ヤズルカヤギャラリーB・Cの平面図 『Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya 』(以下『The Hittite Rock Sanctuary』)より
ギャラリーBへの入口の浮彫(左側)
⑯No.67・68ライオンの精霊『The Hittite Rock Sanctuary』は、体は人間で、男性像によくあるように、大股開きの脚を持ち、幅広のベルトを締めた短いスカートを履いている。足も人間のようだが、伝統的な先の尖った靴は履いていない。頭部は顎を開けたライオンのようで、掲げられた両腕は人間の手とライオンの足を交差させたような形になっている。この生き物には翼があり、左翼は腰から急角度で立ち上がり、右翼は上腕の下に垂直に垂れ下がっている。像の高さは1.01mという。
この翼はギャラリーAのNo.34 有翼日輪をのせた太陽神の翼のような複数の縦帯によって節に分割されておらず、隣のNo.35 月の神の翼のようだ。
狭い岩間を進んでいくと、
開けたところに四角い石が見える。それがⓐトゥドハリヤ四世像の台座とされているもの。
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| ヤズルカヤ ギャラリーB トゥドハリヤ四世像の台座? Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より |
ⓐかつてあったとされるトゥドハリヤ四世像の台座 ⓑⓐに付属していたとされるトゥドハリヤ四世のカルトゥシュ ⓒC室(現在は石が積んであり立入禁止、用途不明)
ギャラリーBは岩場で終わっている。
No.81 シャルマ神とトゥドハリヤ四世
『ヒッタイトの歴史と文化』は、狭い石室の最も高いところには、おそらくトゥドゥハリヤ四世の等身大の立像がかつて立っていた。また、ここでもレリーフにトゥドゥハリヤ四世が描かれており、個人神シャルマに抱擁されている。
そして通路を挟んだ反対側には、(主室の行列の最後にも描かれている)三日月状の剣をもった12柱の神々が一定の方向へ向かって行進している。ここがトゥドゥハリヤ四世を讃えて、その亡骸を安置した間であったのかもしれないという説は、王の像があるだけでなく、珍しい「短剣の神」の姿があることからも裏づけられるという。
王墓は発見されていないが、ギャラリーBはトゥドハリヤ四世の墓所だったということだろうか。
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| ヤズルカヤ ギャラリーB シャルマ神に守られるトゥドハリヤ四世 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より |
『古代都市Ⅰ ヒッタイトの都ハットゥシャ』(以下『古代都市Ⅰ』)は、シャルマ神は短い衣装をまとい、とんがり帽子には六つの角が見える。右上に有翼日輪と王名を示す象形文字が彫られているという。
角らしきものがやっと写せた。角が多いほど位の高い神だったと思う。
⑲ No.82 巨大な刀剣を表した風変わりな浮彫(説明パネルより)
『ヒッタイトの歴史と文化』は、ヤズルカヤの「短剣の神」は冥界の神の一柱である。 この神が小室にいることは、(その他の手がかりと共に)ここが王の埋葬室として使われたことを示しているという。
『古代都市Ⅰ』は、高さは3.39mに達し、刀の先は地中に突き立てられている。刀の握り部分は左を向いた神の頭部を象り、そのとんがり帽子には幾つもの角が並んでいる。刀身には上半身を背中合わせにした2頭のライオン、その下は逆立ちした2頭のライオンというシンメトリ-なデザインとなっている。この浮彫は一般に刀の神と呼ばれてきたが、冥土の神ネルガルの像と思われる。刀は冥土の神ネルガルのシンボルだったという。
両肩それぞれにライオンの頭部と前肢、その下にはライオンの後片肢があって、もう一方の後肢が胴体に添っている。
ところで、トゥドハリヤ四世王名紋章(カルトゥシュ)はギャラリーAとBに三つあるが、それぞれに異なる。
ギャラリーA No.64
同書は、山の神は掲げた手に棍棒を持っていないという。
有翼日輪に太陽を表す円盤が縦に二つあり、上の太陽の放射光は適当に彫られていて、完成された定形とは言えない。ヒッタイトにとって、新たに加えられた文様だろうか。
翼は三つの縦帯によって節に分割されている。
山を表したようなギザギザのある長衣の外側にもギザギザがあるのは立体的に見える工夫だったのかも。
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| ヤズルカヤ トゥドハリヤ四世のカルトゥシュ図解 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より |
ギャラリーB No.81
同書は、山の神は表意文字に置き換えられているという。
有翼日輪の翼は二つの縦帯によって節に分割されている。日輪そのものは散りかけの花びらのようだ。
中央に表されているのは、私には神の坐像、その両側には神の方を向く脇侍のように見える。もっとも、ヒッタイトの神は、アラジャホユックのスフィンクス門前のオルトスタットのように椅子に坐っているのを除くとl立像だが。
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| ヤズルカヤ トゥドハリヤ四世のカルトゥシュ図解 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より |
ギャラリーB No.83
有翼日輪の翼は縦帯によって節に分割されていないが、先に曲がる前に斜めの線があり、線の方向が変わっている。他にはない翼の表現。
こちらの長衣は丸い山を積み重ねたのだろうか。外側にギザギザがある。
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| ヤズルカヤ トゥドハリヤ四世のカルトゥシュ図解 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より |
『The Hittite Rock Sanctuary 』は、B室の他の二つの浮彫は来世を題材としている。B室の剣神は、冥界の神ネルガルである可能性が高い。ヒッタイトの祈祷儀式において、「十二神」はこの神と同じ文脈で言及されている(Yazılıkaya 1975, 191)。これはそれ自体では説得力のある証拠ではないが、ネルガルの向かい側の壁面浮彫パネルに描かれた人物像を冥界の神々と特定する根拠となっている(例えば、Haas 1994, 368, 488)。そして、この前提に基づいて、B室は葬儀の慣習と何らかの関連があるという仮説が立てられている。もしこれが事実であり、他に説得力のある説明がないのであれば、B室はトゥドハリヤ四世の死後、彼の崇拝に用いられたに違いないという。
トゥドハリヤ四世の墓がここにあったのではなく、トゥドハリヤ四世を神のように崇拝するところだったという方が納得できる。
ただし、トゥドハリヤ四世の没後その息子アルヌワンダ三世(前1220-1215)とシュピルリウマ二世(1215-1220)が跡を継いだが、前1200年頃ヒッタイト帝国は滅んでしまった。
昔は「海の民」に滅ぼされたとされてきたが、そうではないというのが最近言われている。
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参考文献
「古代都市Ⅰ ヒッタイトの都ハットゥシャ」 2013年 URANUS
「Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya」 Jürgen Seeher 2011年 YAYINLARI
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店
参考にしたもの
現地説明パネル



















