アナトリアのヒッタイト遺跡群 Google Earth より
❶アラジャホユック Alacahöyük ❷ハトゥシャ Hattuşa ❸アンカラ Ankara ❹ビュクリュカレ Büklükale ❺カマンカレホユック Kaman Kalehöyük ❻ヤスホユック Yassıhöyük ❼トゥズ湖(塩湖 Tuz Gölü) ❽カッパドキア Kapadokya ❾コンヤ Konya ➓ファスッラール fasıllar monument ⓫ベイシェヒル湖 Beyşehir Gölü ⓬チャタルホユック Çatalhöyük
チャタルホユックの二つの遺丘 Google Earth より
Google Map で360°写真で内部を見ることができます。
ⓐシロエリハゲワシが人間を襲う場面の壁画のある神殿 ⓑほぼ平面に家屋が密集している遺構 ⓒ斜面に家屋が密集している遺構
同書は、双子山状の遺丘、径東西500m×南北300m、 高さ17.5m。遺丘は東西二つの遺丘からなり、西丘では前期銅石器時代の建築遺構を確認、東丘からは前8-7千年紀、新石器時代の12建築層からなる集落が出土しているという。
発掘調査の写真(『アナトリア文明博物館図録』より)
『興亡の世界史 人類文明の黎明と暮れ方』(以下『興亡の世界史』)は、農業、交易、そして物づくりが盛んになることによってチャタル・ヒュユクは繁栄期を迎え、住民の住居も整備されていった。1961年の最初の発掘で出土した139室の部屋は巨大な集合住宅のような造りで、それぞれの住居を分ける路地などがなく、住居同士が共有壁によって分かれているだけであった。このため住居の出入りにはハシゴをかけて陸屋根にのぼり、そこから居室に入るようになっていた。
居室はいずれも4×5mほどの大きさで、粘土製の炉やベンチがしつらえてあった。住居の中核をなしている居室の周囲には小部屋がいくつかあり、食料貯蔵庫や倉庫としてもちいられたという。
下の部屋の壁面中央下部に突き出ているのは牡牛の頭部だろう。
アナトリア文明博物館の説明パネルに家屋の様子が描かれていた。
説明パネルは、9000年前、チャタルホユックに最初の農民が住み、屋根を出入口として利用していた。平らな屋根と日干しレンガ造りの家々は石造りの基礎がなく、広々とした居間を除いて貯蔵庫で構成されていたという。
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、土器新石器時代のもう一つの特徴は、色彩による絵画的表現の出現である。彩文土器の文様もその一例ではあろうが、なんといってもカンヴァスが小さく、図像も幾何学文中心である。本格的な絵画表現とは認めがたい。チャタル・ホユックやテレイラート・ガッスール (ヨルダン)に見られる各種の神殿壁画がある。洞窟壁画を欠く西アジアの先史美術にとって、住居壁画の台頭は、色彩絵画の出現という大きな意義をもっているという。
ⓐ神殿 シロエリハゲワシが人間を襲う場面の壁画
『興亡の世界史』は、神殿と推定される部屋の一つには、シロエリハゲワシが首のない胴体部分だけの人間を襲っている場面が描かれており、鳥葬のような習慣があったことを示唆している。
集落から一定の距離をおいた遺体置場で野ざらしにされて白骨化させる一次葬としての鳥葬を含む風葬がおこなわれ、次いでその白骨を親族が布や獣皮に包んで故人の自宅や神殿のベンチ状の寝台下に埋葬するという、葬祭の一連の推移であるという。
ハゲワシの胴部に二つずつ何かが描き込まれているのは呑み込んだ人体の一部?
アナトリア文明博物館の復元展示
『興亡の世界史』は、東丘の日干し煉瓦で構築されている建築遺構内の壁面からは幾何学、狩猟場面、猛禽類の飛び交う光景、噴火、集落等が描かれており、またメラートが発掘した166の遺構内からは牡牛の頭部で飾った日干し煉瓦作りの柱をもつ祠も確認されいる。そのなかからは丸底の粗製土器、土製、石製の地母神像、黒曜石製品が数多く出土している。
『興亡の世界史』は、東丘の日干し煉瓦で構築されている建築遺構内の壁面からは幾何学、狩猟場面、猛禽類の飛び交う光景、噴火、集落等が描かれており、またメラートが発掘した166の遺構内からは牡牛の頭部で飾った日干し煉瓦作りの柱をもつ祠も確認されいる。そのなかからは丸底の粗製土器、土製、石製の地母神像、黒曜石製品が数多く出土している。
西丘から出土してる銅石器時代の彩文土器を手がかりとして、中央アナトリアの銅石器時代が文化的にタウルス山脈の南側との結びつきで捉える傾向が強いという。
アナトリア文明博物館に復元展示されていたのは、一般家庭ではなく祠堂だったのだろうか。
梯子の上に木製の段がある。その上の天井は木材を細かく加工して凝った装飾になっているが、これはチャタルホユックとは関係なさそう。
左の壁沿いは台所のようなので、祠堂ではなく一般家庭だったのでは。それにしては牛頭が多すぎるようにも思える。
梯子の向こうに竈
説明パネルは、居間には炉、窯、テラスがあった。長時間にわたる工芸作業は、主室にある炉の周りで行われていた。黒曜石は削られ、主室の階段脇に保管されていたという。
左には浅い石の器と丸い石で穀物を潰す道具。
『古代オリエント事典』は、穀物などを脱穀・製粉するための、大型の半磨製石器の総称、石灰岩や玄武岩などの、 きめの粗い石材が好んで用いられた。穀物の脱穀・製粉用具としての石臼は、続旧石器文化から現れ、先土器新石器文化以後に一般化しているという。
日本では新石器時代に土器がつくられたのに対して、穀物を挽くところは煮炊きする必要のないところではそのための容器が要らないので無土器(先土器)新石器時代というものがあると聞いたことがある。粉にして水で練って焼けば食べられるからだ。
奥の黒いのは炭ではなく、黒曜石かも。
説明パネルは、黒曜石は、加工しやすい脆くて硬い構造のため、チャタルホユックの石材産業において最も注目され、最も頻繁に使用される原材料。黒曜石は、チャタルホユックの集落から徒歩で10-13日かかるカッパドキアから運ばれたと考えられている。これらの黒曜石製の道具、ナイフ、矢じり、槍先は、野生動物の狩猟や屠殺に使用されたという。
牛の頭部の並ぶ壁
『アナトリア文明博物館図録』は、チャタルフユックの家々のきわだった特徴は、壁画と壁に飾られた牛の頭のシンボルである。この呪術的な飾りは特別な建物にだけあるわけではなく、各家の宗教的目的のために使われた場にもおかれていた。牛の頭は高浮彫り、又は丸彫りて、時には本物の牛の頭に粘土を塗って壁に飾ったという。
本物の牛頭ではないとはいえ、人々の暮らす部屋には多過ぎるのでは。家族の一人が亡くなると新たな牛頭をつくって祀ったのだろうか。
手前のベンチには人骨が埋められていた。
『アナトリア文明博物館図録』は、チャタルフユックでは、家の床下に埋葬する慣わしだった。 子供の場合は部屋の床下に、大人はペンチの下の部分に一人、又は数人いっしょに埋葬して、そのわきには副葬品も埋めていたという。
説明パネルは、家の床の下には、家を守り、力を与えた先祖が埋葬されているという。
壁画
説明パネルは、チャタルホユックの家の最も重要な特徴の一つは、何百回も塗り直された壁の装飾で、ヒョウのレリーフ、漆喰で塗られた雄牛の頭、具象画、幾何学文様などが描かれているという。
右壁
復元家屋の外側に壁画が展示されていた。
人間は牛と同じ色で描かれていて、人と比べて巨大過ぎる牛
説明パネルは、赤と黒の三角形に点線や絵画的な文様が組み合わされ、長方形のモチーフが生み出されている。絨毯を模したこの壁画では、隙間が目立ち、その間に縫い目のようなものが見られるという。
説明パネルは、チャタルホユックの人々にとって、ヒョウは特別な位置を占め、あるいは宗教的な意味を持っていたに違いない。これらの漆喰で彩色されたヒョウのレリーフは、かつてチャタルホユックの家屋の壁を飾っていた。ヒョウの頭部に塗られた漆喰と塗料の層数から、これらのレリーフが長年にわたりチャタルホユックの住居を飾っていたことが窺えるという。
ヒョウ同士が縄張り争いをしている場面だろうか。
ところで、『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、黒曜石の産地を抱えるアナトリア周辺の遺跡では、黒曜石製の鏡(チャタル・ホユック)や黒曜石を半溶解して作った蛇の像(テル・シムシャラ)などといった珍品も出土しているという。
黒曜石を半溶解していたとは。全部溶かしてガラスの器や蜻蛉玉をつくることはなかったのか。
黒曜石製鏡 前6千年紀前半 チャタルホユック出土 高4㎝
青銅製の鏡は裏面の装飾について話題になるが、どのように見えたかはあまり聞かない。夫に尋ねると、良くは見えなかったのではないかと言う。黒曜石の鏡もあまり良く見えなかったのでは。
黒曜石について『興亡の世界史』は、チャタル・ヒュユクの東130㎞ほどにある火山ハサン・ダー(ダーは山の意味)で採れる黒曜石は、鋭いエッジをもつことからナイフの刃として利用され、東地中海沿岸やペルシア湾沿岸にまで運ばれたという。
ハッサン山と思われる火山の壁画のコピー (説明パネルより)
説明パネルは、この壁画は、チャタルホユックの町の背後にそびえる火山、ハサン山を描いたものだと考える人もいる。一方、幾何学文様をあしらった様式化されたヒョウの皮を描いたものだと考える人もいる。前者の解釈が正しいとすれば、これは世界初の都市計画と言えるかもしれないという。
下はチャタルホユックの家々、上は噴火する火山。
同書は、副葬品は貧弱だが、神殿のような部屋に埋葬された遺体の場合は黒曜石製の鏡、儀式用の短剣、金属製のビーズのような高価な副葬品をともなっていることから、集落の首長たちの墓であった可能性がある。そうであるならチャタル・ヒュユクは共同体としてかなり成熟した段階にあり、住居の規模では成員間の差は認められないが、首長のような地位が生まれる程度の社会的垂直性が進展しつつあったことがうかがわれる。
この時代にこれほど高度な集落社会が出現する条件として、肥沃な耕作地の確保、黒曜石という当時の社会における貴重な資源が近くで産出され交易が盛んだったこと、さまざまな物資の交易にともないさまざまな地域の人々と接触できたことなどがあげられる。しかも交易を有利におこなうため、一次産品に細工を加えて付加価値を与える工人集団が誕生した。集落社会の中に農業以外の職業が確立し、社会のより有機的な構造化をうながすことになった点も見のがせないという。
チャタルホユックは新石器時代の集落の一つではなく、交易の要衝だった。
チャタルホユックの出土品には小さな地母神像が多い。
一番有名な地母神像 前6千年紀前半
説明パネルは、豊かな胸と広い腰から、農業と人間の豊穣の両方と結び付けられてきたこの女性像は、二頭のヒョウの間に座る姿で描かれており、強い社会的人格を示唆している。脚の間の丸い形は、生まれたばかりの子供の頭部、あるいは高貴な祖先の頭蓋骨を表しているのかも知れないという。
双頭の女神 前6千年紀前半 17.2㎝ 大理石
骨や黒曜石でつくられた装身具類
左上は黒曜石製鏡だろう。写していても気が付いていなかった。
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「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館
参考にしたもの
アナトリア文明博物館の説明パネル



























