お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
ラベル 木槨墓 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 木槨墓 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010/03/02

楯築弥生墳丘墓2 木棺木槨墓に大量の朱 

 
『シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓』は、墓壙の長軸方向に沿った形で円礫が集中している場所があった。円礫の厚さは60㎝から1mにも達した。調査ではこれを円礫堆とよんだ。
この円礫堆は、もともとは主体部が埋め戻された後、その真上に円礫が高く盛られたもので、木棺等の腐朽にともなって次第に中に落ち込んで埋められたような状態となったものであった
という。
1・2・5の立石は墓室を囲んでいるが、3・4は囲む石ではない。それとも、築造当時は1・2・5からなる円弧、3・4からなる円弧上にもっと石が立てられて、二重の列柱になっていたのかも。 墓壙はやや歪んだ楕円形をしており、主軸を北方向からやや西に振っている。その規模は、南北約9m、東西5.5-6.25m、深さは約2.1mもあり、弥生墳丘墓としては破格の大きさであるという。
図からは古墳時代以前は南北方向ではないと解釈していたが、ほぼ南北方向とみられているようだ。 同書は、朱は棺床全面に敷かれていたのだ。朱の総重量は、計測によると32㎏以上に達するといわれている。朱は弥生時代にも埋葬施設で一般的に用いられるものであるが、少量を頭部や胸部などに薄くばら撒き、せいぜい赤い色が見えるという程度であることを考えると、楯築弥生墳丘墓で用いられている朱は途方もなく膨大な量であったことがわかる。
楯築弥生墳丘墓の朱はかなりよく精製された良質の水銀朱だけが使用されており、朱の産地は現在までは特定できていない。しかし、これだけの膨大な量の、しかも良質な朱を供給できる産地については、中国や朝鮮などからの搬入の可能性も含めて考える必要があるだろう
という。
精製された水銀朱が当時の日本になかったとしたら、大陸との接触で入手したのだろう。
楯築弥生墳丘墓は弥生時代後期ということだが、同書には年代が一切明記されていない。ウィキペディアでは2世紀後半-3世紀前半としている。
当時、吉備には破格の大きさの墓を築くことができ、しかも海外から大量の水銀朱を取り寄せられるような、強大な力を持った統治者がいたのだろう。
埋葬にともなって朱が用いられるという理由については、いろいろな解釈がなされている。たとえば、朱は血の色に通じ、生命の復活を願うためとする考えや、より実用的に水銀の殺菌力を利用して遺体の防腐作用を期待したというもの、あるいは神仙思想にもとづくという考え方などがある。
古代の人びとが朱の赤色に対して呪術的な特別の意味合いを感じていたことは確かであり、楯築弥生墳丘墓に葬られた首長の葬送儀礼に際して、あえて大量に使用したということに重要な意味合いが含まれている
という。
その朱について、ここでも神仙思想が出てきた。呪術的な意味合いということでよいのでは。  棺底に敷かれた朱の存在を手がかりにして、木棺部分については比較的容易に検出することができた。それによると、木棺は箱形と考えられ、内法の長さ197㎝、幅が南側で72㎝、北側で59㎝であった。
外側に残したいくつかの土層断面に何とも不可解な変化がみられたのである。そこには薄い粘土の層が複雑に向きを変えて交じり合い、重なり合っていた。木棺の外側にそれを包み込むような木槨が存在していたということであった。
残された痕跡をたどっていくと、木槨の平面形はやや歪んだ長方形となり、内法の長さは、中央付近で約3.53m、幅は約1.45mとなる。高さは、約88㎝と推定された
という。
こういった構造は積石木槨墳といってよいのではないのだろうか。規模は小さいが、慶州の天馬塚(6世紀初頭)の構造によく似ている。異なる点は、平地ではなく丘陵に造られてること、地表面ではなく墓壙をかなり深く掘り込んでいること、積石の上には大量に土を被せてはいないこと、である。 楯築遺跡だけでなく、有年原・田中遺跡でも木棺に埋葬されていた。弥生時代後期には板が使用されていたようだ。古墳時代初期のホケノ山古墳でも木棺だった。
ところが、桜井茶臼山古墳と下池山古墳はコウヤマキ、黒塚古墳はクワと、大木を刳り貫いた割竹型木棺になった。板にする技術がないので木を刳り貫いたのかと思っていたが、逆だった。
大量の朱や青銅鏡だけでなく、大木をできるだけ元の形で使うのが新たな権力を誇る手段となったのだろうか。

※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓」(福本明 2007年 新泉社)

2010/01/29

ホケノ山古墳2 石積木槨墳の天井はどっち?

 
ホケノ山古墳は纏向型前方後円墳だ。『有年原・田中遺跡公園の冊子』は、2世紀の有年原1号墳丘墓は、ホタテ貝形で、弥生時代の墳丘墓の突出部が祭祀の場として発達したのが前方後円墳という。纏向型は弥生時代の墳丘墓の発展した形なので、前方部が短く、バチ形に開いている。そのまま前方部をのばして後円部との比率が1:1になったのが箸墓古墳だったと記憶している。

しかしながら『シリーズ遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳』で清水氏は、3世紀前後の中国(漢王朝末期から三国・西晋王朝時代にかけて)では、神仙思想が流行する。
中国大陸は西が高く東が低いという地形から、西の最高峰崑崙山には西王母と呼ばれる仙人が、東の海の果てにある蓬莱山には東王父が住んで、その周りに仙人の楽園があるとの考え方があった。
中国の沂南画像石墓に描かれた仙人たちの絵では、西王母や東王父は大きな壺の上に座っている。つまり、崑崙山や蓬莱山は壺の形をした山(もしくは島)であるとの考えである。その考えを知った倭の大王やその身内の者たちは、自分たちの奥津城(おくつき、墓所)に壺の形の墳形を採用するのである。それがバチ形に開く前方後円墳の形になったものだ。そして、最初にとり入れられたのが纏向古墳群の西支群であったと見られる
という。
壺の形とは思いも寄らなかった。清水氏が「西王母の坐る壺」としてあげている例は、沂南画像石墓入口(後漢後期、2-3世紀、山東省)の右下に見られます。
この時期の壺は底部が多少なりとも尖っているけど、後円部が尖っているというのは見たことがないなあ。
纏向型前方後円墳が、弥生時代の墳墓の発展した形ではなく、中国の神仙思想からきた形だったとは。そういえば、当時の信仰がどんなものだったか、考えたことがなかった。 清水氏は、南北に長い石積槨は、全長約10m、幅約6m、高さは現状では1.5mを測り、天井にはいわゆる「天井石」がなかった。石槨内にはおびただしい河原石が充満しており、床面には6個の柱穴があったことから、天井部には丸太か太い板材でもって「蓋」をつくって、その上に大量の小型の河原石をのせたものと考えられるという。
墓壙は深さは半分程度だが、桜井茶臼山古墳に匹敵する規模だ。墳頂部に輪郭だけでも表してあれば、大きさが把握できたのに。

桜井茶臼山古墳は板状の石を面のように積み重ねたものだったが、ホケノ山古墳は河原石を積み重ねた石積槨だ。これはホケノ山古墳が桜井茶臼山古墳よりも古いからだろうか。
葺石や石槨に河原石を使ったホケノ山古墳よりも、それらを使わない石塚古墳の方が一段階古いかと推定されるというので、纏向石塚古墳と桜井茶臼山古墳の間に、ホケノ山古墳が築造されたのだろうか。石塚古墳についてはこちら

ホケノ山古墳は何時造られた古墳だったのか。
清水氏は、箸墓古墳の被葬者について、3世紀後半期に確立した大和政権の初代大王の墓であろうとし、出土土器より、箸墓古墳より、ホケノ山古墳は一段階古い古墳とすることから、ホケノ山古墳は3世紀半ば頃とみているようだ。石野氏も3世紀半ばという。

墓室内に石が充満しているというのは、慶州の積石木槨墳と構造が似ているが、5-6世紀とホケノ山古墳よりも後の時代のものだ。南シベリア(アルタイ地方)のパジリク5号墳は前405年と、年代も距離もかけ離れている。  発掘写真ではよくわからないが、細い4本の柱が木棺と木槨の間にあり、6本の割柱が木槨を内側から支えているように見える。そして短辺の中央に太い柱がそれぞれある。この12本の柱はどのような役目があったのだろう。 清水氏は、石積みのなかに柱を立てて、板を並べた木槨がつくられ、そのなかに割竹形木棺が安置され、いずれも真っ赤な朱が塗られていたという(出土した壺と同じ形の土器を並べている)。
模型図を見ると、木棺の周りの4本の柱は、木棺を固定するために立てられているようだ。 ところが、『遺跡を学ぶ051邪馬台国の候補地・纏向遺跡』で石野氏は、その構造は幅2.7m、長さ7mという規模の大きい板囲いがあり、そのなかに組合式のU字底木棺を納めていたようだ。そして、板囲いのなかには、板囲いをおさえるための6本の柱とは別に、4本柱と、棟持柱ふうの長軸上の2本の柱穴が検出された。まさに埋葬施設をおおうような、切妻造りの建物が墳丘のなかに設けられていたのであるという。
切妻屋根とはゴルディオンのミダス王の墓室(前8世紀後半)みたいやなあ。規模はだいぶ違うけど。 ところで清水氏は、ホケノ山古墳は、天照大神をつれて元伊勢をめぐった豊鍬入姫命の御陵とされ、地元での信仰の対象とされたため、大きな盗掘をまぬかれた前方後円墳であるという。それなら副葬品もそのまま残っていたのだろうか。

天井から落ちこんだ河原石がぶつかったためにこまかく割れていたが、直径19.1㎝の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国製の鏡が中央部で見つかった。このほか内行花文鏡のかけらが数片出てきた。
漢王朝(紀元前2世紀-2世紀)の時代には、内行花文鏡や方格規矩鏡など文様に機械的な幾何学文を描いたものが好まれるが、漢帝国末期(2世紀)には神仙思想の流行により神仙そのものをモチーフとした鏡が好まれるようになり、仙人とその守護者である動物を描いた神獣鏡が大流行するのである。その一つが画文帯神獣鏡である。
葬られた権力者は、生前に大切にしていた愛用品の鏡を持って、仙人として蓬萊郷(死者の楽園)へ入ったことであろう
という。
私は古墳から銅鏡が出土するのは、舶来の貴重な品を副葬するほどの権力者だったということと、キラキラ光る鏡が魔除けになったのだろうということくらいしか考えたことがなかった。
品物だけでなく、思想まで入っていたのだ。 清水氏は、もちろん仙人の好むとされる赤色の塊・水銀朱を、棺に入れたり棺内を真っ赤に塗ったりもしている。
初期大和の前方後円墳の被葬者は、大陸文化の影響を十二分に受け取ることのできた人物たちであったことは言うまでもない
という。
水銀朱などの赤い色も、魔除けではなく大陸の神仙思想だったとは。

※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ035 最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)
「シリーズ遺跡を学ぶ051 邪馬台国の候補地・纏向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社)

2009/09/11

生命の樹か鹿の角か

 
ティリヤ・テペ6号墳出土の金冠(前1世紀-後1世紀)は、外観が新羅の出字形立飾りのついた金冠(5-6世紀)よりも藤ノ木古墳(6世紀後半)出土の金銅冠に似ているが、他にも類似点がある。それは「剣菱形飾り」が樹木の先についていることだ。
その剣菱形飾りがパジリク出土の壁掛けにもあった。

王権神授を表した壁掛け スキタイ・シベリア パジリク5号墳出土 フェルト 全体450-650㎝ 前5世紀末-4世紀初 エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、5号墳の墓坑は広さが6.65X8.25mで、その中に丸太を組み合わせた3.4X6.4mの外側の木槨と、2.3X5.2mの内側の木槨があった。この壁掛けは、墓坑と外側の木槨とのあいだの空間に、9頭の馬の遺骸や四輪車、絨毯などとともに、丸めておかれていた。
手には枝が曲がりくねった木を持っている。木には開いた花、石榴のような実、先の尖った葉がついている。このような木は西アジアの古代美術にも登場し、そこでは「生命樹」とか「聖樹」「宇宙樹」などと呼ばれ、王権、支配権の象徴と考えられている
という。
女神の持つ枝の先端に幾つかつけられた「先の尖った葉」が剣菱形飾りによく似ている。
女神の前にいる騎士はこちら「生命の樹」は、木の枝というよりも、アルジャン出土の鹿の角に似ている。鹿の角に葉や蕾、花をつけたようにも見えるなあ。

鹿形帽子飾 前7世紀末 金製 高6.8㎝ トゥバ、アルジャン2号墳出土 エルミタージュ美術館蔵
『スキタイと匈奴』は、爪先立った鹿は初期スキタイ時代のモチーフであるという。
鹿の角の枝が1本1本大きく曲がっているのことも特徴的だ。 その曲がった枝角が、パジリクの絨毯では、女神の持つ曲がりくねった枝になっていったのではないだろうか。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、表現されている動物のなかでもっとも多いのは鹿である。鹿の特徴はなんといってもその立派な角にある。角は古代社会ではしばしば豊饒や再生のシンボルとみなされていた。スキタイの鹿もそれらの願いの象徴だったのであろうかという。
パジリク出土の壁掛けで、女神が持っているのが木の枝ではなく鹿の角だとすると、どこかであるいはパジリクで角が鹿の体から独立したことになる。そしてどのような経路でか分からないが、やがて新羅の金冠に立飾りとして鹿の角が出現することとなったのでは。
その中継点にあるのが蒙古自治区出土の鹿角馬頭形歩揺飾(3-5世紀)とか。
そして、独立した鹿角に、「出」「山」字形樹木の系統が組み合わされていったのが新羅の金冠かも。

パジリク、アルジャンの位置はこちら
ティリヤ・テペ、新羅、藤ノ木各古墳出土の金冠、蒙古自治区出土鹿角馬頭形歩揺飾については、歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?剣菱形飾りは新羅?-藤ノ木古墳の全貌展より慶州天馬塚の金冠慶州天馬塚で出土した金製附属具は内帽の揺帯?



関連項目

生命の樹を遡る

※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴遊牧の文明」(林俊雄 2007年 講談社)

2009/09/08

金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?

 
慶州の市街地には、新羅時代の巨大積石木槨墳(5世紀中頃-6世紀前半)がポコポコあって、その内の5つの古墳から金冠が出土している。製作時期の早い順に、皇南大塚北墳金冠塚瑞鳳塚天馬塚そして、下の不鮮明な写真の金鈴塚出土の金冠である。積石木槨墳はどこで成立して慶州にどのように入ってきたのか、調べてみたがわからなかった。その経緯はこちら

金冠は、「出」字形あるいは「山」字形と呼ばれる樹木を表したものや鹿の角などが立飾りになっていて、そのあちこちに小さな円形の歩揺や翡翠の勾玉がついているという、かなり特異なものである。この金冠はどこのどのようなものに起源を求めることができるだろうか?

金製ディアデム ホフラチ古墳出土 後1世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、ドン川下流右岸の町ノヴォチェルカッスクで偶然に発見された。サルマタイ貴族の女性の副葬品に由来する。
ディアデム上部には、樹木とその左右に鹿、山羊、鳥が配置されている。鹿と山羊の鼻面の先端には小環が作られており、元来何らかのものが吊り下がっていた。また、樹木の葉は歩揺のように小環で取り付けられていた。
ディアデム上部の樹木と鹿・山羊・鳥からなるユニークな情景はサルマタイの神話的世界の一端を表現していると思われる
という。
鹿も樹木も自然な表現で、歩揺が木の葉形である。
新羅の金冠のような出字形の樹木や鹿の角だけという立飾りとは似てもにつかない。とはいえ、鹿と樹木という組み合わせが新羅以外の場所で存在するのは確かである。 野山羊と聖樹 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリャ・テペ4号墓出土 前1~後1世紀 高5.2㎝ カーブル博物館蔵  
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、王とおぼしき被葬者の頭蓋骨の横で、中空の見事な角をもった野山羊(アルガリ)の像が発見された。蹄の先につけられた4個の小環は、この小像の下にさらに構造物があって、それに固定するために使用されたものであろう。角のあいだにも中空の管がつけられており、その管に別の何かが差し込まれ、継がれていたと考えられる。被葬者頭部で発見された円板の葉をつける黄金の樹木(高9.0㎝16.46g)がそれであるという。
野山羊の頭部にのっていたにしては樹木が大きすぎるのでは。こちらは歩揺が円形になっている。
ホフラチ古墳出土のディアデムには左側にも樹木があり、鹿ではなく大きな角を持つ山羊があったが、ティリヤ・テペ出土の山羊とよく似ている。ティリヤ・テペはどのような民族の墓だったのだろう?
『アフガニスタン遺跡と秘宝』で樋口隆康氏は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られるというが、『騎馬遊牧民の黄金文化』で田辺勝美氏は、この墓地に埋葬された人たちがどのような民族であったかという点については、大月氏とかクシャン族、サカ族とかさまざまな見解が提示されたが、筆者はユスティヌスやストラボンなどのギリシア人著作家がグレコ・バクトリア王国を滅ぼした民族の一つに挙げているサカラウリないしサカラウカエではないかと思うという。どちらにしてもイラン系騎馬遊牧民のようだ。
樋口隆康氏は、シバルガンの北5㎞の地に、このテペがあり、古い神殿遺構のテペの上面に堀込まれた6基の墓から約2万点の黄金製品を発見した。墓は何れも小型の小型の土坑墓で、遺体は木棺の中に盛装されて、納められていたという。
慶州の古墳群とは反対に、見つからないような墓に埋葬されていたらしい。

このような円板の葉をつけた樹木は、遼寧省房身2合墓出土の金製歩揺付冠飾に見られ、ホフラチ古墳出土の写実的な木の葉形歩揺ほどではないが、木の葉状の歩揺は遼寧省憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠・内蒙古出土(1~3世紀)の牛首金歩揺冠・内蒙古自治区出土(3-5世紀)の鹿角馬頭形歩揺飾にも見られる。 帽子の飾り イシック・クルガン出土 前4世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬民族の黄金文化』は、冠は、さきの尖った帽子を黄金で装飾し、正面にグリフォンや馬を配置して、側面に山岳に樹木の上にとまる鳥などを取り付けたものであった。この墓の被葬者は「黄金人間」と呼ばれ、足の先から冠まで黄金をまとっていて、スキタイ系民族の1つであるサカ族の一部族長とされている。
南側の埋葬施設は墳丘下に丸太で造られたログハウスのような墓室があった。墓室の大きさは内法2.9X1.5mの細長い長方形。身長はおおよそ165㎝で、形質人類学者のイスマギロフ氏によると年齢は16~18歳、ユーロペオイドとモンゴロイドの特徴が混合しているらしい。
ユーラシアの草原地帯の人々は一日の寒暖の差が激しく防寒の必要もあり、また馬に乗り行動するところから、三角形の帽子を着用していた。その帽子に黄金の装飾をつけたものや帽子の上に立飾りのついた冠帯をかぶることが彼らの冠であった。
このような冠は黒海沿岸から朝鮮半島までいくつか出土している
という。
墳丘に竪穴を掘って木槨を築いたのだろうか。
一見なんの共通点もないような尖った冠帽だが、よく見ると左耳上方に針金の樹木が見える。 鹿はいないが、「出」や「山」の字に繋がる形をした樹木の表現だ。
クーバンにあるウスチラビンスカヤ46号墓もサルマタイ族の墳墓で、出土した冠は直線的な樹木の2本の枝先と頂上に鳥、基部に角の大きな山羊、樹木の左右に山羊を対置したもので、樹木の造形が新羅の「出」字形の冠と似ているという。
クーバンのサルマタイ墳墓出土の冠が気になる。どんな形なのか見てみたいなあ。  ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠について『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、第6号墓のシャーマンのような女性の墓室から出土したもので、6本の樹木からなっている。6本の樹木はそれぞれ歩揺や花弁で飾られていて、中央部をのぞく5本の木には富や王権のシンボルである鷲が左右についていたという。
山羊も鹿も登場しないこと、そして、樹木が「出」や「山」の字形ではなく左右対称に金板を切り取ったような形で、どちらかというと、新羅の金冠よりも時代が下がる藤ノ木古墳出土の金銅冠の方が似ている。

元は同じ樹木だったとしても、ティリヤ・テペから藤ノ木古墳へと伝わった樹木形立飾りの系統と、イシック古墳から慶州へと伝わった「出」「山」字形立飾りの系統という、2つの流れがあるのでは。
どのような経路で、それぞれ新羅や日本に伝播したのだろう。

イシック・クルガンの位置はこちら
積石木槨墳についてはこちら

※参考文献
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」(林俊雄 2007年 講談社)
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」(1993年 京都文化博物館)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 財団法人島根県並河萬里写真財団)
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 古代オリエント博物館)
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館) 

2009/07/24

アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世の墓は

 
『古代王権の誕生Ⅲ』は、ハルシュタット文化後期とほぼ同じ時代、ヨーロッパからアナトリアにかけて各地に古墳が盛んに造られた。イタリア半島中北部のエトルリアではさまざまな形式の墓が造られ、その中に円墳もあるが、あまり大きいものはなく、内部の墓室はギリシア風の切石造りの横穴式である。バルカンのトラキアでも前5-3世紀に同じくギリシア風の墓室を持つ円墳が造営されている。トラキアのすぐ南に位置するマケドニアでも円墳が造られた。特に大きくて有名なのは、アレクサンドロス大王の父であるフィリッポス2世の墓といわれているヴェルイーナの大古墳であるという。
マケドニアにも大円墳が築造されていたのだ。
『ギリシア遺跡事典』は、アンズロニコスが発掘した大墳丘は、直径110mの巨大な塚とそれよりも古い内側の直径20mの赤土製の塚の二重構造になっており、その内側の塚の下から、小さな石櫃式墳墓(第1墳墓)とマケドニア式墳墓(第2墳墓)、翌1978年にはさらにもう1基のマケドニア式墳墓(第3墳墓)が発見された。塚の外周に近い第1墳墓は、完全に盗掘されていたが、第2・第3墳墓は幸いにも未盗掘で、王家にふさわしい豪華な副葬品と見事な壁画が出土したのであるという。
複雑な墳丘だ。外側の直径は、南シベリアのアルジャン古墳1号墳(前822-791年)に匹敵するが、内側よりも後の時代に築かれたらしい。後の人が盗掘をおそれて大きな墳丘にしたのだろうか。  『ギリシア遺跡事典』は、古代マケドニアの王族や貴族の墓であるマケドニア式墳墓は、迫石(せりいし)によるカマボコ型天井の墓室を特徴とし、神殿建築を模したファサードを持つ独特の建造物である。
第2墳墓は、主室(4.46mX4.46m、高さ5.3m)と前室(4.46mX3.36m)の2室構造の典型的なマケドニア式墳墓である
という。
ギリシアの神殿の形はわかるが、墳墓がどのようなものだったのか全く見当がつかないので、マケドニアの墳墓がギリシア風なのかどうかわからない。マケドニア式は、木槨墓ではなく石造であるらしい。 『ギリシア遺跡事典』は、ドーリス式の神殿を模したファサード上部の大フリーズには、狩猟の場面を描いた見事なフレスコ画(縦1.16mX横5.56m)  ・・略・・  は、林のなかで10人の男たちがライオンや鹿の狩猟に興じる場面を描いたものという。
フレスコ画はたくさんの人が何かしているらしいくらいにはわかる。壁画のある墳墓はいままでの円墳にはなかった。 『ギリシア遺跡事典』は、主室と前室からは、黄金製の骨箱(ラルナクス)を納めた大理石製の石棺、黄金の王冠、金銀の装飾品や容器類、青銅製の数々の武具など、目をみはる豊かな副葬品が手つかずで出土した。
主室と前室それぞれの黄金製の骨箱のなかに納められていた火葬された人骨の分析から、主室には40-50代の男性、前室には23-27歳の女性が葬られていることが判明した
という。
大墳墓が火葬墓だったのは他の地域では類のないことではないだろうか。ギリシアでも火葬が行われていたが、骨は壺に納めていた。  骨箱について『世界古代文明誌』 は、このフィリッポス2世の火葬された遺骨を納めた黄金の棺は、わずか33㎝X41㎝の大きさしかなかったが、重さ10㎏もあった。上蓋の星文様はマケドニア王家の象徴であったという。 
紋章は太陽を表しているのだろうが、中央は銀製なのか、黒っぽい花弁とその下に金色の花弁がある。胴部上段には交互のパルメット文なのかなあというような帯文様がある。ありそうだがギリシアの陶器にも建物のフリーズにも見つけられなかった。
中段は銀製の花弁文様が5つ、左右の薄板の枠には縦に花弁文様が4縦に並び、その下は獣足がついている。平面的なものから猛獣の足が出ていて妙だ。
下段は中央のアカンサスから左右対称に唐草文様がのびている。 現在では、フィリッポス2世の墓かどうか疑問視されているらしい。『世界歴史の旅』は、被葬者の問題をめぐっては延々と議論が続いているが、ヴェルギナの墳墓が前4世紀後半のマケドニア王の墓であることは確かであり、これまでエデサと考えられてきたマケドニアの古都アイガイの場所が、ヴェルギナにほぼ確定されたという。

ユーラシアには各地に巨大な円墳や、積石塚や、木槨墓が作られたが、互いに影響があるとは限らないことがわかった。新羅の積石木槨墳も新羅という土地で独自に生まれたのかも。

※参考文献
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」(角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店)
「古代ギリシア遺跡事典」(周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版)
「ギリシャを巡る」(萩野矢慶記 2004年 中央公論社)
「世界歴史の旅 ギリシア」(周藤芳幸編 2003年 山川出版社)
「世界美術大全集2ギリシアクラシックとヘレニズム」(1995年 小学館)
「世界古代文明誌」(ジョン・ヘイウッド 1998年 原書房) 

2009/07/21

ホッホドルフにケルトの大墳墓


ケルトの地にも木槨墓があった。
 
『古代王権の誕生Ⅲ』は、鉄器時代になると、ドイツの南部にハルシュタット文化後期のホッホドルフ古墳がある(前6世紀)。ハルシュタット文化後期の遺跡を残したのはケルト人と考えられているが、彼らの古墳はまず地表に木材を組み合わせて掘っ立小屋状の木槨墓室を造り、その上に土を盛り上げ、葺石で覆い、墳丘の裾を列石で囲み、墳丘の上に石人を立てるなど、スキタイ初期の古墳と構造が非常によく似ているという。
下図では、積石塚のように、石ばかりで墳丘をつくっているように見えてしまう。木槨墓室から推測するとスキタイ初期の古墳ほど直径は大きくないようだ。新羅の積石木槨墳よりも小さいかも。『ケルト人』は、ホッホドルフの墓は1978年まで無傷で保存されていたため、発掘時にさまざまな観察を行うことができた。
樫の丸太でつくられた墓室は一辺4.7m、床や壁には布が釘で打ち付けられ、衣の布はフィブラで留めてあった
という。
墓室内を布で装飾するというのは今まで見てきた古墳にはなかったように思う。この図では天井がかなり低いように見える。収めたものの高さがあればよしとされたのだろうか。 40歳代の王は、当時としては長身で1.87mある。BC540年から520年のあいだに、その地位にふさわしい豪華な奉納物とともに埋葬された彼は、珍しく戦車ではなく、脚輪のついた青銅製の長椅子に横たわっていた。
この長椅子の場合、戦闘場面や戦車に乗った英雄の行進などが、青銅板に打ち出し細工で表されている
という。
この写真では墓室はある程度の高さがありそうだが、ミダス王の木槨墓ほどには高くなさそうだ。 ケルト人がこのような石積の木槨墳を作るようになったのは、どこからの影響だろう。
『ケルト人』は、ケルト人が青銅器時代すでにヨーロッパに定着していた民族の末裔であることは、定説として認められている。BC13、12世紀、青銅器時代末期の墓には、その後のケルト王族の盛大な埋葬儀礼の先駆けとなるものがある。
バーデン=ヴュルテンベルク州キルフベルクの墳丘は、第一鉄器時代(BC8世紀半ば~6世紀末)のもので、頂上に砂岩製の彫刻が立つ
という。どうもケルト人は自分たちの歴史の流れの中で、慶州の積石木槨墳とよく似た墳墓を築くようになったらしい。

※参考文献
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」(角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店)
「知の再発見双書35ケルト人」(クリスチアーヌ・エリュエール 1994年 創元社)
「図説ケルトの歴史」(鶴岡真弓・松村一男 1999年 河出書房新社) 

2009/07/17

アナトリアにはミダス王の木槨墓

 
『スキタイと匈奴』は、木槨と木棺というような構造は世界的にも広く見られるという。木槨墓が広く見られるものなら、トルコの首都アンカラの文明博物館にあったミダス王の墓室もかも。

ミダス王の墓室 木槨墓 内室は6.2X5.15m 前8世紀後半 ゴルディオン
『アナトリア文明博物館図録』は、ドアはないが三角形の破風がついている。内室の隅から見つかった遺骨は身長1.59mで60才以上と見られるがこの歴史学上貴重な墓はミダス王のものと思われているという。
同博物館で見学した時は積石塚も木槨墳についての知識も全くない頃だったので、墓室の天井が高いのは、生活していた部屋を再現したためだろうくらいにしか思わなかった。
奧にある木製の舟のようなものが棺だという説明があったと思う。 『世界美術大全集』は、フリュギアの墳墓は、太い木材を組み合わせて切妻型の墓室を作り、それをまた木材を組んだ部屋と切石による囲みが覆い、さらにあいだに砕石を充填するという手の込んだものであった。そのおかげもあって墓室に納められた副葬品の保存状態はひじょうによく、家具などの木製品も当時の状況そのままに出土したという。
構造としては、木槨木棺墓を石槨が取り囲むという形らしい。しかもその間に砕石を詰めるというのは、今までの木槨墓にはなかったのではないか。 『世界美術大全集』は、フリュギアに見られるもう一つの特徴は、モニュメンタルな摩崖遺構の存在である。岩壁に神像や王像が直接彫り込まれたヒッタイト時代のものとは異なり、フリュギアの場合は建物のファサード(正面)を彫り込み、その一部に神像を安置するための壁龕(ニッチ)が穿たれる。こうした例はヤズルカヤ(通称ミダスシティー)など、首都ゴルディオン以西のエスキシェヒール地域周辺で確認されている。岩に彫り込まれた建物のファサードは、当時のフリュギア建築の特徴をよくしのばせてくれるものである。三角のペディメントや屋根の頂部に見られる棟飾りも明瞭に描かれ、基本的には切妻型のもので、ギリシア建築との関連の深さが考えられる。ファサード全面に幾何学文による装飾が施されている。さらにギリシア語風のアルファベットによる碑文も刻まれており、そこにはミダス(Midai)という文字も認められる。
フリュギアの美術においてそのモティーフの基本となっているのは、複雑にしかし整然と組み合わされた幾何学文様である
という。
この壁面の幾何学文様はいつの日にか間近で見てみたいものだ。迷路のように縦横に曲がったり交わったりしながら壁面いっぱいに広がる帯の間に、十字形と四角形がそれぞれの列が規則性を持って並んでいる。
私はこの壁面を写真で見て、この向こうにあの墓室があるのだと、ずーっと思っていた。しかし、王墓とは全然違う場所にあったのだ。 『世界美術大全集』は、フリュギアの首都であったゴルディオン(ヤッス・ホユック)には、市域の東方に大小さまざまな規模で80基以上の墳墓が認められ、首都の景観に独特のアクセントを加えている。
このように土を盛った墳墓、すなわち古墳を築くという伝統は、それまでのアナトリアには見ることができず、フリュギアによって新たに導入されたものである
という。
『古代王権Ⅲ』は、アンカラから南西へ80㎞ほどのところにその首都であったゴルディオンの遺跡があり、その近傍に古墳群が形成されている。最大のMM号墳は高さ53m、直径300m弱の威容を誇り、数々の逸話で有名なミダス王(在位前738-696年頃)の墓といわれている。この墓はまず地表に大きな角材と丸太を組み合わせて墓室となし、その上を石で覆い、さらにその上に盛り土をして造られているという。
これまで見てきた大古墳の中でも、群を抜く規模である。慶州で町中にある積石木槨墳の近くを歩いて回っても小さな山がポコポコあるように感じたくらいなので、ミダス王の墓は、現地で見ると山としか思えないだろうなあ。
尚、下の断面図に描かれているトンネルは発掘時に設けられたという。 『古代王権Ⅲ』は、リュディアとフリュギアの古墳については、北方草原地帯の遊牧民(スキタイなど)からの影響と見る考え方もある。確かにとりわけフリュギアの古墳の構造は前期スキタイ時代の古墳と類似する点が多いが、年代的にはほとんど同時かむしろフリュギアの方がやや古いくらいなので、簡単に認めるわけにはいかないという。
『世界美術大全集』は、歴史記述を総合すると、フリュギア人はその故地であったマケドニアやトラキアからアナトリアに移住してきたという。
このアナトリアの地に突然出現した巨大な墳墓は、いったいどこからきたのだろうか。
『世界歴史の旅トルコ』は、最近の研究ではミダスのものではないとする説もあるという。
誰の墓にしろ、王墓級で、しかも当時その国が繁栄していたのは確かだろう。

※参考文献
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴」(林俊雄 2007年 講談社)
「アナトリア文明博物館図録」(トルコ、アンカラの同博物館)
「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘 2000年 山川出版社)
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」(角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店)
「ゴルディオン 木製家具」(1992年 アナトリア文明博物館)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館) 

2009/07/10

積石塚は盗掘され易い


南シベリアのトゥヴァには巨大な積石塚の古墳がある。

アルジャン古墳1号墳 前822-791年 積石木槨墳 墳丘直径110m(造営当初) 
『スキタイと匈奴』は、側面は切り立っていたと思われる。古墳は盛り土がない純粋の積石塚で、扁平なホットケーキのような形をしていたらしい。積石の下にあった丸太は井桁に組まれて、中心から放射状にたくさんの仕切りを形成していた。中央の大きな木槨墓室=外槨(8X8m)の中には、さらに小さな木槨=内槨(4X4m)があり、その中に2つの木棺があった。木棺は丸太をくりぬいて作られていた。
馬は160頭にもなり、すべて銜(はみ)などの馬具を装着していた。
私は中国の天山山中でモンゴル人遊牧民が丸太を井桁に組み上げていくつかの仕切りを作り、冬営地の家畜小屋にしている例を見たことがある。アルジャン古墳のたくさんの丸太組みも、家畜小屋を模倣したものではないだろうか。
アルジャン古墳は、かなり早い時期に盗掘の憂き目に遭い、金銀製品はまったく発見されなかったが、青銅製品はかなり多種多様なものが残されていた。
装飾品の中で特筆すべきは、体を丸めた豹をかたどった飾板である。いわゆるスキタイ動物文様の中で最も古いタイプに属する。
2004年に発表された最新の測定法による分析でも、アルジャン古墳の年代は、95.4%の確率で前822-791年の範囲内であるという。スキタイのスキタイたる所以の動物文様は、東部の方が早いと言わざるを得ない
という。ところでアルジャン古墳群には、外見が1号墳とそっくりで規模はそれを一回り小さくしたような古墳がある。それがアルジャン2号墳である。

アルジャン2号墳 積石塚 直径80m、高さ2m 前619-608年
墳丘の外周をなす石囲いの下も含めて、墳丘下のあちこちに墓坑が発見された。中心に近い10号と隣の9号墓坑には、盗掘者が上から侵入したすり鉢型の穴があったが、報告者によるとそれは盗掘のせいではなく、始めからまったく何も入れられていなかったという。盗掘者をだます偽の墓ではないかという判断である。
その策が功を奏したためか、本当の墓は荒らされることなく、ほぼ完全な状態で発見された。この古墳の主人公もいうべき男女の遺骸は西北辺に近い5号墓にあった。旧地表面から深さ3mのところに木槨の天井が現れ、墓坑の大きさは5X4.5mで、その中に二重の木槨があり、内側の槨室は2.6X2.4mであった。
墓坑と外側の木槨との間に、鍑が2点発見された。
2006年にドイツ考古学研究所から、墓室に使われたカラマツの分析結果が発表され、ほぼ前619-608年の範囲内、すなわち前7世紀末であり、アルジャン1号墳より200年ほど新しい
という。
春秋秦の雍城出土の鍑(前677-383年)とどちらが古いか微妙やなあ。1号墳は青銅製品は残されていたが、鍑は出土しなかったらしい。『シルクロード絹と黄金の道展』は、鍑は紀元前9世紀から8世紀頃に作られ初め、初期騎馬遊牧民の時代にはユーラシア草原地帯のあらゆる場所で使われるようになったという。アルジャン1号墳の築かれた前9世紀後半-8世紀初頭に、果たして鍑があったのかどうかも微妙である。 ところで、アルジャン古墳群は積石木槨墳である。1号墳はかなり早い時期に盗掘されたという。それより200年ほど後に築かれた2号墳は、盗掘者をだます偽の墓を作ったり、主室を中心にはしないなど、盗掘されることを想定して築造されている。しかし、9・10号墓坑に侵入した形跡があるので、蟻地獄のように脱出しにくい構造とは裏腹に、積石塚というものは墓泥棒に荒らされ易い墳墓だったことがわかった。 
これらの積石塚と新羅の盗掘されにくい積石木槨墳との違いは何だろうか。それは封土層の厚さではないかと思う。深く掘ったら人頭大の石がごろごろと現れて、これは財宝の詰まった古墳ではなくただの山だと墓泥棒が思ったのかも知れない。
ひょっとすると、慶州は新羅、統一新羅とずっと都であり続けたので、警備が厳重で盗み掘りすることができなかった。そしてそのうちに古墳であることが忘れられて、小山だと思われるようになったのかも。

慶州の積石木槨墳の構造についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 島根県並河萬里写真財団)
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」(角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店)
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴」(林俊雄 2007年 講談社)
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」(2002年 NHK)  

2009/07/07

積石木槨墳と墓泥棒

 
『韓国の古代遺跡1』は、小規模な積石木槨墳は盗掘されやすいという。積石木槨墳と盗掘というと思い出すのはパジリク5号墳の断面図である。
発掘調査で、墓主以外に、時代の下がる人物の骨も出土したというのが記憶に焼き付いている。積石をかき分けて木槨まで達した墓泥棒が、積石が崩れて死亡していたことが判明したという。きっと、やっとの思いで上に上げた石が雪崩のように落ちてきて生き埋めになったのだろう。
ところが、それを再確認するために『騎馬遊牧民の黄金文化』を開いてみると、この何年か信じていたできごとが、この古墳ではなかったことが判明した。

パジリク5号墳 南シベリア(アルタイ地方) 前405年(マルサドロフの樹年輪年代測定法による) 地下墓壙木槨墳 現状高さ3.75m直径42m 墓壙深さ4m縦横6.65X8.25m  
墓が造られた直後にもうやられているという例も多い。アルタイ山中のパジリク古墳群(前5-4世紀)がまさにそうであった。古墳はいずれも墳丘の中央に漏斗状の凹みがある。墓泥棒が侵入したあとだ。墓泥棒は積石と盛り土、何層にも積み上げられた丸太、三重の木槨に穴をあけて墓室に侵入したという。
どこにも墓泥棒の骨の話は出てこなかったが、どうも積石の層が薄いように思う。これでは墓泥棒も木槨まで容易にたどり着けただろう。墳丘が巨大で墓室もかなり深そうであれば、真上から盗掘するよりも、墳丘の裾からトンネルを斜めに掘り、墓室に到達する方が容易である。しかしこの場合は落盤のおそれがある。黒海北岸でも最大級のチェルトムリク古墳(高さ約20m、深さ約12m)では、19世紀中頃の発掘のさいに盗掘坑の中から人間の遺体が発見され、その足元にはポントス王国の貨幣数枚(前107-63年)が発見された。この古墳の造営は前4世紀後半と考えられるという。 私がパジリク5号墳と思っていたのは、この古墳の話だったのだ。

チェルトムリク古墳 黒海北方(北カフカス) 前4世紀後半 地下横穴式墓室 墳丘直径100m高さ21m 墓室深さ12.2m
『古代王権の誕生Ⅲ』は、まず竪坑を深く掘り、その底から水平に1つあるいは複数の横穴を空けて墓室にする地下横穴式で、墳丘の裾に石垣がある。
墳丘は地表から15X25㎝の大きさで切り取られた「芝生レンガ」を積み重ねて盛り上げられており、1㎥の中に約270個の「芝生レンガ」が詰まっている。したがって、1㎥の盛り土のためには約10㎡の草地が必要となる。チェルトムリクの墳丘は75000㎥と計算されているので、そのために必要な草地は75㌶以上ということになる。草はいうまでもなく、遊牧民にとって最も重要な資源である。それをこのように浪費することができるのは、相当な権力者ということができよう。
一番外側には大きな板石や石塊を使って高さ約2.5m、幅約7mの石垣状のものを廻らせてある。そして築造当時の光景を再現すれば、巨大な石のプラットフォームの上に墳丘が盛り上がっているように見えたであろう
という。
積石でも木槨墓でもなかった。遊牧民にとって大事な芝生を大量に使った墓は、墓主の権力の誇示としても、盗掘を予防するためではなかっただろう。  ベスシャトゥル古墳群について『スキタイと匈奴』は、古墳の構造はどれも同じようなものであった。まず表面を削って加工した木材を地表に直接組み上げて墓室を造り、東側に通路と入口が設けられた。その上をまず石で覆い、次に石混じりの土で覆って墳丘を大きくし、最後に表面を葺石で覆った。規模の大きい古墳では、墳丘は石と土の層を交互に積み重ねて造られていたという。

3号墳 カザフスタン(ウラル東方) 前期スキタイ時代(前7-4世紀) 直径75m高さ11.5m 埋葬施設焼失 
『古代王権の誕生Ⅲ』は、墳丘のものは17層の石と土の層が交互に積み重ねられて構成されている。中心部には高さ4m、直径15mの石だけの堆積があり、その中に木造の墓室があったはずであるが、焼失していた。報告者は、盗掘者が火を放ったのであろうと考えているが、他地域の例を考慮すれば、葬儀の最後に燃やしたとも考えられるという。
火葬後墳丘が造られたということか。

6号墳 カザフスタン(ウラル東方) 前期スキタイ時代(前7-4世紀) 直径52m高さ8m
主室はほぼ正方形で(3.6X3.3m)、高さは4m。主室への入口(開口部)の大きさは150X70㎝で、下には丸太1本の敷居がある。入口は葬儀の後大きな石を積み、さらに隙間に細かい石を詰めて完全に密閉されていた。天井には木がうずたかく積み上げられ、その上には葦を編んだむしろがかけられていたという。

『スキタイと匈奴』は、残念ながらすべての墓室は完全に荒らされ、年代を考古学的に決定できるような遺物は出土しなかった。
しかし年代を推定する証拠がないわけではない。それは旧地表面に木槨墓室が造られて、墳丘が高く盛り上げられているという特徴である。黒海北岸や北カフカスでも、初期スキタイ時代には旧地表面に木槨墓室を造る例が多い。そのようなことを考慮すると、ベスシャトゥル古墳群も前7-6世紀の範囲に入るだろう
という。
3号墳が火葬墓なら、墓泥棒に盗まれる心配はなかっただろうが、6号墳程度の積石では、積石層が薄く、墓泥棒に狙われやすかったのではないだろうか。
このように積石木槨墳はユーラシアに古くからみられる墳墓であるが、積石層が薄いためか、墓泥棒にことごとく荒らされていたようだ。
新羅の初期の積石木槨墳も、小さくて積石層が薄かったために盗掘され易かったのかも。
新羅の積石木槨墳とこれらの墳墓には、年代の隔たりがあまりにも大きいが、それでも何か関連性があるのだろうか。 

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 島根県並河萬里写真財団)
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」(角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店)
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴」(林俊雄 2007年 講談社) 

2009/07/03

新羅の積石木槨墳は高句麗から?

 
新羅の積石木槨墳に影響を与えた古墳といえば高句麗の積石塚が考えられる。

『韓国の古代遺跡1』は、高句麗の積石塚は、桓仁(遼寧省)から集安にかけての地域で発達する。構造的には、割石積石塚から基壇切石積石室墓に変遷するという。
『高句麗の歴史と遺跡』は、上古城子墓群(桓仁県六道河子郷上古城子村)古墳群は、上古城子村の東北100mの田畑中にある。渾江の支流の六道河に向かってのびる緩傾斜地に立地する。1993年10月に踏査したが、いたるところに積石塚の残骸である割石や河原石が散在していた。積石塚の多数は方壇積石塚で、基壇のない積石塚も若干ふくまれる。
『文物志』では、上古城子墓群は、およそ高句麗中期の3世紀から4世紀と推定している。なお蘇長青によると、上古城子村に高句麗早期の中・小形の方壇積石塚が100余基あり、中形積石塚は7基である。埋葬施設は割石を用いた単室・双室で、その平面は長さ約2m、幅約1m余であった。前壁の中央や左側に甬道がつくものが存在すると記述する
という。
下の写真は積石塚の残骸だろう。高句麗の積石塚の場合、埋葬施設も割石を用いているようだ。 『高句麗の歴史と遺跡』は、国内城に遷都した3世紀代になると方壇(基壇)積石塚が発達する。そしてさらに4世紀代になると方壇階梯積石塚に発展する。
将軍塚は方壇階梯積石塚で、1辺31.58m、高さ12.5m、玄室・羨道からなる両袖式の横穴式石室
という。
同書では4世紀とされているが、『韓国の古代遺跡1』は、その頂点にあるものは5世紀前半の集安将軍塚・大王陵の方壇階梯石室墓である。漢江流域にはソウル石村洞積石塚・汶湖里積石塚など、高句麗の影響のもとで築造されたとみられる積石塚が分布する。いずれも4世紀代で、石村洞4号墳のは典型的な基壇式であるという。
慶州の皇南洞109号墳が積石木槨墳の最初期のもので、4世紀後半~5世紀前半に築かれたということなので、高句麗や、その影響を受けた百済の積石塚がその時代には基壇のある積石塚を築造しているので、どちらかの影響があれば、109号墳のような墳墓は築造されていなかっただろう。 『韓国国立中央博物館図録』は、楽浪は高句麗によって313年に滅亡された。
大同江南岸の平壌付近の土城の周囲に約2000余基の木槨墳と磚築墳などが散在している。
木槨墳は、地下に土壙を掘りその中に木棺を安置するための長方形槨を設けた形式のもので、封土はピラミッドの上部を切りとったような截頭四角錐をなしている。
この古墳は、最初長方形の単葬墓としてつくられはじめたが、間もなく1つの封土内に2つの土壙を並べて掘り夫婦の2棺を埋める合葬墓に変わり、ついには1つの木槨内に夫婦の2棺をいっしょに安置する最も普遍的な様式に変化した。
木槨墳の築造年代はだいたい紀元前1世紀から紀元後1世紀ごろとみなされている
という。
木槨の規模がわからないが、朝陽洞Ⅱ-5号墓(60号墓)よりもずっと大きなものであることは間違いない。時期も大きな隔たりがあるので、直接影響があったとは思えない。 『韓国の古代遺跡1』は、客観的には高句麗的な墳丘である積石と楽浪的な木槨が一体となり、積石木槨墳という新羅独特の墓制を創りだしたといえようという。
たまたま墳墓を築く近くにたくさんの人頭大の河原石がごろごろしていたので、とりあえず木槨の上に載せたということはなかったのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「韓国国立中央博物館」(1986年 通川文化社)
「高句麗の歴史と遺跡」(森浩一監修 1995年 中央公論社)

2009/06/30

新羅で最初の積石木槨墳は

 
慶州の南東部で4世紀前半の石槨木棺墓が築かれたが、それに続く古墳はどんなものだろうか。
『韓国古代遺跡1』は、109号墳は、1934年に発掘された。味鄒王陵の北75mに位置する。墳丘は、径10.4~13m、高さ1.80mの低い円墳であった(「その後封土も跡方もなくなった」という。位置的には現在の古墳公園内に相当する)。墳丘内に4個の積石木槨があり、第3槨と第4槨(副葬品室・副槨)が直列して築かれ、その上に切り合って第1槨、それに直交して第2槨が構築されていた。切り合い関係から、第1・2槨よりも第3・4槨が先行する。
墓壙は封土の上部からでなく、地山を穿っている。第3槨は長さ3.5m、幅1.2m内外に推定されている。床面には10㎝ほどの石を敷きつめ、さらにその下部には褐色粘土と砂利を厚さ30㎝にわたって積んでいる。第3槨と第4槨との間には界壁がつくられており、上面は厚さ13㎝ほどの粘土でおおっているが、地山を掘削したままである。第4槨は、長さ3.5m、幅2.1mで、第3槨に比べて小さい。槨床の砂利層もなく、第3槨より簡略化している。墳丘の周囲に、幅1mの外護(囲)列石がめぐらされており、径20mに復元しうるという。遺物は第3槨では東側に土器群、西側に遺骸が置かれ、両耳に位置するところから金環が装着された状態で出土した。東枕で、右に鉄刀、左に有棘利器が配され、足部には、鉄刀・鉄鏃・鉄矛などの武器を副葬している。以上のように、構造的にはのちの金冠塚などと大差なく、積石木槨墳としての要素を備えている
という。
どうも皇南洞109号墳が積石木槨墳の最初期のものらしい。しかし、その周りにある土を盛り上げた積石木槨墳とちがって、朝陽洞古墳や九政洞古墳のように、元の地形を利用していたようだ。 もう跡形すらないらしいが、鶏林路に沿った塀の近くにあったらしい。残っていてもこんな程度だったかも。見えているのは110号墳かと思います。
位置関係についてはこちら 第3・4槨は、伊藤秋男の編年では第1期(4世紀後半~5世紀前半)に位置づけられている。
第4槨から出土した鐙は、北燕の馮素弗墓(415没、遼寧省北票)出土の輪鐙、遼寧省朝陽袁台子墓、河南省安陽孝民屯墓出土との比較から馮素弗墓型式の鐙は4世紀後半には成立していたものと推定されている
という。
ということは、109号墳は4世紀後半以降に築かれたらしい。 では、積石木槨墳の起源についてどのようにとらえうるであろうか。
従来、支石墓・土壙墓・楽浪木槨墓が融合したものとの説がみられたが、いずれも時間的隔たりがあまりにも大きすぎたといえよう
という。
確かに木槨墓は後1世紀には朝陽洞に出現しているが、木槨の上から人頭大の石を積むというのは皇南洞109号墳が最初としたら、その起源が気になるところである。慶州の積石木槨墳地帯の周囲は、川がたくさんあるというよりも、川で囲まれているといってもいいくらいなので、石はいくらでもあったかも。
墓制からみれば、古新羅時代は積石木槨墳の時代といえる。小規模な積石木槨墳は盗掘されやすいが、5世紀中葉ごろに出現した皇南大塚南墳のような巨大墳のばあい、その積石の量は膨大であるという。
5世紀中葉には巨大墳が築造されているので、109号墳は4世紀後半~5世紀前半に築かれた小規模な積石木槨墳らしい。『韓国の古代遺跡1』は4世紀末とみているようだ(同書「新羅古墳の編年-伊藤秋男に追補」より)。
その頃に同じような金環をつけていたどこか外来の人達が、積石という新しい技術をもたらしたのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)

2009/06/23

慶州太宗路にこんな積石木槨墳が

 
高速バスで慶州のバスターミナルに着いた我々は、タクシーで太宗路を通り、情報としてはわかっていたが、街中に大きな古墳がいくつもあるのに眼を奪われた。路東里・路西里古墳群を左側に、大陵苑(下図で皇南洞古墳群とされている)を右側に見て、もう終わりかと思ったら、また別の古墳があった。この付近の航空写真は、グーグルアースでみるとこちら 大陵苑と、八友亭ロータリーの間にある大きな古墳なのに、皇吾洞にも皇南洞にも含まれていないらしい。『韓国の古代遺跡1新羅篇』では34号墳とされていて、未調査の古墳らしい。
下図の南方には慶州東部史蹟地帯と呼ばれる古墳群もあるが、やはり未調査のものが多い。  34号墳は天馬塚のような形の整った円墳ではなく、かといって、双円墳としても形が整っていない。大陵苑の双円墳よりも小さいが、周辺の民家と比べると面積・高さがかなりのものである。 このような古墳は積石木槨墳と呼ばれている。
『韓国の古代遺跡1』は、積石木槨墳とは、木棺を築き、それを人頭大の礫石でおおい、さらに盛土した構造の墓である。4世紀のおそらく前半代に慶州の地で発生し、6世紀後半の終焉まで、約200年間新羅独自の墓制として発達した。墓制からみれば、古新羅時代は積石木槨墳の時代といえるという。
『韓国中央国立博物館』は、これらの古墳は、地下や地上に木槨を設け、その内部に木棺と副葬品を設置したのち、木槨の上部に石を積み、その上に封土を被せた特異な構造をなしていたという。
古新羅とは統一新羅以前の三韓時代の新羅のことである。
慶州ではどのようにして積石木槨墳が出現したのだろう。

積石木槨墳の構造は天馬塚を、
大陵苑については大陵苑(テヌンウォン 대릉원)で味鄒王陵から天馬塚大陵苑で皇南大塚から味鄒王陵へ
路東里・路西里については路東里古墳群には金鈴塚(クンリョンチョン 금령총)と飾履塚(シッリチォン 식리총)路西里古墳群は瑞鳳塚(ソボンチョン 서봉총)と金冠塚(クムクァンチョン 금관총)しかわからないをどうぞ。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「韓国中央国立博物館」(1986年 通川文化社) 
 

2009/03/06

新羅の積石木槨墳群から出土する耳飾や指輪に粒金細工

 
新羅の都慶州では金冠冠帽冠飾銙帯と腰偑などの大量の金製装身具が大型の積石木槨墳から出土した。これらを図録にしろ見ていると、原料の金はどこから調達したのだろうといつも不思議だった。
『日本の美術445』は、現在もなお産出した場所は特定できないという。王陵と目される慶州の積石木槨墓の中には未調査の古墳もかなり残っており、まだまだ未知数の部分が多いはずである。
北方騎馬民族が活躍の舞台として往来した草原の道(ステップロード)の途中には、モンゴル語で「金の山」と称された、最大の金の産地アルタイ山脈がある。黒海北岸を中心に生み出されたスキタイの黄金製品も、ここで採掘された金が使用され、各地にもたらされたといわれている。したがってその一部が鮮卑族など北方騎馬遊牧民の手を介し、交易品として朝鮮半島まで及ぶことも充分ありえたに違いない。朝鮮半島の黄金製品に北方系要素が看取されるのも理由の一端はここに起因しているのである。
そのルートを解明してこそ、はじめてユーラシア大陸を横断して朝鮮半島の新羅に至りさらには倭国にまで波及した、気宇壮大な黄金文化伝播の様相を辿ることができる
という。
しかし、高句麗や百済では、新羅ほどの金製品は出土していない。高句麗系の冠は5世紀中葉とされる皇南大塚南墳から出土したが銀製だった。現在のところ新羅最古の金冠は5世紀、
銀冠よりも以前に制作されたとみられているようで、皇南大塚のある邑南古墳群の南に位置する校洞から出土している。
朝鮮半島の三国時代、高句麗という国が半島の付け根から中程までの版図を持っていたのに、遊牧民が高句麗を素通りして、新羅にのみ大量の金あるいは金製品を運べたとは思えない。

ところで、多くの積石木槨墳から金製の耳飾りや指輪も出土している。できたとすれば、中国の五胡十六国時代、中国東部の鮮卑系の小国から、船で運ぶ海上ルートがあったのだろうか。

垂飾付耳飾 金製 天馬塚出土 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、中間飾と垂下飾が一連のもので、高句麗の耳飾と類似した製作技法がみられる。表面全体は細長い菱形による金板の突起と鏤金により装飾されているという。鏤金は粒金細工のことで、金冠などにはなかった装飾技法だ。このような粒金による線状の装飾をみていると、金冠の打ち出しによる列点文は粒金細工を模したものではないかとも思う。
「金板の突起」には、皇南大塚北墳出土の金製嵌玉釧のように、貴石がはめ込まれていたのかも。 太環耳飾 金製 夫婦塚出土 6世紀前半 ソウル、韓国国立中央博物館蔵
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、普門洞夫婦塚(プブチョン)は丘陵上に築かれている。夫墓は積石木槨墳で、地山を約5.4X1.4m掘り下げて墓壙をつくり、木棺を据える。耳飾り・指輪・釧・土器が出土している。婦墓は横穴式石室墳で、追葬されたものである。2基とも積石木槨墳として築造されたのであり、横穴式石室墳が築造される以前の6世紀中葉ごろまでは、この地域においても主要な墓制であったものと推定されるという。
『日本の美術445』の解説はこちら
この耳飾りは素人目には、貴石を象嵌するには、天馬塚出土の耳飾に比べて輪郭の金線が低すぎるように思う。実用のための金線も装飾の一つになってしまっているようだ。耳飾  金製 銀鈴塚出土 6世紀前半 韓国国立中央博物館蔵
耳飾りになっているが、作りは鈴のようだ。そして粒金ではなく、金線を粒金が並んでいるようにみせかけた細線細工になっている。
丸い貴石を囲むのも同じ擬似線だが、上の2点と比べると、金線と粒金という組み合わせが簡便化されたものといえる。また、貴石ではなく、ガラスが象嵌されている。指輪 金製 金鈴塚出土 6世紀前半 韓国国立中央博物館蔵
上の指輪は、貴石に金線を巻き、その周囲に粒金を並べて四花文としている。その下も同じもので、貴石がはずれてしまったように見える。しかし、貴石は金線の輪郭に合っていない。貴石ではなく、ガラスを溶かしてはめ込んだように見える。 指輪 金製 奈良、新沢千塚126号墳出土 
『日本の美術445』は、細い帯状の金線を環状にしつらえ、正面になる部分に半球状の鋺形を鑞付けしたのち、その表面に細粒と帯板で四弁花文を象っている。弁内は剥落しているが、当初は嵌玉であったと想定される。形状といい嵌玉を意図した細粒細工の花形文様といい、極めて西方風であるのが特徴的であるという。
この指輪は金鈴塚出土の指輪とよく似ている。しかし、金鈴塚の指輪はリングの部分が完成度の高い物なのに対して、新沢126号墳の指輪のリング部分は金板を切っただけのもので、技術的には稚拙なもののように思える。金製品が倭国の古墳に登場してくるのは、倭国が朝鮮半島の三国や伽耶と積極的に交流関係を保つことになった5世紀中葉、ちょうど古墳時代後期に入った頃からである。
奈良・新沢千塚126号墳は5世紀後半前後に造られたとみられているが、各種の金製装身具を副葬した最初の古墳である。金製装身具は新沢千塚108号墳や109号墳からも垂飾付耳飾を出土しており、その金製品はいずれも三国時代朝鮮半島製であることが、韓国出土の類例に徴して確かめられている。
したがって新沢千塚古墳群は、まさに朝鮮半島からの渡来人集団が築造した群集墳だったのである。とりわけ質の高い各種の金製装身具を埋葬していた126号墳は、規模の点では目立つ存在ではないものの、集団を統率した人物が被葬者であったことは疑う余地がない
という。
そうだとすると、古墳の形も異なるし、大きさが全く違う。慶州の巨大な積石木槨墳を見学した今では、違和感があるのは否めない。新沢千塚古墳群の分布図はこちら

新沢千塚126号墳の金製品はこちら。歩揺冠はこちら。ガラスはこちら

※参考文献
「日本の美術445黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「金の輝きガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)