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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2023/01/17

蓮池水禽図

 

前回の藤田美術館蔵刺繍釈迦阿弥陀二尊像には最下段に蓮池水禽図があった。それを見ていて、若い頃に蓮池水禽図には必ず病葉(わくらば)が描かれていることに興味をもったのを思い出した。おそらく博物館の平常陳列か、企画展示で見たので、残念ながら図録はない。
あれこれ古い書物を引っ張り出してきて、少しながら蓮池水禽図に行き当たった。


蓮鷺図 双幅 伝徐崇嗣筆 北宋?元? 絹本墨画 各95.2X43.6㎝ 東京国立博物館蔵
『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、今日、著色の蓮池水禽図が数点伝わっているが、本図のような水墨のものは珍しい。
落款も印章もない本図は、箱書によれば、北宋の徐崇嗣の作という。徐氏一派にこの種の題材があったことや、没骨の水墨画であることからいえば、この伝承もかなりうがったものと考えられるが、実際はもっと時代の下った、元時代の無名の職業画工による制作と考えられる。
白鷺は外暈で、蓮花や葉は没骨でかかれるが、ともに筆墨のなまな動きを抑制して、文様を彩色するように、丁寧に平面的に墨彩色される。この単調な墨法と、パターン化した景物一つ一つの明確さは、この画に生動感の乏しい固着した印象を与える。すでに南宋時代には、蓮池水禽図の構成や彩色法が定型化したものになっていたことは、遺品からもうかがえるが、本図はその彩色の部分を墨におきかえたところが興味深いところであるという。
古い書物はモノクロームの図版が多いので、着彩されていても水墨画のように見ている。
伝徐崇嗣筆蓮鷺図 『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より

右幅下の隅に病葉が描かれているように見える。

伝徐崇嗣筆蓮鷺図部分 『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


伝蘿窓筆 元時代・13世紀後半-14世紀後半 掛幅 絹本墨画 102.6X50.7㎝ 大徳寺塔中高桐院蔵
『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、蓮花に水禽や小魚を配した蓮池水禽というモチーフが画題として取り上げられるのは、古く五代までさかのぼりうるが、北宋以前にまでのぼる遺作はないようである。現存遺品は南宋以後のものであるが、それらが江南地方の職業画工達によって大量にえがかれてきたためか、著色画と水墨画とを問わず、布置構成、著彩法、用墨法に一定のパターンがある。
本図は、おそらく双幅の一方であろうと思われるが、敗荷と蘆に2羽の白鷺を点綴した意匠といい、また白鷺の姿態や蓮葉の描法も、他の蓮池水禽図とさして距離のあるものではない。布置に奥行を暗示するものがなく、景物を平面的に並列したのは、著色画の構成をそのまま借用したためであろう。このように本図は、部分的に使用された粗放な水墨技法にもかかわらず、パターン化された伝統的な方式と密接なつながりがある。ただ蓮の根本に岩石をおき、骨気を導入したのはこの種の作品に例のない新意匠といえる。筆者を蘿窓と伝えるが、水墨の蓮鷺で彼の名を冠したものは他にも例がある。彼の作と定めることは出来ないが、筆技からみて、職業画工の作というより、余技的な画人の作になると思われる。制作期は元時代であろうという。
高桐院蔵蓮鷺図  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より

若い頃見ていた蓮池水禽図は、元気な蓮の葉に混じって病葉(わくらば)が描かれていて、それが蓮池水禽図の決まりごとだという風な解説があったように思う。
ところが、ここでは、蓮の花は散り、花托には実が熟しているような様子で、蓮の葉も病葉というよりも、季節の終わりに乾燥した縁から粉々になって散っているよう。海老根氏が「敗荷」と呼ぶものである。
高桐院蔵蓮鷺図 病葉部分  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


蓮池白鷺図 元・13-14世紀 絹本着色 104.8X55.1㎝ 京都国立博物館蔵
『世界美術大全集東洋編7 元』で宮崎法子氏は、元の画僧たちが、鎌倉時代以後の当時の日本へ与えた影響は少なからぬものがあったと思われる。またそれら日本に伝わった作品がなければ、南宋や元の江南での当時の絵画の層の厚さを、今日知ることはできなかったであろう。そのことは、このような画僧の作品ばかりでなく、名もない職業画家の描いた吉祥の意をもつ一般向けの花鳥画、とくに常州地方で宋代以降、書き継がれていった蓮池水禽図、藻魚図、草虫画などの作品についても、まったく同様である。彼ら民間の職業画家たちは、絹本着色の蓮池水禽図から絹本墨画に至るまで、伝統を継承しつつ新たな絵画の動きや一般の好みを反映して、数々の作品を描いたという。
蓮池水禽図が吉祥の図だったとは。 
京都国立博物館蔵蓮池白鷺図 元・13-14世紀  『世界美術大全集東洋編7 元』より

病葉は葉がしおれたり、枯れたりしているが、シラサギは蓮の葉がどうなろうと意に介せず、ひたすら魚を探している。
京都国立博物館蔵蓮池白鷺図部分 元・13-14世紀  『世界美術大全集東洋編7 元』より


蓮池図 鎌倉時代・13世紀前半 絹本著色 二曲一隻屏風装 180.0X274.4㎝ 法隆寺蔵
 『法隆寺』は、かつては舎利殿内を荘厳していた。舎利殿は、聖徳太子の掌中から出現したとする南無仏舎利を奉安するために、承久元年(1219)に再建された殿堂である。江戸時代中頃に編集された『古今一陽集』の護持仏堂の条に「宮殿の後壁には荷葉に白鷺を描く」とあり、本図がその後壁貼付図であったと考えられている。
また、承久4年(1222)に絵師尊智によって描かれ堂内に掲げられていたとする聖徳太子勝経講讚図と同じ頃に描かれたものと推定されている。
なお中国で制作されたとする説もあるが、日本での制作であれば、蓮池水禽図の最古最優の遺例となるという。
ここに病葉は描かれているのだろうか。
法隆寺蔵蓮池図 鎌倉時代 『法隆寺』より

病葉らしきものは、左隻の蓮茎群の下に描かれた薄茶色のものくらいと拡大して見ると、オシドリのつがいだった。
法隆寺蔵蓮池図部分  『法隆寺』より

では、その右下の葉はどうかな? 古い葉がしおれ始めているように見えなくもないが。
法隆寺蔵蓮池図部分  『法隆寺』より


その後は時代がかなり下がる。

蓮池水禽図 17世紀初か 俵屋宗達筆 伊年印 京都国立博物館 国宝 掛幅 紙本墨画 116.0X50.0㎝
『水墨美術大系第10巻』で山根有三氏は、図中に款記がなく、問題の多い「伊年」印のみが捺されているけれども、画そのものから、これこそ宗達水墨画の傑作として早くより認められた作品である。宗達と伝える水墨画は、現在掛幅になっているものでも、もとは屏風に貼交ぜられていた例が多いが、この図も「伊年」印をもつ他の「蓮花水禽図」と同じ屏風に貼られていたと伝える。しかし確証はなく、またこの図の素地が他に例のない繊維の多い紙なので、当初から一幅として描かれた可能性も考えられる。
ゆったりとして張りのある太い筆致と水墨の微妙な濃淡の調子による花・茎・茎のつけ根・果肉・葉・葉脈の簡潔で的確な表現である。さらに濃墨による鋭い雄しべと精密な羽毛の描写が目をひきつける。また蓮の花や葉、2羽の水禽の布置構成も自由で新鮮であり、とくに全体の静かな奥深い感じ、ほのかに明るくしっとりした雰囲気がすばらしい。これらの背後には、なによりも、宗達の温かな心と鋭い感覚による自然の観察がある。彼は、京都附近の蓮池の夜明けに舟を静かに進めながら、このような光景をしばしばみたのであろう。
ではこの図の制作時期はいつか。これだけの絵に落款がないというのは、宗達が法橋になる以前の作であるのを示す。「伊年」印を捺すのはそのことと関係があろう。それは法橋時代の基準的な水墨画との比較からもいえる。全体の感じの清らかさや墨調の初々しさ、たらしこみの慎重な用い方や濡れ羽根の精密な描き方などから、私はこれを現存する宗達水墨画中、もっとも初期の作品と考えている。最初の作品が代表的な傑作とは不思議だが、遺品の現状ではそうとしかいえない。その時期についてはかつて金銀泥蓮図和歌巻のそれとの関係から、元和初年(1615頃)と推定したことがあるという。
この水禽は小さく首が短いので、カイツブリだと思っていたが、「カイツブリ」は首が白くないので、ハジロカイツブリかな。もっと大きなカルガモではなさそう。
俵屋宗達筆蓮池水禽図  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より

病葉の拡大
俵屋宗達筆蓮池水禽図部分  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より


蓮花水禽図 俵屋宗達筆 伊年印 掛幅 紙本墨画 112.6X45.9㎝
『水墨美術大系第10巻』で山根有三氏は、この「伊年」印をもつ「蓮花水禽図」は、もと「蓮池水禽図」と同じ屏風に貼られていたと伝えるもの。それよりやや保存が悪く、向って右端が約2㎝ほど切られたと思われ、飛ぶ小禽の脚や羽根の一部は紙の破れを補って描いており明らかに補筆である。「蓮池水禽図」の遺品は多く、いずれも「伊年」印をもつのは興味深い。
「蓮花図」は蓮花のみを描く点と、その花の姿と同じものが他の「蓮池水禽図」にみられない点、および宗達と同時代の人の賛がある点で注目される。賛の筆者は妙心寺第131世の輝岳宗暾で、寛永20年(1643)に92歳で没した。彼の「前正法山再住」の時期がわかればこの「蓮花図」の制作期はより明確となろうという。
脚や羽根が補筆であったとしても、この鳥はカモでもなければカイツブリでもない。飛ぶ時にS字に首を曲げる鳥はいるのだろうか。宗達とは思えないへんな鳥図である。
俵屋宗達筆蓮池水禽図  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より

俵屋宗達筆蓮池水禽図部分  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より




参考サイト

参考文献 
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳」 山根有二 1978年 講談社

2023/01/10

藤田美術館 刺繍釈迦阿弥陀二尊像に蓮池水禽図


藤田美術館で久しぶりに蓮池図を見たが、それは繍仏だった。

刺繍釈迦阿弥陀二尊像 鎌倉時代・12-13世紀
外側の仕覆は蓮華唐草文金襴以外は刺繍でつくられた仏画である。
同館図録は、全体に刺繍をほどこした繡仏。向かって右に釈迦如来、左に阿弥陀如来の二尊をあらわす遣迎図である。縁には蓮唐草文をめぐらし、四隅に四天王の種字をおく。上部には中国の僧・善導の文があり、その間を飛天や楽器が蓮華の花びらとともに舞うという。


また、藤田美術館の繊細な刺繍による仏画に精密な画像とQ&A式の解説があり、それを参考にこの仏画をみると、上段左右に配された色紙には、浄土思想を確立した善導の書物からの引用文、中央には飛天が虚空で散華していて、柔らかな色彩の蓮弁や楽器が舞う。
中段はそれぞれ形の異なる天蓋を掲げた釈迦如来(右)と阿弥陀如来(左)が来迎雲に乗っている。大きな頭光は光線が幅広で、菊の花のように密に並んでいて、傘形光背とも思える。

釈迦如来と阿弥陀如来の立像の下で、観音菩薩は蓮台を持ち、勢至菩薩は合掌して往生者を迎えに来ている。ということは、これは来迎図?
繊細な刺繍による仏画によると、釈迦如来は亡くなった人を送り出し、阿弥陀如来は亡くなった人を極楽に迎え入れるというそれぞれに役割があって、この二如来を組み合わせたものを遣迎図というのだそう。「遺迎図」? この年になるまで知らんかった😣
そして二如来二菩薩の間には装飾的な三脚の机があり、一対の花瓶と獅子形香炉が置かれ、見えにくいが、上を向いた獅子の口から香の煙があがっている。煙は繊細な刺繍による仏画ではっきりとわかります。

下段 蓮池
中央の州浜状のところに多宝塔があり、扉が開いて中に二仏が並坐している。これは二仏並坐像といって、多宝如来と阿弥陀如来が並んですわっているとされているが、釈迦阿弥陀二尊図であれば、釈迦如来と阿弥陀如来ということになるのだろうか。
池には蓮華が咲き、蓮華や蓮の葉の間に水の流れが描かれ、2羽の鳥が飛んでいる。蓮池水禽図では水辺の鳥が描かれるが、ここでは尾の長い小鳥になっている。   

蓮の葉にしては妙だと思っていたら、クジャクの尾羽だった。身をかがめて尾をあげ、餌を探している様子。


繊細な刺繍による仏画では、この飛ぶ鳥はオナガらしい。州浜にはもう1羽、羽を繕っているカモのような鳥も。カモだけが水禽だが、蓮池水禽図と呼んでも良いだろう。


この蓮池図を見ていて、若い頃に蓮池水禽図には必ず病葉(わくらば)が描かれていることに興味をもったのを思い出した。それについては次回。


          藤田美術館←     →蓮池水禽図

参考サイト

参考文献 
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳」 山根有二 1978年 講談社


2016/06/03

唐招提寺3 金堂内部


唐招提寺金堂、今回はその内部
『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、金堂内陣は、柱間に大虹梁(だいこうりょう)を掛け広い空間をつくり出し、石組仏壇の上には中央に盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像が安置され、本尊の前方両脇には梵天・帝釈天、仏壇四隅には四天王が配されている。

同書は、天井は折上組入(おりあげくみいれ)天井で、当初の形式・部材及び彩色がよく残っている。天井板は4間を一つの絵として描かれている。折上部の支輪(しりん)板には5種の文様が見られ、文様によって数の違いがあるが当初の配置状況は不明であるという。
天井が格子になっているからといって、格天井というのではないようだ。
格子の間には蓮華が描かれているような。外から覗くと暗くてわからなかったが。
天井に蓮華が描かれるのは一般的だったのだろうか。法隆寺金堂の天蓋や橘夫人念持仏厨子の天井にもその遺例がある。
創建当初は金箔の貼られた仏像が、外からの淡い光にも反射して、美しく輝いていたのだろうなあ。

千手観音立像
同書は、像高が5m余りある巨大な像で、丈八(一丈八尺)というわが国では珍しい大きさの像で、実際に千本の手をつけている(現在953本)。頭には頭上の仏面をはじめ十面を戴き、顔には縦に一眼を刻む。面相はやや角ばり、眼球の膨らみをはっきりと、鼻は太く短めに、上唇はめくれるように表している。制作期は、本尊に遅れる8世紀末頃と考えられるという。
今は昔、仏教美術史の授業で、「明治の大修理の時、千手観音菩薩立像の手を全部外したら、組み立てた時に数十本が嵌めきらなかった」というようなことを聞いた。
そして、平成の大修理が行われることが決まって、今回はきっと残りの手も観音さんの体に戻るのだろうと期待し、その様子がテレビ番組となって放映されるのを楽しみにしていた。ところが、今回もその数十本は収まらず、今でも953本のままなのだった。
『共結来縁』には2001年に解体した時の図版があった。
番組でも、小さな手は数本が釘でまとめられて観音さんの体に取り付けられていたことが紹介されていたが、この図版でも、そのような束になった手があちこちに見ることができる。
同書の2009年に千手観音小脇手の最後の1本を取り付ける様子の図版。
小脇手といっても人間の腕くらいの長さがありそう。

盧舎那仏坐像 奈良時代、天応元年(781)頃 像高304.5㎝ 脱活乾漆造・漆箔 義静
『カラー版日本仏教史』は、力強い新しい作風を示すのが唐招提寺金堂の盧舎那仏坐像である。量感を強調したなで肩で幅の広い体つきは、唐・天宝年間(742-755)の作例にもみられ、そこに鑑真渡来にともなう唐影響が認められる。着衣の表現は、写実的な表現を基調としながら、細部の装飾性が増し、一段と成熟した様相をみせる。緊張感にとんだ雄渾な作風は、世俗臭の漂う盛唐期の作風とも一線を画し、天平後期における最高の製作水準を示すという。
『共結来縁』の2009年に蓮弁を取り付ける作業の図版。
蓮弁1枚は人の上半身くらいありそう。
ところで、この盧舎那仏の光背には化仏がたくさん付いている。でも、あまり古くなさそうなものもあるみたい。
『柳孝骨董一代』でその化仏の一つを見たことがある。

化仏唐招提寺伝来 天平時代 木造漆箔 像高11.3㎝ 柳孝氏蔵
同書は、唐招提寺の盧舎那仏の大光背にはもともとは千体の化仏が取り付けられていたのだが、現在の化仏の数は864体、そのうち天平当初のものは322体と言う。鎌倉期や江戸期に補填した化仏の方が多いらしい。明治期にも何体かの化仏が民間に流出し、仏教美術好きの垂涎の仏像となっているという。
何ともいえない、良い雰囲気を醸し出す化仏。盧舎那仏よりもこちらの方が好みです。

薬師如来立像 平安時代、延暦15年(796)-弘仁6年(815) 木心乾漆・漆箔 像高336.0㎝ 如宝造立
『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、奈良時代以前の薬師如来と同様に薬壺は持たない。顔は大きめで、首はきわめて短い。衣端には大きな翻りはなく、股間の衣文線もほとんど真っ直ぐに下りていくので、静謐にたたずむ感がある。左掌から延暦15年の「隆平永宝」が発見されたため、この年に近い時期の造立と考えられている。また『唐招提寺建立縁起』によれば、鑑真和上の弟子の如宝の造立とされるので、如宝の没年である弘仁6年が制作年代の下限となるという。 
この像は修復後に奈良国立博物館の仏像館に安置されていたので、間近で見ることができた。
確か、光背はこの像本来のものではないとか。

        唐招提寺2 金堂建物の細部←         →唐招提寺4 鬼瓦

関連項目
翻波式衣文はどこから
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文
唐招提寺の四天王像
天井の蓮華
蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子
唐招提寺5 境内を巡る
唐招提寺1 南大門から金堂へ

※参考文献
「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
「鑑真和上展図録」 奈良国立博物館編 2009年 TBS
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「柳孝 骨董一代」 青柳恵介 2007年 新潮社

2015/09/22

法隆寺献納宝物の中に木造の仏像


昔々、東京国立博物館に法隆寺宝物館はあったが、水曜だけしか開館していなくて、はるばる東京に行っても見ることができなかった。その次は水曜に合わせて行ったので、見学できたが、もう遠い記憶の向こうにある。
そのずっと後に法隆寺宝物館が谷口吉生氏の設計で生まれ変わったので、機会があれば行ってみたいと思いつつ、その機を逸してきた。
今回やっと東博に行くことができたのだが、新たに建てられた宝物館は、あいにく補修中で休館していた。

本館の平常陳列では、1体の木製の小さな仏像があった。とても良い表情の如来立像だったが、説明を見て驚いた。これが法隆寺献納宝物とは。法隆寺献納宝物の仏像はみな金銅製だと思っていたからだが、今まで見てきた小金銅仏とはかなり趣きの異なる像だった。

N193 如来立像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造漆箔 像高52.6㎝
『法隆寺宝物館』は、法隆寺献納宝物のなかでただ1つの木彫像。頭から台座まで1本のクスノキから作られている。飛鳥・白鳳文化期の木彫像のほとんどはクスノキから作られている。この像は7世紀後半の白鳳文化期の作という。
法隆寺献納宝物の金銅仏と比べると、50㎝を超える像というのは大きい方だ。
なんとなく猫背気味で、仏像には珍しくやや上を向いている。そして、顔に比べて小さな手は、左右逆に施無畏与印になっている。
大衣は両肩左右対称に襞を作り、右手側は胴部で結んだ2本の紐の下に、左手側は右袖の方向へ、それぞれ別の形に衣文線を描く襞が表される。衣文線とはいうものの、両側が盛り上がってその稜を刻線で表すのも珍しいのでは。どこかで見たこともあるような気がするのだが・・・
また、直立不動の姿で表されるのが普通のこの時期の立像だが、本像は右脚の膝がやや出ている。
ピンボケだが、側面から見ると猫背でもないことくらいはわかる。猫背気味に見えたのは、胸部に張りがないからだろう。
右膝が出ているために、腹部からの出っ張りが下の方まで続いているように見える。
同書は、木製の光背やそれを取りつけるための鉄製の支柱も当初のものであるという。
右側面の方はどのようになっているのかよく分からなかったが、大衣の端が左肩にかかり、柔らかなギザギザの衣端線で終わっている。
その下の大衣は、背中の中心から右脇の1点へと襞が寄っていくが、下半身では、その襞と交互になって左腕にかかった大衣の襞が、放物線を描くように、4本出ている。
このように背後の衣文まで克明に表した仏像に出会うと、その像がどのようなところに置かれ、礼拝されていたのだろうと気になってしまう。

この表情がとても良かった。そう感じたのは、仏像には珍しく、上を向き、黒目が見えるからかも知れない。
頭光の蓮弁も1枚1枚が幅広にゆったりとつくり出され、その間に表された覗花弁も花びらとわかる表現となっている。
細長い巻き貝のような螺髪は、一つ一つ取りつけたものが幾つか残っている。
後方から眺めると巻いた表現が分かり易い。

『法隆寺宝物館』には館内の写真が掲載され、それぞれの小金銅仏の名称と位置も図解されていて分かり易い。
いつの日にか、このような空間の中で、静かで豊かな時を過ごしてみたいものだ。
ところで、この木彫の如来立像はこの展示室に展観されるのかな。『法隆寺宝物館』では金銅仏のところに記事があるし。

                      →法隆寺献納宝物 如来立像の着衣さまざま

※参考文献
「法隆寺宝物館」 1999年 東京国立博物館

2015/08/11

火焔山のトユクに組紐文のタイル


東京国立博物館の東洋館では、驚いたことに、トユク(吐峪溝)の出土が幾つか展観されていた。
トユクには行ったことがある。もう10年前のことだが、石窟の見学だけでなく、その小さな谷間の様子がとても気に入った。
それについてはこちら

磚破片 唐時代、8世紀 中国トユク他出土 大谷探検隊将来品
同館説明板は、これらの甎(せん)は、官衙(かんが)、寺院などの建造物の床面に敷かれていたものです。大部分はトユクを中心とするトルファン地方から発見されたものです。ただし雷文甎1枚だけは西安で入手したと考えられますという。
左2点が「本」という文字と花文のある塼、大きな塼には蓮華文、右端も植物文のように見える。

手押型つき長方磚 唐時代、8世紀 焼成粘土 トユク出土 大谷探検隊将来品
説明板は、粘土がまだ乾燥していない状態で手形を押した後に焼成したものです。このほか、中国の旅順博物館と韓国国立中央博物館に類品がありますという。 
大谷探検隊の収集品は、幾つかの博物館などに分散して収蔵されているので、どちらの博物館にある類品も大谷探検隊将来品。

宝相華文方磚 唐時代、8世紀 焼成粘土 トユク出土 大谷探検隊将来品
花弁の表現が独特の宝相華文。こんなに凹凸のある塼が床に敷かれていたら、でこぼこして歩きにくかったのでは。

蓮華文方磚 唐時代、8世紀 焼成粘土 トユク出土 大谷探検隊将来品
一方、線だけが浮き出た塼もある。
覗き花弁のある単葉蓮華文を中央に、小さな花文を四隅に置いて、渦巻く蔓草文を外周に表している。

蓮華文方磚 唐時代、8世紀 焼成粘土 中国トルファン南部城址出土 大谷探検隊将来品
風変わりな蓮華文である。  小さな中房には蓮子がなく、8枚の蓮弁は沈み彫り、その周囲には16弁の浮彫の蓮弁が巡る。
また、上の2点は、敷き詰めると同じ文様の塼が並ぶのに対して、このような塼は、通常四隅に1/4の文様を施して、縦横に並べると、4枚の塼の繋ぎ目にもう一つの文様が現れるように構成されているものだが、これが完形とすると、下側の対角線がどのように繋がったのかがわからない。部屋の端にはこの形でないと敷くことができなかったのかも。

組紐模様タイル 唐時代、8世紀 磚 トユク出土 大谷探検隊将来品
くっきりとは発色していないが、8世紀にすでにあった唐三彩の緑と褐色。

組紐が交差しながらつくり出す形は、ロセッタという甲虫のような六角形の変形したものと小さな小さな三角形、4点星、そして、欠けているが右上辺に8点星らしきもの。
それだけでなく、他のタイルと組み合わせて壁面に嵌め込むことができたのだろうかと心配になるほど、それぞれの辺が歪んでいる。いったい何角形だったのだろう。九角形?
8世紀といえば、中央アジア以西ではまだ施釉タイルが出現していない時代。それなのにと言うか、中国なので不思議ではないというか、これは施釉タイルである。釉薬が溶けた時にできた気泡の痕が残っている。
しかも、2色の釉薬が混ざることなく籠目のような文様をはっきりと表している。組紐には浅い輪郭線を刻んでいるが、それだけで釉は溶けてはみ出さないものだろうか。
ハフト・ランギー(クエルダ・セカ)の初現は、14世紀後半のサマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群のウスト・アリ・ネセフィ廟とされているのに。
このタイルは、幾何学的な組紐文だけでなく、タイルの施釉技法という点でも、かなり重要な遺品ではないのだろうか。

     アフラシアブ出土の陶器に組紐文←

関連項目
幾何学的な組紐文
トマン・アガのモスクには組紐付幾何学文のモザイク・タイル
ハフト・ランギー(クエルダ・セカ)の初例はウスト・アリ・ネセフィ廟
世界のタイル博物館5 クエルダ・セカとクエンカ技法
トユク石窟にアカンサスはあった

※参考文献
「世界のタイル・日本のタイル」 編世界のタイル博物館 2000年 INAX出版
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館
   

2015/03/20

韓半島の瓦および塼



せっかくなので、三国時代の瓦や塼にみられる蓮華文をまとめておく、といっても遺品は少ない。

百済
『国立中央博物館図録』は、仏教の隆盛に伴って発達した瓦当は、百済文化の特性をよく表しているがとりわけ熊津時代以後に中国梁の影響を受け作られた蓮花文瓦当から百済的様式が成立するという。

軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文 径13.9㎝ 忠清南道扶余邑旧衙里遺跡出土 国立扶余博物館蔵
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、百済式瓦の源流は、都を泗沘(現在の忠清南道扶余邑)に遷された百済時代後期の遺跡出土品に求められる。
花弁の先端が反転して桜花状に切り込みが入り、日本で花組と通称されている瓦であるという。
飛鳥寺の花組瓦と比べると、八葉であるために、花弁がふっくらとしている。また、中房が大きく、小さな蓮子の並べ方に規則性は感じられない。
このような8弁のものが一番作り易いと思うのだが、日本に来ると10弁や11弁になるのは何故だろう。
軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文・点珠 径16.5㎝ 同遺跡出土 国立扶余博物館蔵
同書は、弁端が角張る傾向にあり、先端に珠点を付す角端点珠式で、星組と通称される瓦である。若草伽藍では星組の軒丸瓦が用いられているという。
やはり花弁が8枚なので、花びららしい。中房は上の花組と比べると小さく、周囲の6つの蓮子は等間隔に並んでいる。

ほかにも蓮華文軒丸瓦がある。上左から時計回りに、

1 素弁八葉蓮華文
旧衙里遺跡出土の「花組」と同じ花弁の軒丸瓦だが、こちらは中房の蓮子が1+8で、文様として整っている。

2 単弁七葉蓮華文
この中で唯一子葉が、それもとても小さなものがある。花弁にはわずかに切れ込みがある。

3 素弁八葉蓮華文
旧衙里遺跡出土の「星組」と同じだが、1+8の蓮子のうち、中心のものが特に大きい。

4 素弁八葉蓮華文
小さくて外区がないし、中房の中心を少しはずれたところに金具を取り付けるための穴があるので、垂木先瓦だ。
日本の最初期の垂木先瓦(飛鳥時代)につながるものだが、日本のものは、どういうわけか九葉である。
それについてはこちら

5 素弁八葉蓮華文
佐賀県の椿市廃寺の軒丸瓦(白鳳時代)によく似た、独特の花弁で、このように二重とも見える花弁から子葉というものができて、単弁蓮華文に発展していくのではないかと思ったりしたが、2のような小さな子葉を見ると、そうではなさそうだ。

6 素弁八葉蓮華文
蓮華文の輪郭が八角形のように見えるのは、覗花弁がT字形に表されているからだろう。

蓮華文塼 扶余窺岩面外里出土 百済時代 高28.5㎝ 十葉忍冬蓮華文 ソウル、国立中央博物館蔵
『法隆寺展図録』は、てりむくりの大きい単弁十葉蓮華文を大きく表わし、それを連珠円文が囲う。蓮弁には輪郭で縁取られたパルメットが配されている。四隅には花弁状の装飾があり、塼を並べると十字形の花文が形取られる。木笵(木型)によって作られたものであるという。
大きな中房の周囲に小さめの蓮弁が10枚、その間に稜のある覗花弁が、楔形にならず、花弁の形で表されている。
厚い花弁にやや浅浮彫で忍冬文が表されている。5弁らしいが、わかりにくい。

箱形塼 百済(6-7世紀) 瓦製 長28.0㎝ 韓国、国立中央博物館蔵
『法隆寺展図録』は、文様面は、2つのパルメットを配して2区画に分割され、一つには鋸歯文で囲まれた蓮華文、他方には同じく鋸歯文で囲まれたパルメットが組み合わされた円形文様を対にしておく。
全体にパルメットが多用される文様構成であるが、特に、前者の蓮華文の蓮弁一つ一つにそれぞれパルメットが配されている点は注目される。これは蓮華文とパルメット文の融合であり、若草伽藍の補足瓦や、斑鳩宮で出土するパルメットを配した蓮華文軒丸瓦などの祖形となるものと考えられるという。
こちらの方が花弁のパルメットがわかりにくい。5弁かな3弁だろうか。右側上下にあるパルメットが5弁なので、花弁にも5弁のパルメットが表されていたのだろう。
右側は、5弁のパルメットの1枚が伸びて、全体に見ると回転するような動きとも、卍形に仕上げているとも思える。
長野善光寺の蓮華文軒丸瓦にも、このように周囲から浮き出たように作られた鋸歯文が施されている。外行鋸歯文と呼ぶらしい(『日本の美術66古代の瓦』より) 

蓮華文鬼瓦 百済後期(6-7世紀) 絹雲母岩 手彫り 幅36.0高29.4厚6.0 王宮・扶蘇山城内の扶蘇山寺出土 国立扶余博物館蔵
『法隆寺展図録』は、鬼瓦はその機能から本来の名を棟端飾瓦といい、棟の端部を塞いで雨漏りなどを防ぐためのものである。
六葉蓮華文を千鳥掛けに地模様のように配置した鬼瓦である。部分的に下書き線や下書きのために用いたコンパスの痕、彫出時に用いたノミの痕などをみることができ、蓮華文は手彫りで彫出されたことがわかる。頂部には釘頭をはめ込むT字形の彫りこみがあり、実際に55㎝ほどの鉄釘が完存している。
複数蓮華文が千鳥掛けで配置されるのは棟端飾瓦すなわち鬼瓦が開発される以前に軒丸瓦を積み上げて棟端を塞いでいた名残であるといわれている。百済ではこうした複数の蓮華文からなる鬼瓦が好んで用いられ、鬼面文の鬼瓦が登場するのは統一新羅においてであったという。
それまでは軒丸瓦を積み上げていたことが、六葉蓮華文が隙間なく彫り込まれていることからも窺える。このような鬼瓦の文様が請来されて作られた法隆寺若草伽藍所用の八葉蓮華文鬼瓦は、そのような由来もわからないので、空間をあけて縦横にに並べている。

蓮華文鬼瓦 百済時代 素弁八葉蓮華文 石製 国立扶余博物館蔵
浅浮彫の素弁八葉蓮華文が千鳥掛けに隙間なく配されるのは、上の車輪のような蓮華文と同じだが、こちらの方が蓮華文軒丸瓦を積み上げた頃の雰囲気が漂う。


軒平瓦 百済、武王期(600-641) 益山王宮里帝釈寺出土 公州国立博物館蔵
『日本の美術358唐草紋』は、パルメット羽状唐草紋は三国時代の古墳に副葬された金属工芸に豊富で、慶州忍冬塚出土の銅鋺に金象眼されたものをはじめ、馬具、冠、飾金具などに見え、また仏教美術にも取り入れられた。百済、新羅の軒瓦にもパルメットは見えるが、唐草には構成されていない。唯一の例外は益山王宮里帝釈寺出土の軒平瓦。唐草紋が花開くのは統一新羅時代という。
非常に完成された偏行唐草文だが、百済の地に出土例がないとなると、隋か唐から将来されたものかも。

『古代の瓦』は、百済から初めて仏教が伝来したとき、蘇我稲目が向原の家を寺とした故地には推古天皇11年(603)に豊浦(とゆら)寺が建立される。その鐙瓦には飛鳥寺の第2様式をまねた百済様式のほかに、高句麗様式と称される瓦が各種出土している。その特徴とするのは、花弁が厚肉で中央に稜線を通し、しかも、花弁の1枚1枚が分離した形であらわされていることである。これらは大きく2形式に分けられるが、その一つは弁間の空隙に珠粒を配する形であり、その2は下重の覗花弁を退化した楔形に表す形である。この両者はあたかも中国北朝様式を受け継いだ高句麗瓦の文様と基本的に一致するので高句麗様式と称されるが、しかし、両者を比較してみると、かなり温雅な特色を示すので、藤沢一夫氏はこの様式は高句麗から直接わが国へ伝来したのではなく、いったん、百済に伝わり、百済的に消化されてからわが国へ伝来したものと考えられているという。

豊浦寺の軒丸瓦1 603年 素弁八葉蓮華文・点珠
中央に1本の葉脈が通り、中房が小さい。
豊浦寺の軒丸瓦2 603年 素弁八葉蓮華文・覗花弁
こちらも中央に1本の葉脈が通る。 

高句麗

蓮華文軒丸瓦 出土地・所蔵不明
同書のいう弁間の空隙に珠粒を配する形である。極端に盛り上がりのある花弁と、平たく凸線で葉脈?を表した花弁が、それぞれ4枚交互に配されている。
中房は二重の同心円文で蓮子は表されない。

軒丸瓦さまざま 出土地不明 上中央径21.5㎝ 国立中央博物館蔵
蓮華文の軒丸瓦には、弁間に点珠を置いている。覗花弁の退化したものだろうか。
左上から時計回りに

1 4つの扇形の区画中央に上図に似た盛り上がった花弁、左右に葉か蔓状のもの、その下に点珠。中房には蓮子はなさそう

2 花弁というよりも蕾のようなものが2本線で区画された中央に6つ、その左右に点珠。中房中央の突起は蓮子?

3 2本線で区画された中央には、平行線状の葉脈が3本通った、盛り上がりのある花弁、その左右に点珠。やはり中房には蓮子が一つ。

4 1から発展したような文様で、軒丸瓦に一つの蓮華を表すのではなく、蓮華の蕾を横から見たようなものを内向きに4つ配している。点珠も4つ。

5 鬼面の軒丸瓦
大きな目が飛び出していて、開いた口からは上下に牙がのぞき、上の歯が3本、下の歯は見えず、舌が出ている。

6 図版が小さいので、はっきりとは見えないが、盛り上がった4つの花弁の間に、鬼面が表されているらしい。

軒丸瓦と軒平瓦 製作時期・出土地不明 国立中央博物館蔵
2つの軒丸瓦の間に平瓦というものを1単位として焼成している。軒平瓦ができるまでのものだろうか。高句麗に限らず、韓半島の三国時代、そして中国でも軒平瓦はなかったという。
飛鳥寺(法興寺)の創建当初の屋根も軒平瓦はなかったらしい。そんな頃の屋根を彷彿させる出土品である。

左 おそらく六葉蓮華文。花弁の下から出た巻きひげは左右に広がり、蕾の下から出た蔓は蕾の左右にある点珠につながっている。2つの蕾の間にも凸線による花弁状の形があり、それが蔓と重なって、新たな文様となっている。

右 子葉のある十葉蓮華文と星組のように尖った覗花弁の組み合わせ。宝相華文のようにも見える。

新羅

軒丸瓦
『国立慶州博物館図録』は、新羅では、いつから瓦が用いられたかは定かではないが、2-3世紀頃には当時の宮城で円瓦や平瓦が製作、使用されたと推定される。しかし、蓮華文が装飾される軒丸瓦が大量に製作され寺院建築に使用された時期は、仏教が公認(528年)され、興輪寺(544)、皇竜寺(553)等の寺院が建立された6世紀中葉からである。この頃の新羅の軒丸瓦には、高句麗と百済の様式が共に反映されているが、その末端が丸くからげられる独自の様式が成立した。
新羅の軒丸瓦には人面や鬼面文が刻まれたものも一部製作されたが、大半は蓮華文が刻まれたもので、周縁部には何等装飾もなく蓮華文も単純化され精緻さを欠く感がなくもないという。
左より

1 素弁六葉蓮華文
弁端が膨らむという珍しい形。中央に1本の葉脈が通る。

2 素弁八葉蓮華文
高句麗の瓦のように蓮弁が高く盛り上がる。複数の葉脈が表される。

3 素弁八葉蓮華文
百済の箱形塼の蓮華に似て、ふっくらした花弁に稜線が通る。覗花弁の葉脈は中房まで伸びている。 

このように三国時代の瓦を比較してみると、日本の瓦は百済からの影響が濃かったことがよくわかった。


関連項目
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
日本の瓦3 パルメット文のある瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
日本の瓦6 単弁蓮華文


※参考文献
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「国立中央博物館図録」 1986年 通川文化社
「国立慶州博物館図録」 1996年 通川文化社
「韓国文化遺産の宝物」 国立中央博物館偏 2000年 芸脈出版社