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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2021/11/05

涼州式偏袒右肩は敦煌莫高窟現存最古の窟にも 


偏袒右肩の如来像はクシャーン朝期に現インドで造られるようになった。当時の僧たちの着衣を写したもので、蒸し暑いインドでは肌を露出していたからだという風に言われている。

仏三尊像 クシャーン朝、2世紀前半 総高71㎝ 砂岩 北インド、カトラー出土 マトゥラー博物館蔵
『インド・マトゥラー展図録』は、初期のマトゥラー仏の典型とされる作品である。中央の仏陀は、目を見開き、厚い唇の口元を強く引き締めた明るい表情であり、胸板は厚く、肘を張って堂々結跏扶坐していて、像高わずか40㎝に過ぎないが、たくましく野性的な力強さに満ちているという。
インド、カトラー出土仏三尊像 クシャーン朝、2世紀 『獅子 王権と魔除けのシンボル』より


それが中国に伝わり、肌の露出を嫌う中国人たちが涼州式偏袒右肩という形式を編み出したと言われ、その最初のものが炳霊寺石窟169窟6龕の如来坐像である。

無量寿仏(阿弥陀如来)坐像 炳霊寺石窟169窟6龕 西秦建弘元年(420)頃 像高1.55m
『北魏仏教造像史の研究』は、浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と名づけたこの地位形式は、筆者も、肩を露出しないという点で着衣の中国的な変化とする見解を提示している。炳霊寺石窟第169窟(西秦時代、420年頃)に出現したこの新しい着衣形式が、河西地区では434年頃に現れるとする殷氏の指摘は、この着衣形式の伝播を考える上で重要である。
建弘銘は、前半は判読できない部分も多いが、末尾に「建弘元年歳在玄枵3月24日造」の文字が確認できる。ただし、題記の中ほどには「請妙匠容慈尊像」云々とあり、慈尊すなわち弥勒を造ったという内容が見え、無量寿三尊像の題記としては疑問が残るという。
ということで、著者の石松日奈子氏は420年頃としている。

着衣の彩色が残っていないので、少し補色してみた。左胸の大衣の縁に緑色が残っていたが脚部の下側に赤茶けた色がある程度で、大衣自体の色彩はわからなかった。右首に回した大衣は、縁が剥落しているが、大衣自体は右腕を半分覆っている。そして両脚部をすっぽり覆った大衣は、左手下から分かれて縁が外側にきて蓮台にかかる。
涼州式偏袒右肩の最初とされる本像の大衣のまとい方は以上である。
炳霊寺石窟169窟6龕如来坐像 西秦建弘元年頃 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


『北魏仏教造像史の研究』は、北涼制圧の際には涼州の民3万余家が平城へ移され、塔寺盛況だった北涼の仏教文化が一気に平城へ流入した。
5世紀後半の平城仏教の隆盛は涼州仏教、涼州造像の存在なしにはあり得なかったと言っても過言ではない。仏教文化の最先端地区であった涼州からの徒民は、河北造像を基盤とするやや旧式の平城造像界に、インドや中央アジアの新しい流行様式を吹き込み、さらに、石窟造像という未知の造像世界をもたらしたという。

そして敦煌莫高窟の窟について同書は、従来明確な根拠がないままに北涼期とされてきた早期3窟のうち、少なくとも第275窟に関しては年代を北魏時代、5世紀半ば以降に下げるべきであろうという。
これについては前回記事にしたので、今回は北涼時代の制作とみなされ、北魏時代とは断定されていない他の2窟、268窟・272窟の如来の着衣について。


268窟 窟頂平棋 北涼
『北魏仏教造像史の研究』は、奥壁に塑像の如来交脚像を造り、左右には2つずつの房室を設ける僧房窟であるという。

西壁如来交脚像 高さ0.76m 
『敦煌莫高窟1』は、偏袒右肩に着て左右両側に供養菩薩が描かれる。龕庇は火焔文で装飾され、莫高窟唯一のギリシア式柱頭が描かれる。龕外には供養菩薩が跪き、上方に2飛天、龕下には供養者が描かれるという。
今回見学した中原の石窟では、アーチ形の龕庇を柱頭のある柱で支えているものを見てきた。炳霊寺石窟でも128窟(北魏時代)では、龕庇の龍下端に龍頭、それを支える柱頭は蓮華になっている。アーチ形龕庇と柱頭という組み合わせが定着して、中国化していった様子が窺える。

『北魏仏教造像史の研究』は、上段南側には女性の供養者が描かれ、一人は漢族の大袖に裙襦、もう一人は漢胡混交して小袖に衫裙を着る。北側は男性の供養者で、ひとしく漢族の深い袍で、漢族晋の衣冠制である。敦煌や酒泉では、魏晋十六国時代の墓の壁画に描かれた衣冠に似ているという。
敦煌莫高窟に現存する最古の窟の一つは、どうやら漢族が奉献したもののよう。前漢の武帝がシルクロードを拓いて以来、敦煌は漢族の町だったので、漢族がこの窟を開鑿したとしても不思議ではない。
敦煌莫高窟268窟西壁如来交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

『北魏仏教造像史の研究』は、如来交脚像は袈裟を偏袒右肩に着けるが、インドの偏袒右肩と異なり、右肩に衣を少しずつ懸ける形は、炳霊寺第169窟の如来像に見られる特徴(涼州式偏袒右肩)と共通するという。
如来の右腕が失われているのは残念だが、右肩から腕に浅く懸かる大衣の縁が腕の裏側から、ぐるりと脇腹に回り、それが腹部と胸部を斜めに交差して左肩に懸かる様子がよく表されている。
涼州式偏袒右肩という点で、169窟6龕の如来坐像から中国風に変化していく様子が分かる如来坐像である。この図版では着衣の衣文線が見えない。
ただ、私には頭部が北涼や北魏風ではないように思える。石松氏は後補とは指摘されていないのだが。
敦煌莫高窟268窟西壁如来交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


272窟 
『北魏仏教造像史の研究』は、方形のプランで、奥壁に塑像の如来倚坐像(頭部は補作)と多数の供養菩薩像の壁画という。
敦煌莫高窟272窟西壁如来倚像 『敦煌への道上 西域道編』より

如来倚像  
本像は右肘まで残っているので、右肩から腕へと懸かる大衣は肘下から左肩へと上がり、その衣端は左肩から腕にかけて、折畳文をつくりながら垂れている様子が表現されている。
しかしながら、見方を変えると、通肩に着ていた大衣をぐっとゆるめて胸をはだけ、右腕を出しているとも解釈できる。内着の僧祇支は団花文のよう。
また、アーチ形龕頂部には、天蓋が四半球の形に合わせて描かれている。
後半の最外側には火焔文、その内側は頭光には化仏、身光には飛天が描かれるが、身光の更に内側に描かれているものはわからない。
敦煌莫高窟272窟西壁如来倚像 『敦煌への道上 西域道編』より

左肩に懸かる衣端が折畳文になっているのも特徴的だが、左手から垂下する大衣の衣端がひらひらとしていて、その着衣の薄さの表現は169窟7龕の如来立像に近い。
炳霊寺石窟169窟7龕 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

しかしながら、身体に密着した大衣のU字形衣文線は凸線で表されるのは、敦煌莫高窟275窟の菩薩交脚像と共通する特徴である。
じっくり見ると奇妙な着衣表現の本像が、272窟の衣文線を真似たのかも。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『世界美術大全集3 三国・南北朝』より

如来説法図 側壁
『北魏仏教造像史の研究』は、左右壁は如来坐像の説法図を描くという。
肉髻がなく、涼州式偏袒右肩の大衣を極端にはだけているが、これは炳霊寺石窟169窟6龕(西秦)の如来坐像に似る。ただ、6龕の如来坐像は禅定印を結ぶのに対し、本像は施無畏与願印にも見えるが、右手は胸前に挙げ、左手は衣端を握っているのだろう。
このような手の表現は、炳霊寺石窟169窟の西秦像では立像にみられる。
脚部の張り出しの少ない如来坐像である。
敦煌莫高窟272窟左右壁如来説法図 『北魏仏教造像史の研究』より

坐像としては右手が残っていないので断定できないが、20龕の五如来坐像のうち、窟口から2番目の如来坐像が左手で衣端を握っている。
炳霊寺石窟169窟20龕如来五尊うち 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


268窟と272窟にも炳霊寺石窟169窟(西秦)の如来像の特徴が見られ、それが変化せずに採用されている。北涼時代としても良いのではないだろうか。



関連項目
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「敦煌への道上 西域道編」 石嘉福・東山健吾 1995年 日本放送出版協会
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社
「獅子 王権と魔除けのシンボル」 荒俣宏・大村次郷 2000年 集英社
「中国石窟芸術 炳霊寺」 甘粛省炳霊寺文物保護研究所編 2015年 江蘇鳳凰美術出版社
「絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦」 主編鄭炳林 2021年 


2021/08/06

炳霊寺石窟 北魏前期


窟や仏像のデータは『中国石窟 永靖炳霊寺』(1989年、以下『永靖炳霊寺』)より。
ただし、図版の解説と「炳霊寺石窟内容総録」で異なった解説があったりするので、当惑することがある。
また、同書では西秦-北魏とされている龕が、『中国石窟芸術 炳霊寺』(2015年)や『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦』(2021年、以下『第169窟』)では西秦あるいは北魏と時代がはっきりとしてきている。『永靖炳霊寺』の図版には西秦-北魏と書き込んでいるものはそのままにしているものもある。

西秦時代に仏像や仏画が制作された後、北魏時代にも仏像が造られた。それは171窟の大仏の両側上部の169窟と172窟である。ちなみにこの大仏は唐代造像、明代重修の摩崖仏で高さは約30m。

対岸から眺めた大仏と169・172窟。共に西秦時代に開鑿されたが、部分的に後世に造られたものもある。


169窟北壁の龕
炳霊寺石窟169窟北壁 西秦-北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

大寺溝東岸から根性で写したらたまたまピントが合っていたものは、北壁前部の屏風状の仏龕に造られた一仏二菩薩像。『永靖炳霊寺』(1989年)では西秦から北魏とされていたが、『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦』(2021年)では西秦時代になっていた。この場合は、新しく出版された文献の方を採ることにしているので、この仏像は次回詳しく。

外から見えても、窟内を見学した時は、通路からは見えなかったり、向きが異なるために見えなかったりしたものもある。 


5号龕は169窟北壁の6号龕一仏二菩薩像(西秦)の奥にある。
炳霊寺石窟169窟北壁5・6窟 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦』より

しかも、その右手(東側)には6号龕との隙間に3段に如来坐像が安置されている。
炳霊寺石窟169窟北壁5窟 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦』より

5号龕 北壁後部仏龕 北魏 
同書は、現存するのは2体で、右が如来立像。左は如来倚像(善跏趺坐)で説法印を結ぶ。
北魏から西魏の秀骨清像であるという。
2体とも通肩に大衣を着ているが、衣文線は浅い。また、どちらも耳が大きい。如来倚像の顔は西魏っぽいが、立像の方は首が太い割りに頭部が小さく、どの時代のもかわからない。耳と顔の間に頭部側面のようなものが残っているので、ひょっとするとそれが造像当初のもので、顔が壊れて後世の重修かも。
炳霊寺石窟169窟北壁5窟 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦』より

5号龕 北壁後部仏龕 北魏 平面半円形、背屏龕 高さ1.19m、幅1.40m、奥行0.54m
『永靖炳霊寺』は、無量寿仏龕の背後壁右側に岩壁の間に上下3段のアーチ形龕がある。それぞれに一如来が結跏趺坐し禅定に入る像である。造像は北魏の秀骨清像系であるという。
秀骨清像には見えないのだが・・・ 如来の着衣も通肩や偏袒右肩で北魏前期のものだし。
炳霊寺石窟169窟5龕東側3龕 北魏 『第169窟 西秦』より

『第169窟』は、扁平な肉髻で顔は細長い。結跏趺坐し偏袒右肩に大衣を着るという。
しかし、肉髻は高く大きく見える。水流文も表されているようで、目鼻を墨書している。耳も大きい。
胴部が短く見えるのは、下から撮影された図版だからだろう。 
涼州式偏袒右肩の大衣は衣文の線が乱れがち。右足が出ているようにもみえるが、半跏趺坐というほどでもない。
炳霊寺石窟169窟5龕東側3龕二段目 北魏 『第169窟 西秦』より


8号龕 北壁後部仏龕 二身並坐像 北魏後期 背屏龕 高さ0.87m、幅0.87m、奥行15m
『第169窟』は、向かって左側は結跏趺坐し、禅定印を結ぶ、高さ0.47m。右側は倚像で両手を胸前で合わせる、高さ0.15mという。
小さな如来たちで、二仏並坐とも見られていないようだ。
炳霊寺石窟169窟北壁後部仏龕 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

頭部
『永靖炳霊寺』は、左側の如来は高い肉髻に水波文が刻まれる。二像とも首が細く、面長。秀骨清像の風格ある。北魏孝文帝が漢化政策を始めたので、南朝文化を吸収した影響が現れているという。
ということは北魏後期。
特に右如来は微笑みを浮かべている。
炳霊寺石窟169窟北壁後部仏龕仏像頭部 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より


172窟 天然窟 高さ約10.00m、幅7.00m、奥行20.00m
『永靖炳霊寺』は、窟内北壁上部に一仏二菩薩像の塑像がある。禅定印を結び結跏趺坐する。北壁外側に石胎塑造の如来坐像、高さ0.90m。
北壁下部に北周期の五如来立像、高さ1.07mという。
五如来立像は北周時代の造像。詳しくはこちら

一仏二菩薩像 西秦-北周 不規則な天然窟 高さ約10.00m、幅7.00m、奥行20.00m
内側から見ると、仏三尊像の下に北周期に五如来立像が造像されたことわかる。
炳霊寺石窟172窟北壁-西秦~北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

一仏二菩薩像 北魏 如来高さ2.68m
『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)は、北魏早期の石胎塑造。高い肉髻、薄い唇。通肩に大衣を着て、着衣は台座を覆う。彩色は明代。西秦時代の造像様式が残るという。
両脇侍菩薩は高い髻に宝冠をつけ、左脇侍菩薩は両腕にかかる天衣を背後に回しているので、薄い裙が脚部に密着する表現がよく見える。特に右腕は長く、その割に脚は短い。
炳霊寺石窟172窟仏三尊像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

如来は右足を出して半跏趺坐する。北魏後期に出て来る形式だと思っていたが、早期にすでにあった。
台座を隠す裳裾にギザギザの続く折畳文は見られない
炳霊寺石窟172窟如来坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

U字形を描く衣文線は浅くぎこちない。
炳霊寺石窟172窟如来坐像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

右脇侍菩薩の台座には、水面から出た茎が大きな蓮の葉内部を開き、そのしべが台座の縁に描かれている。これは明代の重絵ではなく、北魏時代の貴重な蓮華の絵であってほしい。
炳霊寺石窟172窟右脇侍菩薩像台座 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より



関連項目

参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟芸術 炳霊寺」 甘粛省炳霊寺文物保護研究所編 2015年 江蘇鳳凰美術出版社
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書
「建築を表現する展図録」 2008年 奈良国立博物館
「絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦」 主編鄭炳林 2021年 

2021/04/23

麦積山石窟 北魏窟


西崖区の下部に開鑿された78・74窟は、麦積山石窟では北魏孝文帝前半期(452-477)に開鑿された現存最古の石窟だった。それに次ぐのが80窟である。
麦積山石窟西崖区北魏窟・西魏窟 『中国麦積山石窟展図録』より

80窟 北魏太和年間(477-499、孝文帝期)開鑿 北周、清代重修
平面方形、平天井。窟高2.55m幅1.3m奥行0.62m(前部損傷による)

『中国石窟芸術』は、主尊の高さ1.40m、その左右にそれぞれ、上の小龕に通肩、禅定印の如来坐像、中小龕に二仏並坐像、下の小龕に供養者3人の塑像があるという。
3段の小龕の外側は東西壁となっていて、脇侍菩薩像が立つ。図版には両脇侍菩薩像と小龕が写っているのに、高さまでわかっている主尊の画像はない。

脇侍菩薩像 東壁 1.20m 
西壁の菩薩立像とは左右対称の姿をしているが、この像は完璧な姿で残っている。蓮蕾を胸前に掲げ、左手には把手のついた壺を提げている。
麦積山石窟80窟正壁部分及び左脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

『中国石窟芸術』は、三珠宝冠を被る。切れ長の目、高い鼻。耳飾りを垂らし、三筋分かれた髪を肩に垂らす。温和な表情で早期に将来した仏像の特徴が明らかであるという。
78窟の如来に見られた上がり気味の口角は、80窟ではもっと上がっている。
麦積山石窟80窟正壁左脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

如来坐像 正壁左上小龕 像高0.32m
『中国石窟芸術』は、高い肉髻と髪には黒く彩色されている。通肩で、大衣の襞はU字形。両手は前後に重ねる禅定印で結跏趺坐する。下の小龕には二仏がならび、合わせて三世仏とするという。
麦積山石窟80窟正壁小龕如来坐像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

その下の龕内は、明らかに二仏並坐像で、法華経巻第4見塔品第11に、多宝如来が釈迦の法華経説会の場に宝塔を湧出させ、釈迦所説の真実を証明し、塔中の半座を分けて釈迦を招き坐らせた(『仏教美術用語集』より)という場面を表し、右肩を肌脱ぐ着衣法は長上に対するものであるから、右手を上げている像が過去仏多宝如来を紹介する釈迦であろう(『週刊朝日百科』より)と、偏袒右肩は、本来は現世仏の釈迦が、過去仏の多宝如来に敬意を表して、通肩の大衣から右腕を出す仕草だったようだ。
着衣はともかく、この如来たちは現在仏と過去仏なので、上龕内が未来仏の弥勒であれば三世仏には違いない。
それにしても、判で押したように同じ顔が並んでいる窟である。
麦積山石窟80窟正壁小龕二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

148窟 太和年間(477-499)開鑿 西崖区中ほど 平面方形平天井 窟高2.40m、幅2.12m、残った奥行2.12m 地震により窟の中-前部破壊
『中国石窟芸術』は、左右壁の大龕は壊れたが、正壁との組み合わせは三世仏である。正壁は塑造の主尊と後壁に小龕が開かれ、上層には菩薩半跏思惟像と菩薩交脚像が、中、下層には二仏並坐像が表されている。このような構成と題材は、雲崗第2期の影響を受けているという。
麦積山148窟正壁如来坐像及び小龕 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

『天水麦積山』は、主尊は禅定印を結び結跏趺坐する。高さ1.40m、高い肉髻、方円形の顔、鼻筋が通り、唇は薄いという。
腹部に禅定印を組む手の大きいこと。足は着衣に隠れている。
右脚部の僧祇支には文様が描かれており、衣文線は麦積山石窟現存最古の78窟の如来とよく似て、大衣の衣文線が非常に密に表されている。
麦積山148窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

如来坐像 像高1.4m
『中国石窟芸術』は、高い肉髻、広い額、鼻梁は高く、目は大きく、耳は肩まで垂れるという。
この横顔の目が、敦煌莫高窟275の菩薩交脚像の目に似ている。鼻筋は通っているが、目はくぼんでいない。
麦積山148窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

東上層小龕 菩薩半跏思惟像
『天水麦積山』は、華鬘の冠を被り、瓔珞を付け、束帛座に坐す、高さ0.50m。二菩薩が侍すという。
麦積山148窟菩薩半跏思惟像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

西上層小龕 交脚菩薩像
手は胸前に組んでいる。
麦積山148窟交脚菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁左下小龕 二仏並坐像
多宝如来を右手で示す釈迦如来は涼州式偏袒右肩だが、多宝如来の方は大衣から右腕を出そうとする瞬間を表しているようだ。涼州式偏袒右肩から漢族風の双領下垂式への過渡期とも思える。
麦積山148窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

『中国石窟芸術』は、同時期に開鑿された窟は、80、100、128、144であるという。太和年間(477-499)といえば、孝文帝が洛陽に遷都する前の時期。

100窟
馬蹄形平面平天井 高さ2.80m、幅2.12m、奥行2.30m
『天水麦積山』は、正壁の如来坐像は後代の塑造。両側上部に小龕、東上に菩薩半跏思惟像、西上に交脚菩薩像、その下に二仏並坐像という。
正壁は148窟と同じ構成。

脇侍菩薩像 高さ1.26m、
東西壁にはそれぞれ菩薩立像、その前側に一龕が開かれ、如来坐像が安置されるが、宋代の重修を受けている。
菩薩立像は、ほっそりとした体に密着した着衣には衣文線が密に彫られ、壁面には飄帯が韻律を描くように美しいという。
壁画に描かれる、翻る飛天の天衣とはまた違った表現だ。菩薩は静止しているのに、飄帯はふわふわと漂っている。
麦積山100窟正壁・東壁 北魏 『中国石窟天水麦積山』より

128窟 
平面図
『天水麦積山』は、窟の形は100窟に似る。平面方形で平天井。西壁前には大きな壇があり、上には高さ1.84mの主尊、如来坐像。左右壁両側の塑造脇侍菩薩像は高さ1.48mという。
麦積山128窟平面図 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

正壁如来坐像頭部
高い肉髻、長い耳は同時期の特徴と共通するが、大きな白毫は他のものには見られない。黒目が描かれているのも今までなかったかな👀
麦積山128窟正壁如来坐像頭部 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

正壁東側上小龕 菩薩半跏思惟像
何故半跏思惟像は右手の人差し指を頰に当てるようにしているのだろう。
麦積山128窟正壁上部小龕菩薩半跏思惟像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

『天水麦積山』は、左右壁に円形の龕、中に高さ1.40mの如来坐像で、合わせて三世仏とする。偏袒右肩の着衣に禅定印を結ぶ。窟内には小龕が多く開かれるという。

西壁
正壁の右脇侍菩薩と、窟門の西にある正壁を向いた菩薩とが龕内の如来坐像の脇侍を兼ねているような構成である。
麦積山128窟西壁 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

東壁
西壁同様に、正壁左脇侍菩薩と窟門の東側の菩薩とが窟内の如来の脇侍を兼ねているようだ。
禅定印を結んだ手が異様に大きい。
麦積山128窟平面図 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

どちらの画像も表情は分かりにくいが、東壁の如来も西壁の如来も、白毫の穴があるみたい。

144窟
『天水麦積山』は、窟前部が崩壊しているが、正壁の禅定印を結ぶ如来坐像及び両側上下3層の小龕、西壁の一菩薩が残っているだけである。
正壁上部小龕に菩薩半跏思惟像と二脇侍菩薩像があり、交脚菩薩は華鬘の冠を付けている。長い髪は肩までかかり、秀骨清像でよく残っている。座高は0.52mという。
両側に菩薩が侍している。
麦積山144窟正壁東上小龕菩薩半跏思惟像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

115窟 景明3年(502)
『天水麦積山』は、平面方形、平天井 窟高0.93m、幅0.95m、奥行0.90m
塑造の一仏二菩薩像。正壁如来坐像は高さ0.86m、体格は良い。衣文は細かい。二脇侍菩薩は高さ0.76mで塑造が壁面に貼り付けられているという。

『中国麦積山石窟展図録』は、麦積山石窟の北魏後期様式を考えるうえで極めて貴重な遺例は第115窟である。麦積山石窟では唯一の確実な年記が、中尊台座に墨書で記されている。第1行目に景明3年(502)の年号がはっきりと認められる。
菩薩とは、麦積山における大乗の修行者を意味している。すると、この窟は上邽鎮(天水)の元伯という街の役人が、麦積山で悟りを求めて修行する大乗の僧のために造営したことが分かるという。
麦積山石窟115窟正壁 北魏 『天水麦積山』より

『中国石窟芸術』は、窟内には一仏二菩薩が塑造され、正壁の仏光背両側上方には草蘆に坐す比丘がそれぞれ1体描かれ、その下は説話図が表されているという。
仏伝あるいは本生図の場面が表されるようになった。
麦積山石窟115窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟芸術』より

『天水麦積山』は、主尊は明、清の重修を受けているという。
高い肉髻、長い耳は北魏様式のまま、目や口元は重修のよう。

『中国麦積山石窟展図録』は、体躯は肩がやや角張り引き締まった感がある。左肩から胸にかけて帯状に下がる衣のへりには折畳文が連続して表され、古式の衣制を保っているという。
今までギザギザとかジグザグなどという表現をしていたが、折畳文というのが正式な名称だった😅 非常に整った品字形の襞が台座の上に扇状に広がっている。
麦積山石窟115窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟芸術』より

壁の脇侍菩薩像
宝冠はそれぞれ異なるが、脚部の凹凸がはっきりとわかるくらい密着した薄い着衣である。飄帯は100窟の菩薩のものほどには翻っていない。
麦積山石窟115窟東西壁脇侍菩薩像 北魏 『天水麦積山』より

『中国麦積山石窟展図録』は、第115窟と同時期の造営になるものとして、第76・114・155窟があるという。

76窟 西崖区東下部 平面台形の小型平天井 宣武帝景明期(500-503)
『中国石窟芸術』は、主尊は高い肉髻、通肩の大衣の端を左肩にかける。禅定印を結び、須弥座に結跏趺坐し、衣端は3つに分かれて台座に垂下する。蓮弁形の光背の左右及び左右壁には14の小龕が開かれ、塑造の如来坐像、男女の供養者が安置される。 
壁画は隋代に重修されたという。
光背の形は、日本では舟形と呼ばれるが、本来は蓮弁を表している。
麦積山石窟76窟正壁及び東西壁の脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

禅定印を結んだ手は現れているが、大衣が中央に垂れているために、結跏趺坐した足が見えない。その脚部は奥行が感じられない点、衣文線が浮き出して表される点など、麦積山石窟で現存最古とされる78窟の如来とは様式の違いが感じられる。
欠けているが肉髻は高い。面相は北魏のものではないだろう。
麦積山石窟76窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

155窟 北魏中期
『中国石窟芸術』は、平面方形平天井、三壁三龕で麦積山石窟で最も早く出現した窟形である。窟高2.11m、幅2.11m、奥行2.12m。三龕に龕楣と龕柱が土を盛って造られている。龕内にはそれぞれ一仏が安置され、三世仏となっているという。

『天水麦積山』は、正壁中央に大龕が開かれ、須弥座に如来が坐す、高さ1.18m。説法の場面を表し、尖拱形の龕楣の上に型造りの一仏二菩薩像が貼り付けられている。龕外には脇侍菩薩が1体、高さ1.68m。正壁上東側には半跏思惟像が1体という。
麦積山石窟155窟正壁・東壁 北魏中期 『中国石窟芸術』より

『天水麦積山』は、大龕内両側上層に如来坐像が6体、下層に交脚菩薩が8体の同笵塑像が貼り付けられているという。
大衣の衣褶線が深い。涼州式偏袒右肩とするよりも、大衣が深く右肩と腕にかかっている。
麦積山石窟155窟正壁・東壁 北魏中期 『中国石窟芸術』より

正壁龕柱の下に手を挙げる力士が表される。
麦積山石窟155窟正壁・東壁 北魏中期 『中国石窟芸術』より

左壁仏弟子両像 高さ1.02m
『中国石窟芸術』は、深目高鼻で、頬骨が凹み、下顎が尖って痩せた顔になっている。胸骨や肋骨が浮き出て、痩せ細った老人の弟子を表している。右肩に僧衣が掛かり、右手は胸前で蓮池の蕾を持ち、左手は腹部で衣の角を握る。衣文は細密で線刻する。裙の裾から足が出ている。蓮台の上に立ち、光背は蓮弁の形になっている。表面は彩色された痕跡が残り、北魏末期に重修で塑造された。弟子の一老人一年少者という組み合わせが、麦積山石窟で最も早く出現したという。
一老人一年少者の組み合わせは、日本では迦葉と阿難とされているので、これまで登場した弟子像は阿難と迦葉としてきたが、それでよかったのかな😎
麦積山石窟155窟東壁 北魏末期重修 『中国石窟芸術』より

北魏末期

23窟 東崖区中部 平面方形平天井窟 現在窟前部が失われている。
『中国石窟芸術』は、塑造一仏一菩薩像が現存する。
如来は高い肉髻、顔は細長い。双領下垂式に大衣を着て、胸前に内着の帯が垂れている。衣文は陰刻されている。主尊は漢族化して風格がある。
右脇侍菩薩は細身で上半身は裸で裙を履く。脚部は開いて蓮台に立つ。菩薩は早期造像の特徴を留めるという。 
いつの間にか、化仏が描かれていた光背は火焔文が描かれ、千仏が壁面をおおっている。
裳懸座が破損しているために、台座をどのようにつくったかを知ることができる。木材の上に安置されていとは😦
それはともかく、時代が下がるにつれて、3つに分かれて長く垂れてきた裳は、遂に台座を覆うようになって、西魏へと繋がる造像になってきた。
麦積山石窟23窟一仏一菩薩像 北魏末期 『中国石窟芸術 麦積山』より

140窟 西崖区上部 141窟の東側にあり、西壁に140窟に通じる穴がある 窟高2.14m、幅2.17m、奥行2.01m 方形平面平天井
『中国石窟芸術』は、正壁、東西壁に各一如来坐像で三壁三仏の組み合わせとなる。
窟頂と四壁に壁画が描かれている。正壁は一仏二菩薩像、東西壁は一仏一菩薩像とするという。
141窟は北周期(557-581)の窟とされる。
高い肉髻、双領下垂式に大衣を着て、結跏趺坐した台座に右足と内着の衣端を垂らしている。前期窟の如来像と比べると細身になっている。
麦積山石窟140窟 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より


関連項目

参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「麦積山風景名勝 李克強撮影集」 2014年 天水市旅游局
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国麦積山石窟展図録 シルクロードに栄えた仏たち」 東山健吾監修 1992年 日本経済新聞社
「週刊朝日百科世界の美術92 南北朝時代」 1979年 朝日新聞社
「仏教美術用語集」 中野玄三編著 1983年 淡交社