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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/03/24

フリギア テラコッタの建築装飾


アンカラのアナトリア文明博物館にはフリギア時代の建物のレプリカ展示があった。
同館図録は、フリギア人は西アナトリアの伝統的形式により幾何学文様のテラコッタで屋根を飾り、床は多色のモザイクで飾った。この博物館にある最高のテラコッタパネルはゴルディオンとパザルリから出たものである。パネルには兵士、ライオンと牛の戦い、人間、鳥、馬、生命の樹.の両側に立つ山羊などが彫られているという。

それはチョルム考古学博物館やアラジャホユック博物館の写真パネルと似ていた。その上屋根は丸瓦と平瓦を組み合わせた日本の古い寺院のような本瓦葺きみたい。

最上部には丸い盾と槍を持って行進する脚の長い兵士たち

アラジャホユック博物館では兵士たちの行進の場面のテラコッタ断片と復元図が展示されていた。丸い盾は、ギリシアで使われていたと記憶しているが、フリギア人も丸い盾を使っていたようだ。

兵士たちの行進の段の下には草食獣とライオンが向かい合う場面が2段にわたって繰り返されているのは、チョルム考古学博物館のテラコッタの断片と似ている。

菱形の石畳文が囲んでいるのは、向かい合う鳥頭グリフィンと人面グリフィン、その下には木の枝を持って向かい合うケンタウロス。その下段には生命の樹に後肢を掛けて向かい合う草食獣が表されている。

アラジャホユック博物館では浅浮彫で向かい合って生命の樹に寄りかかる草食獣が表されたテラコッタの壁飾りがあった。彩色の痕跡もある。


そしてゴルディオン博物館には建物の壁面装飾用の部品の展示コーナーがあったが、これまで見てきたものとは違っていた。
『GORDION MUSEUM』は、新フリギア城塞の建築様式の特徴は、テラコッタ(焼成粘土)製の屋根瓦、雨樋、そして装飾的な壁板の使用である。建築用テラコッタは、アナトリアやギリシアで前7世紀中頃から前6世紀初頭まで使われていたという。

樋口と屋根の端飾り
穴があいた樋口の奥には穴があいていて、屋根の端飾りに沿って雨水が集まり、ここから下に落ちるようになっている。屋根の端飾りはこれまで見たことのないモティーフだが、何を表現しているのか想像できない。

菱形石畳文の軒樋
屋根の傾斜に沿った側面の装飾

屋根の端飾り
小さな生命の樹を間に向かい合う豹の文様。このような対獣文


そして石畳文や斜め石畳文 図録の写真とは上下が逆
同書は、菱形と渦巻き文様をあしらったテラコッタという。
白地に赤と黒に塗り分けられたモティーフが並ぶ。
 
菱形を組み合わせたテラコッタ 図録の写真とは上下が逆

石畳文の装飾的な壁板 
図録の写真とは上下が逆


渦巻き文様と小花文様の軒樋




関連記事


参考文献
「GORDION MUSEUM」 Republic of Turkey Ministry of Culture

参考にしたもの
ゴルディオン博物館の説明パネル

2026/03/03

昔は世界一古い町と言われたチャタルホユック遺跡


チャタルホユックについて『古代オリエント事典』の大村幸弘氏の記事は、中央アナトリアの都市コンヤの南東 40 ㎞、 チュムラ Çumra の北11㎞に位置するという。

アナトリアのヒッタイト遺跡群 Google Earth より
❶アラジャホユック Alacahöyük ❷ハトゥシャ Hattuşa ❸アンカラ Ankara ❹ビュクリュカレ Büklükale ❺カマンカレホユック Kaman Kalehöyük ❻ヤスホユック Yassıhöyük ❼トゥズ湖(塩湖 Tuz Gölü) ❽カッパドキア Kapadokya ❾コンヤ Konya ➓ファスッラール fasıllar monument ⓫ベイシェヒル湖 Beyşehir Gölü ⓬チャタルホユック Çatalhöyük


チャタルホユックの二つの遺丘 Google Earth より
Google Map で360°写真で内部を見ることができます。
ⓐシロエリハゲワシが人間を襲う場面の壁画のある神殿 ⓑほぼ平面に家屋が密集している遺構 ⓒ斜面に家屋が密集している遺構
同書は、双子山状の遺丘、径東西500m×南北300m、 高さ17.5m。遺丘は東西二つの遺丘からなり、西丘では前期銅石器時代の建築遺構を確認、東丘からは前8-7千年紀、新石器時代の12建築層からなる集落が出土しているという。


発掘調査の写真(『アナトリア文明博物館図録』より)
『興亡の世界史 人類文明の黎明と暮れ方』(以下『興亡の世界史』)は、農業、交易、そして物づくりが盛んになることによってチャタル・ヒュユクは繁栄期を迎え、住民の住居も整備されていった。1961年の最初の発掘で出土した139室の部屋は巨大な集合住宅のような造りで、それぞれの住居を分ける路地などがなく、住居同士が共有壁によって分かれているだけであった。このため住居の出入りにはハシゴをかけて陸屋根にのぼり、そこから居室に入るようになっていた。
居室はいずれも4×5mほどの大きさで、粘土製の炉やベンチがしつらえてあった。住居の中核をなしている居室の周囲には小部屋がいくつかあり、食料貯蔵庫や倉庫としてもちいられたという。
下の部屋の壁面中央下部に突き出ているのは牡牛の頭部だろう。
チャタルホユック遺跡 神殿の壁 アナトリア文明博物館図録より

別の部屋の壁面にも突き出たものがあるが、牛頭には見えない。
チャタルホユック遺跡 神殿の壁 アナトリア文明博物館図録より

部屋の床は区切られていて、壁側に少し高い区画が並んでいる。アナトリア文明博物館で復元展示されている部屋の床に似ている。
チャタルホユック遺跡 神殿の壁 アナトリア文明博物館図録より

アナトリア文明博物館の説明パネルに家屋の様子が描かれていた。
説明パネルは、9000年前、チャタルホユックに最初の農民が住み、屋根を出入口として利用していた。平らな屋根と日干しレンガ造りの家々は石造りの基礎がなく、広々とした居間を除いて貯蔵庫で構成されていたという。


『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、土器新石器時代のもう一つの特徴は、色彩による絵画的表現の出現である。彩文土器の文様もその一例ではあろうが、なんといってもカンヴァスが小さく、図像も幾何学文中心である。本格的な絵画表現とは認めがたい。チャタル・ホユックやテレイラート・ガッスール (ヨルダン)に見られる各種の神殿壁画がある。洞窟壁画を欠く西アジアの先史美術にとって、住居壁画の台頭は、色彩絵画の出現という大きな意義をもっているという。

ⓐ神殿 シロエリハゲワシが人間を襲う場面の壁画
『興亡の世界史』は、神殿と推定される部屋の一つには、シロエリハゲワシが首のない胴体部分だけの人間を襲っている場面が描かれており、鳥葬のような習慣があったことを示唆している。
集落から一定の距離をおいた遺体置場で野ざらしにされて白骨化させる一次葬としての鳥葬を含む風葬がおこなわれ、次いでその白骨を親族が布や獣皮に包んで故人の自宅や神殿のベンチ状の寝台下に埋葬するという、葬祭の一連の推移であるという。
ハゲワシの胴部に二つずつ何かが描き込まれているのは呑み込んだ人体の一部?
チャタルホユック出土神殿壁画復元図 世界美術大全集東洋編16 西アジアより 


アナトリア文明博物館の復元展示
『興亡の世界史』は、東丘の日干し煉瓦で構築されている建築遺構内の壁面からは幾何学、狩猟場面、猛禽類の飛び交う光景、噴火、集落等が描かれており、またメラートが発掘した166の遺構内からは牡牛の頭部で飾った日干し煉瓦作りの柱をもつ祠も確認されいる。そのなかからは丸底の粗製土器、土製、石製の地母神像、黒曜石製品が数多く出土している。
西丘から出土してる銅石器時代の彩文土器を手がかりとして、中央アナトリアの銅石器時代が文化的にタウルス山脈の南側との結びつきで捉える傾向が強いという。
アナトリア文明博物館に復元展示されていたのは、一般家庭ではなく祠堂だったのだろうか。

『興亡の世界史』は、部屋の天井にはカシの木の頑丈な梁がわたされ、その上に細い横木とアシが敷きつめられ、粘土で固めてあった。この天井が住居の陸屋根を形成していたという。
梯子の上に木製の段がある。その上の天井は木材を細かく加工して凝った装飾になっているが、これはチャタルホユックとは関係なさそう。
左の壁沿いは台所のようなので、祠堂ではなく一般家庭だったのでは。それにしては牛頭が多すぎるようにも思える。

梯子の向こうに竈
説明パネルは、居間には炉、窯、テラスがあった。長時間にわたる工芸作業は、主室にある炉の周りで行われていた。黒曜石は削られ、主室の階段脇に保管されていたという。

左には浅い石の器と丸い石で穀物を潰す道具。
『古代オリエント事典』は、穀物などを脱穀・製粉するための、大型の半磨製石器の総称、石灰岩や玄武岩などの、 きめの粗い石材が好んで用いられた。穀物の脱穀・製粉用具としての石臼は、続旧石器文化から現れ、先土器新石器文化以後に一般化しているという。
日本では新石器時代に土器がつくられたのに対して、穀物を挽くところは煮炊きする必要のないところではそのための容器が要らないので無土器(先土器)新石器時代というものがあると聞いたことがある。粉にして水で練って焼けば食べられるからだ。

奥の黒いのは炭ではなく、黒曜石かも。
説明パネルは、黒曜石は、加工しやすい脆くて硬い構造のため、チャタルホユックの石材産業において最も注目され、最も頻繁に使用される原材料。黒曜石は、チャタルホユックの集落から徒歩で10-13日かかるカッパドキアから運ばれたと考えられている。これらの黒曜石製の道具、ナイフ、矢じり、槍先は、野生動物の狩猟や屠殺に使用されたという。

牛の頭部の並ぶ壁
『アナトリア文明博物館図録』は、チャタルフユックの家々のきわだった特徴は、壁画と壁に飾られた牛の頭のシンボルである。この呪術的な飾りは特別な建物にだけあるわけではなく、各家の宗教的目的のために使われた場にもおかれていた。牛の頭は高浮彫り、又は丸彫りて、時には本物の牛の頭に粘土を塗って壁に飾ったという。
本物の牛頭ではないとはいえ、人々の暮らす部屋には多過ぎるのでは。家族の一人が亡くなると新たな牛頭をつくって祀ったのだろうか。

手前のベンチには人骨が埋められていた。
『アナトリア文明博物館図録』は、チャタルフユックでは、家の床下に埋葬する慣わしだった。 子供の場合は部屋の床下に、大人はペンチの下の部分に一人、又は数人いっしょに埋葬して、そのわきには副葬品も埋めていたという。
説明パネルは、家の床の下には、家を守り、力を与えた先祖が埋葬されているという。

壁画
説明パネルは、チャタルホユックの家の最も重要な特徴の一つは、何百回も塗り直された壁の装飾で、ヒョウのレリーフ、漆喰で塗られた雄牛の頭、具象画、幾何学文様などが描かれているという。
右壁

何か特定できないが野生の草食獣を狩っている場面。動く人物の表現が秀逸。



復元家屋の外側に壁画が展示されていた。
人間は牛と同じ色で描かれていて、人と比べて巨大過ぎる牛

鹿も巨大

絨毯模様のフレスコ画 前6000年 
説明パネルは、赤と黒の三角形に点線や絵画的な文様が組み合わされ、長方形のモチーフが生み出されている。絨毯を模したこの壁画では、隙間が目立ち、その間に縫い目のようなものが見られるという。


向かい合うヒョウの浮彫 前6000年
説明パネルは、チャタルホユックの人々にとって、ヒョウは特別な位置を占め、あるいは宗教的な意味を持っていたに違いない。これらの漆喰で彩色されたヒョウのレリーフは、かつてチャタルホユックの家屋の壁を飾っていた。ヒョウの頭部に塗られた漆喰と塗料の層数から、これらのレリーフが長年にわたりチャタルホユックの住居を飾っていたことが窺えるという。 
ヒョウ同士が縄張り争いをしている場面だろうか。


当時の生活の想像図 (説明パネルより)
屋根から出入りするところも描いてほしかった。


ところで、『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、黒曜石の産地を抱えるアナトリア周辺の遺跡では、黒曜石製の鏡(チャタル・ホユック)や黒曜石を半溶解して作った蛇の像(テル・シムシャラ)などといった珍品も出土しているという。
黒曜石を半溶解していたとは。全部溶かしてガラスの器や蜻蛉玉をつくることはなかったのか。

黒曜石製鏡 前6千年紀前半 チャタルホユック出土 高4㎝
青銅製の鏡は裏面の装飾について話題になるが、どのように見えたかはあまり聞かない。夫に尋ねると、良くは見えなかったのではないかと言う。黒曜石の鏡もあまり良く見えなかったのでは。

黒曜石について『興亡の世界史』は、チャタル・ヒュユクの東130㎞ほどにある火山ハサン・ダー(ダーは山の意味)で採れる黒曜石は、鋭いエッジをもつことからナイフの刃として利用され、東地中海沿岸やペルシア湾沿岸にまで運ばれたという。

ハッサン山と思われる火山の壁画のコピー (説明パネルより)
説明パネルは、この壁画は、チャタルホユックの町の背後にそびえる火山、ハサン山を描いたものだと考える人もいる。一方、幾何学文様をあしらった様式化されたヒョウの皮を描いたものだと考える人もいる。前者の解釈が正しいとすれば、これは世界初の都市計画と言えるかもしれないという。
下はチャタルホユックの家々、上は噴火する火山。


同書は、副葬品は貧弱だが、神殿のような部屋に埋葬された遺体の場合は黒曜石製の鏡、儀式用の短剣、金属製のビーズのような高価な副葬品をともなっていることから、集落の首長たちの墓であった可能性がある。そうであるならチャタル・ヒュユクは共同体としてかなり成熟した段階にあり、住居の規模では成員間の差は認められないが、首長のような地位が生まれる程度の社会的垂直性が進展しつつあったことがうかがわれる。
この時代にこれほど高度な集落社会が出現する条件として、肥沃な耕作地の確保、黒曜石という当時の社会における貴重な資源が近くで産出され交易が盛んだったこと、さまざまな物資の交易にともないさまざまな地域の人々と接触できたことなどがあげられる。しかも交易を有利におこなうため、一次産品に細工を加えて付加価値を与える工人集団が誕生した。集落社会の中に農業以外の職業が確立し、社会のより有機的な構造化をうながすことになった点も見のがせないという。
チャタルホユックは新石器時代の集落の一つではなく、交易の要衝だった。

チャタルホユックの出土品には小さな地母神像が多い。

一番有名な地母神像 前6千年紀前半 
説明パネルは、豊かな胸と広い腰から、農業と人間の豊穣の両方と結び付けられてきたこの女性像は、二頭のヒョウの間に座る姿で描かれており、強い社会的人格を示唆している。脚の間の丸い形は、生まれたばかりの子供の頭部、あるいは高貴な祖先の頭蓋骨を表しているのかも知れないという。

双頭の女神 前6千年紀前半 17.2㎝ 大理石

頭部がないのが残念だが、ヒョウの毛皮を纏った女神? ボリュームのない女神像だが背面にもヒョウ文が彫られている。右肘や左膝に穴があるのは、置物ではなく、紐のようなもので掛けておくものだったのでは?


首飾り 前6千年紀前半 石・鹿の骨・歯など 黒いものは黒曜石かも

骨や黒曜石でつくられた装身具類
左上は黒曜石製鏡だろう。写していても気が付いていなかった。
黒曜石は箱のようなものにも成形して使われていた?

チャタルホユックはいつか訪れてみたい遺跡の一つである。


                   →アスランハネジャミイのタイルとキュンデカリ


関連記事

参考文献
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編集 2004年 岩波書店
「世界歴史の旅 トルコ」 大村幸弘 2000年 山川出版社
「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館

参考にしたもの
アナトリア文明博物館の説明パネル

2025/04/15

大シルクロード展染織編 連珠円文


今回の展覧会には連珠円文がたくさん展示されていて、書物でしか知らないものなどを実際に目にすることができた。

連珠三日月文錦面覆 5-6世紀 絹、経錦、緯錦 縦31.0㎝、横30.0㎝ 中国絲綢博物館蔵
『世界遺産 大シルクロード展図録』は、四角形の錦の周囲に無地の絹織物でひだ飾りをつけています。被葬者の顔にかぶせた面覆いであると考えられます。表面と裏面で異なる錦が使われていました。裏面は赤地の緯錦で、保存状態が良く、白い輪の中に三日月を表し、その外側を連珠文で囲んでいます。三日月は緑色で、黄土色で縁取りがされていますという。
この作品は織り糸が細いのか、それぞれの文様の輪郭が丁寧に織り出されている。
それにしても三日月が文様として表されるのは稀なように思う。仏教美術に「日月」として表されていても、三日月は滅多にないのだが、雲崗石窟第10窟前室北壁須弥山(北魏時代中期 470-494)に阿修羅が右手に掲げているのは三日月。双方同じような時代につくられているが、この錦の三日月とは関係ないだろう。
中国絲綢博物館蔵連珠三日月文錦面覆 5-6世紀 世界遺産 大シルクロード展図録より

イラン北西部に位置するタ-ク・イ・ブスタ-ン大洞には、ササン朝ペルシアの帝王による猪狩りを表す浮彫があります(7世紀前半)。船上で弓を引く帝王の後方に控える人物は、連珠三日月文錦を一部に使用した袍を着ていますという。
ターキブスタンで見学した時は、すでに漏水により表面が汚れていてこの部分がはっきりと見えなかった。
残念ながら『世界美術大全集東洋編16 西アジア』の図版でも、帝王の後方に控える人物の服装までわからない。
ターキブスタン大洞左壁浮彫帝王猪狩り図 サーサーン朝、7世紀前半 世界美術大全集東洋編16 西アジアより

絵葉書には、もう一隻の船の上で左手に弓を持ち、右手で家臣から矢を受け取っている帝王が表されていて、その家臣の衣服に三日月状のものが認められる。
ターキブスタン大洞左壁浮彫帝王猪狩り図 サーサーン朝、7世紀前半 絵葉書より

また、ターキブスタン大洞で撮影した写真から、三日月は帝王の被る王冠にも、大洞上にもリボンと共に表されているので、以前からサーサーン朝の帝王の象徴だったのかも知れない。
サーサーン朝とリボンの関係についてはこちら


連珠動物文剣覆 6-7世紀 絹、刺繡 21.0㎝X 58.0 ㎝ 甘粛省博物館蔵
同展図録は、長方形に近い形をしていますが、左端は下部が張り出し、右端は中央が尖っており、両端よりも中央が少し細くなっています。このような形状から剣の覆いであると考えられています。文様はすべて刺繍で表されています。
外縁に沿って、一つ一つが2色から成る円文が巡り、その中に4つの連珠文を配しています。連珠文の中には、猪の頭と孔雀を交互に2回表しています。孔雀の一方は飾り羽を扇状に広げ、もう一方は閉じています。猪は口を大きく開けて、舌を伸ばしています。連珠円文の外側には十字形の植物文の一部や八弁の花が表されていますという。
刺繍だけで文様がつくられているのは珍しい。

飾り羽を閉じたクジャクは横向き。イノシシのモティーフはソグド人のものだが、こんなに大きな口を開けて舌を出しているのは見たことがない。

一つ一つが2色から成る円文は三色の小さな円文が三つずつ並んでいるところとそうでないところがある。
飾り羽を開いたクジャクは正面向きで顔だけ左向き。不思議なことに2本の足以外に足でもなく羽でもないものが一対ある。
一方の猪の口の中には6つの円から成る飾りが見えますという。梅鉢文のよう。


連珠猪頭文錦 7世紀初め 絹、緯錦 縦25.0㎝、横15.0㎝ 2004年新疆ウイグル自治区トルファン・バダム古墓245号墓(632年)出土 トルファン博物館蔵
同展図録は、高昌故城の北4㎞、アスタ-ナ古墓の東3.5㎞に位置するバダム古墓からはソグド人の墓が多数見つかっています。唐代に崇化郷と呼ばれたソグド人聚落がバダム古墓の近くにあった可能性が指摘されています。この錦はバダム古墓245号墓から見つかった面覆いで、連珠文の中に図案化された猪の頭部を表しています。上下で頭の向きが逆になるようにデザインされていますという。
面覆いとして織られたものではなく、長い顔を覆うために生地を使ったのだろう。
トルファン博物館蔵連珠猪頭文錦 7世紀初め 世界遺産 大シルクロード展図録より

イギリスの探検家A.スタインがアスタ-ナ古墓で見つけた連珠猪頭文錦は、文様が精緻なことからペルシア製であると考えられています。一方、本作品は連珠文や猪頭文に歪みがあり、文様を織り出す技術が低いことがうかがえます。バダム古墓やアスタ-ナ古墓からは、完成度が低いペルシア風動物文錦が数多く発見されています。それらは、ペルシア錦の模造品であり、とくに鹿の文様が好まれたことからソグド製であると推測されますという。
連珠円文がササン朝ペルシアであることだけでなく、ソグドの連珠円文はペルシアの模造品で完成度が低く、ペルシアの連珠円文は文様が精緻ということになっている。そう言われると、連珠三日月文錦面覆(5-6世紀)の円文とは比べものにならない六角形とも思えるような形。
トルファン博物館蔵連珠猪頭文錦 7世紀初め 世界遺産 大シルクロード展図録より


連珠豬頭文錦馬面 7世紀頃 錦 縦75.0㎝、横78.0㎝ 甘肃省博物館蔵
同展図録は、馬の頭部から鼻先にかぶせる覆いで、目の位置に穴があいています。穴の形は真円ではなく、目尻にあたる部分が少し尖っています。
出土状況は不明ですが、墓の中から保存状態の良い染織品が見つかることから、本作品も墓の副葬品であると推測されます。墓に陪葬された馬の頭部を覆っていたのでしょうという。
陪葬する馬にもこのような高価な錦を使っている。

本体は無地の組織物で作られ、全体と目の周りは連珠猪頭文錦の細い裂で縁取りがされています。さらにその周縁には褐色、黄土色、藍、緑、白の五色の布で丁寧に作られたひだ飾りを左右対称に縫い付けています。鼻先には楕円形の飾りが垂れていますという。
甘肃省博物館蔵連珠豬頭文錦馬面 7世紀頃 世界遺産 大シルクロード展図録より

頭上にあたる部分は張り出していて、そこにキノコ形の飾りが放射状に並んでいます(5つ残存)という。
円文はやっぱり六角形にも見えるが、唐代(618-)でつくられたものだろうか、ソグド錦だろうか。布地が切り刻んであるので判別しにくいが、イノシシの顔を織り出しているようなので、ソグド錦か、それを唐の工人が模倣したものか。
甘肃省博物館蔵連珠豬頭文錦馬面 7世紀頃 世界遺産 大シルクロード展図録より


連珠鹿文錦 7世紀 絹、緯錦 縦23.0㎝、横17.0㎝ 1975年新疆ウイグル自治区トルファン・カラホ-ジャ古墓71号墓出土 新疆ウイグル自治区文物考古研究所蔵
同展図録は、高昌故城の北東に位置するカラホ-ジャ古墓で見つかった面覆いです。連珠文の中に動物一頭を表すササン朝ペルシア由来の文様ですが、連珠文が真円ではなく縦長になっていることから、ペルシア錦の模造品であると考えられます。カラホ-ジャ古墓、アスタ-ナ古墓から発見されるペルシア錦の模造品には、円文内に猪の頭部や一羽の鳥を表すものもありますが、最も多いのは鹿を表すものです。鹿はソグド製銀器の文様として多用されることから、鹿の文様を好むソグド人が連珠鹿文錦を制作した可能性が高いと考えられます。
7世紀初めにインドへ向かった玄奘三蔵によれば、西突厥可汗の避暑地であった千泉(現在のキルギス、メルケ)には鈴をつけた鹿が群れをなしていて、可汗の命令によって保護されていました。ソグド人は当時の中央アジアの支配者であった西突厥可汗の好みに合わせて、鹿文の錦や銀器を制作したのではないでしょうかという。
ペルシア錦の模造品のソグド錦だった。


胡王および琵琶奏者文錦 7世紀 絹、経錦 縦18.0㎝、横24.0㎝ 1975年新疆ウイグル自治区トルファン・カラホ-ジャ古墓71号墓出土 新疆ウイグル自治区文物考古研究所蔵
同展図録は、円文内の文様は左右対称で、中央の人物は台座に胡座し、正面を向いています。冠飾は鳥の翼を模した鳥翼冠で、正面に三日月と蕾み状の飾りが付いています。頭の左右には、冠を頭に結んでいるリボン(ディアデム)の端が風にはためいています。両側に立つ人物は曲頸琵琶を演奏しています。円文は二重で、小粒の連珠文の周りを渦巻文(あるいは波頭文)がめぐっています。円文の外側の植物文の下に「王」という漢字が白い糸で織り込まれています。このことから、鳥翼冠を戴く人物は胡王を表していると考えられていますという。
漢字が織り込まれていることと、経錦ということで、まだ緯錦の技術のない唐の工人がつくったもの。

断片上部には上段の円文の内側がわずかに見えます。向かい合う2人の人物が片脚を深く曲げ、もう一方の脚を伸ばし、ダンスを踊っているように見えますという。
こんな一部の文様でコサックダンスのような踊りをしていると見抜けるとは。
新疆ウイグル自治区文物考古研究所蔵胡王および琵琶奏者文錦 7世紀 世界遺産 大シルクロード展図録より


対鳥文錦靴下 7-9世紀 絹、緯錦 足裏32.0㎝、縦59.0㎝、横28.0㎝ 中国絲綢博物館蔵
同展図録は、足先から膝下までを覆う靴下の片方で、足裏部分は失われています。靴下の上辺は斜めになっていて、中央アジアで発見される革のブ-ツのように前方が高くなっています。室内用の履き物だったのでしょう。
全体的にかなり退色が進んでいますが、円文内に二羽の鳥を表す錦が使用されていることが確認できます。向かい合う二羽の鳥は、三つの真珠がついた首飾りの両端をくわえています。頭の後ろには白いリボンが結ばれています。円文の周りを花弁状の文様で縁取り、花弁の中には小花が配されています。円文の外側にも、円文内の図案とよく似た二羽の鳥が表されています。向かい合う二羽の鳥が一つの首飾りをくわえる文様の錦は多数知られています。当時、流行した文様であったことがうかがえますという。

実写と図版
こ、これが靴下!ブーツにしか見えないけれど。中に分厚いズボンを入れて履いたのだろう。
中国絲綢博物館蔵対鳥文錦靴下 7-9世紀 世界遺産 大シルクロード展図録より

対偶文や対獣文ではなく対鳥文と呼ぶのか。中央アジアのブーツ型ということでソグド錦かな。
中国絲綢博物館蔵対鳥文錦靴下 7-9世紀 世界遺産 大シルクロード展図録より

細かいことを言うと、連珠というよりも、大きな円文の外を花弁が巡っている。その中に織り出されているのは技術的に円文が織り出せなかったというよりも、花を織り出しているようで、唐の工人の仕事に思える。
中国絲綢博物館蔵対鳥文錦靴下 7-9世紀 世界遺産 大シルクロード展図録より


連珠対鹿文錦帽子 7-9世紀 絹、緯錦、羅、綾 頭囲50.0㎝、帽高32.5㎝ 中国絲綢博物館蔵
同展図録は、つばのある帽子の周りから35本の細い絹布が垂れ下がっています。帽子の頭を覆う部分は、縦長の三角形に裁断した6枚の錦から作られています。
帽子のつばの部分にも同じ錦が使われています。35本の細い絹布は、帽子のつばと頭を覆う部分の境目に縫い付けられています。その配置には規則性があり、淡い褐色の布 4枚と濃い褐色の布1枚が交互に並ぶように配列されています。淡い褐色の布は菱形文の羅と綾で、濃い褐色の布は菱形文の羅です。出土状況が不明なこともあり、この帽子の用途は不明ですという。

これは連珠円文だろうか。文様を囲む連珠が分からない。
中国絲綢博物館蔵連珠対鹿文錦帽子 7-9世紀 世界遺産 大シルクロード展図録より

裁断されているため錦の文様は分かりにくいですが、一本の木の両側に前脚を高く挙げた鹿(あるいは羊)を表し、木の上には向かい合って走る小さな動物を表しています。鹿の関節にあたる部分には大小の円文がつけられていますという。
幾何学的に図案化された樹木の両側に草食動物が立って寄りかかっている。
これは西アジアで古くからあるモティーフ、生命の樹に寄りかかる草食動物だ。
中国絲綢博物館蔵連珠対鹿文錦帽子 7-9世紀 世界遺産 大シルクロード展図録より


連珠対獅子文錦 7-9世紀 絹、錦 30.0×38.7 ㎝ 中国絲綢博物館蔵
同展図録は、暗い赤を地色として、ベ-ジュ色や深緑色で図柄を表しています。連珠の円文の中に2頭の有翼の獅子が向かい合う図柄を1単位とし、現状では二つ残っていますが、左右上下に同じ模様が続いていたようです。連珠円文の隙間には、ハ-ト形の四弁花と、胴体に縞模様がある双獣を向かい合わせで配しています。文様部分のかたちはぎこちなさが目立ち、双獣もどんな動物なのかはっきりしませんという。

連珠円文の中央に色の異なる帯状の段があることから緯錦であるが、連珠といい、円文の枠といい、獅子の肢といい、出来の良い作品とは言えない。



緯錦(ぬきにしき)について同展図録は、唐代(618-907)になると、緯糸(よこいと)の浮き沈みで文様を表わした西方由来の緯錦技法が出てきました。この技法は、経錦とは異なり、文様に応じて自由に配色を変えられるとともに、大形の文様も織ることができ、やがて緯錦が錦の主流になっていきます。
錦の文様をみると、西方由来の連珠文や内部に動物文などを納めたササン朝ペルシア風の文様が、緯錦で織られていることもあり、文様のみならず織の技法においても、両者が影響しあっていたことがうかがわれますという。
これまで勉強してきて連珠円文の錦はソグドと思っていたが、ササン朝ペルシアの方が先ということになっていた。やはり新しい見解を知るためにも展覧会には行くものだ。



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参考文献
「世界遺産 大シルクロード展図録」 学術監修・責任編集石松日奈子 2023年 東京富士美術館
図録は重く立派な物で、手持ちの書物や図録がかなり以前のものなので、その頃と現在では出土物の解釈も変わっているだろうと思って買った。私にとって美術史の最新情報が得られるのは展覧会の図録なのだから。
「シルクロード 黄金の道展図録」 2002年  NHK