お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2025/07/22

オスマン帝国時代のモスクの変遷 ミマールスィナン以前


オスマンガズィが1299年に小国として独立し、2代目オルハンガズィが1326年にブルサに都をおいて、モスクを建てた。
トルコの一連の旅で、オスマン帝国初期の皇帝たちは、修行僧のデルヴィッシュのための小規模なモスクを建造していたことや、デルヴィッシュはイスラーム神秘主義のスーフィーに属していることを知った。デルヴィッシュは皇帝たちと密接な関係にあったことも。
また、イスラームの一般の信者のための大規模なモスクも建造されるようになった。


建設年:1339年(1417、1864に大修理) 建設者:第2代皇帝オルハンガズィ
『トルコ・イスラム建築紀行』は、このモスクは逆T型プランの最初の建物として重要という。
①ミフラーブ ②ミフラーブ前のドーム(礼拝室) ③ホール ④礼拝室入口 ⑤ソンジェマアトイェリ(礼拝時刻に遅れてきた人が礼拝するところ) ⑥右ザーヴィエ(デルヴィッシュ達の宿泊所兼修道場) ⑦左ザーヴィエ
一般の信者のためのモスクというよりは、修道僧(デルヴィッシュ)のためのモスクだった。
ブルサ オルハンガジジャーミイ平面図 トルコ・イスラム建築紀行より

キブラ壁
②礼拝室はドーム一つ分外に突き出ている。
中央に①ミフラーブ、右隅にミンバルが設置されている。
ドームはスキンチによって正方形、八角形から円形を導きドームを架構している。スキンチにはムカルナスではなくトルコ襞

③ホールのドーム架構にはトルコ扇
は四隅から、現在では装飾のないトルコ扇が出て八角形をつくり、窓とトルコ襞が交互に配されている。アナドル・セルジューク朝時代に建造されたコンヤのブユック・カラタイ・メドレセのトルコ扇(1251)は、三角形が五つに分割されていた。ひょっとするとオリジナルはそうなっていたのかも。


『トルコ・イスラム建築』は、1360年代になって、アドリアノーブル(現エディルネ)を攻略したオスマン朝は、1368年にエディルネを首都とし、以後エディルネを拠点としてヨーロッパ側の領土の拡大とその統治を推進した。しかし、しばらくの間は、宗教と文化の中心は古都ブルサに置かれ、この時期の主要な建築はブルサに建てられていたという。


建設年:1396-1400年 建設者:第4代皇帝バヤズィット一世(在位1389-1402)
小ドームが4X5個ある多柱式モスク。移行部は八角形のドラム。
ブルサ ウルジャーミイ外観 『トルコ・イスラム建築紀行』より

ウルジャーミイ平面図(南北が逆) 『トルコ・イスラム建築紀行』より
①ミフラーブ ②多ドーム式礼拝室 ③明かり取りとシャドゥルヴァン(清めの泉亭) ④東の脇入口 ⑤西の脇入口 ⑥正面入口 ⑦ミナーレ(西のミナレットは、建物内部から入るようになっている)
ブルサ ウルジャーミイ平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より

キブラ壁には五つの小ドームが並び、中央の小ドームに①ミフラーブが置かれている。キュンデカリ技法のミンバルはその小ドームの柱間の内側右に設置されている。

外側は八角形ドラムだったが、中側は四隅から立ち上がったペンデンティブ上部はすでに円形でアヤソフィアタイプ。小窓が八つある。
太い角柱と尖頭アーチが仕切りのように等間隔であるので、全体を見渡せない。
『トルコ・イスラム建築』も、礼拝室は、ピアが太いので全体への見通しが利かず、空間の一体感は薄い。ピアも天井も漆喰が塗られ、花紋様の輪郭と大柄の文字紋様が描かれているのが独特であるという。
一般の信者のためのモスクとして造られた。一体感とは、金曜日の集団礼拝のことを言っているのだろう。


建設年:1414-1424 建設者:第5代皇帝メフメット一世(在位1413-21)
『トルコ・イスラム建築紀行』は、逆T型モスクの最高傑作。正面側が横に広く、後方が狭いプランで、Tを逆にしたようなので、逆T型という。デルヴィシュ達の宿泊・活動場所のザーヴィエがある。モスクというより、デルヴィシュ達の活動場所としての機能が主という。
修道僧のために造られたモスクは小型で、副室としてデルヴィッシュたちが泊まる部屋を造っている。

モスク平面図
①ミフラーブ ②ミフラーブ前のドーム ③トルコ襞 ④中央ホールのドーム ⑤採光塔 ⑥スルタン用マフフィル ⑦ミナーレ ⑧入口 ⑨未建設のソン・ジェマアト・イェリ ⑩ブルサ・アーチ ⑪ザーヴィエ(デルヴィッシュ達の宿泊所兼修道場) ⑫ムアッジン用マフフィル ⑬二階への階段
イェシルジャーミイ平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より

『トルコ・イスラム建築』は、ミフラーブ前の礼拝室を覆っているドームは直径11.3m、高さ23.0mである。正方形平面の四方の壁から円形ドームへの移行には、どちらのドームもトルコ襞と呼ばれる手法を用いているが、ミフラーブ前の方がより複雑で装飾的であるという。
礼拝室のトルコ襞はより鋭角で、しかも複雑に入り組んでいる。
そして、二つの部屋の境目にはブルサアーチと呼ばれる扁平なアーチがあって、これも特徴の一つ。

キブラ壁
オルハンガズィジャーミイでは部屋一つ分外に突きだしていたが、この礼拝室は半分ほどに収まっている。中央にタイル張りの幅広のミフラーブ、右隅に木製のミンバルを設置するのは同じ。


同書は、エディルネに建築活動の重点が置かれるのは15世紀半ば近くになってからである。1453年にコンスタンティノープルを征服し、イスタンプルと改名して首都とすると、イスタンブルでの建築活動が開始されるが、エディルネでの建築活動も1480年代まで続いたという。


建設年:1389-1402年 建設者:第6代皇帝ムラト二世(在位1421-44、46-51)
一般の信者のための礼拝施設

平面図 『トルコ・イスラム建築』より
①モスクの正門 ②中庭 ③シャドゥルヴァン ④回廊 ⑤ソン・ジェマアト・イェリ(礼拝の時刻に遅れてきた人が祈る場) ⑥礼拝室正面入口 ⑦礼拝室主ドーム ⑧ミフラーブ ⑨主ドームを支える巨大支柱 ⑩礼拝室両脇のドーム 10-a礼拝室脇の小ドーム 10-b小ドーム ⑪礼拝室脇入口 ⑫三つのバルコニーのあるミナレット ⑬中庭への脇入口 ⑭捻れたミナレット ⑮縦溝のあるミナレット ⑯石畳文様のミナレット
エディルネ ユチシェレフェリジャーミイ平面図 『トルコ・イスラム建築』より

主ドームについて同書は、主ドームの直径24.1mに比べ、その高さは28.5mと低く、圧迫感を受ける。主ドームの底部には12個の小窓が空けられているが、入る光は多くなく、礼拝室は明るいとはいえないという。
これまでのドームよりも広いが、広々とした感じはなかった。

礼拝室は奥行きがないため、中に入るとキブラ壁が間近にあった。大理石製のミフラーブも右付け柱の内側のミンバルも目立たない。

同書は、主ドームの東西には、直径10.5mのドームが2個ずつ配置され、礼拝室を横に広げ、横幅約64m奥行き約26mの横長の広い空間を創出している。主ドームを6本のピアに乗せ、その両側に2個ずつのドームを配置したプランは、独創的で画期的であった。2本の角柱があまりに太く見通しを妨げているので、礼拝室の一体化は十分ではないという。
確かに、横長の広い空間を左右の六角形の支柱が隔てていて、一体感は感じられない。見た目にも美しくない。


建設年:1425-27年 建設者:第6代ムラト二世

ムラディエジャーミイキュッリエ(複合施設) Google Earth より、用語解説は『トルコ・イスラム建築紀行』より 
①正門 ②シャドゥルヴァン(清めの泉亭) ③トイレ? ④モスクの柱廊(ソンジェマアトイェリ、礼拝の時刻に遅れてきた人が礼拝する場所) ⑥大ドーム ⑦ミフラーブのあるドーム ⑧右タブハネ(修行者を泊めたザーヴィエがモスクに隣接した部分になってタブハーネと呼ばれ、旅行者が無料で短期間利用できる施設となった) ⑨左タブハネ
デルヴィッシュのためのモスクでやはり逆T型

キブラ壁は中央にタイル張りのミフラーブ、右隅には木製のミンバル。
礼拝室のドームはトルコ三角形による架構。
『トルコ・イスラム建築』は、壁の一定の高さの所から天井に向けて三角形の面を斜めに繰り出して、天井に正多角形を作り、ドームを載せる方法という。
コンヤのアラーエッディンジャーミイのトルコ三角形ほど細かいものではないが。ひょっとするとコンヤ出身の建築家が設計したのかも。

ホールのドームはトルコ襞で架構されている。


建設年:1426-27年 建設者:スレイマン及び第5代皇帝メフメト一世
同書は、ブルサ・ウルジャーミの強い影響をうけている。
礼拝室は約45m四方の正方形で、断面が3.4m四方の太いピアを4本立て、9個の等しい正方形のベイを生み出し、各ベイに直径12.5mのドームを架けたプランである。正方形からドームへの移行方法には、トルコ三角形、ペンデンティブ、トロンプを使い分け、ドラムの高さにも変化を持たせているという。
一般の信者のための礼拝施設で、九つのドームがそれぞれ形や文様が異なっていた。詳しくはこちら

内部の九つの小ドーム 『トルコ・イスラム建築』より
①礼拝室入口 ③ミフラーブ ④ミンバル(説教壇) ⑤ムアッズィン用マッフィル ⑦スルタンのマッフィル
ⓐ-ⓘ各ドーム
エディルネ エスキジャーミイ平面図 トルコ・イスラム建築より

ⓐのドーム
正方形平面からスキンチで八角形を導き8稜のドームとなっている。ロマネスク様式の教会にもこんな風になっているものがあった。コンクのサントフォワ聖堂のドームもその一つで、ロマネスク期には半球形のドームだったのが、ゴシック期に変更、再建されたものだった。

ⓑ中央のドームは輪郭が八角形で、礼拝室にはこの四隅にだけ小さなムカルナスの集合体がある。

ⓒミフラーブのあるドームはトルコ三角形
ムラディエジャーミイと同時期に建設されたので、ここでも複雑さはないが、トルコ三角形のドーム架構が見られる。

キブラ壁
ミフラーブ、ミンバル共に大理石製。


征服王第7代皇帝メフメト二世は1453年にコンスタンティノープルを陥落し、イスタンブール(トルコではイスタンブルと短く発音する)と名を変えてオスマン帝国の首都とした。


イスタンブール マフムドパシャジャーミイ Mahmut Paşa Camii 
建設年:1462年 建設者:第7代皇帝メフメト二世の宰相マフムトパシャ
このモスクはミフラーブ軸に二つの大ドームが礼拝室として並ぶ逆T字型プランで、タブハネのような部屋も複数ある、複雑な構造である。残念ながら平面図がないので、Google Earth の俯瞰写真を借りてつくってみた。
❶❷礼拝室 ❶❷の両脇には通路のようなもの ⓐⓑⓒ右のタブハネ(旅行者を無料で短期間宿泊させる施設)ⓘⓙⓚ左のタブハネ ⓔⓕⓖ前室のようなもの ⓓⓗは入らなかった。

❶❷の礼拝室はどちらもペンデンティブによるドーム架構で、その境目はブルサアーチではなく尖頭アーチになっている。

ところがタブハネのⓐ・ⓒはトルコ三角形。イスタンブールにトルコ三角形で架構したドームがあるとは。

タブハネⓚもトルコ三角形で支えられているドームだった。



イスタンブール ファーティフジャーミィ  Fatih Camii 
建設年:1463-70年 建設者:第7代皇帝メフメト二世 建築家:アティック・スィナン(後にミマールスィナンと区別するためにこう呼ばれた)
ジャーミィの平面図
A:正面入口 B:中庭とシャドルヴァン(清めの泉亭) C:三面に回廊 D:ソンジェマアトイェリ(遅れてきた人が礼拝する場所) E:礼拝室入口 F:ドーム G:ミフラーブ
『トルコ・イスラム建築』は、直径約26m、高さ44m の主ドームで覆われた空間になり、その両側に、2個ずつの小ドームで覆われた空間を置いて、空間を横に拡げている。この小ドームの配置はウチュシェレフェリジャーミと同じである。ただし、ドームの架構法は異なり、ウチュシェレフェリジャーミが主ドームを6本のピアに載せているのに対し、ファーティヒ・ジャーミシでは4本のピアに載せている。それは、ミフラーブ側の壁を奥に移動して拡げるためで、ミフラーブ側に主ドームと同じ直径の半ドームと、その両側の一つずつの小ドームで覆われた空間を加えている。
アヤソフィアでは半ドームを主ドームの前後に配置しているが、ここではミフラーブ側の一方のみである。この非対称のプランによって、力学的な問題が生じた。主ドームの底部は横に拡がろうとするため、主ドームをのせている 4本のピアには外側に拡がろうとする推力が働く。その力に抗して、ミフラープ側は半ドーム、両側は2個ずつの小ドームの配置で支えているが、正面人口側には半ドームも小ドームもない。明らかに不均衡である。
1766年の地震によって崩壊してしまった。現在のファーティヒ ジャーミシは、回廊や入口、ミナレットの土台部分などの一部を除き新しく建てられたという。
現存のモスクは再建後のものなので、創建時の平面図を載せるだけにする。
イスタンブール ファーティフモスク平面図 トルコ・イスラム建築より


イスタンブール ユシキュダル ルミメフメトパシャジャーミイ Rumî Mehmet Paşa Camii 建設年:1469-71年 建設者:ルミメフメトパシャ
マフムトパシャジャーミイは大ドームが二つなのに、ルミメフメトパシャジャーミイは礼拝室が大ドームと半ドームだけ。
Google Earth より
❶ソンジェマアトイェリ ❷礼拝室入口 ❸礼拝室 ❹ミフラーブ ❺タブハネ ❻イマレット ❼墓廟

❸礼拝室のドームはペンデンティブによる架構。入口側の壁面には窓がたくさん開いたカーテン壁。

❹ミフラーブのある半ドーム
その二隅には窓のあるスキンチ


建設年:1484-88年 建設者:第8代皇帝ベヤズィット二世(在位1481-1512)
平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より
①正面入口 ②中庭 ③シャドゥルヴァン ④回廊 ⑤礼拝室入口 ⑥ソンジェマアトイェリ ⑦礼拝室(大ドーム) ⑧ミフラーブ ⑨ミンバル(説教壇) ⑩スルタンのマッフィル ⑪女性用マッフィル ⑫タブハネ(修行者の宿泊施設が、無料宿泊施設になった) ⑬ミナレット
『トルコ・イスラム建築』は、礼拝室は、外からは立方体に見える建物の上に、直径20.5m高さ約30mのドーム屋根が載る。ウチュシェレヘリジャーミとファーティヒジャーミシでは、逆T型モスクにあったザーヴィエがなくなっていたが、バヤズィットジャーミシではタブハーネとして宿泊施設を復活している。バヤズィット二世がスルタン位を獲得したとき以来、デルヴィシュの影響が強かったためかもしれないという。
ザーヴィエからタブハネに名称が変わっても、やはり修道僧に重きを置いた施設だった。
エディルネ バヤズィットジャーミイ平面図 トルコ・イスラム建築紀行より

『トルコ・イスラム建築』は、中からは壁の四隅からペンデンティブが立ち上がって四つの巨大なアーチを造るという。


イスタンブール、スルタンアフメト駅付近 フィルズアージャーミイ  Firuzağa Camii
建設年:1491年 建設者:フィルズアー
平面図がないので、Google Earth の画像に加筆
➊ソンジェマアトイェリ ➋礼拝室入口 ➌礼拝室 ❹ミナレット

イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷』は、この小さなモスクは、バヤズット2世の財政を管理していたフィルズ・アーによって1491年に建てられた。イスタンブールでは珍しい初期オスマン・トルコ建築のモスクであるという。

礼拝室のドーム一つと三連アーチの柱廊(ソンジェマアトイェリ)そしてミナレットと、本当に簡素なモスクだった。ただし、礼拝時刻にしか開けないようで、いつ行っても閉まっていた。

このようなドーム一つだけのモスクは見たことがない。ひょっとすると地方の小さなモスクになら、このようなドーム一つだけのモスクがあるかも知れないが。
ところが、『トルコ・イスラム建築』に記載されているブルサのユルドゥルム廟(1406)が、ミナレットがないだけでそっくりな外観だった。柱廊まで付属している。
ブルサ ユルドゥルム廟 1406年 トルコ・イスラム建築より

平面図・断面図
❶柱廊 ❷墓廟入口 ❸棺安置室
このような墓廟の形を小さなモスクに採用したのだろうか。そう言えば、ドームのあるキリスト教聖堂の起源は墓廟だった。
ブルサ ユルドゥルム廟 1406年 トルコ・イスラム建築より


イスタンブール ユスキュダル カラダヴドパシャジャーミイ Karadavud Paşa Camii
建設年:1495年 建設者:ベヤズィット二世の宰相カラダブドパシャ
①正門 ②中庭 ③シャドルヴァン(清めの泉亭) ④ソンジェマアトイェリ(礼拝の時刻に遅れて来た人が礼拝する場所) ⑤礼拝室入口 ⑥礼拝室 ⑦ミフラーブ ⑧タブハネ(旅行者を無料で短期間宿泊させる施設)
逆T字型ではなくなっている。

⑥礼拝室のドーム
正方形から八角形、円形へと移行する場合、古い時代にはスキンチ架構だと思っていたがペンデンティブ。修復の際に改変されたのかも。

⑧右タブハネ
両タブハネとも主ドームよりも低く、やや小さい程度で、礼拝室と横並びになっている。


イスタンブール ガズィアティクアリパシャジャーミイ Gazi Atik Ali Paşa Camii
建設年:1496年 建設者:ベヤズィット二世期の政治家アティックアリパシャ
平面図 Google Earth の画像に加筆
❶ソンジェマアトイェリ ❷礼拝室入口 ❸礼拝室の大ドーム ❹ミフラーブのある半ドーム ❺タブハネ ❻ミナレット

説明パネルは、「セデフチレル モスク」とも呼ばれるこのモスクは、1496 年にバヤジット二世の政治家の一人であるアティックアリパシャによって建てられた。
モスクは、五つのドームで覆われ、ソンジェマアトイェリと、同じ軸上に主ドーム一つと半ドーム一つ、メインドームの側面に二つの小ドームで構成されている。
建物はすべて、コフェキと呼ばれる切り石で作られている。プランを少し変更すると、このモスクは古いファティフモスクに似ているかも知れない。
モスクは、ブルサ派と古典様式の移行期にあるため重要であり、火災や地震に何度も見舞われたため、修復が行われたという。

❸主ドームは四つのペンデンティブで支えられた単純な構造。
イスタンブールでモスクを見学していて気付くのは、どの礼拝室も近年に塗り直されていること。

❹ミフラーブ壁の半ドーム
二隅は数段のムカルナスで八角形をつくることなく、ペンデンティブのように円形に以降している。


イスタンブール ベヤズィットジャーミイ Beyazit Camii 
建設年:1501-06年 建設者:第8代皇帝ベヤズィット二世(在位1481-1512
平面図 『トルコ・イスラム建築』より
①モスク正門 ②中庭 ③シャドゥルヴァン(清めの泉亭) ④回廊 ⑤中庭への脇入口 ⑥ソンジェマアトイェリ(遅れてきた人が礼拝する場所) ⑦礼拝室正面入口 ⑧身廊主ドーム(径17.5m、高36m) ⑨半ドーム ⑩ミフラーブ ⑪側廊ドーム ⑫スルタン用マッフィル(特別な礼拝席) ⑬タブハーネ(旅行者を無料で宿泊させる施設) ⑭礼拝室脇入口 ⑮ミナーレ
イスタンブール ベヤズィットジャーミイ断面図・平面図 トルコ・イスラム建築紀行より

『トルコ・イスラム建築』は、モスクはエスキ・ファーティヒ・ジャーミシとエディルネ・バヤズィット・ジャーミシの両方から影響を受けて建てられた。礼拝室は中央に直径 17.5m、 高さ 36mの主ドームを4本のピアの上に載せ、中庭側とミフラーブ側から同じ直径の半ドームで挟み、両脇にそれぞれ4個の小ドームを並べている。
2個の半ドームの使用で、エスキ・ファーティヒ・ジャーミシの欠点であるキブラ軸に沿った前後の静力学的不均衡を解消したのは重要な改善といえるという。
アヤソフィアと同じように、ドームの両側面は半ドームをつくらず、窓の多い壁面(ティンパヌン)にしている。

キブラ壁側には半ドーム、半ドーム下の両側にペンデンティブ。
同書は、ただし、主ドームから4本のピアに降りてくるペンデンティブが造る四つの大アーチについてみると、キブラ軸に平行な側面の大アーチの幅が、キブラ軸に直交する半ドーム側のアーチの幅よりも狭く、アヤ・ソフィアでの対処とは逆になっている。
主ドームの底部を横から支える働きとしては、半ドーム側は大アーチを半ドームがぴったりと押さえているので強いが、側面は大アーチを直接押さえているものがないので弱い。そのためアヤ・ソフィアでは、側面の大アーチをより幅広く頑丈にするとともに、巨大なバットレスで4本のピアを側面側から支えている。ところが、バヤズィット・ジャーミシではアヤ・ソフィアのような対策を講じていないうえ、大アーチの幅は逆である。さらに4本のピアを外側から支えている8個の中アーチの幅も、キブラ軸に平行な中アーチのほうが側面側の中アーチより幅広く、対処が逆である。なぜそうしたのか、私には理解できない。
このように構造的に完全ではなかったためか、1509 年と 1766年には地震で大きな被害を受け、特に完成して間のない 1509年の地震ではドームも崩れている。ミマール・スィナンの時代の1573年に修復され、ミフラーブ側の大アーチには補強アーチが付けられた。また、1999年の地震でもドームに亀裂が入り、イスタンブルで被害を受けたモスクの中では最初に修復されているという。
ミマールスィナンが修復を手がけていた。
ルーミメフメットパシャジャーミイではミフラーブ上の半ドームはスキンチで架構したが、ここではペンデンティブで架構されている。


イスタンブール ヤウズスルタンセリムジャーミイ  Yavuz Sultan Selim Camii
建設年:1522年 建設者:スレイマ ン一世(在位1520-66)

平面図 『トルコ・イスラム建築』より
①モスク正門 ②中庭 ③シャドゥルヴァン ④回廊 ⑤中庭の脇入口 ⑥ソンジェマアトイェリ ⑦礼拝室入口 ⑧単ドーム式礼拝室 ⑨ミフラーブ ⑩ペンデンティブ ⑪スルタン用マッフィル ⑫タブハーネ(教育を受け、宿泊可能な施設)⑬タブハーネ入口 ⑬ミナーレ
単ドーム式礼拝室で、半ドームも小ドームもない。1522年ならまだミマールスィナンが活躍する前の建物。
イスタンブール ヤウズスルタンセリムジャーミイ立面・平面図 トルコ・イスラム建築より 

『トルコ・イスラム建築』は、礼拝室は直径24.5m高さ32.5mの単ドームに覆われている。ユチュシェレフェリジャーミイと比べると、直径はほぼ等しく、高さは4.5mほど高い。エディルネ・バヤズィットジャーミイと比べると、直径は4mほど大きく、高さは2.5m高いという。

写真にすると平面的だが、四隅にはアヤソフィアのように大きなペンデンティブがあってドームを支えている。違いと言えば、その下には複合柱がなく、あるいは出ておらず、壁の中に消えていくように見えること。
左には⑪スルタン用マッフィル、中央に⑨ミフラーブ、右にはミンバル(説教壇)がすべて大理石製で設置されている。これまで右隅にあったミンバルは、側壁とミフラーブの中間辺りに置かれている





関連記事
イスタンブール マフムドパシャジャーミイ・フィルズアージャーミイ

参考文献
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同朋舎出版 1994年 同朋舎出版