お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2017/02/07

泉屋博古館の青銅器2 饕餮文


第3展示室は「青銅器の文様」
それぞれの作品の上部に、饕餮の文様が拡大されて分かり易い。

しかし、今回はその饕餮文の図解を撮影するにとどまった。

展示室にあった「商周青銅器の文様」というリーフレットは、商時代から西周時代前半にかけて、器の最も目立つ位置(腹部中央など)に、怪獣の顔面を大きく表現することが流行しました。この顔面文様を饕餮文と呼んでいます。近年中国では獣面文と呼ばれています。
この文様は、青銅器の最も目立つ部分を飾る場合が多いことから、この時期、一番格の高い重要な文様であったと考えられ、天の最高神をあらわした文様とか、最高神の使者をあらわした文様とかいわれていますという。

何故それを写したかというと、顔の各部分がくっきりと表され、しかもそれぞれに名称が記されてあるからだ。商から西周時代の青銅器は地文もびっしりと彫られているので、顔全体として理解するということが困難な作品が多い。だからこのような図解は有り難い。

顔面らしい形。角が少し離れている程度で一体感がある。
鼻梁の上部が左右で合っていないのは、この顔面が平面に表されているのではなく、3本の足の上の出っ張った部分の端に半分ずつが彫られているので、それを平面に合成する時にうまく合わせられなかったから。

上下一対ずつある牙は、上の作品よりは目立つ。角は外側の端が細くなり、角らしい形に。
リーフレットは、饕餮の基本構造は中央の稜飾を鼻すじとして、左右対称に顔面を展開します。鼻梁の上部には、必ず篦状の飾りを付けるのが特徴になっていますという。

角は顔面に付いているが。口は小さな牙のある線状に表され、その横に足が出現した。

饕餮の面白いのは、最初は正面向きの顔面だけだったのに、段々と胴部や尾、足などが横向きで表されるようになることだ。

横向きの動物として見た場合は顔も横向きのものが左右対称に配されており、しかもその横向きの顔を左右合わせて見ると、ちゃんと正面向きになっている。

各部分に鰭のようなものが複数出ていて、もはや饕餮の顔面よりも、横向きの動物を左右対称に表す方に重きを置かれているよう。

細い線で横向きの獣が表されている。羽根が出てきた。背後にはこの図柄をもっと簡略したような虁文が表されている。
眼だけは大きく表されているので、両眼を正面にして見ると顔面に見えるだろう。

とうとう各部分がばらぱらに。これでは顔だとわからない。工人も、一体何を作っているのかわからなくなっているのでは。

犠首方尊
各部分がばらばらの類。

饕餮の顔面というよりも、横向きの対獣文に見える。

平たいが饕餮の顔面に見える。それは、足がなくなり、上下に3つ繋がった羽根が幅が広いので、顔の続きのようになっているからだろう。
足がなくなり、4枚の羽根が髪にも見え、巻いた尾は耳ともとれる。横向きの獣は存在感が失せ、全体に饕餮の顔面を表したよう。
次回は必ず集中力のある時に、時間をかけてみよう。

     泉屋博古館の青銅器1 羽状獣文を探して←

関連項目
饕餮が大喰らいだったとは
饕餮は王だったのか

※参考文献
「商周青銅器の文様」 泉屋博古館青銅器室のリーフレット

2012/12/14

敦煌莫高窟8 285窟の天井を翔る雲気


285窟は大きな窟である。
『敦煌の美と心』は、第285窟には、甬道をくぐりぬけると、奥行6mの主室があり、奥正面には3つの仏龕、左右に1m四方の禅定窟が4つ設けられている。ここは仏龕に安置されている尊像を観像し瞑想するための窟であり、房室は人が坐れる程度の広さしかなく、インド石窟のヴィハーラ窟と類似するものの、寝起きすることはできない。
天井は伏斗形で中心部にラテルネンデッケの図様をえがき、四面には神獣や神々がかけめぐる。
この窟は現存する最古の造営紀年銘をもっている点で重要である。北壁の供養者群像の中の造営発願文に、大代大魏大統四年歳次戌午八月中旬造とある。大統とは西魏の文帝の年号で、538年にあたる。この他にも「大統五年四月廿八日」「大統五年五月廿一日」という二つの紀年銘があることからして、足かけ2年の歳月をかけて造ったのであろうかという。
『敦煌三大石窟』は、窟中央には高さ約30㎝、約2.8m四方の壇が築かれているが、壇の中央にはかつて塔が立てられていたという。この中央の壇が戒壇だとすれば、第285窟は禅行の場であると共に、受戒の場すなわち戒壇院であった可能性があるという。
前回見学した時は、入ってすぐにこの金属製の柵に気づいたが、上を向いて天井を眺めている内に、この柵の存在を忘れていた。だからといって柵にぶつかることもなかったのは、石窟専門ガイドの丁さんと我々だけという少人数での見学だったので、丁さんのすぐ後について回ったからだろう。
285窟も陳列館にコピー窟がある。下の画像の中で、書名のないものは、コピー窟の写真です。

同書は、西壁壁画は、正面大龕の両側に多面多臂の像や象頭、童形のインド的な画像があらわされている。
大龕南側の三面六臂の画像は韋紐天と考えられるが金翅鳥は描かれていない。インドのバラモン教とヒンドゥー教ではヴィシュヌ神とされ、仏教にとりいれられて守護神とされた。奈羅延天ともいう。
大龕北側の三面六臂の画像は、大自在天である。バラモンとヒンドゥー教ではマヘーシュヴァラとするが、普通シヴァ神とよばれる。これも仏教にとり入れられて護法の神とされた。
このように第285窟の西壁は題材の上でインド的な内容をもつだけではなく、表現のうえでも他の三壁・天井と異なっている。まず他の壁面の地色が白色なのに対し、西壁は代赭色で北魏の伝統を守っている。人物も表現も他壁が新しい内地の眉目秀麗なすらりとした容姿を採っているのに対し、西域的なエキゾチックな面貌がめだつ。明らかに表現技法が違うのは、正壁の完成年が早かったか、あるいは正壁のみを意識的に敦煌の伝統ある画工集団に請け負わせた可能性もあるという。
いつも枝葉の事柄が気になる私は、龕楣が壁だけに収まりきらず、伏斗式天井にまで侵入して作られているのを面白く見た。
石彫でも、龕楣だけでなく、光背にも同様に上にはみ出して表されているのを見たことがある。それについてはいつの日にか。
また、西壁の地色が代赭色というのは、『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』に記載されていた顔料のうちでは⑥赭石のベンガラだろう。
顔料についてはこちら
敦煌莫高窟の窟内では西壁が正壁で、最も主尊が安置されるなど重要な壁面だが、どうしても天井の方に目が向いてしまう。天人だけでなく、様々な神々が駆け巡る図とその間に描かれた運気文が素晴らしい。

藻井
コピー窟は照明されているといっても下からのライトの為、天井部分はあまり明るく写せなかった。
伏斗式天井の頂部は三重のラテルネンデッケになっている。外枠から一段高くして2つの正方形が描かれていて、半立体的なラテルネンデッケだ。
その中には天人の姿はなく、
その外側には三角垂飾が2段描かれている。それについてはこちら
垂飾の四隅から伏斗式天井の角の線に沿って饕餮の頭がある。これは饕餮の頭部が風鐸の一部になっている程度に思っていたが、今回の解説員である敦煌研究所の王さんは、虎の顔の饕餮が口に念珠を銜えているという。
確かに饕餮の口の中に丸い玉が一つ入っていて、その下には黒い玉(黒く変色しているが当初は赤かったのだろう)と青い玉が交互に連なっていて、しかも、その玉はトンボ玉であるかのように、それぞれ2本の横縞まで描かれている。
饕餮についてはこちら

西坡
上段 中央には②③飛天が向かい合い、その両端には太鼓を叩く①④雷神
中段 両側にいるのは⑤⑥飛廉(『中国石窟敦煌莫高窟1』より。以下も同じ)
飛廉は中国の神話伝説に登場する獣頭鳥身の神獣(『中国 美の十字路展図録』より)というが、ここではコバルトブルーの翼を持った獣として描かれているように見える。
飛廉についてはこちら
龕楣の上 A-蓮華から化生する童子が鮮花を盛った大盆を頭上に掲げる
下段 ⑦朱雀、⑧飛天、⑨名称不明の鳥に乗った仙女、⑩飛天
南坡
上部 中央にB-蓮華の中に摩尼宝珠、両側に⑪⑫飛天
中段 ⑬飛廉や⑭烏荻
下段 ⑮開明、⑯烏荻、⑰飛天、⑱朱雀、⑲兔耳の羽人、⑳烏犾(草冠がつく)
『中国石窟敦煌莫高窟1』は、同じ西魏時代に開かれた249窟の伏斗式天井に描かれた開明について、中国の古代神話に登場する天獣「開明」は、窟頂の東・南・北に3対ある。北の開明は13の首、南の開明は11の首、東の開明は9の首がある。
山海経には、開明獣は「人面の9つの首がある」
という。

開明についてはこちら
東坡
上段 C-中央に開敷蓮華と摩尼宝珠、その左右は人面蛇身㉑伏羲と㉒女媧で胴部には太陽と月の中に三足烏と蟾蜍、手には定規とコンパス。人類創造の神々で、日月神となった
蟾蜍についてはこちら
中段 ㉓飛廉
下段 ㉔開明、㉕㉖力士、㉗烏犾(草冠がつく)、㉘飛天
北坡
上段 ㉙飛廉、㉚㉛飛天、D-その間に托生
中段 ㉜霧を吐く雨師、㉝飛天、㉞人面鳥、㉟雨師
下段 ㊱朱雀、㊲飛天、㊳鉄鉆を持つ霹電、㊴幡を持つ童子の飛天、㊵鹿に似た背中に翼の生えた飛廉、㊶開明
㉞の人面鳥は、迦陵頻伽とは別の鳥を描いたものらしい。迦陵頻伽は唐時代以降に描かれるようになった。
それについてはこちら
見ただけでは⑭⑯⑳㉗の烏犾(草冠がつく)と㉜㉟の雨師との区別がつかない。㊳の霹電も鉄鉆を持っていなければ、烏荻や雨師と見分けられない。
『敦煌石窟精選50窟鑑賞ガイド』は、249窟の伏斗式天井西面について、阿修羅の両側に風雨雷電の四神が対峙するという。その壁画では、雨を降らせる雨師は風神の下で、口から霧のようなものを吐く。霹電の方は雷神の下で両手を広げて踏ん張っているだけだ。
古い中国の神々を見極めるのは不可能に近い。
しかしながら、285窟の伏斗式天井の壁画が素晴らしいのは、中国古来の神話の神々や仏教の飛天などが宙に浮いたり、疾駆しているのが生き生きと描かれているというだけではない。その周囲に、天花と呼ばれる回転しているような花状のものや、二つの青い点、そしてそれらの間を流れているような細い赤い線などが描かれている。
天井は、総称で雲気と呼ばれているそれらによって、天人や神々たちが天井を駆け巡っているような効果をもたらしている。それを眺めていると、酔ってしましそうで、四壁の下にまで目が向かわなかったのだった。

関連項目
敦煌莫高窟7 迦陵頻伽は唐時代から
法隆寺金堂天蓋から2 莫高窟の窟頂を探したら
ラテルネンデッケといえば敦煌莫高窟だが
アカンサス文と忍冬紋
五弦琵琶は敦煌莫高窟にもあった
鐙と鉄騎 何故か戦闘に引き込まれて
敦煌莫高窟285窟の辟邪は饕餮
第63回正倉院展5 臈纈染
飛廉は花の名にも
動物頭の鹿角は中国の開明に?
月のウサギ

※参考文献
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版社
「敦煌三大石窟 莫高窟・西千仏洞・楡林窟」 東山健吾 1996年 講談社選書メチエ74
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 敦煌文物研究所
「敦煌石窟 精選50窟鑑賞ガイド」 樊錦詩・劉永増 2003年 文化出版局

2012/11/27

第64回正倉院展7 疎らな魚々子

今回出陳されていた魚々子地の作品は、どちらも魚々子が疎らだった。
『第64回正倉院展目録』は、古代における魚々子の技術については中野正樹氏の論考があり、それによれば中国・唐では魚々子を一つ一つ丹念に打ち、一列に整然と隙間なく粒を並べる点に特徴があるのに対し、朝鮮半島の統一新羅やわが国の奈良時代では、粒が疎らで隙間が多く見られ、一つ一つが丹念に打たれていないという。

第64回正倉院展で見た銀壺は大きな作品に緻密に魚々子が打ってあり、唐製とされている。
詳しくはこちら
百済の作品にも統一新羅と同様の疎らな魚々子の打ち方を見ることができ、古代の朝鮮半島に共通する特徴であったと考えることができるという。
その百済製作の作品とされているのが、瑠璃坏台脚裾だ。

瑠璃坏 るりのつき 中倉
瑠璃坏の台脚裾に表されていたのはどうもマカラではないかと考えている。
それについてはこちら
 『第64回正倉院展目録』は、この魚々子は、粒と粒とが接しない疎らな打ち方に特徴がある。古代の朝鮮半島に共通する特徴であったと考えるとし、韓国・弥勒寺西九重石塔発見の金銅製舎利外壺との共通点からこれを、7世紀中頃の百済において製作されたという。
それについて詳しくはこちら
金銅小盤 こんどうのしょうばん 南倉
長径14.2短径11.3高4.0
同展図録は、菱形十二曲の脚付き皿で、法会の時に供物を盛る供養具とみられる。銅製鍛造の盤に、厚さ3㎜の銅板切抜きによる華足がとりつけられ、全面に鍍金が施される。盤の内面には花文、草花文、唐草文を毛彫し魚々子地とする という。
本作品では魚々子かどうかさえ判別できないほどまばらだ。
内面の側部は魚々子で草花文の輪郭だけが打ってあり、何らかの理由で毛彫が一部分にしかなされていない。これらの形跡から、表面の文様は、華足を付けた盤に文様の下図を描き、間地に魚々子を打ってから、文様を毛彫するという順番で仕上げられたと考えられるという。  

未完成な作品だが、魚々子地についてはこれで作業を完了しているらしい。
正倉院には他にも疎らな魚々子の作品がある。

佐波里蓋 さはりのふた 南倉
径16.3高1.9
『第56回正倉院展目録』は、佐波理製の鋺(かなまり)の蓋で、身は失われている。鋳造後轆轤挽きして整形されている。
佐波里は銅に錫、鉛を加えた合金。黄金色を呈し、たたくと美しい音色がすることから響銅ともいう。佐波里の名称は、『和名類聚称』によれば新羅語の転化というが、ペルシャ語に起源があるとする説もある。飲食器仏具に使用される場合が多い。
やや甲盛があり、側壁はやや内側へすぼまる形状で、蓋上面中央に環状の紐をつくりつける。上面は鈕の部分と、その外側を突帯によってさらに2区画に分け、鈕の内側の部分に四弁の宝相華文、外側の2区画に唐草文様を配している。地の部分にはやや粗雑ながら魚々子が施されるなど装飾性が見られるという。
魚々子は円になっていないものの方が多い。魚々子は丸鏨(魚々子鏨)で打つことによって丸い形が穿たれるが、技術が未熟だったのだろうか。それとも、丸鏨がまだなかったので、毛彫用の鏨で丸く彫ろうとしたのだろうか。
ゆったりと器を飾る唐草文様とは同時期に作られたものと思われないほど技術の差がある。
金銅磬形 正倉院宝物
『日本の美術358唐草紋』は、銅板を切り抜いた磬形板の表裏に唐草紋を線刻し、地に魚々子を打ち、全面に鍍金をしている。盤の下につけらけたものであろうという。
『日本の美術437飾金具』は、魚々子地に躍動感あふれる唐草を毛彫にしたもので、相当工人の素性に関心が持たれるという。
画像が鮮明でないためわかりにくいが、上の2作品と比べると魚々子は密に打たれている。輪郭線に沿って打たれている箇所も見受けられる。
ただ、唐草文様は、佐波里蓋に比べると、茎から出た小さな葉などはかなり省略されており、佐波里蓋よりも時代が下がるのではないかと思われる。
投壺 正倉院宝物
『日本の美術358唐草紋』は、投壺は中国から伝わった儀礼としての遊戯。「つぼうち」という。表面には全面に魚々子地に線刻紋様を表す。頸部下段と胴部中央に花唐草紋の帯があるという。
本作品は金銅磬形よりも魚々子が疎らだが、胴部の花唐草文は佐波里蓋に近い表現となっていて、制作時期が近いことがわかる。
金銅六曲花形坏 こんどうろっきょくはながたのさかずき 南倉
高4.1口径8.3
『第37回正倉院展目録』は、銅鍛造鍍金の小振りの花形のさかずき。弁間に猪目を透す六花形の鋺に別造の高台を鑞付けし、各弁端表から底裏にまで装飾をほどこして鍍金した華麗な品である。
施文は魚々子地に線刻で、竽、琵琶、横笛、笙、琴、鼓を奏する6躯の奏楽天人を表すが、間地を魚々子地一色とはせずに、所々に花文を散らし、いかにも浄土に舞う奏楽天人にふさわしい趣きをみせているという。
鋳造ではなく鍛造のためか、六曲の稜が不揃いで、しかもいびつである。残念ながら、奏楽天人はその稜のところに表されているためわかりにくい。
魚々子の方は疎らに打たれている。
正倉院宝物で魚々子地のあるものは、明らかに唐からの請来品の精巧な作りのもの、百済からの疎らな請来品、日本製だが疎らなものと密になっているものと、4種類あるように思う。


第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?←

                                                     →第64回正倉院展8 螺鈿紫檀琵琶に迦陵頻伽

関連項目
第65回正倉院展6 続疎らな魚々子
第64回正倉院展5 今年は怪獣が多い
第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか
第62回正倉院展4 大きな銀壺にパルティアンショット
日本に金銀山水八卦背八角鏡より古い魚々子地があった
魚々子の起源は金粒細工か
中国の魚々子と正倉院蔵金銀八角鏡の魚々子

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「第56回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2004年 奈良国立博物館
「第37回正倉院展目録」 奈良国立博物館 1985年 奈良国立博物館
「日本の美術330 飛天と神仙」 林温 1993年 至文堂
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「日本の美術437 飾金具」 久保智康 2002年 至文堂

2012/08/14

虎は最初から虎神だった



四神のうち、虎だけが現実に存在する動物だ。中国ではいつ頃から虎が登場するのだろうか。

龍虎尊 銅 殷、二里岡期(前16-14世紀) 安徽省阜南県朱砦出土 高50.5㎝ 口径45.0㎝ 北京市中国歴史博物館(現中国国家博物館)蔵
一目で虎とわかる動物が、尊の肩下左右に見られる。
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、腹部には三方に大型の饕餮文があり、 ・・略・・ 饕餮文のあいだには、肘と膝を強く折り曲げた人物がおり、その頭には口の上ぐらいまで虎のような顔つきの動物がかぶりついて、まさに頭を飲み込もうとしている。虎は浮彫で高く表され、C字状の角が飛び出している。胴体は左右に分かれて広がり、前後の足の爪もリアルに表現されている。ここでは飲み込まれた頭部の表現は不明ながら、悪霊を虎形神が調伏する姿を描いたものと思われるという。
耳に見えたものはC字状の角だろうか。
しかも、ただの虎ではなく、虎形神という。饕餮と共に魔除けや辟邪だったのだ。
『三星堆展』で龍虎尊を見た時は、解説文をよく読まず、横向きの虎が左右から顔を合わせると正面向きの虎になり、その胴体が下に表されている、つまり「正面向きの立ち上がった虎」だと思ったのだった。
そして、ミュージアム・グッズにこの頭と胴体のキーホルダーがあったので、面白いので買ったが、使っているうちに体の方がちぎれてなくなってしまった。
二里岡期の龍虎尊の図柄もきっとそういうものだろうと思ったが、とんでもなかった。そこで、改めて『三星堆展図録』を開いて見ると、 

龍虎尊 四川省広漢市三星堆出土 殷後期(前14世紀末-前11世紀頃) 青銅   残高44.5㎝口径29.0㎝
『三星堆展図録』は、腹部に3組の食人虎を表現する。虎は、丸い目、大きな耳をもつ頭が肩の下にあり、ここから左右に浮き彫り風の身体が分かれ、尾は下に垂れ下がった先が少し巻いている。虎の身体には羽根状の縞模様があり、左右それぞれ前足と後足を表現している。虎の頭の下には、肘と膝を曲げた人物の身体があり、虎が歯をむきだして人を頭ごとのみこむ場面を表現している。この人物の左右には鳥形の文様がある。
虎が人間の頭からくわえる図像は殷代の青銅器にしばしばみるところである。多くの場合、人間は髪をざんばらにふりみだした裸の「鬼」、すなわち死者の怨霊の姿であらわされている。虎はそれを退治する役割をもっていたのであろうという。
やっぱり虎には怨霊を退治する「神」で、私の考えていた「正面向きの立ち上がった虎」では全くなかった。
安徽省出土の龍虎尊の図柄とよく似ているので、中原から長江流域の四川盆地へと伝わったのだろう。
虎卣 西周前期(前11-前10世紀) 通高35.7㎝口縁径10.4X9.0㎝重量5.09㎏ 泉屋博古館蔵
『泉屋博古 中国古銅器編』は、虎が後足と尻尾で立ち上がり前足で人を抱える様子を表した器。虎の背中には大きな饕餮面があり、その鼻が象鼻形にのびて虎の尻尾となる。側面にも様々な饕餮や龍が配され、神虎にふさわしい風格を具えている。虎が人を抱きかかえた図像の解釈には、神虎が邪鬼を食べる辟邪の思想を表すという見方や、虎が人を守護するという見方があり、いずれも決定的証拠に乏しいという。
時代は下がっても虎は「神虎」だった。やっぱり魔除け、あるいは守護神だった。
ところが、西周時代も後半になると、虎は主役ではなくなってしまったようだ。それは饕餮文が窃曲文になっていくのと時を同じくしているようだ。
窃曲文につしいてはこちら

逨盉(らいか)部分 銅 高48長52 陝西省宝鶏市眉県楊家村出土 西周時代・前8世紀 宝鶏青銅器博物館蔵
『中国国宝展図録』は、長い注ぎ口と把手があり、3本ないし4本の足がつく容器を盉という。中国の古典の記述から、香り草の煮汁と酒を混ぜて調合し、杯に注ぐ器と考えられる。
本作は体部が小太鼓を立てたような形で、身の円形の側面の中央にはとぐろを巻く長い龍が表され、注ぎ口は首の長い獣を、蓋は鳥をかたどるなどの特徴があり、独特の雰囲気をもっているという。
胴部の把手は龍のようでもある。容器と鳥形蓋の繋ぎ具が虎と、少なくとも4種類の動物が表されていてどれが主役かわからないが、虎はすでに神ではなくなってしまった。
蟠螭文壺 「黄夫人」銘 銅 春秋前-中期(前7世紀) 河南省光山県黄君孟夫婦墓出土 通高30.7㎝口径10.3X12.0㎝ 河南省、信陽市文物管理委員会蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、肩部両側に獣形の耳がつくという。
長い胴部の縞文様から虎を表しているのだろう。
耳を獣形にするというのは、古くから行われていることで、やっぱり魔除けなどの意味があったのだろうが、殷の時代に神であった虎は、脇役になってしまった。
しかし、その後四神のうちの白虎として復活する。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「三星堆 中国5000年の謎 驚異の仮面王国展図録」 1998年 朝日新聞社
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社
「泉屋博古 中国古銅器編」 2002年 泉屋博古館

2007/04/09

鬼瓦と鬼面



饕餮が瓦当に表され、それが辟邪であるという『中国古代の暮らしと夢』展図録の解説(
饕餮文は瓦当や鋪首に)があったが、中国では仏教の伝来と共に、瓦の文様は蓮華が主流となっていったことや、鬼瓦にわざわざ鬼面をつけて呼ぶ場合があるため、日本では鬼瓦の最初は鬼面ではなかったのだろうと考えていた。たぶん大きな瓦を大瓦と呼び、やがて鬼瓦となっていったのだろうと勝手に思っていた。 何故大きな瓦を載せるのかというとやっぱり、雷除けや魔除けという役目があるのだろうと想像していた。
ところが『日本の美術391 鬼瓦』には全く異なることが書かれていた(引用はすべて同書)。
鬼瓦というと、多くの人はお寺の屋根の上から形相するどく見おろす大型の瓦を思い起こすはずだ。そして魔よけであるとか、外敵に対する守護神といった役割を想定するであろう。たしかに鎌倉時代後期(14世紀)以降の鬼瓦は、手づくりによる立体的な造形で、角を生やし、大きく口をあけて牙をむきだし、いかにも「鬼瓦」と呼ぶにふさわしい奇怪なつらがまえをしている。そしてこの頃までに「鬼瓦」と呼ぶようになったことも確かである。しかしながら、鎌倉前期までの鬼瓦は、笵という雌型に粘土を詰めて抜き出し、半肉彫りの紋様を表した、薄い板状の焼物であった。

では「薄い板状の焼物」の最初期のものはどのようなものだったのだろうか。

1 蓮華紋鬼瓦(法隆寺鬼瓦1) 法隆寺若草伽藍出土 7世紀前半 残存高20.3cm 最大厚4.4cm
3分の1ほどの破片であるが、幅広で上辺がゆるくアーチ型に粘土なし、3個3列の蓮華紋を配した形に復原できる。 ・略・ 
日本ではじめて建立された瓦葺建物は、崇峻元年(588)に着工した飛鳥寺の伽藍であった。しかし、飛鳥寺からは創建時の鬼瓦は見つかっておらず、今のところ「わが国最古の鬼瓦」の呼び名は法隆寺出土の蓮華紋鬼瓦にふさわしい。
裏面には取りつけ用の刳りがあり、塔の隅棟用と考えられている。朝鮮半島では、百済の寺院跡などからよく似た紋様の手彫りの石製鬼瓦が出土しており(扶余扶蘇山廃寺など)、本例が百済文化の系譜下にあるのは間違いない
という。
日本の最初期の仏像と同様、鬼瓦もまた半島からもたらされたものだった。蓮華文というよりも、幾何学文に見える。線を引き、手彫りしたことが現在でもわかる。
2 蓮華紋鬼瓦 奈良県明日香村平吉(ひきち)遺跡出土 7世紀中頃 厚2cm内外 奈良国立文化財研究所蔵
高さ37cm、幅35cmのやや縦長な方形に復原でき、下辺中央に半円形の抉り(えぐり)がある。弁端が天地を向くよう配置、まわりに連珠紋を28個めぐらせる。 ・略・ 岡山県都窪郡末ノ奥窯から出土した破片は同笵であるという。
驚いたとこに、日本における瓦屋根建築の草創期とも言えるこの時期に、遠く離れた岡山県で瓦が焼かれ、明日香村まで運ばれていたのだ。同じ岡山県下の熊山遺跡(世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続) )から吉井川を越えた万富には東大寺の瓦窯跡があるが、末ノ奥窯の方がもっと古い。
やや蓮華らしくなってきたがまだまだぎこちない。文様としての蓮華は将来されているが、当時の日本人は蓮華の花を見たことがなかったのだろうか。
3 蓮華紋鬼瓦(山田寺1式) 山田寺跡出土 641年前後 高36.5cm 幅40.3cm 厚約5cm 奈良国立文化財研究所蔵
舒明18(641)年に造営をはじめた山田寺でも、「山田寺式」軒丸瓦に似た、蓮弁中央に子葉を1枚重ねた単弁蓮華紋を飾った鬼瓦を使用している。 ・略・
大棟には鴟尾がのるので、降棟ないし隅棟用である。
上端はごく緩い弧線を描き、左右下端に半円形の刳り込みをもつ。蓮弁は重弁。中房にはまず十字に割り付け線を入れ ・略・ 蓮弁は笵で起こした後、ヘラで弁の輪郭や反りを整え、弁央の鎬(しのぎ)を強調してある
という。
2とあまり変わらない頃に制作された瓦だが、だいぶ蓮華らしく表されているのは、5cmという厚みがあるからだろうか。5cm近くの厚いものが焼ける瓦窯だったのだろうか。
4 鬼面紋鬼瓦 太宰府政庁東北台地出土 7世紀末-8世紀初 高47.1cm幅43cm厚15.5cm
顔面のみを表すが、下顎・下歯の表現を欠き、鬼面全体が高く盛り上がる。外形は円頭梯形で、外縁にそって大粒の珠紋を巡らす。
畿内における獣身紋鬼瓦の登場とほぼ軌を一にして、北部九州では太宰府政庁を中心にしたいわゆる「太宰府式」の鬼面紋鬼瓦を用いはじめた。平城宮よりわずかに先んじており、鬼面紋鬼瓦としてはわが国最古のものといえる。 ・略・
太宰府式の鬼面紋鬼瓦は、太宰府政庁地域のほか、その付帯施設である水城、豊前国分寺、大分県弥勒寺跡、肥前国分寺、薩摩国分寺 ・略・ などから出土しており、その広がりはほぼ九州全域に及んでいる。 ・略・
一般に7世紀後半代の統一新羅に源流を求めることができるとされる。たしかに、円頭台形の外形、外区の珠紋、鬼面の全体的なあり方は類似する。しかしながら、太宰府式は角を生やしておらず ・略・ 下顎を欠く点からも、新羅の鬼瓦とは異なる。むしろ中国あるいは渤海からの影響を考慮すべきであろう。
という。
鬼面鬼瓦は半島よりも中国の可能性が示唆されている。やっぱり饕餮と関係があるのだろうか。
では、中国ではどうだったのだろうか。

今までに判明している限りでは、鬼瓦の使用は北魏代になってからである(北魏洛陽城など)。そして唐代になってからも長安城などからの出土例がないことはない。ところが、これらはいずれも鬼面紋タイプなのである。『唐令』は「宮殿皆四阿、施鴟尾」と述べており、大棟には鴟尾を飾ったと思われる。したがって、鬼瓦はあったとしても降棟ないし隅棟用であろう。 ・略・ということで、 鬼面鬼瓦らしいことしかわからない。鬼面と饕餮文の関係はなおさらわからない。あまり拘らないほうが良いのかも知れない。

※参考文献
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂

2007/04/06

メドゥーサの首

 
メドゥーサは、自分を見た者を石にしてしまうゴルゴン3姉妹の1人で、怪物としてギリシア神話に登場する。だからそれを退治したペルセウスは英雄である。しかし、メドゥーサは、その後も悪者として扱われたわけではない

4  プロト・アッティカ式アンフォラ 前660年頃 ポリュフェモスの画家 エレウシス出土 ギリシア、エレウシス考古博物館蔵 
このアンフォラ(壺)は子供の遺体を納めたまま発見され、最初から甕棺として作られたと考えられている。石に変えてしまう程の力が、辟邪として好まれたのだろうか。
ただし、この2体はメドゥーサではなく、その2姉妹らしい。メドゥーサだけでなく、このゴルゴン3姉妹は髪が蛇だが、どうみても蛇に見えない。顔も壺のようでもあり、恐ろしさとはかけ離れた表現となっている。続いてメドゥーサは神殿破風の中央に進出する。破風と言えば神殿正面上部の三角形の壁面で、外からは一番目立つものである。

5 アルテミス神殿破風のメドゥーサ 前580年頃 コルフ(ケルキラ)島出土 ギリシア、ケルキラ考古博物館蔵
メドゥーサは疾駆するかのように力強く表されている。体は横向きなのに丸い顔は正面を向いている。髪に限らずあちこちに蛇が表されている。
これは明らかに、アルテミス女神を祀る神殿内部に、魔物や悪意のあるものが入り込まないための魔除けである。壺絵と異なり、非常に迫力が感じられる。6 コリントス黒像式ヒュドリア 前570-550年頃 ダモスの画家 チェルヴェテリ出土 パリ、ルーヴル美術館蔵
ヒュドリア(壺の一種)はトロイ戦争で没っしたアキレウスの通夜哀悼図「アキレウスの死を嘆き悲しむネレイスたち」である。
アキレウスの横たわる寝台の下に、彼の兜と盾が置かれている。
その盾全面に描かれているのがメドゥーサの首のみで、もはや疾走する力強い体は表されなくなる。四角い盾にさえ、中央にメドゥーサの首だけが描かれるようになるのである。
この「メドゥーサの首」はその後ローマ時代になっても護符として好まれたようだ。フェニキアの人頭玉・人面玉のアレクサンドロスの胸(ポンペイ、ファウヌスの家の舗床モザイク、前180から170年)にも付いていた。7  セリヌンテC神殿メトープ 前530から510年頃 セリヌンテ出土 イタリア、パレルモ美術館蔵
メトープ(装飾板)には何故、魔除けとしてではなく、怪物のメドゥーサが首を切られる場面が表されているのだろうか?
それは、神殿の柱の上部には神話の英雄を讃える図(浮彫)をかかげるというのがギリシアの伝統なので、魔除けではなく、ペルセウスの英雄物語ということである。メドゥーサは怪物として登場するので、出現の仕方が異なるかもしれないが、時代が下がると本来の意味が失われ、建物や墓室を守る辟邪として瓦当や鋪首に表されるようになっていった(饕餮文は瓦当や鋪首に)饕餮文とも共通しているように思う。

※ 参考文献

「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館

2007/03/26

鋪首の饕餮文は変化して北魏にも



辟邪としての饕餮文が墓室に限らず、いろんな建物に鋪首として使われたが、当書庫にはその後の時代の図版がなかった。 やっと見つけたのが北魏時代(386から534年)のものだった。遺物として残っていなくても、連綿と続いてきたからこそ鮮卑という北方遊牧民の統治した北朝にも表されたのだろう。

15 透彫鋪首と環 銅 高18.7cm 北魏時代(5世紀後半) 寧夏回族自治区固原県西郊出土 固原博物館蔵
『
中国 美の十字路展図録』は、方形の鋪首の下に、環状の取っ手を付けた青銅製の飾りである。鋪首は丸い大きな眼と三角形の高い鼻の獣面をしており、2本の角の間には ・略・ 左右2頭の龍と中央の人物からなり、 ・略・ 龍の上に立っている。下部の取っ手部分は、2頭の龍によって環状に作られ、 ・略・ 環の中央に立つ人物は、鋪首の人物とほぼ同じ姿態であるが、高髻の頭部、豊満な顔立ち、着衣の様子などがよくわかり、仏像の表現であると考えられるという。
饕餮と思われる獣面文に人物が入り込んで、複雑な形状となっている。上の人物は両側に龍を従えたような気配がある。
饕餮文を探していて、いつの間にか仏教時代に入っていた。
16 磚室の墓室 北魏時代 出土場所不明
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、墓の内部構造は中国風であるが、石刻には西域の趣が見られるという。

西域の趣は私には感じられないが、「漢民族の宮殿をまねた石造りの柱」というのはわかる。法隆寺金堂天蓋から 3中原の石窟には の鮮卑墓より出土の模型のフェルト製テントや550年没の鄰和公主の墓室から見ても、この磚室の墓室は中国色の強いものである。
そして鋪首の数の多いことには驚かされる。出入口が多いのか、辟邪として壁面のあちこちに付けられたのだろうか。
17 獣と戦う戦士をかたどった鋪首 16の部分
同書は、鋪首とは、ドアにとりつけられたノッカーにあたる獣面の装飾のことである。戦士は鮮卑人の姿をしており、獣の角をつかみたいへんな勇敢さを見せている。墓室と墓主の平安を守る意味を具象化したものであるという。

鮮卑風の力持ちの戦士が、中国風の饕餮文あるいは獣面文と組み合わさったことがわかる。
18 獣を馴らす北方民族の文様が入った金の飾牌 北魏時代 内モンゴル哲里木盟出土 内モンゴル哲里木盟博物院蔵
同書は、北方民族はつねに馬に乗っており、革帯を着けていなければならなかった。飾牌は腰帯につけていた装飾品である。この金の飾牌は、獣を飼い馴らす様子をテーマにしているという。

野生の馬を飼い馴らしているにしては尾が馬とは異なる。この獣はたてがみのあるライオンのような肉食獣のようだ。このようなモティーフは、南ロシアのスキタイなど、イラン系の北方民族にはなかったように思う。鮮卑独特のものかも知れない。
このように、かなり空白の期間があるが、鋪首には饕餮文、あるいは饕餮文から派生した獣面文が作られ続けた。そして、北魏時代になると、鮮卑独特の獣を飼い馴らす人物と組み合わさり、仏像までがその中に組み込まれることもあったようだ。

※参考文献
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「図説中国文明史4秦漢」 劉煒 2005年 創元社

2007/03/23

饕餮文は瓦当や鋪首に


何か饕餮文のあるものがないか調べてみると、瓦当(がとう、軒丸瓦・鐙瓦)が見つかった。

11 半瓦当 灰陶 戦国時代の燕国(前403-222年) 個人蔵

 『中国古代の暮らしと夢展図録』は、屋根を瓦で葺くということは西周時代(前1044-771年)に始まったとされる。戦国時代になると諸国が都市や宮殿など土木事業を盛んに行ったので、製瓦業が発達した。瓦当は軒に配置される丸瓦の頭で、戦国時代には地域ごとに特色ある装飾がなされ、大建築を飾った。饕餮文の半瓦当は燕国(現在の河北省地域)の典型である。饕餮とは、口だけあって腹がない神話上の怪物で、なにもかも喰らい尽くすといわれ、殷・周時代の青銅器には欠かせない辟邪の文様であった。力強く重厚な作行きである。この半瓦当の大きさ(径37.0cm)からみて、想到に大きな建築物を飾っていたことが推測されるという。
この展覧会では幾つか瓦当があったが、これは特に大きかった。しかし、当時は饕餮は辟邪であると思っていたし、大喰らいのことは聞いていたので、この解説に納得した。
しかし、饕餮は王だったのかでそうではなかったことがわかった。何時の頃からか、饕餮文が辟邪として表されるようになり、この戦国時代の瓦当に表された饕餮文は、すでに辟邪という役割があったのだろうとしか言えない。
瓦当はたくさん遺物があるようだが、図版としては11しかなかった。「中国文物資料館 アトリエ246」の戦国時代の最大級瓦当には戦国時代、11と同じ燕国の瓦当と、斉国のものが出ていて、それぞれの特徴がわかる。
また、検索していると奈良国立博物館の『メールマガジン 第9号』にあたり、「特集展示 日本瓦の源流」というのがあることが分かった。3月26日までなので間に合ったと思ったが、よく見ると平成18年2月のものだった。1年前に気がついていれば見に行くことができたのに、残念!

他に饕餮文に似たものはないか探してみると、鋪首(ほしゅ)の獣面が気になってきた。

12 玉環金鋪首 玉、金 長さ2.8cm 戦国時代(前5-3世紀) 陝西省千河県出土 宝鶏市陳倉区博物院蔵

『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、金製の獣面と玉製の円環からなる鋪首(扉のノブ)。扉や器物の引き手の役割を果たすとともに、魔除けとしての意味が込められた器物で、戦国時代から作例があり、  ・・略・・  獣面は、ふたつの大きな目と獣の耳をもち、額に矢印のような文様をもつなど、殷周時代以来の饕餮文の系譜に連なる意匠と考えられるという。
青銅器から消えていった饕餮文は、恐ろしい獣の顔面であったために、辟邪ということで生き延びることができたのだろうか。
13 獣面文の玉製鋪首 大きさ不明 前漢時代(前206-後8年) 陝西省咸陽市茂陵出土 陝西茂陵博物院蔵  
『図説中国文明史4秦漢』は、宮殿の正面に飾られた。中央の獣面文は、口を開いて鼻を巻き、歯を露わにしており、その形態が凶暴であるため、魔除けと墓を鎮める働きがあるという。
饕餮文と特定してはいないが、12と全く違うものとも思えないので、これも饕餮と思って間違いないだろう。シルクロードを開拓した武帝の墓から出土したものらしい。
14 鎏(りゅう)金銅鋪首 青銅鍍金 高7.8cm 前漢(前2-1世紀) 陝西省西安市紅廟坡村出土 西安市文物保護考古所蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、12に比べ、獣面の表情が整合され、より現実の獣のそれに近くなっているのは、時代の推移によるものであるが、邪悪なものを打ち払うという意味合いをもつことに変わりない。宮殿建築をはじめ、各種の建物に多用され、また、地下に営まれた墓の門扉などに設置されることも多かったようで、今日でも戦国から漢、唐時代にいたる相当数の作例が知られているという。
12・14が小さなものなので、このような鋪首は副葬品に付けられてるのかと思ったが、現実の建物にも付けられていたのだ。鎏金は金メッキ。
このように、青銅器では饕餮文は窃曲文になってしまったのかも知れないが、辟邪として残ったからこそ、敦煌莫高窟285窟の辟邪は饕餮だったのだ。前漢から西魏まで、饕餮文を辿ることができるだろうか。

※参考文献
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005年 発行は様々な美術館
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂
「図説中国文明史4秦漢」 劉煒著 2005年 創元社