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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/01/16

纏向遺跡1 石塚古墳と矢塚古墳は纏向型

箸墓古墳は纏向遺跡の一部らしい。『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』の図3では纏向遺跡の南端に位置している。
北西部には前方後円墳がたくさんあるので行ってみた。纏向遺跡といっても、吉野ヶ里遺跡のように歴史公園になっているわけではない。現在の集落や農耕地のところどころに遺跡が残っている。  石塚古墳
桜井市教育委員会作成の説明板は、昭和46年以後の調査で、纏向3式~4式期(3世紀後半)以前に築造された発生期の前方後円墳として貴重な遺跡である。
墳丘は、後円部長径64m、短径61mの不整円形で、東南方向に前方部幅32m、長さ32m、括れ部幅約15mの前方部が付くいわゆる纏向型の前方後円墳である。周濠は墳丘に添った形で、幅約30mの濠を巡らせ、前方部前面は幅5mの濠で区画する。
周濠から弧文円板・鶏形木製品などが出土している
という。
箸墓古墳を前方部と後円部の比率が1:1とすると、纏向型前方後円墳は、その比率が1:2のものを指すのだろうか。

今は大きな木が1本ある低い丘程度にしか残っていない。墳丘の上にあがっても、現存する円丘部は丸くない。  外堤内側に御影石の縁石がある。そこから3.25m墳丘に近づいたところに30mもの周濠が巡っているという。墳丘まで歩いても、周濠が実感できない。  西側から遠望する。左端あたりに前方部があったものと思われる。 『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』は、纏向遺跡は全長が93m、円丘部の径60m、突出部の長さ33mの長い突起を持った円丘墓、いわゆる前方後円墳である。そして、その周濠のなかに含まれていた赤い鶏や弧文円板あるいは木柱などから、被葬者を葬る段階で木製葬具を用いた葬送儀礼が、3世紀初頭段階からおこなわれていたことが、はじめて確認された古墳なのであるという。
石野氏は石塚古墳は3世紀初頭、箸墓古墳を280-290年頃とみているようである。やっぱり纏向型という石塚古墳の前方部は後円部の約半分の長さしかない。
2世紀の有年原1号墳丘墓は、ホタテ貝形で、弥生時代の墳丘墓の突出部が祭祀の場として発達したのが前方後円墳という(有年原・田中遺跡公園の冊子より)が、その過程を彷彿とさせる形である。纏向型が箸墓型よりも古い型というのは納得できる。 石塚古墳とは小学校を隔てた西側に矢塚古墳がある。周りで発掘調査が行われているらしい。

矢塚古墳
説明板は、纏向矢塚古墳は、西面する全長約96m、高さ約5mの古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘の築造企画が纏向石塚・纏向勝山・東田大塚・ホケノ山などの古墳と同じ企画を持つ纏向型前方後円墳の1つと考えられている。昭和47年に周濠の一部が調査されて、幅17~23m、深さ60㎝の濠を持つことが確認されました。また、この時の出土土器より、纏向矢塚古墳は箸墓古墳より先行する可能性も高くなっているという。
これも前方部が短いらしいが、樹木が邪魔してよくわからない。  これが後円部らしいけど、盛り上がり方が変やなあ。頂上に登ってみよう。そのまま円丘部を下りて、歩き続けた。振り返るとクビレ部が曲線になっていた。纏向型もクビレ部は曲線なのだろうか。円丘部の南側でも発掘が行われている。周濠部を調査しているらしい。 石野氏は、纏向矢塚古墳は、纏向石塚古墳の西150mにある推定全長96mの長突円墳である。1973mの調査で東側周濠の一部が検出され、完形土器群が確認された。2007年、桜井市教育委員会によって突出部の調査がおこなわれた。後世の攪乱のため突出部端は確認できなかったが、纏向型古墳と推定された。
築造時期は、東側周濠内の完形土器群が葬儀にかかわるものとすると、纏向4類、3世紀後半か末であろう
という。
石野氏のいうように矢塚古墳が3世紀後半か末なら、箸墓古墳とあまり変わらないが、石塚古墳と同じ纏向型前方後円墳、つまり前方部が後円部の半分の長さの築造企画だった。 それだけでなく、説明板は、他に纏向勝山・東田大塚・ホケノ山等の古墳とも同じ築造企画という。ということは箸墓古墳だけが前方部が長い、別の企画で造られたということなのだろうか。

※参考文献
「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」051)
桜井市教育委員会作成の説明板
「有年原・田中遺跡公園」(赤穂市教育委員会)