以下の石窟データは『中国石窟 永靖炳霊寺』(以下『永靖炳霊寺』)より。
8窟 隋(581-618) 平面方形平天井 高さ1.80m、幅2.25m、奥行2.05m
『永靖炳霊寺』は、正壁にはもとは一仏二弟子像、南北両壁に二菩薩あったという。
正壁
光背の図は如来坐像とはずれているので、本来は台座があって如来はその上に結跏趺坐していたのだろう。
『永靖炳霊寺』によると如来は単独像で、現在ある脇侍菩薩は後の時代に安置されたものらしい。この脇侍菩薩の体型から初唐期のものと推定。
正壁北隅に弟子(迦葉)像があり、壁面の光背はその頭部に一致している。
如来坐像 像高0.75m
『永靖炳霊寺』は、低い肉髻に螺髻で、丸いが清秀な顔立ちである。胸部に卍が墨書される。中に僧祇支、外は偏袒右肩に着衣を付けるという。
珍しく螺髻の如来である。
衣褶は的確に太く深く刻まれているが、やや翻波式の傾向が見受けられる。
翻波式衣文についてはこちら
炳霊寺石窟8窟正壁如来坐像 隋 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
正壁壁画
同書は、壁画は隋代に描かれたもの。中央の火焔文の頭光は、内側に七体の如来坐像が描かれ、頭光両側には弟子が4人ずつ描かれている。弟子たちは互いに前後左右に向き会っている。塑像の2弟子と合わせて十大弟子になっているという。
正壁南側
弟子の衣装は華麗な連珠円文が並ぶものがあるという。
連珠円文は着衣に別布の縁を付けた箇所にあるが、こんな写真では、残念ながらその中に何が描かれているのか分からない。
炳霊寺石窟では隋代のこの窟だけだが、敦煌莫高窟でも隋代から初唐期だけで、意外と少ない。それについての記事はこちら
正壁北側
ここにも襟元に連珠円文の並ぶ僧衣を着た弟子がいる。
弟子はの着衣もさまざまなら、頭光の色もまた様々。主尊の頭光に描かれた化仏の着衣も色とりどり。
弟子は阿難 像高0.94m
南壁隅に阿難像があり、迦葉像と同じく、描かれた光背と頭部が一致している。
南壁上部に6弟子、7菩薩像、下部に供養者が描かれるという。
同書は、南北両壁上段には、帳の下に菩薩と弟子、そして菩薩の頭光が描かれる。
菩薩は花蔓の冠を戴き、繒帯は長く垂れる。飄逸で秀麗な絵画で、河西地方隋代の石窟壁画の典型である。維摩と文殊の問答に聞き耳を立てている場面という。
極めて優美な菩薩図である。菩薩たちはそれぞれ円座に坐っているだろうか。右前方の3名が、両手を文殊の方へ向けて、維摩との問答に聴き入っている。
青が透けているように見えるのは気のせい?
炳霊寺石窟8窟南壁上段菩薩図 隋 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
上段が男性の供養者、下段が蓮華を笠のようにさす女性の供養者。
東壁南側 維摩経変内文殊菩薩
説明パネルは、壁画には『維摩経』の中で文殊菩薩が病気について尋ねる場面が表現されていますという。
北壁
菩薩像 像高1.00m
北壁上部に5菩薩4弟子、下部に供養者が描かれるという。
北壁はよくは写せなかった。
菩薩立像 北壁 隋(581-618)
『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)は、首が長く、瓔珞を付け、帔帛をかぶり、裙を胸まで上げて履く。着衣の表現は明確で典雅であるという。
初唐期の菩薩立像に比べると、直立して肉付けのない像だが、折畳文が斜めに表現されたり、裙を結ぶ紐が胸部と腰の2箇所あったりと、当時の宮廷の侍女たちの服装もこんな風だったかもと思わせる細やかな表現である。
菩薩立像 正壁 初唐(676-712)
上半身は裸体に戻る。細身だが、的確な肉付けの美しい像である。脚や腕に動きが見られる。
裙は脚に密着しているが、U字形の衣文線が並ぶことなく、斜めの線でわずかに表されるだけのすっきりとした造像となっている。
U字形の衣文線が並ぶ仏像は彬県大仏寺の盛唐期の仏像に顕著にみられるが、炳霊寺石窟では、唐代でもそのような像は見かけない。それが炳霊寺石窟の仏像の特徴なのかも。
天井
同書は、天井にはラテルネンデッケ(斗四平棋)の中に蓮華や飛天が描かれるという。
ラテルネンデッケ自体が天蓋で、垂飾あたりから四壁に移行している。敦煌莫高窟でも隋代の窟頂にラテルネンデッケが描かれたものがある。それについてはこちら
炳霊寺石窟8窟天井 隋 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
炳霊寺石窟8窟天井 隋 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
隋代の窟は他に力士像が1体残るだけである。
6窟 北周(557-581) 平面長方形平天井 高さ2.00m、幅2.70m、奥行1.90m
石彫一仏二菩薩像
如来坐像 像高1.46m
『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『中国石窟芸術』)は、丸みを帯びた顔に目鼻が中央に集まる特徴を持ち、丸みを帯びた襟と密集したコートを着て、瞑想の印を持つという。
低い肉髻で丸顔の如来は、通肩に大衣を着けているのだが、その衣文線が過剰で、しかも首に近い部分はフリルのようになっている。
結跏趺坐した脚部は薄く表され、裳裾は丸みのある折畳文となっている。
これでは分かりにくいので、やっぱり図版に頼ろう。
南壁 菩薩立像
『永靖炳霊寺』は、宝冠を被り、胸前は開ける。披巾は腹前で交差して下に垂れる。浄瓶と念珠を持つという。
足の小さな菩薩。
南壁下部に大樹が描かれ、千仏の間にも枝を伸ばしている。その枝にはカササギらしき鳥が3羽、その下に2匹のサルが枝を渡っていて、本生譚の猿の物語を描いているらしい。
炳霊寺石窟6窟南壁壁画 北周 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
『炳霊寺』は、炳霊寺は古来より禅修的な伝統がある。本窟の壁画は千仏が山林で坐禅して禅定に入った様子を表現しているという。
樹木にもちゃんと意味があった。
82窟 北周、明代重絵 平面馬蹄形天井伏斗式 高さ1.67m、幅1.90m、奥行1.00m 門道高さ1.80、幅1.55m、奥行0.78m
一仏二菩薩像。
『永靖炳霊寺』は、如来は束腰半円座に結跏趺坐する。
窟内には2層の壁画があり、天井と門道には、飛天と流れる雲が描かれている。
明代に壁画の表面に上塗りされ、仏陀の両側に二弟子が描かれ、前壁の上部と南北の壁にはチベット仏教のツォンカパ、蓮華蔓草、流れる雲などが描かれているという。
平面馬蹄形の窟は北周にもあったが、天井が低くいびつ。
如来の着衣は偏袒右肩でも通肩でも、双領下垂式でもない。顔はふくよかだが、手足は細く存在感に欠けた造形である。
頭部は肉髻がやや盛り上がる。これは麦積山石窟18窟の如来坐像と似ているが、顔貌はかなりことなる。
低い天井のためか、主尊の頭光が天井で折れている。炳霊寺石窟には唐代に開かれた小さな46窟(平面馬蹄形平天井)もこのように頭光の上が天井にかかって描かれている。
菩薩立像は北周時代のもので、細身、きゃしゃな印象を受ける。肩を覆う帔帛から延びる帯は泥漿で薄く、立体的につくられている。
窟内の壁画は明代ということだが、門道には大きな化仏が描かれていて、これは北周期のものという。
134窟 北周、唐代重絵 平面馬蹄形 高さ2.80m、幅3.64m、奥行1.80m アーチ形窟門
『永靖炳霊寺』は、正壁に一仏二菩薩像、如来は方座の上に結跏趺坐する。二菩薩の外側に結跏趺坐する塑造の如来、南北基壇の上に塑造の如来立像が安置される。
唐代に、正壁の光背や頭光、両側に騎獅文殊、乗象普賢、四方に菩薩や弟子像、南壁に供養比丘、窟前部上に千仏が描かれたという。
正壁中央の一仏二菩薩像は壁面前にあるが、南北には浅い龕があって、北龕はほぼ真ん中に如来坐像が安置されているのに、南龕には端の方に如来坐像がある。これだけなら、三世仏(過去・現在・未来)なのに、どういうわけか、南北の窟前部に、如来立像が壁に寄りかかっている。五世仏というのはないので、七仏のうち、2体が持ち出されたのかな?
窟頂前部には北周期に千仏が描かれたという。
一仏二菩薩像
同書は、結跏趺坐した如来の下には塑造の蓮弁がある。両脇侍菩薩は靴を履き、低い円台に立っている。
基壇側面には供養比丘が描かれる。正壁には唐代に光背、頭光、両側の騎獅文殊、乗象普賢、四方に菩薩と弟子が描かれた。南壁には供養比丘が描かれているという。
如来は大衣から右腕を出しているので涼州式偏袒右肩風だが、右肩には大衣はかかっておらず一般的な偏袒右肩に近い。脚に量感がなく、印相は異なるが、唐代とされる10・11窟の如来坐像に似ている。
如来が蓮華の上に坐っていたとは。着衣の裾が台座にかかっているのだと思っていた。
曲面の天井
如来の上部には天蓋、その両側には供養比丘が掲げた笠も描かれている。
北側如来坐像 総高0.70m
こちらも供養比丘たちが描かれているが、北壁には菩薩が描かれるという。通肩で肉髻は低いが2段になっている。
おそらく高さ3mの如来立像
南側の如来立像
やはり2段の肉髻で、大衣を通肩に来ている。右手の下に垂下する袖口の微妙に揺れる表現など、完成度の高い像である。
南北両側の如来坐像及び如来立像は、共に2段の肉髻があるので、同じ時期に造られたと考えてよいだろう。
主尊の肉髻は1段なので、制作時期が異なるのか、それとも後世に本窟の仏像が壊れたのせで、別の窟からこの4体が運び込まれたのかも。主尊の光背は壁面に描かれるが、これらの4体の如来の背後壁には光背がない。
北周時代に開鑿されたのはこの3窟だけではない。
対岸から眺める大仏と169・172窟。その間の桟道上部にも仏像があった。
『炳霊寺』は、172窟及び天橋は北周期の仏教活動の主要区域だった。天橋の上に三層の桟道が造られていて、三世仏及び脇侍菩薩など10余尊、如来の高さ約3m、壁画もあり、現存するのは8尊像ある。桟道には方形の穴や仏像の痕跡があって、当時の造像の機運が感じられるという。
それぞれの如来は脚部がわかるような薄い着衣を着ている。
炳霊寺石窟169-172窟桟道上部の造像-北周 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
おそらく高さ3mの如来立像
炳霊寺石窟169-172窟桟道上部の仏像-北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
そして西秦時代に開かれた172窟の中に北周時代の仏張があり、その中にも仏像が残っている。
172窟仏張 北周
炳霊寺石窟172窟仏張北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
炳霊寺石窟172窟仏張北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
三世仏は肉髻がないのでは。
正壁 一仏二弟子像
如来の顔は壊れたままだが、後世の重修を受けなくて良かった。
現在仏の釈迦は二弟子を脇侍とするが、その着衣は南壁の右脇侍菩薩のものに似ている。
背後壁の化仏は北周期ならば結跏趺坐した全体が描かれるが、本壁面では上半身が重なって描かれているので、明代の重修だろう。
明代に外側の脇侍菩薩が修復されたという。
左脇侍菩薩は北周らしい瓔珞を付けているのに対し、右脇侍菩薩はどうやら明代に重複されて、服制も変わってしまったようだ。
如来は通肩で、両袖口からのびる帯状のものが台座まで垂れ、それが下で繋いであったりして変である他は北周期のままと言ってよいだろう。
正壁及び南壁 現在仏(釈迦)と未来仏(弥勒)
『永靖炳霊寺』は、同窟内北壁下部に北周の五如来立像がある。三尊の塑像は長方形木板に泥を8-9㎜の厚さに盛って造られているという。
炳霊寺石窟172窟仏張内正壁一仏二弟子像 北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
炳霊寺石窟172窟仏張内正壁一仏二弟子像 北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
北壁 一仏二菩薩像
明代に外側の脇侍菩薩が修復されたという。
過去仏は通肩で定印を結び、台座の絵以外、あまり重修は受けてないようだ。
『中国石窟芸術 炳霊寺』は、肉髻が低く顔は丸みを帯びる。袈裟は重厚で衣文が密集している。造像は北魏の痩せ型から豊満型へと転換し始めた。北周期の変革期の特徴を表しているという。
関連項目
炳霊寺石窟172窟北側下部五如来立像 北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
炳霊寺石窟172窟北側下部五如来立像うち1体 北周 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
その前の西魏時代には開鑿されなかったのかと思っていたら、意外なところにあった。それについては次回😊