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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2022/07/26

一乗谷朝倉氏遺跡 復原町並


一乗谷朝倉氏遺跡の中で、❼朝倉館跡の川と道路を挟んで向かい側に❺復原町並がある。
越前朝倉氏一乗谷』は、朝倉氏の家臣の屋敷などで構成される武家屋敷群は、ところどころに散在するのではなく、決まった配置の仕方をとっています。朝倉氏に近い重臣の屋敷は、主に一乗谷川の東側に固まっています。また「外様」とでもいうべき、在地土豪から成長して勢力を振るい、後に朝倉氏の家臣となった者たちの屋敷は主に川の西側に固まると言うように、当主の館から離れた位置に立地しています。
ここで、一乗谷初代孝景の「家訓」といわれる『朝倉孝景条々』が想起されます。子孫のために書き残したといわれる「戦国家法」の一種ですが、17カ条からなる簡潔明瞭な文章で、その中の一項には、「朝倉ガ館ノ外、国内ニ城郭ヲ構へサセマジク候。惣別、分限アラン者一乗谷へ引越シ、郷村ニハ代官バカリ置カルベキコト」とあります。近世城下町の武士集住令の先駆的なものとして有名ですが、家臣の統制策の一環としてこうした集住策を早くからとっていたことは注目されますという。
一乗谷朝倉氏遺跡散策地図 2021年 福井市発行


復原町並についてリーフレットは、復原町並は、約200mにわたる道路に面して整然と並ぶ町並を、発掘調査で見つかった塀の石垣や建物礎石をそこのまま使い、出土品に基づいて忠実に再現しました。武家屋敷は、周囲に土塀を巡らし道路に面して門を構え、屋敷内は多くの建物が建っています。
これに対して町家は、建物が直接道路に接し、面積が小さく、裏庭に井戸やトイレなどがある単純なつくりとなっていますという。
一乗谷朝倉氏遺跡 復原町並 同リーフレットより


『越前朝倉氏一乗谷』は、発掘された武家屋敷群は、さながら分譲住宅のように土塁で整然と区画された配置となっています。1軒の屋敷は、100尺(=30.3m)を単位に割り振られるのが標準と思われますが、中惣の景鏡の屋敷のように濠を巡らせ、それをはるかに上回る規模のものもあります。
入口は、薬医門や棟門などの門構えが見られます。内部の建物は奥に寄って建てられ、手前には空間が見られるのが普通です。塀や柵で仕切り、武将が日常生活に使用する中心の建物が1-2棟と、それに付随して倉庫(蔵)や使用人の住居や井戸、便所などが見られます。中には巨石を配した庭をもつ屋敷もあります。建物には越前間といわれる、1間を6尺2寸5分(1.89m)とする基準寸法が用いられていましたという。
一乗谷朝倉氏遺跡 復原町並 『越前朝倉氏一乗谷』より

 
復原町並は入場口から入り、復原町並の模型を拝見。
見ている時はそうでもなかったが、ガラスのケースに周囲のものがが反射して、いまいちの写真になってしまった。
その続き

通りは両側に塀が続く。まっすぐな通りは先の方で曲がっている。

中級武家屋敷に入ってみる。

武家屋敷復元図(説明パネルより)
敷地に比べて建物が少ない。
表門について『復原町並』のリーフレットは、礎石の上に4本の柱を立てた薬医門と地面に2本の柱を立てる棟門。前者が上級、後者が中級武家屋敷に採用されています。敷地の大きさからも格式の違い知ることができますということで、ここは2本柱の棟門の中級武家屋敷。

トイレ
同リーフレットは、日本で初めてトイレが確認されたのが一乗谷です。トイレと考えらていた穴はたくさん見つかっていましたが、「金隠し」が出土したことで裏付けられました。
ちなみに、朝倉館跡ではトイレは見つかっていません。館で働く家臣や使用人たちはどこで用を足したのでしょう?という。

井戸と納屋(使用人小屋とも)

板倉の中


主殿
縦長の囲炉裏のある台所で使用人たちが食事をつくっている。

主室で将棋を指す家人


続いて向かいの上級武家屋敷跡を眺める。 説明パネルより

建物は小さく、まばらで、敷地内に工房もある。井戸の多いこと🤔 説明パネルより
隣家との仕切りは土塁。 

正面奥には主殿があり、敷地は右奥が広くなっている。


左手を眺めると地形に従って段々と敷地が高くなっていた。


隣家の門は薬医門
リーフレットは、礎石の上に4本の柱を立てた薬医門と地面に2本の柱を立てる棟門。前者が上級、後者が中級武家屋敷に採用されています。敷地の大きさからも格式の違い知ることができますという。
左:薬医門 右:棟門 『復原町並』のリーフレットより


そして町屋側の中級武家屋敷群

2軒ほどが、上級武家屋敷よりもずっと狭い土地に割り当てられている


同リーフレットは、武家屋敷から町家に至るまで、ほぼ各屋敷が井戸を持っています。
また、トイレやゴミ捨て場と考えられる石積遺構、排水溝も多く見つかっており、現在でいうインフラ整備が完備されていましたという。
左:トイレ 右:井戸 『復原町並』のリーフレットより


その先は、町家群を見学して歩いた。こちらのほうが面白かった😊
説明パネルより

町屋道側に窓のあるものもあり、簡素な戸口には暖簾がかかる。色の違いでなりわいが分かるようになっていたのか、土色の町がにぎやか。
町家の建築・工法  (説明パネルより)
説明パネルは、一乗谷朝倉氏遺跡の建物の多くは、平らな石の上に柱を載せて建てる「礎石建物」と呼ばれるものです。
復原された建物は、発掘調査によって得られた建物の間取りデータと、発掘調査によって得られた多種多様な建築部品を複製して使用しています。
こうした実証的な資料を用いるとともに、戦国時代に描かれた各種絵画資料を参考に復原されていますという。

最初に入った店舗兼住宅は陶磁器屋(瀬戸物屋と呼んでいたが、地方によって違う)

角の家なので窓が多く明るい。
説明パネルは、出土した土壁に小舞の跡が残っていることから、竹を碁盤の目に組み、その上から壁土を塗っていることがわかりますという。
こういうのを見ると、戦国時代といえども、町の治安は良かったんだなと思う。
フランスの小さな町コンクでは、石造りの建物に開けられた小さな窓に触れたらケガしそうなギザギザのある鉄の板が嵌め込まれている。


土間から庭に進むと、道側はぴったりとくっついていた家々が、裏には庭程度の敷地があった。ここに土塀があったとは思えないが、今では隣家との仕切りがないので、こちらを歩いていった。


石で囲んだものは何だろう。井戸でもなさそう。


その手前の大きな甕のある建物に入っていくと、


中には藍甕が並んでいた。紺屋だ。
藍染については志村ふくみ氏の色と織りでみて下さい

表に出ると紺地に白の「染」の文字。やっぱり紺屋だった。



他には米屋
壁には木材が格子に組まれている。これは他の町屋も同じ。

大工道具屋
説明パネルは、戦国時代の建築には、チョウナやヤリガンナと言う現在では使われない道具が用いられていました。それらを使用した痕跡を、復原家屋の柱や梁などに見ることができます。
建物に使用した木材には檜や松のほかに、現在では使われなくなった栗も使用されていますという。
確かに、板の間の縁にその痕跡が。

釿(ちょうな)
説明パネルは、木材の形を整える代表的な大工道具です。
チョウナを使う作業は、削るというより「ハツる」といったほうが正確です。
斧のように振り上げ、足下めがけて撮りおろします。この作業は感強しないと足を削ってしまう危険があります。チョウナでハツられた面は、美しい波紋を描き出しますという。


振り返ると、町屋の一軒一軒に違う色の暖簾がかかっている。


山側の上級武家屋敷へ。

下流側の敷地群

門を入って正面の屋敷

上流側にいって南側から同じ敷地を眺める。


説明パネルの平面図


復原町並はこの辺りまで。



復原町並は平井地区。
一乗谷朝倉氏遺跡の全てを見学するのには時間がかかるので、以上が今回見た範囲。
『越前朝倉氏一乗谷』には別の地区の特徴的な建物跡も掲載されている。

赤淵地区 数珠屋の家

数珠玉の未完成品と研磨に使用された砥石
数珠の材質は水晶だろうか。



関連項目

参考文献
「一乗谷朝倉氏遺跡」のリーフレット
「越前朝倉氏一乗谷 眠りからさめた戦国の城下町」 1998年 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館

2022/07/19

一乗谷朝倉氏遺跡 戦国時代の庭園を巡る


一乗谷朝倉氏遺跡のリーフレットは、朝倉氏は、但馬国朝倉庄(現兵庫県養父市)の豪族で、その地を名前の由来としています。南北朝時代に越前守護斯波氏に従って越前に入国し、地頭として一乗谷近隣を支配の拠点としていました。
戦国大名朝倉氏の初代当主の孝景は、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに、1471年に幕府から越前守護に関する要望を認められ、以後、氏景、貞景、孝景、義景と5代にわたって越前を統治しました。この間、一乗谷には京の貴族や僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれるほど隆盛を誇りました。しかし、天下統一を目指す織田信長と対立し、1573年に朝倉氏は滅び、城下町も焼き払われましたという。
へ~え、朝倉氏って遡れば兵庫県北部の出身やったんや😮

リーフレットは、朝倉氏の滅亡後の一乗谷は、旧臣や一向勢による支配を経て、信長に統治されます。信長は一乗谷から約10㎞離れた北庄城を北陸支配の拠点とし、柴田勝家に守らせました。その際、一乗谷の寺社や商工業者は北庄城下に移されて一乗町などを形成しました。
江戸時代、一乗谷は城戸ノ内村という農村となりました。田畑の造成や用水の開削が行われ、一部の遺構は失われましたが、大半は地中に保存されました。1847年以降に描かれた 「一乗谷古絵図」には江戸時代末期の様子が伝えられていますという。
土に埋もれたおかげで現在のように復元できた。

一乗谷古絵図 1847年以降 春日神社蔵 
田畑がひろがる静かな農村
一乗谷古絵図 1847年以降 春日神社蔵 『越前朝倉氏一乗谷』より


『越前朝倉氏一乗谷』は、一乗谷は、新世代第三紀に属する急峻な山塊が連続している越前山地の西端に位置する、狭小な谷底平野です。上城戸と下城戸との比高差は25m以上もあり、一乗谷川の流れは急で、今も浸食が続いている川です。そのため流路も安定せず、川岸も頻繁に崩れたようです。そうした狭い平地に30ほどの字に分かれて水田が開かれ、朝倉氏滅亡以後約400年間以上も、遺跡は守られてきましたという。

リーフレットは、発掘調査は、昭和42年(1967)から開始され、昭和46年(1971)に特別史跡に、平成3年(1991)朝倉館跡庭園、湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園、南陽寺跡庭園の4庭園が一乗谷朝倉氏庭園として特別名勝に指定されました。さらに、平成19年(2007)には出土品のうち2,343点が重要文化財に指定されましたという。
ずいぶん前からテレビで見ることがあり、行ってみたいなと思っていたが、糸魚川への道中の福井インターチェンジからさほど遠くないこともあって、やっと重い腰が上がった。
一乗谷朝倉氏遺跡地図 2021年 福井市発行

❺復原町並の南の端に車を置いて、早速見学開始(いつものように強引なパノラマ合成😆)

❼
朝倉館跡を目指す 説明パネルより


が、その前に諏訪館跡庭園も見ておきたい。

広々とした米津から高台の諏訪館跡庭園へ


米津跡を見下ろす。
説明パネルは、米津は、一乗谷川右岸、上城戸跡から朝倉館跡に向かう中間に位置します。東側の高台には諏訪館跡があり、城下町の中心部に近いことから、重要な場所であったと考えられます。
米津では、平成19年度に発掘調査を実施しました。遺構は一部削平を受けていたものの、土塁を巡らした敷地に、いくつかの建物跡や井戸跡のほか、敷地南東では炉跡を確認しました。また遺物は、日常生活で使用した物のほか、刀装具を型押しした土製の型や金属を加工する材料や道具が出土しました。
これらより、この地には朝倉氏から特別な権限を与えられ、刀装具という特殊な製品を製作したお抱えの金工師がいたことが想定されていますという。

説明パネルは、諏訪館は、朝倉義景の妻である小少将が居住した館であったと伝えられています。諏訪館跡庭園は、一乗谷で最も規模が大きい庭園です。上下2段の構成となっています。
滝石組の横のヤマモミジは樹齢100年ほどで、戦国期からの ものではありませんが、紅葉を迎えると秋の風情を楽しむことができますという。


下段庭園

上段庭園との境に医師に囲まれた水路、その奥に滝石組が。
使われた石は何?
『越前朝倉氏一乗谷』は、朝倉氏の館や寺院の林泉庭園には、近くで採取できる山石(凝灰角礫岩)の巨岩が数多く使われています。一乗谷で最も規模が大きい豪壮華麗な諏訪館跡庭園の滝石組の滝副石は、高さ4m13cmで日本最大のものですという。
あれが4m超えの巨石かな、それともヤマモミジの葉に隠れている方?

上段庭園に向かうとお花畑になっていた。

ダイモンジソウ 蕾
見たことのある葉だが名前がなかなか出てこなかったが、「大」の字のように白い花びらを広げるダイモンジソウだった。

キンポウゲ 別名ウマノアシガタ
キンポウゲ科に属する花は多く、キンポウゲという名称も好きなのに、何故か実際に見た時はウマノアシガタしか浮かんでこない。不思議なのは、この花ではなく、私の脳😆
馬の足形は馬蹄形では? 花ではなく根性葉が似ているとかいないとか😁

 ラショウモンカズラ?
終わりかけの花を写したので、花弁がよく見えない😆

オドリコソウ
薄いピンクと思っていたが、白いのもあった
子供の頃は、隣の空き地にたくさん咲いていて、弟と蜜を吸って回ったものです。まだ農薬が使われない古き良き時代🤗

そしてニリンソウが見え隠れしながら咲いていた。一面ニリンソウが咲いているところもあるのに、ここでは他の植物の葉の間が顔を出す程度。

ムロウテンナンショウかな?


上段庭園は入っている時はどこまでが庭園なのか分からない。切り株などがあちこちにあって、平面があまりなかった。

説明パネルの写真では石組と水の流れが楽しめるようになっているらしいが、見つけることができなかった。きっと、ずっと奥にあるのだろう。
諏訪館跡庭園 上段 説明パネルより

坂道を進むと左手に2段の野面積の石垣があったり、

右手にはノリウツギ・・かな?

アジサイに似た花を咲かせる木は多い。でもムシカリ・ヤブデマリ・ガマズミではない


やがて長い石段が。

一乗城山を除いては最高所となる場所から見下ろすと、川沿いの木々の向こうに復原町並が少しだけ見えた。


その先に❿英林塚
初代孝景の墓。孝景は初めて一乗谷に築城し、繁栄の基礎をつくりました(リーフレットより)

建物は古いものではなく、


中の
宝篋印塔の祖型のようなものが墓石。

一回りして4面を撮影


英林塚から❽南陽寺跡に向かうが通行止め。
湯殿跡庭園、朝倉館跡に向かった。
一乗谷朝倉氏遺跡 庭園地図 説明パネルより

上から見えた貯水池の先、左手に数段の石段と道標が見えてきた。

それが➒湯殿跡庭園
朝倉館跡を見下ろす高台にあります。どの石も強い表情を持ち迫力があります。ほかの庭園とは様式も感覚も異なり、一乗谷で最も古い庭園とされています(リーフレットより)

庭園南東隅
奥にも石がたくさんあって、諏訪館跡庭園よりも大規模。

ここにも巨石



湯殿跡庭園の端から朝倉館跡の一部を見下ろす

東上(上写真を撮影した位置)から見下した朝倉館の復元模型(説明パネルより)
東上から見下ろした朝倉館の復元模型 説明パネルより


急な斜面にも石組で水路がつくられている。おそらく先ほどの小さな池から水を流していたのだろう。


ムラサキサギゴケかトキワハゼか
色が濃いので、ムラサキサギゴケかな? 目立たないけれど、スゲの仲間も花が咲いていた。

この河原石の石垣も当時のものだろうか。


朝倉館全体図(説明パネルより)
東が山側


下におりて石組に向かう。

これは段々になった滝だろうか。
両側の石組などが、夢窓疎石が作庭したという説もある、天龍寺の池の滝石組に似ているような・・・

幅の広い水路


敷地左の設備
特別名勝の庭園を守り楽しむための施設を検討しています
庭園に相応しい景観や構造を検討するため、強度等の試験を実施しています。 
施設に登らないようお願いいたします。
という福井県立一乘谷朝倉氏通資科版の札が貼られていた。

細い水路は建物に沿って造られているよう。


東側へ向かう。レンガで建物の輪郭を表している。


大きな井戸枠、中をのぞくと丸い井戸にほぼ満杯の水。

建物枠とカーブした水路、そして礎石が点在右中ほどの、水路と建物の間に砂利が敷き詰められた長方形のところには不規則に石が置かれている。ひょっとして坪庭?

北側の通路から振り返る。奥の、上にツツジが咲いているところが池のある高さ。ここからは草に隠れて見えないが、水路が下の滝石組に達しているのだろう。

広大で、通路をすべて通ることができなかった。



その後「瓜割清水」を見に行った。
それは現在の集落の中にあった。途中で資料館の研究員の方が作業をしておられ、手を止めて説明していただいた。
信長に焼き払われた後、戻ってきた人たちもいます。他所から移住してきた人たちもいます。そのような繰り返しで、常に人の住む谷でした。それで現在も住んでいる人たちがいるのですと。

瓜割清水
研究員の方に、ここから南陽寺跡に行けますよと教えていただいたが・・・草深くてあきらめた😅


説明パネルは、瓜割清水の広さは約80mであり、古くから朝倉氏の御膳水に供したと伝えられています。山裾の東と南の護岸は後世の石積であり、朝倉時代より規模が縮小していると推定されます。往時からどんな旱魃の時も涸れたことがないといわれています。今でも夏は冷たく冬は温かな清水が湧き出ており、地元では生活用水として現在も利用しています。
南の高台には南陽寺跡があり、山麓の「ビクニン清水」を当時、生活用水に使っていたようです。さらに東南東の山上近くには「不動清水」があります。一乗城山から銅の筒で瓜割清水に水を引いてきたという伝説があるように、これらを結ぶ水源の存在が想定されますという。

久しぶりに見たアメンボ

開花したダイモンジソウ

おおざっぱにアザミとニガナ 

北側より遠望する朝倉館跡


一乗谷朝倉氏遺跡資料館・遺跡散策㉒朝倉館跡・唐門は、ここは、全国で唯一発掘整備された戦国大名の館跡である朝倉氏5代目の朝倉義景の館跡です。この館は朝倉義景が政治など諸事を行っていたところで、城下町のほぼ中心に建てられています。この朝倉館の敷地面積は約6400㎡あり、同時代の京の細川管領(ほそかわかんれい)邸にも匹敵するもので、全国に名をはせた朝倉氏の居館にふさわしいものです。土塁の内側の平坦地には、10数棟の建物が整然と立ち並んでいました。これらの建物は、大きく2つの区画に分けられ、1つは、南半分の敷地を占め、主殿(しゅでん)を中心とした接客の機能を持つ施設群になっています。会所(かいしょ)や数寄屋、特別名勝のひとつである朝倉館庭園や日本最古の花壇遺構などがみられます。この主殿では、後の15代将軍足利義昭が一乗谷を訪れた際、大変雅で豪華な宴が催されたようです。もう一つは、常御殿(つねごてん)を中心に北側に位置するもので、主人の日常生活の場となっており、台所や湯殿(ゆどの)などがみられます。ここからは、茶器や花器などの中国製陶磁器の逸品が出土していて、戦国大名の栄華と華やかな一乗谷の文化をうかがい知ることができます。館は、三方を幅8m、深さ4mの堀と土塁で厳重に守られていて、背後の山には、守りの要である山城の跡があります。また、背後の高台には、北から順に、南陽寺跡(なんようじあと)、湯殿跡(ゆどのあと)、中の御殿跡(なかのごてんあと)、諏訪館跡(すわやかたあと)があり、当主一族の住居が集まって建てられていましたという。
上空からの撮影写真(『越前朝倉氏一乗谷』より)
朝倉館跡 『越前朝倉氏一乗谷』より

模型
東側上方に湯殿跡庭園の平たい面、そしてその上の池から水を流すための水路もつくってある。
朝倉館復元模型 『越前朝倉氏一乗谷』より


唐門について同ページは、館の正面・西門には、一乗谷朝倉氏遺跡のシンボルである唐門があります。この門は、朝倉5代目義景の菩提を弔うために江戸時代に建てられたと推定されています。春には門の脇の薄墨桜(うすずみざくら)が美しく、夜間のライトアップもされています。また、朝倉館の東南部には、義景の墓所がありますという。


最後に庭園について
『越前朝倉氏一乗谷』は、特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡では、変化に富んだ汀の園池の周辺に豪壮な石組を施した豪華な林泉庭園から、小砂利や花崗岩の小礫を敷きつめ立石と伏石を釣り合いよく配置した枯淡静逸な枯山水平庭や整形的花壇まで、多様な庭園の姿を鑑賞することが出来ます。
1遺跡にこれだけ多くの庭園遺構が遺存する例は、全国的にも見られません。現在判明しているだけでも、林泉庭園に類するもの7、枯山水庭が同じく7数えられます。これらの庭園遺構は城下町一乗谷の廃絶時期などから、作庭年代が限定できます。また埋没していた部分も多く後世に殆ど手を加えられていないと見られることから、石組や配石を重要視した室町時代末期の庭園様式を良く伝えていると考えられます。庭園の変遷を知る上で貴重な基準資料になるものであり、学術的にも極めて価値が高いと言えますという。

同書は、朝倉氏の館や寺院の林泉庭園には、近くで採取できる山石(凝灰角礫岩)の巨岩が数多く使われています。
枯山水平庭では京都の竜安寺などの枯山水の影響が見られ、わざわざ花崗岩地帯の敦賀から白川砂に類似した花崗岩小礫を船で取り寄せ、庭にまいているところが多く見られます。三国港経由でしたが、当時も三国の安島産の節理の美しい海石(紫蘇輝石安山岩)は飛石や蹲踞の前石として恰好のものとして知られていたらしく、一緒に川船で運ばれてきています。
戦国城下町一乗谷では、行態の茶の湯が盛んに楽しまれていたことが、出土する茶器や花器から推察されます。当主が茶の湯の宗匠級であったと目される屋敷跡からは、手水構えを伴った茶庭と言えるものが発掘されています。茶の湯で手水は欠くことの出来ないものでしたから、枯山水平庭の中に蹲踞あるいは小さな井戸を備えたものです。茶の湯用としては日本で最も古い手水鉢が出土していますし、蹲踞跡も完全な形では残っていませんが、日本最古の遺構と言えます。また飛石も数は少ないですが、庭に打たれた最も早い例となりますという。

見られなかった南陽寺跡庭園(説明パネルより)
南陽寺は、3代貞景が娘のために再建した尼寺で、庭には石組等が残っています。ここは後の室町幕府将軍となる足利義昭を招いて観桜の酒宴を催したところで、庭前には美しい糸桜があったと伝えられています(リーフレットより)
一乗谷朝倉氏遺跡 南陽寺跡庭園 リーフレットより

同書は、平庭の配石において、左側に高い石を立て右側に低い石を伏せているのは、右側の方が重く見えるので低い石を配してバランスをとり、安定感を与えるようにしているのです。
またかなり背のある石を、地中深く沈めて据えている場合も見られます。石の根が透けて見えないように据えるのは、その石がいかばかり大きいものかと想像させ、力強く見せるための作庭の極意です。
作庭に精通した熟達の庭師の存在が、確認されるのであります。彼らは戦国文化に彩りを添える一翼を担っていたと言えるでしょうという。(以上藤原武二 当館特別研究員による)
戦国時代というと、戦いに明け暮れていたと思いがちだが、文化的にも切磋琢磨した時代だったのだ。


                 →一乗谷朝倉氏遺跡 復原町並

関連項目

参考文献
「一乗谷朝倉氏遺跡」のリーフレット
「越前朝倉氏一乗谷 眠りからさめた戦国の城下町」 1998年 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館