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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/10/20

コプト博物館 コプト織


コプト織については、1998年に開催された「コプト織 皆川泰三コレクション」を見に行って非常に興味深く記憶に残ったが、その後まとまって見ることがなかったので、今回の旅行はコプト織を鑑賞できるめったにない機会となった。

コプト博物館の説明パネルは、織物はコプト美術の最も特徴的な産物で、コプト織という用語は、実際にはエジプトで発見されたローマ時代、ビザンチン時代、イスラム時代に遡る膨大な数の織物(数万点)を指すために用いられるという。

『古代エジプトの染織美 コプト織 皆川泰三コレクション展図録』(以下『コプト織展図録』)は、コプト時代の日常着はほとんどが男女差なく貫頭衣である。王朝時代の王侯貴族の衣服は贅沢に布を使った巻衣が主流だったが、ギリシア、ローマの支配が及んでからエジプトでも貫頭衣が主な形式となったようであるという。

チュニック(貫頭衣)
『コプト織展図録』に展開図があって前後のデザインが同じであることが判明した。貫頭衣の文様配置の図は博物館の説明パネルより。


コプト織の衣装
胸前に大きな模様があって、両側に縦長の文様帯(垂直パネル)がある。植物が表されているようだが、具体的には分からない。


壁掛け アンティノエ出土 4-5世紀 
説明パネルは、無地の背景に、赤いキルトを着て左肩に緑の服を着た浅黒い肌の笛吹き男とのコントラストが描かれた着衣。垂直パネルは戦士と踊り子で装飾され、中央には騎士と踊り子のカップルが描かれているという。

笛吹き男
斜めに写したので頭部が小さく見える。

端の装飾帯
両側は戦士と踊り子、中央の枠の円の中は騎士、四角形の中は男女の踊り子。それを隔てる文様帯は花を横から見た図と上から見た図(ロゼット、レンコンの輪切りのようだが)が交互に並ぶ。右は花が上向きになっていて、左は下向きになっているので、下から上へ、上から下へと循環しているのだろう。

円の中が騎士と言われれば、そう見えてくる。
同書は、騎馬人物の図像もコプト織りにしばしば表されるが、 彼らは短い上着、マントをなびかせ、ズボンをはいている。 これは「ペルシア式服装」と呼ばれるという。
騎士の上着とマントらしいものは分かるが、ズボンは分からない、というかどれが馬の肢でどれが騎士の脚かが見分けられない。

この図では黒いズボンを履いているのか、脚そのものかが分からない。

中央の枠は円の中の騎士、矩形の枠にはスカートの部分が幅の広いワンピースを着ている踊り子、半パンを履いている男性。

外枠にはマントを靡かせて丸い盾を持つ男性の間に女性というのが1単位で、交互に描かれている。
同書は、初期の綴織には、裸体の人物像が多く見られるが、そこには人間の体が最も美しいという意識の強かったギリシアの影響を見ることができる。
元来ズボンは北方の騎馬民族の服装であった。やがて、その服装は紀元前後頃にはイランのアルサケス朝パルチアで採用された。このような服装がエジプトに波及したのはササン朝ペルシアがエジプトを短期間占拠した7世紀初頭前後とされるという。
エジプトがササン朝ペルシアに占領されていたのは619-629年という10年間のこと。
この壁掛けは4-5世紀と製作時期が早いので、中央枠の男性は半パンを身に着けているくらい。


小さいので子供の衣装だろうか。横向きの鳥や花が織り込まれている。


多色コプト様式のチュニックまたはカーテンの断片 6-7世紀 麻と羊毛
胸のあたりに左右対称に四角い区画があって、頭光をつけた聖人の胸像がデザインされている。

拡大すると、枠の外には波文が巡り、聖人の胸像の周囲を有翼の幼児(クピド)遊ぶ姿が巡っている。


数少ない衣装の立体的な展示。貫頭衣がこんなに体に添うものだろうか。

男性は衣装を身に着けていないようなので、早い時期のもの。

貫頭衣にしては幅が広すぎるのでは。

文様帯に登場する人物で、低い円柱の横に立っている男性は裸のようなので初期のもの。。


多色コプト織の帯


様々な人や動物の生活場面?
説明パネルは、アブラハムの犠牲、ヨナと鯨など、人物や動物の像が描写飾されているという。
拡大して見てみたが、神に言われてアブラハムが息子イサアクを殺そうとした時、天使がそれを止める場面も、海に落とされてクジラに呑み込まれたヨナの場面も分からない。上段右端の船にヨナが乗っていたのだろうと推測できる程度。

花輪を持つ天使だろうか。


装飾帯 植物文様

貫頭衣一面に玉座の聖母子像が表されている。


この展示室はほとんどがコプト織で占められている。

くっきりしているが、動物が多く描かれているくらいしかわからない。


      ピラミッドその後←


関連記事


参考文献
「古代エジプトの染織美 コプト織 皆川泰三コレクション展図録」 執筆:宮下佐江子・坂本和子 1998年 古代オリエント博物館

参考にしたもの
現地説明パネル


2026/08/04

元時代にも登場する善財童子


奈良博で開催された「超 国宝展-祈りのかがやきー展図録」で善財童子を主人公にした絵巻物「新・善財童子 求道の旅-華厳経入法品・華厳五十五所絵巻-」という絵巻物があることを知ったが、善財童子は文殊菩薩と共に表される安倍文殊院の群像だけではなく、観音像と共に仏画に描かれていることが長年生きてきて段々と分かってきた。

奈良・安倍文殊院蔵渡海文殊群像 鎌倉時代、13世紀
詳しくはこちら
同寺発行の国宝文殊菩薩付属の写真より

この善財童子像は一時期可愛いと人気だった。
奈良・安倍文殊院蔵渡海文殊群像うち善財童子 同寺発行の国宝文殊菩薩付属の写真より


華厳海会善知識曼荼羅 鎌倉時代、13世紀 東大寺蔵
「明恵の夢と高山寺展」では、善財童子が53人の善知識のもとを訪れて教えを請うという物語を小さな区画に描かれた仏画を見て驚いた。華厳経で善財童子がこんなにも重要な役を担っていたとは。詳しくはこちら
『新・善財童子 求道の旅-華厳経入法品・華厳五十五所絵巻』の絵巻を一区画にまとめたものだと、後に知ることになった。
東大寺蔵華厳海会善知識曼荼羅 鎌倉時代、13世紀 明恵の夢と高山寺展図録より


また日本では、白衣観音と共に描かれている。

白衣観音図 鎌倉時代末期、1319年以前 約翁徳倹賛 絹本墨画 100.8X41.7㎝
『水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆』で衞藤駿氏は、補陀落山中にあって竹林を背景にした幽境の岩上に瞑想する白衣観音に、善財童子を配している。図様は中国元代水墨白衣観音図を踏襲しているが、暈渲豊かな水墨技法はかなりの習熟を示している。
賛者の約翁徳倹(1244-1319)は鎌倉の出身で、蘭溪道隆に師事し入元帰国の後諸寺を歴任、文保元年(1317) 一山一寧をついで南禅寺に住した。南禅寺塔頭法皇寺に自賛の頂相がある。元応元年(1319)、76歳で示寂しているから、本図はお よそ1300年前後の制作と推定され、制作時期を明確にする初期水墨画としての資料価値は高いという。 
約翁徳倹賛白衣観音図  水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆より

善財童子は唐子のような髪型で幼児のよう。善財童子が乗っている岩に打ち付ける波涛が龍の頭のよう。
約翁徳倹賛白衣観音図  水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆より


白衣観音図 吉山明兆筆 東福寺蔵 室町時代、15世紀
紙本着色 縦336.2横281.2㎝ 
同展図録は、ダイナミックな筆致による岩窟描写のなか、荒れ狂う波濤上の岩座に正面向きの白衣観音を描き、画面下部には龍と善財童子とを配して、安定した三角形構図を形作っている。筆勢あふれる水墨描写と計算された画面構成とが絶妙に均衡を保っている作といえようという。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より

善財童子
着物の後ろ側がもこもこしているので、遠くから眺めると迦陵頻伽のように見えた。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


高麗時代の白衣観音図にも善財童子は描かれている。

水月観音像 13-14世紀 絹本着色 縦144.0横62.6㎝ 慧虗筆 東京・浅草寺蔵
同展図録は、水面からのびる踏割蓮華の上で、右方へ一歩足を踏み出す白衣の観音。左手には浄瓶、右手には柳枝を指先で軽くとり、全身は大きな緑色の滴形の光背に包まれる。全体に白を基調とした精緻な描写が際立つ。文様が衣褶線に合わせて変形するなど、高麗仏画には珍しい合理的な造形感覚もまた宋代画に通じるといえようという。
光背の緑色が異彩を放っていた。光背の緑に包まれた白衣の観音は朧気である。
東京 浅草寺蔵 水月観音像 高麗仏画 香りたつ装飾美術展図録より 

善財童子は中年のような横顔。
東京 浅草寺蔵 水月観音像 高麗仏画 香りたつ装飾美術展図録より


水月観音像 13-14世紀 絹本着色 縦100.4横49.6㎝ 大和文華館蔵
『高麗仏画展図録』は、画面中央、波立つ海上に湧出した岩に、半跏にした観音の姿を描く。ひきしまった上半身をやや右に傾けて、右手を膝にかけ、くつろいだ姿勢をとる。切れ長のややつり上がった目元、ひきしまった唇などによる表情も若々しく、清新な印象を与える。天衣や瓔珞、足元の蓮華が左に向かい風にたなびく描写には、優れた風動表現がみられる。この風のなかで、善財童子は蓮弁の舟で巧みに波に乗り、膝を軽く曲げ合掌しつつ観音を仰ぎ見るという。
赤い色が鮮明で他の水月観音像とは全く異質の図像である。 
大和文華館蔵水月観音像 高麗仏画 香りたつ装飾美術展図録より

岩座ではなく、蓮弁を舟にして観音に近づこうとしている善財童子には頭光があり、着衣の細かな文様も截金と見紛うばかりだが、高麗仏画では截金ではなく金泥で表されていることを泉屋博古館の「高麗仏画展 香りたつ装飾美展」(2016年)で知っていた。
大和文華館蔵水月観音像 高麗仏画 香りたつ装飾美術展図録より


そして中国では。

彬県大仏寺羅漢洞 渡海文殊群像  唐時代
『仏像図典』は、文殊は釈迦入滅の後インドに生まれ、菩薩道を修し、釈迦十大弟子たちと往復問答をしたのをはじめ、仏典結集に深い関係をもったと考えられる。従って十大弟子と共に文殊・普賢を上首とする釈迦如来の代表的眷属として釈迦三尊には不可欠の尊である。
又文殊はごく現世的な歴史上の人物として説かれたもので、維摩居士の如く確に現実の人物であったかと考えられるという。
獅子の肢はそれぞれ丸い台に乗っているが、蓮台なのだろうか。善財童子は片足を小さな台に、もう一方を獅子の台の上に乗せている。


唐時代には石窟で渡海文殊群像が浮彫されているが、中国では白衣観音図に善財童子は登場しないのだろうと思っていたところ、「宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展」で、元時代の楊柳観音図に善財童子が登場していた。

楊柳観音像 絹本著色 縦110.6横54.9㎝ 元時代、13-14世紀 奈良・円生院蔵
『宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録』は、海中の補陀落浄土に現れるという観音菩薩の姿を描く。白波が打ちつける岩座に、足を寛がせて組み安坐する観音が、穏やかな表情で来訪者を迎えている。本図の観音の姿は、中国の唐時代に活躍した周昉が、補陀落に住まう観音として創始した「水月之体(水月観音)」に通じ、その姿はいずれも足を寛がせて坐る「破坐」であったとみられるという。
奈良・円生院蔵 楊柳観音像 宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録より

同展図録は、観音の元へ訪れるのは、海中から現れ宝珠を捧げている龍や、荒波の中に浮かぶ蓮弁上で合掌して拝する善財童子らという。
蓮華の花弁の舟に乗っている善財童子は驚きの中年の姿。
奈良・円生院蔵 楊柳観音像 宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録より


刺繡楊柳観音像 元時代、元貞元年(1295)頃 愚極智慧賛 淡黄平絹地、刺繡 縦59.8横37.7㎝ 京都国立博物館蔵
同展図録は、補陀落山をあらわす海中の巌上に、くつろいだ姿で坐す楊柳観音。観音菩薩が住むという補陀落山の様相が、金色まばゆく刺繍されているという。
その刺繍による文様について詳しく記されているので、次回忘れへんうちににて
京都国立博物館蔵 刺繡楊柳観音像 宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録より

この善財童子は童子形と言っても良いだろう。
青海波文様のような互い違いに配される波文が文様として様式化されておらずいい感じ。
京都国立博物館蔵 刺繡楊柳観音像 宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録より

 
       絵巻物の異時同図←       →刺繍による仏画


関連記事

参考文献
「超 国宝-祈りのかがやきー展図録」 奈良国立博物館編集 2025年 奈良国立博物館・朝日新聞社・NHK奈良放送局・NHKエンタープライズ近畿図録
「新・善財童子 求道の旅-華厳経入法品・華厳五十五所絵巻より-」 森本公誠 2023年 朝日新聞社
「国宝文殊菩薩」 日本三文殊第一霊場 安倍文殊院
「明恵の夢と高山寺展図録」 2019年 中之島香雪美術館
「水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆」 田中一松 1978年 講談社
「宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録」 2025年 京都国立博物館



2026/07/28

絵巻物の異時同図


同一場面のなかに時間的経過を表現する数場面が描かれることを異時同図と呼ばれている。

有名なものでは、信貴山縁起絵巻(12世紀)の「尼公の巻」に異時同図の場面がある。
命蓮の姉が弟を探して東大寺に辿り着き、大仏殿の前で祈ったり寝っ転がったりしている場面だ。
『超 国宝-祈りのかがやきー展図録』は、本巻に描かれる東大寺大仏は、光背・蓮台の形式や、大仏の背を支える築山の存在、大仏殿の右側の扉からのぞく脇侍菩薩の姿形などから、治承四年(1180)に兵火で焼失する前の創建当初の姿であることが明らかにされている。その制作には、信貴山にたびたび参詣するとともに、東大寺大仏・大仏殿の再興にも尽力した後白河法皇が深く関与した可能性がある。時空を超えて奈良時代の大仏にまみえることができる、まさに奇跡の絵画作品といえるだろうという。
朝護孫子寺蔵信貴山緣起絵巻尼公卷 超国宝一祈りのかがやき一展図録より

この場面では東大寺の大仏殿の開いた扉辺りで尼君が5人描かれている。
同書は、「尼公巻」は、命蓮の姉である信濃国(現在の長野県)出身の尼公を主人公とする。詞書によれば、東大寺で受戒するために故郷を出た弟の命蓮を捜し尋ねて旅立った尼公は、長い旅路の末に大和国に至り、東大寺大仏の夢告を受けて信貴山へと向かい、ついに弟との感動の再会を果たしたそうな。
朝護孫子寺蔵信貴山緣起絵巻尼公卷 超国宝一祈りのかがやき一展図録より

右より、
弟に会えるよう大仏に祈願する姿、外に出て自分の荷物に寄り掛って眠る姿、堂内部で横になって大仏を眺める姿、祈りながら弟がやって来ないかと振り返る姿、夢に大仏のお告げがあり、信貴山の方を眺める姿。そして絵巻にはもう一度尼公が描かれる。それは階段を下りて信貴山へ向かう姿である。
朝護孫子寺蔵信貴山緣起絵巻尼公卷 超国宝一祈りのかがやき一展図録より


「華厳経入法品・華厳五十五所絵巻」(12世紀末)では善財童子が善知識に勧められるままに長い年月をかけて旅をして、55もの場面を絵巻に描写し、詞書きも添えられている。

10 勝熱婆羅門
勝熱婆羅門を探すと、大山の断崖絶壁を背に激しい苦行をしていたという場面。
勝熱婆羅門に「善男子よ、この剣の山に登り、この火の海に身を投げられよ。さすればお前の菩薩行は即座に浄められるであろう」と言われて、燃え盛る岩山から飛び降りた場面。
その二つが一つの場面として描かれている。
詳しくはこちら
華厳五十五所絵巻 10勝熱婆羅門 新・善財童子 求道の旅より


11 慈行童女
ビルシャナ蔵宮殿の前で娘の慈行童女はどこにいるか訪ねると、宮殿内で多くの侍女たちにかしずかれ、教えを説かれているとのこと。
王の娘の慈行童女はいずこにと、宮門の前で尋ねる場面と、宮殿の縁側に坐って、「この宮殿をよく御覧なさい」と言われて宮殿のさまざまなところに菩薩や如来たちが見えたという場面。
詳しくはこちら
華厳五十五所絵巻 11 慈行童女 新・善財童子 求道の旅より


18 無厭足王
右から無厭足王のところにやって来ると、大勢の仕置人たちが罪人たちを恐怖に陥れて刑を執行しているのを目撃した善財くんが、こんな人物にどうして菩薩道のことを尋ねられようと自問自答する。
左上では、無厭足王は善財くんを自分の傍に座らせて、これらの衆生を教化し、平安な暮らしを得させるために、化作した幻の死刑執行人に処刑を行わせ、激しい苦痛にゆがむ様子を示すことによって、罪深い行いを思い止まろうとさせているという。
詳しくはこちら
華厳五十五所絵巻 18 無厭足王 新・善財童子 求道の旅より


41 瞿婆女人
カピラ城にやってきた善財くんは、無憂徳女神に迎えられ、頭上に天上の華を散らして祝福された。
善財くんは宮殿に入ると瞿婆女人に合掌した。 最後に釈迦世尊の母后摩耶夫人を訪ねるよう言われた。
詳しくはこちら




関連記事




参考文献
「新・善財童子 求道の旅-華厳経入法品・華厳五十五所絵巻より-」 森本公誠 2023年 朝日新聞社
「超 国宝-祈りのかがやきー展図録」 奈良国立博物館編集 2025年 奈良国立博物館・朝日新聞社・NHK奈良放送局・NHKエンタープライズ近畿図録