南禅寺界隈 地図 Google Earth より
ⓐねじりまんぽ ⓑ何有荘 ⓒ對龍山荘 ⓓ金地院 ⓔ南禅寺中門 ⓕ南禅寺山門 ⓖ天授庵 ⓗ水路閣 ⓘ水路 ⓙⓚ蹴上発電所取水口 ⓛ蹴上放水所 ⓜ蹴上インクライン ⓝ蹴上船溜 ⓞ 蹴上義経地蔵 ⓟびわ湖疏水船 蹴上乗下船場
❹中門より外を眺める。
天授庵の栞は、天授庵は南禅寺の開山第一世大明国師無関普門禅師を奉祀する南禅寺の開山塔であり、山内で最も由緒のある寺院である。 凡そ700年前の文永元年(1264)亀山上皇は当地の風光を愛されて離宮を営まれ、禅林寺殿と号された。たまたま正応年間(1288頃)妖怪の出現に悩まされ給ふたが、これを一言の読経を用ふるでなく、唯だ規矩整然と坐禅するのみで静められた当時の東福寺第三世大明国師の徳に深く帰依されて自ら弟子の礼をとり法皇となられ、正応4年(1291)離宮を施捨して禅寺とされ、大明国師を奉じて開山となし給ふた。これが南禅寺の開創であるという。
門を入った所にある地図
❷庫裡
切妻屋根で何階建てかに見える梁と柄の重なりの禅宗寺院らしい建物。厨房であったり、僧の宿坊だったりするみたい。静かな前庭。
栞は、文安4年4月22日(1447)の南禅寺大火に類焼し、幾ばくもなく再び応仁の兵火に見舞はれた後は復興の事もなく荒廃の侭130年余を経過した。慶長年間に至り世情の安定と共に伽藍の復興が盛んとなるに及び一山の僧達は協議の結果開山塔天授庵の復興を当時五山の間に屈指の名僧と言はれた当時の南禅寺住持たる玄圃霊三和尚に一任するに至った。
霊三はその弟子雲岳霊圭をして天授庵主とし、知友であった細川幽斎に天授庵の復興を懇請したのであるという。
❸方丈の北側へ。ここも結界だらけ。
❹正門
通用門よりも小さな門は新緑のもみじに隠れている。
新緑に目が向きがちだが、苔も美しい。小さなキノコのような胞子体がびっしり。
南端で通路は二つに分かれる。左手を行けば墓所で、順路には右手へ。
この道もまた違ったデザインで、
➒大書院前の庭に繋がっていた。この庭の緑が庫裡の入口から見えていたのだろう。
建物に近寄らず、すぐに❻南庭の池へ。
飛び石に足を置く前に池を写しておく。
近くのほぼ満開の睡蓮。黄色い雄蕊は長さがばらばら
どちらかというと花は満開のものよりも開きかけのものが好きなのだが、それは母の影響なのかも。
細い枝なのに大きな梅の実。こんなのを撓わというのかと検索してみると、実りの重みで枝が下がっている様子を意味するようで、この木は細くても撓っていない。
花菖蒲?カキツバタ?アヤメ?
風変わりな灯籠をもう一つ発見。
栞は、東庭は枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳を軸として配するに数箇の石と白沙を以てし、これに緑苔を添えたものである。二条の石畳の中で正門より本堂に至るものは恐らく暦応4年当庵創建当初のものと思はれるが一方の短いものは幽斎の廟所に向ふもので、慶長十五年幽斎歿後に設けられたものであるという。
正門から東庭へ続く石畳は途中で直角に曲がって終わる。
方丈の庭は幅が広い。小堀遠州の作庭と言われているらしいが、栞にはその名はない。
建物に近寄らず、すぐに❻南庭の池へ。
栞は、書院南庭は庭園の根本的構想或は設計とも言ふべき地割の上から見ると明らかに鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えて居る。特に中央の出島にそれが顕著である。即ち書院側より長大な出島を作り、向い側からやや小さい出島を配し、之等をさながら巴形に組み合はせる事によって東西大小の二池を区切って居る処、又大小の出島を作り池庭の汀の線に多くの変化を見せて居る事、或は東池を西池より小にしたれになだらかな斜面の堤を設けるなど、東池瀧組俯近の石組に残る手法と共に暦応四年本庵創建当時に作庭されたものであることを物語って居るという。
池は睡蓮の葉に覆われていると言っても良いくらい。
戻る時に対岸から撮影した飛び石と手すり
池を過ぎると石が無造作に積まれて苔生していた。何かに使うためだった石かな、池を掘っていて出てきた石かも。
栞は、西池に蓬莱島を設け石橋を作るなど明治初年に著しい改造を行った為一見すると明治調が強く感じられるのが惜まれるという。
こんな橋は明治以降のものだった。
水は意外と透明
風変わりな灯籠をもう一つ発見。
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天授庵の栞





































