂』は、古代ローマの都市には公衆浴場がなくてはならなかった。ローマの浴場というのは、ただの大きな風呂ではない。サウナやプール、スポーツジムなどが併設された、市民の娯楽の場であった。
アウグステオンの南西、ヒッポドロームの東には、ゼウクシッポスの浴場という大浴場があった。この浴場はセプティミウス・セヴェルス帝が建設し、コンスタンティヌス帝が増築したといわれている。内部には数十を越す古代彫刻が飾られていたといわれ、さながら美術館のようであったというが、これもまた「ニカの乱」で焼失した。再建はされたらしいが、『テオファネスの年代記』の713年の記述を最後に、文献には登場しなくなる。公衆浴場という文化自体が、次第に廃れたことをうかがわせる。現在では跡形もないという。

ⓚヒッポドローム、現在はアトメイダヌ広場と呼ばれている


ⓛグレートパレス 


ⓜラウソス宮殿 ⓝ聖ユーフェミア教会 ⓞアンティオコス宮殿 


ⓟコンスタンティヌスの柱
現在はチェンベルリタシュの柱 Çemberlitaş Sütunuと呼ばれている。
330年頃にコンスタンティヌス帝が建てた記念碑。


ⓠコンスタンティヌス広場 
『イスタンブールの大聖堂』は、道路は昔とほぼ同じところを走っている。ここから西に向かう、市電の通る現在のディヴァン・ヨル通りが、かつてメセと呼ばれた大通りと重なる。メセの途中には、コンスタンティヌスのフォールム(広場)などの広場や、聖堂、店などが並んで、非常な活況を呈していた。昔も各国の人々が行き交う、国際色豊かな大通りであっただろう。メセは街を貫いて、市の西をぐるりと取り囲む城壁にいたる。城門を出た街道は、エグナティア街道と呼ばれ、帝国第三の都市、北ギリシアのテサロニキを経て、デュラキオン(現在のアルバニアのデュレス)に延び、さらにアドリア海を渡ってイタリア半島に着き、ふたたび陸路となってローマ市に到達したのであるという。
ビザンティン帝国初期にコンスタンティヌス広場があった。
日の当たっているところは17世紀のハヌ(隊商宿)


ⓡテオドシウス二世の地下貯水池
円柱にはプロジェクションマッピングの一部が映っている。




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参考文献
「イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国」 浅野和生 2003年 中央公論新社
『建築巡礼17 イスタンブール』 監修香山壽夫 1990年 丸善株式会社