ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/08/30
中国の古鏡展5 秦時代の鏡の地文様は繊細
今回根津美術館で開催された「中国の古鏡展」では秦時代になると地文の繊細さが際立っていた。
同展図録は、非常に細い直線や渦巻線と小珠点とを組み合わせた地文をもち、そのうえに 様々な文様を載せる。戦国時代中頃から散見し、秦時代から前漢時代初頭にかけて地文のパターンが緻密でかつヴァリエーション豊かになる。地文の上に載る主文様も精緻でかつシャープな表現をとるものが多いという。
地文は驚くほど精密につくられているが、非常に浅浮彫のため、主文様を邪魔しない。
細文地四鳳鏡 秦時代(前221-206年) 径11.2㎝重104g
極細線であらわされた鉤連雷文のなかを小珠点で埋め尽くし、その隙間に極細線の渦巻文を並べた地文をもつという。
浅い地文だが、鉤連雷文の線、その中に規則的に並ぶ小珠点と渦文。そして渦文と渦文の間には、Z字形のようなものが。これは渦雷文と呼ばれる円形渦の左右に三角渦を組み合わせた地文(同展図録より)という完成された文様になっていく、前段階のものかも。
細文地龍鳳文鏡 秦時代 径14.0㎝重200g
極細線で菱形に区画されたなかに渦巻や小珠点を充填した地文をもつという。
菱形の区画は割合に大きなもので、中央に大きな渦巻が4つあり、そこから小さな渦巻が2つ出ているもの、一つだけのものなど一定していない。大小の渦巻の隙間を小珠点が埋めている。
この区画は、ひょっとすると鉤連雷文を簡略化したもの?
細文地狩猟文鏡 秦時代 径22.1㎝重104g
細文地龍鳳文鏡と同じスタイルの地文をもつという。
龍鳳文鏡よりも大きいので、地文が小さく見えるのだろうか。
では、この鏡の制作時期はどうだろう。
渦雷文地四葉文鏡 戦国時代末-前漢時代初頭(前3世紀) 径11.8㎝重130g
同書は、円形渦の左右に三角渦を組み合わせた渦雷文をすき間なく並べた地文をもつ。 地文はブロック状の原型(スタンプ)を鋳型に押し当てる方法で施文されており、羽状獣文地や細文地と同じ技術系譜にある。戦国時代末から秦時代頃に出現し 前漢時代前期にかけて流行した。本鏡は大柄な円形鈕座の外周に四葉を配するだけの簡素なもので、地文の状況がよく確認できるという。
渦雷文が完成された文様となっている点、そして地文が大きくて秦時代の繊細さに欠ける点などから、秦時代よりも後、前漢時代に入ってからの作品のように思う。
※参考文献
「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展図録」 根津美術館学芸部編 2011 根津美術館
2016/08/12
中国の古鏡展3 羽状獣文から渦雷文、そして雷文へ
「羽状獣文」について『中国の古鏡展図録』は、羽状獣文は青銅祭器の文様として発達した龍形文様の羽状飾だけを強調した文様である。これを30㎜X15㎜くらいの長方形区画にまとめて縦横に並べている。鋳型への施文は基本的に原型(スタンプ)で地文をつくり、さらにその上に主文様を載せる。このような羽状獣文地をもつ鏡が前4世紀~前3世紀にかけて長江中流域を中心に大流行したという。
羽状獣文地五山字文鏡 戦国時代(前3世紀) 径18.7㎝重600g
龍の羽状飾一部分だけの文様もあれば、頭部や胴部の見られる箇所もある。いや、もはやこれは龍ではなく、正体不明の獣だろうか。長い口から首、背中にかけて、小珠点を並べた列点文がみられる。
羽状獣文地四山字文方鏡 戦国時代(前3世紀)
波文のようでもある。その隙間に、列点文が入り込んでいるようにも見えるが、これが獣の体なのだろう。
羽状獣文地四獣鏡 戦国時代(前3世紀) 径16.4㎝重329g
同書は、大きな円圏鈕座のまわりを4体の禽獣が旋回する。羽状獣文地の上に凸線で輪郭だけをあらわす。文様はいくつかのヴァリエーションがあるが、いずれも尾が雲気状に発達しながら長く伸びるという特徴を持つという。
禽獣の凸線ははっきりしているが、地文は上の2点と比べると浅いのではっきりとはわからない。
同書は、胴や尾が雲気状に発達する表現は、戦国時代末から前漢時代初頭にかけて流行したスタイルで、秦時代に発達した細文地獣文鏡や蟠螭文鏡などに受け継がれていった。製作時期は山字文鏡や花菱文鏡よりもやや遅れると考えられている。羽状獣鏡をもつ鏡としては最も新しい時期の作品である。
発達した牙をもった尾長の獣4頭で文様を構成する。獣は自身の尾を銜えている。このスタイルの文様のなかで最も流行したタイプであるという。
地文がわかりにくいのは、禽獣の体が無文なので、そこが地文が途切れてなくなっているように感じるからでもあるのだろう。
これくらい拡大すると、細い線と複雑な羽状文が浮かんでくる。
禽獣の尾は、文様の1単位の半分でもよいくらいなのに、∞字状に長々と伸び、しかも草文のように葉状のものがついたり、蔓が出たりしている。ケルトの動物を見ているようだ。
羽状文地葉文方鏡 戦国時代(前3世紀) 辺長8.5㎝重120g
同書は、羽状文を地文として、その上に葉文を配置した簡素な方形鏡である。羽状文は先端を丸めた羽根を正方形にまとめ、それを縦横に並べた単純な構造をとる。羽状獣文をより簡略化したものである。縦2個横4個を基本単位とする長方形のスタンプによって鋳型に施文されており、羽状獣文地と同じ施文技法をとっているが、全体にやや粗雑で鈍い仕上がりの印象を与えるという。
この方鏡の地文は極めてはっきりしている。一房の巻毛か高い波のよう。獣の体を表した列点文は全くみられない。
葉文は方形の鈕座の各角に、そして外の区画からは、2つの葉文の間に一つの葉文がくるように配されている。
細文地四鳳鏡 秦時代(前221-206年) 径11.2㎝重104g
同書は、非常に細い直線や渦巻線と小珠点とを組み合わせた地文をもち、そのうえに様々な文様を載せる。戦国時代中頃から散見し、秦時代から前漢時代初頭にかけて地文のパターンが緻密でかつヴァリエーション豊かになる。地文の上に載る主文様も精緻でかつシャープな表現をとるものが多い。
極細線であらわされた鉤連雷文のなかを小珠点で埋め尽くし、その隙間に極細線の渦巻文を並べた地文をもつ。方形鈕座の四隅に尾を高く振り上げた鳳が留まる。鳳の隣には大柄な菱文を入れているという。
浅い地文だが、鉤連雷文の線、その中に規則的に並ぶ小珠点、渦文がはっきりと鋳出されている。
渦雷文地四葉文鏡 戦国時代末-前漢時代初頭(前3世紀) 径11.8㎝重130g
同書は、円形渦の左右に三角渦を組み合わせた渦雷文をすき間なく並べた地文をもつ。地文はブロック状の原型(スタンプ)を鋳型に押し当てる方法で施文されており、羽状獣文地や細文地と同じ技術系譜にある。戦国時代末から秦時代頃に出現し前漢時代前期にかけて流行した。本鏡は大柄な円形鈕座の外周に四葉を配するだけの簡素なもので、地文の状況がよく確認できるという。
四葉文は柿蔕文を小さく表したもののよう。久しぶりに柿蔕文を見た。柿蔕文についてはこちら
渦雷文とはこのような渦の組み合わせ文様をいうのか。これは秦時代の細文地四鳳鏡にもすでに出現している文様だが、この文様だけで地を埋め尽くすということは秦時代にはなかったかも。
八弧蟠螭文鏡 前漢時代(前2世紀) 径19.7㎝重567g
同書は、渦雷文地のうえに数体の蟠螭文が鈕座のまわりを旋回するタイプの鏡である。蟠螭文は龍形文様の一種で、口を大きく開き2足あるいは4足をつけた細長い胴体をくねらせる。胴のくねらせ方はヴァリエーションに富んでいるが、胴体が左右に大きく展開するタイプが多い。とくに長江中流域の戦国時代末から秦時代にかけて多く見られ、引き続き前漢時代前期に大流行した。
円圏鈕座のまわりを幅広の連弧文がめぐる。連弧文は半円を内向きに8個連ねる。渦雷文地にこのような連弧文のみをあらわした鏡が、戦国時代末から前漢時代初頭にかけて製作されたが、本鏡はさらにその連弧に分断されるような形で蟠螭文を4体あらわす。連弧の外縁側に口を開いた龍頭をおき、それから4足を付けた胴体が、連弧をくぐりながら鈕座側に伸び、さらに隣の連弧外縁側へと展開する。蟠螭文はいずれも輪郭がシャープで渦雷文地も細密にあらわされており、極めて出来の良い作品であるという。
これまでみてきた古鏡では、地文は凸線で表されてきたが、この鏡では陰刻となっている。地文は渦雷文のみ。
方格規矩蟠螭文鏡 前漢時代(前2世紀) 径16.3㎝重420g
同書は、中央にある方格の各辺にT字形文、その対面にL字形文方格対角方向にV字形文を配した方格規矩文と蟠螭文とを組み合わせた渦雷文地鏡である。鈕の周りを2頭の龍が旋回し、その外側に方格銘文帯がある。T字形文とL字形文とで区画されたなかに蟠螭文があらわされているという。
このタイプの鏡はこれま数多く確認されているが、地文が不鮮明で粗雑な仕上がりのものが多い。そのなかにあって本鏡は地文が鮮明で鋳上がりも優れているという。
その鮮明な地文は渦雷文だが、丸い渦と2つの小さな三角形からなる渦の組み合わせとはまた異なった配列のように見える。
雷文鏡 前漢時代(前2世紀) 径16.3㎝重466g
同書は、正方形に区切られたなかにL字状の雷文を縦横に並べる。戦国鏡にみられた羽状獣文の退化形態あるいは模倣と考えられるが、鋳型にスタンプで施文せず直接文様を彫刻している。鈕座は扁平で先端が鋭く尖る四葉であらわされる。いずれも前漢時代中頃に出現した新しいスタイルである。従来の伝統的な要素を遺しながらも、新しいスタイルへ移行しようとする過渡的な様式の鏡であるという。
四葉文は柿蔕文で良いのでは。柿蔕文は戦国時代前期(前5-4世紀)からある文様だが、このように鈕を取り巻くということが新しいのだろう。
雷文は繋がらずそれぞれ独立している。ギリシア雷文とも異なる起源から生まれた文様。
羽状獣文から渦雷文、そして雷文へと変遷していったということになる。
中国の古鏡展2 「山」の字形← →中国の古鏡展4 松皮菱風の文様(杯文)
関連項目
柿蔕文?四葉文?2
ギリシア雷文
中国の古鏡展5 秦時代の鏡の地文様は繊細
中国の古鏡展1 唐時代にみごとな粒金細工の鏡
※参考文献
「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展図録」 根津美術館学芸部編 2011 根津美術館
「泉屋博古 中国古銅器編」 2002年 泉屋博古館
2016/01/29
渦巻く蔓草文の絵付けタイルの起源は
ヒヴァの絵付けタイルは、幾何学文もすごいが、なんといっても密に渦巻く蔓草文が印象的だった。
製作年代は19世紀以降と下るが、青と白、部分的にトルコブルーという、全体を見ると青と白で、日本風に言えば染付、中国では青花が、しかも小さな器ではなく、広い壁面に貼り巡らされていた。
その文様の完成度から、突然ヒヴァに出現したとは考えられない。その起源を知りたい。
年代順にみていくと、
① クニャ・アルク、謁見の間のタイル1 パネル コバルトブルー・白・トルコブルー 1804年
同心円かと思うほど等間隔で蔓が四重に渦巻いている。そして一つの渦巻の斜め四方から別の渦巻が一番中側の蔓まで接して重なるという、重厚な文様となっている。
② クニャ・アルク、謁見の間のタイル2 文様帯 コバルトブルー・白・トルコブルー 1804年
左右対称に細い蔓草が二重に渦巻く。外側の蔓は太い節で枝別れして別の渦巻を作っていくが、その節には別の節から出た蔓が小さく二重に渦巻いて絡みついている。
③ パフラヴァン・マフムド廟、ハナカのタイル1 パネル コバルトブルー・白・トルコブルー・黄・赤 1810年
写し方によっては茶色く見える細い線を密に描いた組紐などに黄色が、花文には赤が使われている。
中央の花文から出た蔓草は、クニャ・アルクの謁見の間のものよりも自由に渦巻をつくっている。黄色い組紐の枠など関係なく蔓は伸びていく。
④ パフラヴァン・マフムド廟ハナカのタイル2 パネル コバルトブルー・白・トルコブルー・黄 1810年
②と比べて渦巻の密度が高い。また露が非常に多い。
⑤ パフラヴァン・マフムド廟ハナカのタイル3 パネル コバルトブルー・白・トルコブルー・黄・赤 1810年
ここでは蔓は黄色い組紐の枠の中で左右対称に渦巻いている。
⑥ クニャ・アルク、モスクのタイル1 パネル 1825-42年
三重に渦巻く蔓草が、クニャ・アルクのタイルのようにコンパスで描いたような同心円状ではなく、フリーハンドで、自由に描いたよう。その中に多数の小さな蔓が伸びて渦巻をつくっている。
⑦ クニャ・アルク、モスクのタイル2 パネル 1825-42年
縦に並んだ花文で交差した蔓は二重の渦巻をつくる。②の蔓草を複雑にしたというだけではなく、蔓に躍動感がある。
⑧ タシュ・ハウリ宮殿、ハンの間のタイル1 パネル 1832-38年
コバルトブルーの組紐で仕切られた幾何学文様の中で蔓は左右対称に渦巻いている。左右に離れた2つの枠では、反転した左右対称となっている。
⑨ タシュ・ハウリ宮殿、ハンの間のタイル2 文様帯 1832-38年
蔓は大きく或いは小さく渦を巻き、左・中央・右へと位置も変え、更に途中で括れて方向を変えて別の渦を巻くなど、どんな法則性をもっているのかと思うほど自由に描かれている。
⑩ タシュ・ハウリ宮殿、妃の間3 パネル
組紐によって作られた枠を越えて、中央から出た蔓が右に左に、上に下に伸びて大きな二重の渦を巻いている。
後日訪れたウズベキスタン国立美術館では、こんなタイルが1点展示されていた。すごくヘタな写し方をして、下がすぼまって見えるが、ほぼ正方形のタイル。
建築装飾 19-20世紀 ヒヴァ、マダミン・ハンのメドレセ出土 ウズベキスタン国立美術館蔵
残念ながら観光地図には載っていない、今は存在しないメドレセのよう。マダミン・ハンもよくわからない。
文様としては、渦の巻き方は穏やかで、トルコブルーは入っていないが、②のクニャ・アルク、謁見の間のタイルに近い。
アラビア文字の銘文の地文に一重に渦巻く蔓草文を描いたものは、ウズベキスタン以外でも古くから見られた。
銀盤 イラン・セルジューク朝、1066年 制作地イラン ニエロ 高さ6.6径43.8㎝ ボストン美術館蔵
『世界美術大全集東洋編17イスラーム美術』は、この銀盤は、打出技法で器形が造られ、それから線彫とニエロ技法を用いて装飾が施された。中央にはクーフィー書体でスルターン・アルスランの名前が彫られている。彫りは浅いが、ニエロを使い黒い地に仕上げているので、銀色とのコントラストが文様を浮き出させているという。
葉の多い蔓草が四重に渦巻いて、①の同心円状の渦巻を思わせる。
しかしながら、一重に渦巻く蔓草文は、現在のところサマルカンド歴史博物館に展示されている壁画断片(カラハーン朝、10-12世紀)の、アラビア文字の銘文とは関係がないものである。
見学した範囲内でのことだが、一重に渦巻く蔓草文がウズベキスタンで見られる最後のものは、
一重に渦巻く蔓草文 ウルグベク・メドレセ、ファサードの小イーワーン サマルカンド 1414-1420年
細い蔓草がゆったりと渦巻きながら横に伸びていくというもの。
もっと複雑に渦巻く蔓草文は、サマルカンド14-17世紀の廟やメドレセでも見られた。その最後のものは、
二重に渦巻く蔓草文 ティリャカリ・メドレセ、ファサードイーワーン上 1647年
トルコ・ブルーの蔓草は渦巻ながら枝別れして次の渦巻をつくっていく。
一方、花文やそれに付属するアラビア文字のあるカルトゥーシュや小さな花文から出た白色の蔓は、大きくうねりながらトルコ・ブルーの蔓草の描く渦巻の中に入り込んだり、或いはその外側で弧を描く。
その上、黄色の蔓草は大花文左斜め下の小円花文の先から左右対称に伸び、枝分かれしながらトルコ・ブルーの蔓草の渦巻の中に入り込んだりする。
ということで、19世紀初頭に見られるヒヴァの染付タイルの渦巻完成度の高さはどこからきたものかが分からないのだった。
ただ、染付タイルに関しては、ヒヴァ以前にスシュガルのイスラームの墓廟に見られる。
香妃廟の装飾タイル 17世紀
『中国のタイル』は、古くは仏教徒が住んでいたカシュガルに、10世紀頃、イスラム系のホージャー族が移住し、17世紀に一族のための広大な陵園をつくった。この廟のなかには、建築年代はそれぞれちがうが、大門、墓室、講教殿、礼拝殿などが建つ。すべて瑠璃の青を基調としたタイルで装飾されているという。
上は蔓草文のようだが、文様が続いていないし、渦巻いてはいない。
下は波状唐草で、中に三葉の開いた葉が表される。その間の文様帯は幾何学文。
これが中国産のタイルなのか、中央アジアから請来されたものなのかを知る手がかりがないが、どれも熟練した筆致とは言い難い。
→シャディ・ムルク・アガ廟に染付タイル
関連項目
クニャ・アルクのタイル1 謁見の間
クニャ・アルクのタイル2 モスク
タシュ・ハウリ宮殿のタイル1 幾何学文と植物文
タシュ・ハウリ宮殿のタイル2 幾何学文だけ
タシュ・ハウリ宮殿のタイル3 植物文だけ
アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの
イーワーンの上では2本の蔓が渦巻く
一重に渦巻く蔓草文の起源はソグド?
参考文献
「中国のタイル 悠久の陶・塼史」 山本正之監修 1994年 INAXブックレット
2015/12/08
マゴキ・アッタリ・モスク3 浮彫青釉タイル
マゴキ・アッタリ・モスクは、ブハラの旧市街の中では最も古い建物である。
『ウズベキスタンシルクロードのオアシス』は、10世紀の建築。アラブ襲来以前はバ ザールとして利用され、ゾロアスター寺院もあった。現在は絨毯博物館となっている。マゴキとは穴という意味。1936年、ロシアの考古学者シシュキンが砂 の中に埋もれていた寺院を掘り出し、周囲を5mほど掘り下げた穴の中にあったのでその名が付けられたという。
『中央アジアの傑作ブハラ』は、 アラブ人がブハラに侵入した時、モスクに変えられた月の寺院及び日の寺院を除いて、すべてのゾロアスター教の寺院が破壊された。そして、月の寺院が現在のマゴキ・アッタリ・モスクに、日の寺院は現在のサマニー族の廟になった。
1930年に、考古学者は12世紀にさかのぼるモスクの南入り口を発掘した。入り口は、レンガ及びマジョリカでできたユニークな飾りで飾り付けがされている
マゴキ・アッタルは、地元のモスクとして使われていた。その入り口は、リャビ・ハウズに向かっていた。上部が鍾乳石で飾られているアーチは、モスク前部入り口として残っている。
アーチは青くて緑色のマジョリカで飾り付けをされているという。
青釉浮彫タイルで、一重に渦巻く蔓草を地文としたアラビア文字の銘文を表している。
一重に渦巻く蔓草文とアラビア文字の銘文についてはこちら
12世紀に浮彫施釉タイルはあったかな?
ところで、12世紀には浮彫青釉タイルはあった。
大モスクタイル装飾 1158-60年 イラン中部アルディスタン
『イスラーム建築の世界史』は、植物文様の中に、文字文様の部分だけに青いタイルを 用いる。トルコ・ブルーは銅を含む釉薬をかけて低温焼成することで発色する。当初は煉瓦地に、釉薬をかけた青いタイルが部分的に挿入された。次第に鉛で発 色する白色も使われる。煉瓦に浮彫を施し、高い部分に釉薬をかけると、彫り削られた部分が陰影となり、鮮やかな色彩が浮き出す効果をもつという。
12世紀といえば、まだ文字にのみ施釉していた時代だし、渦巻く蔓草文でもない。
青釉文字文フリーズタイル セルジューク朝、12-13世紀 23.9X33.4X1.5~3.0㎝ イラン出土 個人蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、セルジューク朝時代末期から色鮮やかな青釉タイルが多くなった。これは石英分の多い、粒子の荒い白い胎土にアルカリソーダ系の釉をかけて、含まれる銅の成分を青く発色させたもので、それまでの鉛釉陶器では銅は緑に発色する。
フリーズタイルは、建物の内壁で腰羽目の上縁に沿って水平に連なり、アラビア文字銘や植物文などを連続的に表したという。
マゴキ・アッタリ・モスクの青釉タイルと比べるまでもなく、図柄が大き過ぎる。
コーニスの浮彫タイル 13世紀 イラン考古学博物館蔵
マゴキ・アッタリ・モスクの浮彫は型成形っぽいが、これは手彫りだろう。
それに、この蔓草文は渦巻いてはおらず、二重の同心円文のよう。かなり時代は下がるのでは。
マゴキ・アッタリ・モスク2 漆喰装飾←
→ウズベキスタンのイーワーンの変遷
関連項目
ホジャ・アフマド廟以前の浮彫青釉タイル
マゴキ・アッタリ・モスク1 ソグドの文様とイスラーム文様
マゴキ・アッタリ・モスク
イーワーンの変遷
浮彫タイルは浮き出しタイルとは別物
漆喰装飾を遡る
アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの
※参考文献
「ウズベキスタン シルクロードのオアシス」 萩野矢慶記 2000年 東方出版
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年
「聖なる青 イスラームのタイル」 INAXBOOKLET 山本正之監修 1992年 INAX出版
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
2015/09/15
アク・サライ宮殿の門 タイルの剥落
シャフリサブス、アク・サライ宮殿(1380-96年)門西側の塔は、タイルの色が濃い下の方がオリジナルで、上の方が修復タイルだろう。ほぼバンナーイで装飾されている。
バンナーイについて『イスラーム建築の世界史』は、ティームール朝盛期に、急速に大建築を量産する中、 タイル技法は絵付けタイルとモザイク・タイルに収斂していく。建物の軀体部と被覆部が分離し、建物各所がタイルで覆われるようになると、次第に矩形の土色 のタイルと色タイルを組み合わせるハザール・バフ(バンナーイー)と呼ばれる技法が主流となり、大柄な幾何学文様が建物のファサードを覆い尽くすという。
バンナーイは大きな文様に仕上がるので、細かく色タイルを形に刻んで作り上げた植物文のモザイク・タイルなどよりは、遠くからでも文様が見える。
ここでは、コバルトブルーで卍文を組み込んだ幾何学文、その中にトルコブルーで表したアラビア文字はアッラーなどの短い文字列を繰り返している。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』には今まで見たことがないようなタイルが載っていた。これがどこを写したものかわからないが、上図版の一番下に同じようなタイルが残っている。しかし、自分の撮った写真でみると、すでに失われていた。
このタイル技法は、輪郭線よりも色のある箇所が凹んでいるので、クエンカではないだろうか。
『世界のタイル・日本のタイル』は、8世紀半ば以降、イベリア半島南東部を支配したイスラーム教徒によって、新しい製陶技法がヨーロッパ大陸にもち込まれた。15世紀後半には、油性顔料で輪郭線を描くクエルダ・セカ技法が、続いてクエンカと呼ばれる技法が伝わった。
クエンカ技法は、型を使い、輪郭を残して文様部分を凹ませ、この凹部に色釉を詰めて焼成するもの。モザイクに近い効果が得られるという。
最も手間がかかるとされるモザイク・タイルの文様を、簡便に大量生産するための新たな技法ということになるのかな。
アク・サライ宮殿ではそれが1380-96年に現れているが、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群では、アミール・ザーデ廟(1386年)に使われている。どちらが先か微妙。
門の内側はタイル装飾がよく残っている。
大アーチ下の壁面
絵付けタイルが多く見られる。下の方のタイルの剥がれた箇所に、六角形のタイルの痕跡が並んでいる。
六角形タイルとその剥落した跡
同じ文様の六角形のタイルを並べているのではなかった。同じ文様のタイルもあるが、数種類の絵付けタイルを組み合わせてこの唐草文とも言えない植物文をつくっている。
左手の壁面はモザイク・タイル。何故わかるかというと、その小さな部品がところどころ剥落しているから。
アラビア文字の銘文には一重に渦巻く蔓草が2列地文になっている。
それについてはこちら
中央に大きな緑の花文を配し、そのまわりにはトルコ・ブルーの蔓草が繁茂し、黒い花弁状に縁取られた枠の外にまで伸びている。それはほぼ左右対称のように見えるが、剥落箇所が多いので、断定はできない。
螺旋状の付け柱を回ると小壁面が現れる。
モスクのイーワーンにも螺旋状の装飾があったが、このようなものは、衣装の縁飾りなどに用いられるものを借用したのかも。
付け柱もモザイク・タイルで、やはり部分的に剥落が見られる。
螺旋の下部
何故部分的に剥がれるのだろう。青や緑の色タイルは比較的残っているが、どの色が剥がれ易いのだろう。
その基礎には一重に渦巻く蔓草を地にアラビア文字が表されている。剥落の跡に白いものが盛り上がっているのが見られるが、これは塩だろうか。
また、色タイルが剥がれているのではなく、タイルの目地から塩分やそれを含んだ漆喰が膨張して表面に出てきたのかも。
更に下の花瓶のようなものは、もっと盛り上がりが強くなり、粉を吹いたような跡も見られる。
上の方が傷みが少ない。
中には、一体何が起こったのだろうというようなへこみがあったりする。
このような剥落の仕方は、色タイルの細さとか小ささによるのでは。
東の内側の同じ部分。こちらの方が面積的にはよく残っているが、部分的に剥落した箇所が多い。
付け柱に近い壁面中程
モザイク・タイルは、色タイルを部品の形に削り、裏側を削って小さくし、ある程度の大きさに裏向けに組み合わて漆喰で固め、それを壁面に貼り付ける。
ここでは幾何学文の部品に成形されたタイルが、その漆喰から剥がれ落ちたが、漆喰そのものは壁面に張り付いたままになっているため、当時の色彩はわからなくても、文様は復元できそう。
その下方でも、植物文様のモザイク・タイルがかなり剥落しているが、やはりそれを固定していた土台となる漆喰は残ったために、このような輪郭だけを浮彫りしたような跡がある。
その下側では、漆喰と共にタイルも剥落してしまっている。
付け柱横では、等間隔で横に段ができている。
モザイク・タイルはある程度の大きさにしたものを裏から漆喰で固定する。その一つ一つを貼り付けた隙間から塩分が浸み出て、このように等間隔に深く剥落するのだろうか。
このようにタイルが剥落するのは、塩分が地中から昇ってきたために漆喰が膨張したというのも大きな原因ではないだろうか。
その証拠は塔の基礎で見ることができる。
中央アジアに行くと、古い時代に海だったので、地中に塩分が残っていますという話をよく耳にする。その塩分と乾燥した強烈な暑さが、シャイバニ族の破壊を免れた宮殿の門に残る貴重なタイル装飾を蝕んでいる。
関連項目
シャフリサブス2 アク・サライ宮殿
世界のタイル博物館5 クエルダ・セカとクエンカ技法
アラビア文字の銘文には渦巻く蔓草文がつきもの
参考文献
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 アレクセイ・アラポフ 2010年
「岩波セミナーブックスS11 イスラーム建築の世界史」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
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