今回は色ごとに志村ふくみ氏の作品をまとめてみた。
『志村ふくみ いのちを織る展図録』は、近江八幡の綴織職人の元で織物の基本を学んだ。綴織はコプト織などと同様の平織の一種で、経糸(たていと)が表面に出ることなく、緯糸(よこいと)で絵を描くように模様を表すという。
この作品には、何と表現すれば良いのだろう、訴えかける何かを感じて引き寄せられた。
この展覧会の時、図録とともに買った『一色一生』(文庫版)は、自分では糸を買う一文のお金もないほど切迫していた私は西陣の糸屋に、一度使った糸をもらいうけ、色を染め直すなど苦心いたしましたが、思うようにはまいりません。せっぱつまって、母のあの秘蔵の桶をあけました。
すると・・・・白い繭からひいた自然の光沢をもったつむぎ糸がいくらか残っておりました。そして、幾巻かの藍、赤など植物染料の染め糸も・・・・。期限もぎりぎり、糸もぎりぎり、自分の気持ちもぎりぎり。ただただ心に描いたものを真直ぐ表現したいと機に向かいましたという。
志村ふくみ氏の繋ぎ糸
同展図録は、繋ぎ糸は、短い絹糸を機結びで繋いで長く糸状にしたもので、志村が初めて着物らしい着物と称した《秋霞》から、今日まで、多くの作品に織り込まれ、志村ふくみの表現を担ってきた。繋ぎ糸織りとは、この繋ぎ糸を、緯糸に使って平織するもので、女性たちが昔ながらに織っていた屑織り(屑糸織り)、ボロ織りなどと呼ばれるものの一種である。繋ぐ絹糸によって色や材質感、太さが異なり、また繋いだ部分が節のようになって、自然と織地に表情が生まれる。志村にとって、繋ぎ糸織りは、作意を無作為に託す心、自分の表現の中に最後に偶然を受け容れる余白、なのかも知れないという。
それで志村氏の作品には、途中から色が変わったり、結び目が出ていたりするのだ。
秋霞 1958年 個人蔵
同展図録は、黒田辰秋の「ボロ織りを新しく編曲して織ってはどうか」いうヒントと、友禅の森口華弘の「綴織よりも紬織りのほうがあなたに向いているのではないか」という重要な助言があって、この作品が生まれた。織り上がって衣桁に掛けて眺めていたらおのずと布を操り、自然界を写し出していたという。もはや無作為の領域に挽き戻ることはできない。そのことの重さを志村に突き付けた作品である。大体10年ぐらいの周期で、この作品の周辺にかえってくるという。
異なる糸どうしを結んでいるときは、それが織り幅のどの位置にくることまではわからない。そんな偶然の重なりだからこそ見飽きない。
志村ふくみ氏の平織
同展図録は、平織とは、経糸と緯糸を交互に浮き沈みさせて織る最も単純な織物組織である。染色家の芹沢銈介(1895-1984)から、「君は植物染料で一生やるか」、「紋織りではなく平織りで行くか」と問われ、瞬時に「植物染料と平織りだけです」と答え、これで私の一生が決まった」という。
七夕 1960年
『一色一生』は、格子の場合には一度縦の縞をたてて、それと同じ横縞を入れ、しばらくじっと眺めていると、音楽の「主題」のようなものが浮かび上がってまいります。それを少しずつ変化させ、横縞を長くおいてみたり、短くしてみたり、織色を濃くしたり、うすくしてみたりするうち、全体の音色が生まれます。カチッと決まった最初の縦、横のバランスのとれた主題をどのように展開するか、追いかけたり、逃げたり、饒舌になり、寡黙になり、さまざまな間のとり方が、実に面白いところという。
だから、志村氏の格子文の着物には、いろんな大きさの格子が生まれるのだ。
志村ふくみ氏の蘇芳
同展図録は、藍や茶などの限られた色の中に最初に入ってきたのは蘇芳である。志村が初めて蘇芳を手にしたのは、植物染料を手掛けて一年目くらい。京都三条の古い漢方問屋においであった。黒田辰秋の「植物染料は惜しまず使え」という助言で、思いきりたくさん使って染め出し、深い強烈な真紅を得た。蘇芳は、南方の島々に生育する樹木の芯材を炊き出すが、染色の間中、不思議な香りと熱気が立ち込める。媒染の違いで濃い臙脂から真紅、海老茶などさまざまに変化するという。
昔実家にハナズオウの木があり、毎年葉が出る前に、赤紫色の花が、幹や枝に貼り付くようにして咲いていた。しかし、染料は、その花から取られるのではなく、枝や幹を炊き出すという。花よりもずっと赤味がある。
蘇芳竪縞 1960年
同書は、経糸は、色味の違う蘇芳の赤を縞状に配して、赤の豊かな表情をそろえている。緯糸は経の味わいを損なわぬように、穏やかに織り込まれている。蘇芳は外来染料であるにもかかわらず、古代より現在まで、日本でも重用されてきたという。
正倉院宝物に黒柿蘇芳染金銀水絵箱があるので、蘇芳の木、あるいは蘇芳色の染料は、奈良時代には日本に請来されていたようだ。
同展図録は、志村は、蘇芳を染め始めた頃から、蘇芳の赤には神聖なもの、現実的なものの二面性があると捉えていた。「白地に赤の糸をこまかく繋いで無数の線を描きそれが初雪のように初々しく思われた」(『つむぎおり』)と志村はいう。
しかしよく見ると濃紺の繋ぎ糸が、赤い筋の間に織り込まれ、赤を際立たせると同時に影のように寄り添っているという。
衣桁に掛かった着物を見ても分からなかったが、確かに濃紺の線が入っている。
志村ふくみ氏の茜
同展図録は、茜染めは日本の植物染色の中では最も古くから行われてきた技術だが、在来種の収量の少なさや染色の難しさなどから、室町時代頃には衰退していた。
西洋茜はやや黄味のある赤で、日本の色相に近く、植物染料の中では堅牢度が高い。蘇芳が情ならば、茜は、しっかり大地に根を張った、生きる知恵をもった女の赤だと志村は言うという。
志村ふくみ氏の茜
同展図録は、茜染めは日本の植物染色の中では最も古くから行われてきた技術だが、在来種の収量の少なさや染色の難しさなどから、室町時代頃には衰退していた。
西洋茜はやや黄味のある赤で、日本の色相に近く、植物染料の中では堅牢度が高い。蘇芳が情ならば、茜は、しっかり大地に根を張った、生きる知恵をもった女の赤だと志村は言うという。
アカネはどんな花だったかな?アカネ科の目立たない草で小さな五弁花。山野草を見たり、写したりする時でも、いつも咲いていても撮り忘れてしまう花はがる。そんな花の一つかも知れない。
茜 1967年
同展図録は、「西洋茜をはじめて染めた頃、この色のやさしさと鼠の出会いが楽しくて、着物に織った」(『志村ふくみ裂帖』)という。初めから他の色を受け容れる鷹揚さが茜(ことに西洋茜)の色には備わっているのだろう。媒染によって赤、ピンク、黄色、紫が染まるという。
志村ふくみ氏の西洋茜で染めた糸 |
同展図録は、「西洋茜をはじめて染めた頃、この色のやさしさと鼠の出会いが楽しくて、着物に織った」(『志村ふくみ裂帖』)という。初めから他の色を受け容れる鷹揚さが茜(ことに西洋茜)の色には備わっているのだろう。媒染によって赤、ピンク、黄色、紫が染まるという。
茜で染めても、濃淡の色を使ったり、別の色を一筋入れることで、こんなにも表情豊かな織物に仕上がる。
同展図録は、嵯峨に来て間もなくから、志村は紅花染めに取り組むようになる。当初は、輸入の紅花を使っていたが、昭和49年(1974)頃から山形県最上の紅花を入手できるようになり、憑かれたように紅を染め、織った。紅の色の儚げな清らかさ、透明感は、素朴な紬糸で表すことは難しいため、経緯(たてよこ)の糸ともに生糸を使う使う場合もあったという。
紅花で染めたものは日に当たると変色するから気をつけてね、とハンカチをもらったことがある。外で使えないなと、見てはしまい込むという繰り返しと、時の流れのおかげで、行方不明となってしまった。色が褪せても使えば良かった😥
同展図録は、この一枚は、平安の桜襲の色目に倣い、盛春から新緑の束の間の輝く季節を織り出しているという。
十二単衣を一枚の布で表したようだと思った。
藍建てのこと
志村ふくみ氏の藍
『一色一生』は、仮に一つの甕に藍の一生があるとして、その揺籃期から晩年まで、漸次藍は変貌してゆくが、かめのぞきは最初にちょこっと藍につけた色ではなくて、その最晩年の色なのである。偶々一月すぎ二月すぎても藍は衰えず、中心に凜乎とした紫暗色の花を浮かばせ、純白の糸を一瞬にして群青色に輝かせる青春期から、しっとりと充実した瑠璃紺の壮年期を経て、かすかに藍分は失われてゆくが、日毎に夾雑物を拭い去ってあらわれるかめのぞきの色は、さながら老いた藍の精の如く、朝毎に色は淡く澄むのである。 浜辺の白砂に溶け入る一瞬の透きとおる水のように、それは健やかに生き、老境に在る色であるという。
『一色一生』は、朝毎に藍分を吸い上げられた甕はヨタヨタになりながら、老女の髷のように小さく軽い花を咲かせ、ひっそりと染め上ってくると「よお、まあ染まってくれて」と私はひとり礼をいいたい思いになっている。誰が名付けたのか、なぜそう呼ぶのか、群青と白群のあわい色を秘色(ひそく)と呼ぶという。今まで私は秘色とは、なぞめいたふしぎな色と思っていたが、そうではなくて、ひそやかな奥深い色を昔の人はそう名付けたのであろうという。
琵琶湖
同展図録は、志村の出身地・近江八幡は、古くから商業で栄えた湖東地域の町である。
志村にとって琵琶湖の風景は、単なる景勝地としてだけではなく、自身の人生の転換点に寄り添う風景として深く心に刻まれたものであった。
同展図録は、藍建てとは、藍甕に、蓼藍の葉を乾燥させ、発酵させた蒅(すくも)と、木灰からとったアルカリの液(灰汁)、日本酒や石灰などを入れて、適温を保ちながら発酵を促進して、インジゴ色素の溶出した染液を得る方法で、天然灰汁発酵建てと呼ばれる。順調にいけば建て始めてから一週間ほどで布を染められる状態になるが、それを維持・管理するには細心の注意と経験が必要であるという。
亭主によると、藍染めは建て染めなので、経年で酸化が進んで、藍色が濃くなるのだそう。
志村ふくみ氏の藍染めの様子 |
志村ふくみ氏の藍
『一色一生』は、仮に一つの甕に藍の一生があるとして、その揺籃期から晩年まで、漸次藍は変貌してゆくが、かめのぞきは最初にちょこっと藍につけた色ではなくて、その最晩年の色なのである。偶々一月すぎ二月すぎても藍は衰えず、中心に凜乎とした紫暗色の花を浮かばせ、純白の糸を一瞬にして群青色に輝かせる青春期から、しっとりと充実した瑠璃紺の壮年期を経て、かすかに藍分は失われてゆくが、日毎に夾雑物を拭い去ってあらわれるかめのぞきの色は、さながら老いた藍の精の如く、朝毎に色は淡く澄むのである。 浜辺の白砂に溶け入る一瞬の透きとおる水のように、それは健やかに生き、老境に在る色であるという。
確かに「藍の花」は紫がかっている。
志村ふくみ氏の藍甕に浮かぶ「藍の花」 |
『一色一生』は、朝毎に藍分を吸い上げられた甕はヨタヨタになりながら、老女の髷のように小さく軽い花を咲かせ、ひっそりと染め上ってくると「よお、まあ染まってくれて」と私はひとり礼をいいたい思いになっている。誰が名付けたのか、なぜそう呼ぶのか、群青と白群のあわい色を秘色(ひそく)と呼ぶという。今まで私は秘色とは、なぞめいたふしぎな色と思っていたが、そうではなくて、ひそやかな奥深い色を昔の人はそう名付けたのであろうという。
藍竪暈かし 1963年
同展図録は、織幅いっぱいに、濃紺から縹まで、濃から淡へと経糸を経て、緯糸は藍と白の繋ぎ糸で織り上げている。仕立てると、背中心から袖先まで、深く青い浪が立ち、繋ぎ糸の白い節がさざなみのようであるという。
この作品はもちろん藍のさまざまな段階で染めた糸だけではないだろうが、私には、藍の一生を思わせる。
同展図録は、志村の出身地・近江八幡は、古くから商業で栄えた湖東地域の町である。
志村にとって琵琶湖の風景は、単なる景勝地としてだけではなく、自身の人生の転換点に寄り添う風景として深く心に刻まれたものであった。
「いつだったか、そこから和舟を出してもらって、葦の間を縫うようにして舟遊びをしたかえり、ふと後をふりむくと、湖全体に夕陽が映え、細波が黄金色にきらめいていた。山の端に入日するほんの数刻、湖は燃えるように茜色に染まっていたという。
琵琶湖ほどの大きな湖や海ならではの夕映えだ。
梔子熨斗目 くちなしのしめ 1970年
同展図録は、嵯峨に来て間もない頃の作である。あくまで、明るく華やかな梔子の黄色を生かしたかった。「その頃私はまだ絣という技法を知らなかった。それ故、1本1本を切ってつないで黄と白の段をつくった。大変な手間だった。そして何とも不揃いである。しかしその拙なさと必死の思いが一つの勢になっている(『つむぎおり』)という。
せっかくなので桃山時代の織部を
色の言葉
近江八幡市の堀切新港から見た琵琶湖の夕景 |
湖上夕照 1979年
同展図録は、その印象を後に、濃紺地に、朱や茶、金茶などを織り込んで、『湖上夕照』という着物を織った」(「彩ものがたり 湖上夕照」『芸術新潮』新潮社 1982年12月号)と志村は本作につい語っているという。
同展図録は、その印象を後に、濃紺地に、朱や茶、金茶などを織り込んで、『湖上夕照』という着物を織った」(「彩ものがたり 湖上夕照」『芸術新潮』新潮社 1982年12月号)と志村は本作につい語っているという。
作品はこれよりも鮮やかだった。こんなにみごとに自然現象を織り込むことができるとは。
志村ふくみ氏の灰色
同展図録は、志村は、全ての植物染料の基調色は灰色であると言う。「植物を炊き出した液の中に何が交じっているのか、樹液か夾雑物か、アルファが交じっていて、それがすべての色彩に灰色の紗幕(ヴェール)をかける。
どこかに不純物が交じっているが、色そのものはそのために濁るのではなく、本来の色をきわ立たせる。
この場合、色が影を宿しているといえばよいのか。灰色はその影の部分、いたわりとやさしさの部分なのである」(『色と糸と織りと』 岩波グラフィックス35)。
染色自体、灰文化の展開である。紫根と椿灰、藍建てと木灰の関係に限らず、灰色は発色の助剤として有効であるばかりでなく、染める布や繊維を漂白したり柔軟にする作用もあり、古来染織には欠かせない。天然染料で色を得る志村にとって、灰、灰色は、創造の世界を豊かに深く支えてきたのであるという。
水煙 1963年
同展図録は、奈良薬師寺水煙の、水盤に映ったさまを見て、直接的ではない、一つのものを介した美しさを感じたという。
志村ふくみ氏の茶色
同展図録は、志村は、茶色は大地であり、「すべての植物の幹、枝などで樹液のようなうす茶が染まる。それを木灰、石灰も明礬等で媒染すると茶系統が染まる」(『私の小裂たち』)という。
身近な植生を生かして植物染色を試みれば、おのずとその環境ならではの茶色が得られるという。
茶色のイメージとよりも、ずっと明るく美しい。それは絹の光沢のせい?
竹の秋 1963年
同書は、近江八幡の武佐の住居から、当時は山裾に竹林が見えた。春になると竹の葉が散る。世の中は春なのに竹藪だけは葉が散って秋となる。その風情に心惹かれ《竹の秋》となったという。
新緑の時期、竹は葉を黄色く変える。「竹の秋」を見るのも楽しみにしている。
志村ふくみ氏の黄色
同展図録は、黄色は最も光に近い色であると志村は言う。黄染めの染料となる植物は、楊梅(やまもも、渋木)、黄蘗、黄蘗、梔子、刈安などが古来知られている。植物や媒染によって、黄色の濃い薄い、青み、赤みなどニュアンスが異なる。志村が早くから用いてきたのは主に楊梅の茶みの黄色、刈安の黄金色で、比較的安価で入手しやすく、色が丈夫であることも特色である。また梔子も赤味のある濃黄色の華やかさを好んだという。
クワイをクチナシの実で煮染めると、濃く派手な黄色になる年もあれば、薄い色にしか染まらない年もある。
そのほんのりと広がる苦みが好きで、家人には嫌われもののクワイを独り占めできるのも新年の喜びの一つだったが、昨今はその苦味が少なくなったように感じる。その上、それを察知した亭主がモリモリ食べるようになったので、争って食べてしまう。
志村氏の梔子にはなんとも相応しくないクチナシの実の記憶。
梔子で染めた糸を干す志村ふくみ氏 |
同展図録は、嵯峨に来て間もない頃の作である。あくまで、明るく華やかな梔子の黄色を生かしたかった。「その頃私はまだ絣という技法を知らなかった。それ故、1本1本を切ってつないで黄と白の段をつくった。大変な手間だった。そして何とも不揃いである。しかしその拙なさと必死の思いが一つの勢になっている(『つむぎおり』)という。
この作品は黄色い部分が多く、これが志村ふくみ氏の作品かと驚くほど華やかな黄色だった。そして、衣桁かかった着物は、肩からも、裾からも不揃いに伸びるような濃紺の線がとても面白く感じられた。
志村ふくみ氏の糸のこと
同展図録は、志村の仕事の多くは、経糸に生糸、緯糸に紬糸を用いた「半紬」と呼ばれるもので、適度な光沢と素材感が色の魅力を受けとめて作風の印象を生んでいる。また、生絹(すずし)や天蚕糸(てんさんし)のように、糸そのものに無限の力があり、それ自体が導き出す色やかたちの作品もある。志村は、「糸はそのものである時が最も美しい、(しかし)いかに美しくても、布になり人が身にまとってこそ、その使命を果たすことができる」(「魔法のようにやさしい手」『キルト・ジャパン』日本ヴォーグ社 1999年11月)と言う。時間をかけて、蚕のふるえを宿した輝く糸を知ることで、さらに深く色と織りの世界をきわめていったという。
熨斗目(生絹) 1981年
同展図録は、白地に小格子、空色の対比と、紗のように薄く軽やかで張りのある生絹の感触が相まって、きりりと爽やかな一枚であるという。
展示室では、ゆったりと間隔をとって、一点一点が衣桁に掛けられていた。それぞれが袷であったり、単衣であったりするのを見ていった。「すずし」は単衣で、他の生地よりも透けるように薄かった。
同展図録は、延喜式(平安中期の律令施行細則)によれば、深い緑は藍と刈安、中~浅緑は藍と黄蘗で染めると記されている。青と黄色を重ねると緑が出るということは古来すでに染色技術として確立されているた。志村も初めて緑を染めた頃には、この色にも、その技術にも疑問を持ってはいなかっただろう。むしろこの技術を経る過程で自らが感じた素朴な疑問を見過ごさなかったことが、志村を他と隔てる能力なのだろう。黄色で染めた糸を藍甕につけると緑になる。志村はそこに「光と闇の結合」を見た。また、白い糸を藍甕に浸すとはじめは茶色に見えるが、甕から上げて絞った糸は空気に触れた部分から鮮やかな緑に変貌し、しかし次の瞬間に緑は消え、藍の縹色が生まれるという事実。自然界に繁茂する色でありながら、それをそのまま手にすることのできない謎、一瞬だけ出現する色の不思議、緑を巡るこうした経験と思考が、自然界における色の意味や、人と色の関係、見えない世界にまで志村を導いたのであるという。
織部とは、真形(しんなり)を好む利休の弟子、古田織部の好み「へうげ(ひょうげ)」
を反映した作品群の総称で、『太陽やきものシリーズ 志野織部』は、人間の力いっぱいに表現し その奔放な造形と おどろきの装飾には 生きた時代の文化を一身に背負った 陶工たちの気概を感じさせずにはおかない
それまでにはなかった自由で 創造性豊かなデザインは いまも見るものの目を奪う そこにまた 南蛮文様が強く影響し 外来文化を 常に接触・習得・咀嚼していった 教養力をみる という。
織部の特徴である緑釉、緑釉の隙間の白い釉、白地に描いた茶色い文様という特徴を、志村氏は着物のデザインに取り入れた。衣桁に掛かった着物を遠方から見ても、それと分かる作品だった。
織部縞文額鉢 口径22.7㎝ 根津美術館蔵
同書は、白い素地と赤い素地を継ぎ合わせて型作りする、鳴海織部の手法である。赤い方には白泥で白く縞文様を描き、黒の線描きで囲むか、中に一本線を入れてアクセントをつけている。白地のところへは緑釉を厚くかけて、片身替わりの斬新な意匠としているという。
根津美術館蔵 織部縞文額鉢 |
青織部格子文香合 大きさ、所蔵不明 出土物
格子は、縦に太い線と細い線を交互に描き、横線は細い。2段の横線のなかほどに蓋と身の境目は、横線のひとつにもなっている。
織部には縞文様も格子文も多い。志村氏の記憶に残る織部の器に格子文があったのかも。
志村ふくみ氏の切継
同展図録は、切継とは、裂継、寄裂、端縫いなどとも呼ばれ、小さな布片を繋ぎ合わせたたものである。志村は時折、自らが織った布の小片を組み合わせて作品を作る。藍の風合い、意匠の親近性、素材の統一感など、大きな調和のもとに裂が選ばれ、構成されているという。
切継-熨斗目拾遺 1994年
日本画家、秋野不矩の勧めで、志村は突然インドへ旅に出た。底知れぬエネルギーの中で、打ちのめされ、やがて次第に自分を取り戻していった。その印象を、自らの裂で語った一枚であるという。
志村氏の柔らかな色合いの作品、くっきりとした色目の作品などを見ていくと、突然この強烈なインパクトのある作品が目に飛び込んできた。
じっくりと拝見すると、展示されている作品の端布も見受けられる。それぞれの端布の色彩もさることながら、それらを縫い合わせた斜めの線が、それを際立たせている。
同展図録は、志村の織る、記す行為によって、ささやかではあっても、色は通念をいったん解かれて、かつてそのさまざまな名称に、その色ならではの事物や行為が籠められていた過去を蘇らせ、さらには素の可能性を取り戻した。
志村の色の言葉には、色の出現に立ち会う感動がある。その新鮮な驚きを、志村は注意深く丁寧に掬い上げ、織り、記してきた。それは色自体の出生、、生い立ち、在り処を巡る言葉である。青、茶色、灰色、蘇芳、茜、紫、紅、そして緑。志村の織りと記述によって、どれほど多くの色が、再び自らの言葉で語り始めたことだろうという。
これは大きなもので、色の移り変わりを、この周囲を歩きながら感じた。
志村ふくみ裂帖 1977年
糸の色彩環 2009年 志村ふくみ・志村洋子両氏 |
同展図録は、「私が何か降りたいと思う時、ほとんどは色から来ます。(略)私にとって色は形なのです。白い紙に一行の詩をかくように、私は色を織り込みます」(「色と糸と織と」『叢書 文化の現在Ⅰ言葉と世界』岩波書店 1981年)。志村にとって色は、織りと文字を通って新たな世界を創造する言語、言葉なのであるという。
小管に巻かれた染め糸 |
同展図録は、染織の仕事を始めて20年近く経った昭和51年(1976)、志村は『志村ふくみ裂帖』をまとめる。わずかに限定10部であったが、この裂帖の制作は、ひたすら仕事をしてきた自らを省みる大きなきっかけとなった。以来、10数年おきに裂帖を制作しているという。
裂の筥(裂づくし) 1984年
裂はそのときどきの思いをこめた、
私の唯一の伴侶でした。(略)裂は日々の生きるしるし、
私にって日記のようなものでした。
植物の芽生えのしるし、友人への親愛のしるし、
古典への遙かな憧憬のしるし、それが時に、縞になり、
格子になり、絣になりました。
「裂のつづら」『裂の筥』(紫紅社)より抜粋(同展図録より)
志村ふくみ氏が染織を始められた頃から現在までは、私の人生とほぼ重なる。自分がその頃は何をしていただろうなどと思い出しながら、それぞれの作品を遠くから眺め、近寄って部分的に見、説明文を読み、また背後に遠のいて全体の雰囲気をつかんでいった。
志村ふくみ いのちを織る展 源氏物語←
「太陽やきものシリーズ 志野織部」 1976年 平凡社
志村ふくみ いのちを織る展 源氏物語←
関連項目
「織部の文様」 河原正彦編集・兼本延男写真 2004年 東方出版