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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/03/19

饕餮は王だったのか


饕餮が大喰らいの怪物であることを聞いて、しばらくしてから、「饕餮は王の顔である」というような新聞記事を見つけて、またもや驚いた。 もうだいぶ前のことなので、誰の書いたどんなものだったか忘れてしまったが、エジプトのスフィンクスのようなものなのだろうか。
その記事に泉屋博古館が制作した青銅器に関する本があることがわかった。
泉屋博古館は京都、東天王町東入るにある住友コレクションを展観している美術館である。久し振りに出かけ『泉屋博古 中国古銅器編』を入手した。さて、その本に書かれた饕餮の定義は、 
怪獣の正面形を表した文様である。中心に大きな鼻梁を配し、その左右に、巨大な眼、一対の角(水牛形や羊形など様々な形がある)、眼の下には歯列を表現した大きな口、横には虎のような耳が付く。さらにその側面に胴体や足などが表現される例も見られる。 ・略・
「饕餮」は本来大食らいの悪鬼を指す言葉であったが、宋代の学者が、逆に邪鬼を食らいつくす怪獣として、この文様に饕餮文という名を与えた。なお中国では、現在この文様を「獣面文」と称している。饕餮文は商から西周前期にかけて、青銅器の目立つ位置に主文様としてほどこされている場合が多く、当時最も重要視された文様である。

というものだった。「商」は殷時代の中国での名称。なるほど、青銅器の文様が元々大喰らいのものを表したのではなかったのだ。

3 饕餮文罍(らい) 銅製 殷、二里岡期(前16-14世紀) 河南省鄭州市白家荘出土 河南博物院蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、用途は小型の酒甕である。 ・略・ 胴部には、連続雷文帯のあいだに浮彫りの表現となった饕餮文が三つあり、目、角、鼻梁、大きく開いた口の表現が明瞭に認められる。 
殷後期以後のさまざなま文様はいずれも鬼神の表現であり、饕餮はそのもっとも重要な鬼神であったと理解される。 ・略・ 宋代以降にこの文様に饕餮の名をあてはめるようになったが、その比定はあてはまらないことがほぼ確実で、殷王朝にとってきわめて重要な意味をもつ神、その信奉する神(祖先神ないし天上の最高神)の表現に考えられる
という。
4 饕餮文鼎 銅製 商後期(殷後期、安陽期、前14から11世紀) 泉屋博古館蔵 『泉屋博古 古銅器編』は、ふくらんだ三つの胴部に、それぞれ大きな饕餮文がほどこされ、 ・略・ 文様は非常に細い沈線で表現されている。商後期より西周前半ころまで製作された鬲(かく)鼎のなかでも、器形・文様からみて、古い段階のものと考えられるという。
確かに凹凸がほとんどなく古様を示している。3の饕餮文罍の方が凹凸があるが、製作年代を殷の前半とするのは、脚部の穴であるという。
日本の銅鐸にも製作上の必要性からこのような穴がある。技術が向上して、安陽期つまり殷後半には穴は消滅したらしい(『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』より)。
5 饕餮夔(き)鳳文尊 銅製 西周前期(前11から10世紀) 伝河南省洛陽市出土 兵庫県、白鶴美術館蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、青銅器のもっとも重要な文様で、俗に饕餮文と呼ばれる獣面文は河姆渡(かぼと)文化から続く太陽神の系譜を引くもので、やはり崇拝の表現であったと思われる。饕餮文は殷後期には中央の鼻梁の線を中心として左右対称に文様が展開し、角、目、耳、眉、爪の表現があり、胴体が左右に展開している。二里岡期前半にはいまだ目が中心で、角や体は表現としては未発達で、二里岡期の後半に至ってしだいに複雑な表現をとるようになってくるという。

河姆渡文化は2007年の干支 亥の像1の1「黒陶猪文鉢」と同じ時代で、前5300年頃から前3800年頃。
このように饕餮の定義はばらばらのようである。私の持つ本の中で一番新しいものが『中国国宝展』図録なので、その中に書いてあることをあげてみると、
目を見開いた獣の顔のような文様が表されている。こうした文様は商時代から西周時代にかけての青銅器にしばしば表され、当時の人々にとって重要な存在であったことは疑いない。饕餮文と呼び慣わされているが、本来の意味は不明である。天帝、つまり天の最高神とする説もあるという。

いろいろと説があるものだが、青銅器の饕餮文は、辟邪でも、大喰らいのものを表したものでも、ないのは確かである。とりあえず、当時の権力者が最も畏怖を感じる何者かだったのだろう。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「泉屋博古 中国古銅器編」 2002年 泉屋博古館
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社