お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
ラベル 土器 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 土器 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026/01/20

嘴付き水差し様々


嘴付き水差しは 古ヒッタイト王国時代(前1650-1450)はチョルム博物館に展示されていて、赤っぽいものが多かった。そして形も様々で、脚部は鋭角的に窄まっているのに、胴部がふっくらしているものもあり、 

また黒い水差しもあって、脚部から胴部までは轆轤で挽いていて、脚部がずんぐりしたものもあった。


アマスヤ博物館には少し形の異なるものが展示されていた。
オルズ塚第4文化層(7・8建築層) ヒッタイト新王国時代(前15-13世紀) 
この文化層では、焼け落ちた瓦礫の残骸、青銅製の鎌の刃、テラコッタ製の織機の錘、土器や鍋などの出土品から、オルズ塚がヒッタイトの重要な集落であったことが示されている。
チョルム博物館で見たヒッタイト時代の嘴付き水差しの器体を少し丸くしたような土器が複数見つかっている。

説明パネルは、名前は、注ぎ口の部分が鋭いくちばしになっていることから名付けられた。宗教的儀式において、神に捧げる飲み物(ビール、ワインなど)の器として使用され、特殊な形状をしているという。
横から見ると嘴のようでも、嘴は半分しかつくられておらず、しかもその半分に小さな穴があってフィルターのよう。当時の飲み物には原料が混在していてそれが混ざらない工夫? それとも一度に沢山の液体が流れ出ないように?


チョルム博物館にあった嘴付き水差しはもっとシャープな形のものもあったのに、
間の抜けたことに一番気に入った形の嘴付き水差しは実測図しか撮影していなかった。
頸部・胴部・脚部を別々に轆轤成形して半乾きの時にくっつけたのだろう。


後日見学したアンカラのアナトリア文明博物館にも究極の嘴付き水差しが展示されていたが、チョルム考古学博物館のものに比べると肩部が短い。

そして肩部の前に離れて突き出たような突起が二つある。頸部が鳥の嘴なら、肩部に鳥の羽があっても不思議ではない。


チョルム考古学博物館では、水を撒く人のイラストと左の嘴付き水差しが同じ展示ケースにあった。
形はアマスヤ考古学博物館のものとほぼ一緒だが、イラストでは嘴の先から液体を垂らすのではなく、口からドバドバ流している。フィルターはなかったのだ。
この水差しも脚部が円錐形のようにすぼまっているが、全体にずんぐりして嘴も太い。同じ「神に捧げる飲み物の容器」でも、究極の嘴付き水差しとずんぐり型嘴付き水差しとでは神格が異なっていて、神に合わせて使用する嘴付き水差しが決まっていたのかも。

アラジャホユック博物館では、鹿の背に立ち、右手に曲がった棒、左手に鷲をのせた小さな神の前で、同じ人物が嘴付き水差しで水または酒で大地を清めている図になっていた。
しかもイラストとはいえ、把手は大きく、嘴も長く先が曲がっていて、究極の嘴付き水差しを描いているようにも見える。究極の嘴付き水差しは、特別な嘴付き水差しかも。


アンカラのアナトリア文明博物館の嘴付き水差し
究極の嘴付き水差しの下には、ずんぐりした嘴付き水差しが展示されていた。アマスヤ考古学博物館のものよりも嘴が鋭い。


アナトリア文明博物館にはアマスヤ考古学博物館にあった嘴が途中で切ってあるタイプの水差しもあった。


フリギア時代の(前1200-700年頃)嘴付き水差し

驚いたのは、この嘴付き水差し。
外の壺と中筒という二重構造になっている。容器いっぱいに液体を入れて重くなりすぎないように? それとも保温のため?
頸部から前肩部にかけて白地に幾何学文様が描かれている。

アマスヤ博物館に展示されていた嘴付き水差しもフリギア時代のもので、ややずんぐりしているがよく似ている。この内部も筒状のものが付属していて二重構造になっているのだろうか。

そして、チョルム考古学博物館に展示されていた幾何学文様のある水差しは胴部がもっと膨らんでいる。これも二重構造だろうか。



                        →ヒッタイトの双手杯(カンタロス)


関連記事

2026/01/06

ハトゥシャの大神殿 貯蔵庫の大甕


ハトゥシャの大神殿付近の見学で下写真のような貯蔵用大甕(アナトリア文明博物館のパネルより)を見ることができなかった。

それは、保存用大甕が並んでいたのは写真左端の水色の素屋根で覆われていたところで、調査が行われていたからだった。


現地ではこのようなものしか見られなくて残念だったが、十数年前にイスタンブール考古学博物館のオリエント館を見学した時に、この大甕が一つ展示されていたことを自分の記事で思い出した😅 でも、遺跡の中で見たかった。

貯蔵用大甕 ヒッタイト帝国時代 前13世紀 ボアズキョイ、ハトゥシャ遺跡
説明パネルは、大きな甕は2000Lの容量があり、穀物、野菜、油そしてワインが貯蔵されていたという。
貯蔵用という人目につかないものなのに、頸部には縦や横の線が見えるがどんな文様が不明のだが装飾が施され、肩部には大きな鋸歯文が凸線でつくられている。

人間と比べるとその大きさがわかる。頸部や肩部は無文だが、胴部に凸線の輪っかが見られる。(説明パネルより)



チョルム考古学博物館の中庭の西側に並んでいたが、近づく時間がなかった。

大きなものには成形時に施された横筋が何本も見える。

小さな甕にも横筋があって、貯蔵するものによって大きさも決まっていたのでは。



また、アラジャホユック博物館への通路の左側には屋根をつけて大きな甕を展示していた。

説明パネルは、ピトス(Pithos)は、考古学用語において大型のテラコッタ製貯蔵容器を指すギリシア語。油、ワイン、酢などの液体、あるいは穀物、果物、野菜などの固形食料を貯蔵するためにしばしば使用された。
ピトスは通常、縁まで地面に埋められていた。その大きさは一般的に人間の身長ほどか、あるいはそれよりもはるかに大きいという。
横筋がたくさんあるのは強度を高めるためだろうか。

唯一横筋がないのは白い甕。他のものとは用途が違っていたのかも。



博物館の玄関前にも大甕が並んでいた。

こちらには横筋がないものが多い。底が尖っているのは土に埋めていたからで、自立できないので金属の台にのっている。



クレタ島のクノッソス宮殿にも同じように貯蔵用の大きな甕があったが、こちらは自立している。

中には大型ピトスの倉庫とされているところには柵で立入禁止にしてある。
『クノッソス』は、ここに置かれているピトス(貯蔵用土器)は第1宮殿時代に属し、これまでに見つかっているピトスのうちで最も大きいという。

驚くほど沢山の把手が縦横に並んでいる。
右の大甕は、頸部には三角形の仕切りがあり、その中央に把手が縦に付いていて、両側には小さな丸い凸文がある。中身が何か分かるようにつけてあるのだろうか、豆とか小麦とか。胴部にも文様があるようだが、柵越しでは分からない。何故網目の間から撮影しなかったのだろう。


当時発掘中のところには四角く仕切られていて、大甕を一つずつ収納していたのだろう。横の帯あるいは縄目文で何段かに分割して、そこに縄目文が蛇行していたりする。


そのような倉庫がたくさんあったらしい。


この広口の大甕は無骨なつくりのようだが、ジグザグの帯の組紐文が施されている。把手は少ないので、軽い物が入れられていたのかも。

今となってはどの説明パネルを写したのか忘れてしまったが、一面に装飾のある大甕も出土しているらしい。きっと特別なものが保存されていたのだろう。


そしてサントリーニ島の南端にある同じミノア時代のアクロティリ遺跡にも貯蔵室に沢山の大甕があった。
説明パネルは、「ピトス貯蔵室」は、1967年の発掘調査で最初に発見された建物にスピリドン・マリナトス教授がつけた名前。教授は、この建物が大きな貯蔵壺(ピトス)で満杯であることに着目した。
部屋の大きな窓の前に置かれた多数の織機の重しは、上階から落ちていた。この事実と、ピトスに大量の食料が貯蔵されていたこととを合わせて、マリナトスはこの建物が生産活動に従事する人々に食料を供給するための倉庫であったと解釈したという。
クノッソス宮殿の貯蔵甕と同じようにアクロティリ遺跡の甕も自立できる。

左手前の甕の文様は、日本人の私には草文に見える。


向きを変えて高所から
ヒッタイトやクノッソス宮殿のように枠に大甕を入れるということはしていないようだ。

文様のある甕もあるが、手前の二つは液体が外にこぼれた跡か、絵の具がかかったように見える。


奥の甕には大きな絵が描かれていたり、凸帯で横筋があったりする。
左二つの甕の胴部には大きな円が描かれているが、それは左右の円と線で繋がっていて、やがて蔓草文になっていくのかと思わせるが、滅亡してしまったので、伝わらなかった。その円文の中には細い線でびっしりと渦巻きか同心円文が描かれている。

このように大きな土器は各地で貯蔵用につくられ、それぞれの特徴があるのだった。




関連記事

参考文献
「クノッソス ミノア文明」 ソソ・ロギアードウ・プラトノス I.MATHIOULAKIS

2025/10/07

古代の車輪


チョルム博物館に展示されていた古代ヒッタイト時代(前1650年頃)の貼付文装飾付き壺には牛車の図が断片的に残っている。牛車の車輪はスポークではなく、隙間のある板を5枚並べて、中央の板に四角い軸が出ている。これでは車輪は度々壊れただろう。


いつ頃車輪はスポークになったのか。以前イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬という記事にしたので、それを元に辿っていくと、

馬車模型 前3千年紀前半 青銅製 イラク、テル・アグラブ出土 バグダード、イラク博物館蔵
四頭立ての二輪で、車輪はスポークではない。おそらく板でつくられたものだろうがなぜギザギザなのだろう。滑り止め?


ウルのスタンダードより戦車図 ウル第1王朝時代(前2500年頃) 
イラク、ウル王墓出土 大英博蔵
四頭立ての四輪で、後方に乗っている。車輪は2枚の板を継いで作っている。
ウルのスタンダードより戦車図 世界美術大全集東洋編16 西アジアより 


青銅製の車輪の箍 前3-2千年紀 トルクメニスタン、マルグシュ遺跡第3900号墓出土 
当時他の地域では見られなかったという。
 
車輪と青銅製車輪の箍(復元展示) トルクメニスタン、マリ博物館蔵
やはり木の板を継いで車輪にして、その外側を青銅の箍で補強している。車軸受も青銅製だったのだろう。


戦車について『古代オリエント事典』は、前2000年頃に輻が発明され軽量で大径の車輪ができ、またおそらく車体が幅広となったと考えられるという。前2千年紀前半に馬牽引(衡は部品を追加して牛に適した形から馬向きに改良され、金属製衡を使用、一部ラバ・ケッティも使用)が始まり、輻式二輪で戦闘狩猟用として特化した馬車が古代戦車として完成した形である。
戦車以前から車輌には社会的地位を示す機能があった。戦車の発明・伝播・使用法については不明な点が多く、再検討することが必要という。
輻は「や」とふりがながふってあるが、「ふく」とも読み、スポークのこと。


墓標 前16世紀 ギリシア、ミケーネの円形墓域A出土 アテネ国立考古学博物館蔵
二輪の戦車に乗る人物が敵を長槍で襲っている。戦車の車輪には4本のスポークがあるが、人が斜めになっていてとても不安定に見える。


青銅製箍のある車輪(復元展示) 前2千年紀 チョガ・ザンビル出土 テヘラン、イラン国立考古博物館蔵  
箍だけでなく、軸受の表面に青銅製の補強板を付けた12本のスポークのある車輪だった。
この大きさから、戦車ではなく、かなりたくさんの荷物や人を遠くへ運ぶための荷車、つまり遊牧民に欠かせない乗り物の車輪だったのでは。


コブ牛の足が車輪になったリュトン 前1千年紀前半 土器 カスピ海南部のギーラーン地方で制作 イラン考古学博物館蔵
車輪のスポークは4本。


では、スポークのある車輪はいつ頃できたのだろう。
『古代オリエント事典』は、車輪をもつ荷車がメソポタミアから急速に各地に伝播していったことが、前3千年紀初期の東ヨーロッパのテラコッタ製模型や荷車状容器などから明らかである。
エジプトでは物資を運搬する荷車の本格的利用は、新王国時代以降のことでありヒクソスによってもたらされたとされる。第18王朝の初期に導入された2頭立ての馬が牽引する2輪のチャリオットとよばれる軽量の馬車(戦車)は、瞬く間に普及し、エジプトの軍事遠征でも盛んに利用された。チャリオットの車輪は、軽量化を図るために4本または6本のスポークをもつ構造となり、2頭の馬をつなぐための長い棒が車軸に取り付けられたという。

エジプトの戦車 前13世紀 ラメセウム(ラメセス二世葬祭殿)の浮彫
6本のスポークの車輪二つの戦車にはラメセス二世の姿しか見えない。
エジプト、ラメセウム浮彫カデシュの戦闘図 図説古代エジプト2 王家の谷と神々の遺産編より

ヒッタイト帝国の戦車はどんなだったのだろうかと後日見学したアンカラのアナトリア文明博物館の写真を探してみたが、なんと新ヒッタイト帝国滅亡後のものだった。

オルトスタット アスランテペ出土 新ヒッタイト帝国滅亡後から後期ヒッタイト時代(前1200-700年) 石灰岩 アンカラ、アナトリア文明博物館蔵
説明パネルは、酒を捧げ、犠牲を捧げる場面。上部に神の象徴を持つ神が戦車に乗り、手にはブーメラン、腰には剣を持っている。同じ神が中央で稲妻の束を持っている。右側では、王が神に酒を捧げている。上部の碑文には「偉大にして強大なるスルメリ王」と記されているという。


行列道路に連続するオルトスタット 後期ヒッタイト(前900-700) 石灰岩 カルケミシュ出土 アンカラ、アナトリア文明博物館蔵
同じ戦車図が4枚連続しているが、馭者と射手の二人乗りの籠は円文の大きさと数がそれぞれ異なり、馬の下の敵兵は仰向けになったりうつ伏せになったりと、描写に変化が見られる。

一つを拡大すると、車輪には同心円状の線が細く表されている。


狩猟用馬車図 後期ヒッタイト(前900-700) 石灰岩 カルケミシュ出土 アンカラ、アナトリア文明博物館蔵
説明パネルは、2名の人物が乗り、一人は馬車を操縦し、もう一人は矢を放っている。どちらの人物像も、頭蓋骨の形をした頭飾りをかぶっている。矢を放つ人物の腰についた短剣が目を引く。馬の脚の間には、頭にエグレット(馬の頭飾り)をつけた動物が描かれているという。
6本のスポークが太く、描写も古拙なので古いものかと思ったが、やはり後期ヒッタイト時代のものだった。


後期ヒッタイトについて『アナトリア文明博物館図録』は、ヒッタイト帝国は前1200年頃、いわゆる海の民の侵入によって滅亡し、生き残った人々はタウロス山脈の南や南東部に逃げた。彼らが新ヒッタイトと呼ばれる。このでき事の後、彼らは中央集権的な国家を建設する事はもはやできなかった。アッシリアからたびたび攻撃され前700年、ついに完全に歴史から消え去ったがヒッタイトの伝統は最後まで守られていたという。
この時代、アッシリアから攻撃されながらもアッシリアの影響を受けた浮彫がつくられたのだった。

国王のライオン狩り アッシュールナツィルパル2世期(前875-860年頃) ニムルド北西宮殿西翼出土 縦98.0横139.5厚23.0㎝ 大英博物館蔵
同展図録は、アッシリア美術においては、勝者の戦車を引く馬の下に、倒れた敵ないしは犠牲者を描くのは常套手段である。この画面に描かれたライオンは身体に3本の矢を受けている。この画面は完結した構図ではなく、画面の右手には、別のライオンが描かれていたと推測されるという。
大英博物館蔵 ニムルド北西宮殿西翼出土浮彫 国王のライオン狩り 大英博物館 アッシリア大文明展-芸術と帝国-図録より 


後期ヒッタイトの浮彫はアッシリアのものには遠く及ばなかったが、アッシリアにしても、もっと古い時代の浮彫がないのでどんな車輪を使っていたか分からない。




関連記事

参考文献
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編集 2004年 岩波書店
「大英博物館 アッシリア大文明展-芸術と帝国-図録」 1996年 朝日新聞社