『中国石窟 永靖炳霊寺』(以下『永靖炳霊寺』)は、武則天(則天武后)は仏教の信仰が深く、仏教が空前の発展をみた。炳霊寺石窟で唐代窟は130余りで、現存する窟の2/3以上を占め、唐高宗と則天武后の時期に開鑿したものが最も多い。また、造像様式や題記などで唐代窟は3期に分けることができるという。
同書に従って3期に分けてみたが、618-675(高祖、太宗及び649年に即位した高宗の時期)がないのは、この期間に炳霊寺石窟で開鑿が行われていなかったからだろう。
1期 高宗(676-679)から玄宗(713)以前
3・4・28・29・30・34・38・45・52・53・54・61・64・91・92・93・147・168・171(大仏)など。
28窟 初唐期
頭部が大きく、ずんぐりしているので盛唐期の窟だと思っていた。
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29窟 初唐期
脇侍菩薩は細身で手足が長いので、初唐期といっても良いだろう。
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30窟
『永靖炳霊寺』は、長方形浅龕に菩薩三尊像が彫り出される。中央の一体は円形台座に立つ。左右の菩薩は方座に半跏趺坐し、左右対称の形式をとる。豊満秀麗な盛唐期を代表する造形であるという。
同書の解説文では1期の初唐期に区分されているけれど、窟の説明では盛唐とはこれいかに・・・🤨
64窟 唐代 長方形浅龕 高さ0.62m、幅0.30m、奥行0.09m 高宗儀鳳3年(678) 張楚金題記
『永靖炳霊寺』は、一仏二菩薩二天王像。両脇侍菩薩は、炳霊寺石窟で最も完璧な彫像であるという。
初唐期(618-712)の後半に造像されたことが確かな仏像群である。
まっすぐに立つ中央の主尊は顔は丸いが細身である。それに対して細身の脇侍菩薩立像は体躯を三曲する。
一仏二菩薩ともに着衣の衣文は薄く、衣褶線はすっきりとしている。
『中国石窟 永靖炳霊寺』(以下『永靖炳霊寺』)は、51から58窟は唐代高宗永隆2年(681)年銘があるという。
ということは、この一連の小龕の仏像は、初唐期(618-712)後半の開鑿で、64窟の3年後に造られていた。
同書は、49窟は尖頭アーチ龕で、荒削りのため未完成である。高い髻、上半身は傾き、片手で浄瓶を持ち、片手は上にあげている。
50・51・52・55・58窟はほぼ同じ形式である。
51窟には、巡察に来た弘爽敬が救世観音菩薩像1体を造ったという題記がある。52窟も救世観音像の題記がある。
51窟には、巡察に来た弘爽敬が救世観音菩薩像1体を造ったという題記がある。52窟も救世観音像の題記がある。
53窟は主尊は阿弥陀如来で束腰方座に結跏趺坐する。両脇侍菩薩は他窟の菩薩に似た形式であるという。
54窟は主尊は阿弥陀如来で束腰方座に結跏趺坐、両脇侍菩薩は他窟の菩薩に似た形式である。
55窟は尖頭アーチ龕で観世音菩薩、
56窟は主尊は善跏趺坐(倚坐)し、左手に托鉢状のものを持つが、題記には阿弥陀如来及び観音菩薩を崇拝すると刻まれている。阿弥陀如来の脇侍菩薩は蓮茎を持つ。
57窟は菩薩半跏像。
唐代には阿弥陀如来(無量寿仏)と観音菩薩、勢至菩薩という組み合わせの造像が大量に出現したので、浄土思想の信仰が盛行したという。
31窟 長方形浅龕 高さ1.02m、幅1.43m、奥行1.20m
一仏二弟子二菩薩像。
如来は胸前に鉢を持ち、左腕は下げて正面を向くが、左側の阿難と右脇侍菩薩は体を釈迦の方に傾けているように見える。
第2期 唐玄宗開元天宝年間(713-755、盛唐期)
136-139・149・150・153-155・159窟
残念ながらこの期間の窟は図版はないが、現地の説明パネルには、17-47窟が盛唐期の造像であるとしている。
説明パネルは、大きさの異なる31の浅い龕には、如来24体、菩薩46体、弟子16体、天王4体、夜叉4体が収められており、いずれも唐高宗と武則天の時代(650-705)に完成したもので、シンプルで生き生きとした造形で、生命力が感じられるという。
初唐期の特徴が引き継がれたということかな。
17窟 尖頭龕 高さ0.52m、幅0.67m、奥行0.14m
如来立像総高0.42m 菩薩総高0.33m
『永靖炳霊寺』は、一仏二菩薩像で、半円台のうえにのる。如来は右手で鉢を持ち、左手は着衣の端を持つ。菩薩は蓮茎を持つという。
一仏二菩薩像 総高 如来立像0.62m 菩薩0.55m
31窟の像と比べると、こちらの方が初唐風。
如来は左手で大衣の衣端を握っているが、右手は開いて人差し指と中指を下に向けている。
19窟 唐代 方形浅い龕 高さ0.72m、幅0.76m、奥行0.20m
総高 如来立像0.63m 菩薩0.64m
『永靖炳霊寺』は、左手で鉢を持ち、右手は衣端を握るという。
如来が鉢を持つという像容がいくつか見られるが、それが右手であったり、左手であったりと様々。
仏像の特徴として、上半身は肩が張ってがっしりとしているが、脚部はほっそりしている。
20窟 唐代 平面馬蹄形平天井 高さ1.11m、幅1.08m、奥行1.05m
総高 如来立像0.74m、南弟子残高0.57m(北側の弟子は崩壊)、菩薩0.76m
『永靖炳霊寺』は、一仏二弟子二菩薩像が半円の台の上に乗る。
弟子と菩薩の間には各1体の菩薩と千仏が描かれるという。
如来の両側に開花した蓮華が描かれている。
21窟 唐代 アーチ形の龕 高さ0.81m、幅0.53m、奥行0.11m
菩薩総高0.68m
『永靖炳霊寺』は、一菩薩像が彫り出される。右手で蓮茎を持ち、左手で浄瓶を提げる。天宝2年の題記があるという。
23窟 唐代 平面馬蹄形 敞口龕 高さ1.04m、幅1.04m、奥行1.32m
窟番号不明 盛唐期
如来が蓮台の上に立ち、胸前で右手は鉢ではなく宝珠のようなものを持つが、左手は失われている。
上から写すと、肉髻と髪がよく見えるという利点もある。
27窟 唐代 平面馬蹄形 高さ1.78m、幅1.38m、奥行0.80m
『永靖炳霊寺』は、一仏二弟子二菩薩像。如来は方座に善跏趺坐(倚坐)する。24窟と形も内容も同じで、壁には火焔や団花文が描かれ、像の間に化仏が描かれているという。
40窟 長方形浅龕 高さ0.63m、幅1.40m、奥行0.10m
第3期 唐粛宗-唐末(756-907、中唐-晩唐期)
9-12・25・26・48窟
9窟 唐代、明代重修 平面馬蹄形平天井 高さ1.17m、幅1.20m、奥行1.20m
『永靖炳霊寺』は、もとは一仏二弟子二菩薩像があったが壊れて、現存するのは明代の舎利塔一座のみ。
窟頂には四飛天、雲、天蓋。正壁には火焔文の頭光、光背、両供養菩薩ならびに二坐像、情報に六体の如来坐像が残っているという。
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10窟 唐代 平面馬蹄形平天井 高さ1.86m、幅1.15m、奥行2.00m
正壁
『永靖炳霊寺』は、もとは正壁に一仏二弟子像(南の弟子が残る)があった。
如来は右手で膝を膝におき、方座に結跏趺坐する。高さは0.90m。
窟上部には円形の蓮華が描かれており、蓮の花の中には動物がいて、蓮華の周りには四飛天と天井が描かれている。
正壁には両側に宝木、中央に光背が描かれるという。
仏像は細身なのだが中晩唐期とは。
25窟 如来立像 唐代 尖頭アーチ龕 高さ2.80m、幅1.25m、奥行0.35m
『永靖炳霊寺』は、受花の蓮華座に立つ如来。下部に一弟子と如来坐像が描かれるという。
26窟 如来立像 唐代 尖頭アーチ龕 高さ2.70m、幅1.25m、奥行0.55m
光背や下部の一弟子が描かれるという。
よくは分かっていない私が勝手に判断した像
如来立像 総高1.00m
説明パネルは、造形は敦煌の唐代窟で大量に造られた様式で、河西の瑞像信仰が炳霊寺石窟に伝播浸透した実例であるという。
関連項目
参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦」 主編鄭炳林 2021年