せっかくなので東洋陶磁美術館の展示から青磁・白磁・青白磁の作品の製作年代をさかのぼってみると、
飛青磁花生 元時代(14世紀) 高27.4㎝ 口径6.6㎝ 底径8.5㎝ 龍泉窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、鉄斑を散らした青磁は、日本では「飛青磁」と呼ばれている。優美な形のこうした瓶は中国では「玉壺春」の名で知られ、主に酒器として用いられたが、日本では花器として珍重された。本作は鴻池家伝来品で、伝世する飛青磁花生の最高傑作といえるという。
特に何を表しているのでもない鉄斑が、まばらに散らばっているのが良い。
『世界美術大全集東洋編7 元』は、元時代の青磁が宋代の青磁ともっとも異なるところは、器形の大型化と器種の増加である。龍泉窯がその市場を西アジアに向けたためである。しかし、元代の龍泉窯青磁はイスラーム世界だけでなく、日本を中心とした東アジアや東南アジア、インドなどにも多くの伝世品がある。龍泉窯が、東アジア向けの製品と西アジア向けの製品を明確に分けていたことは、興味深いという。
大きな器は日本人の好みではなかっただろう。
青磁管耳瓶 南宋-元時代(13世紀) 高20.9㎝ 口径13.3㎝ 哥窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、哥窯は明時代の文献に宋時代五大名窯の一つに挙げられている。南宋官窯青磁のような「紫口鉄足」(鉄分の多い胎土由来の口部や底部の特徴)や「金絲鉄線」(無数の細かな貫入)がその特徴である。本作は古代青銅礼器の「觚」をモチーフとした造形であるという。
貫入があるということは磁器になりきれていないからだろうか。
青磁鳳凰耳花生 南宋時代(13世紀) 高28.8㎝ 胴径13.0㎝ 龍泉窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、釉が厚く多層がけされ、「粉青色」を呈した南宋時代の龍泉窯青磁を、日本では「砧青磁」と呼び親しんできた。鎌倉・室町時代以降、こうした龍泉窯青磁は貿易品として日本に盛んにもたらされ、花器として珍重された。本作は丹波篠山藩主青山家伝来とされるという。
青磁はこのような落ち着いた色が日本人の好み。へそ曲がりの私もこの色の青磁を好んでいる。しかしながら、この「砧」について昔聞いていたのは、「布地を打つ道具」だったが、「砧」という名称の由来については諸説あり、現在、静嘉堂文庫美術館に所蔵されている利休所持と伝える青磁鯱耳瓶に割れがあり、これを錠で止めてあるのを見て、砧を打つ音の響きにかけて命名されたとする説や、東山の相国寺慈照院にあった青磁の花生が砧の形に似ているところから名づけられたとする説などが知られている。しかし、砧とは布地を槌で打って艶を出すために用いる「石もしくは木の台」をいうもので、いわば槌形というべき花生の形態から 名づけられたとする説は、どのような経緯で現れたものかよくわからない(『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』、以下『東洋編6』より)いうことが判明した。
青磁八角瓶 南宋時代(12-13世紀) 高21.0㎝ 胴径13.5㎝ 官窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、灰黒色の胎土に、釉薬が厚く多層がけされ、白濁気味の淡青緑色を呈している。類似の八角瓶が浙江省杭州烏亀山の郊壇下官窯址でも出土している。釉色の美しさや造形の端正さ、いわゆる「薄胎厚釉」(胎土が薄く釉薬の厚いこと)の特徴など、南宋官窯の青磁にふさわしい特徴を見せているという。
八角形の角は厚い釉薬が垂れているのか、器形に角を付けているのか。
ここから金という時代の磁器も登場するが、金とはどんな国だったのか。
『東洋編6』は、中国北方で農耕・狩猟生活を営んでいた女真族が1115年に建国した金は、遼(907-1125)を滅ぼし、その領地を領有し(天海3年、1125)、さらに北宋(960-1127)を攻めて宋王朝を南に追い(天会5年、1127)、淮水以北の華北を版図として1234年まで存続した国家であったという。
女真族は後の満州族でタングート系。
そして金の磁器について同書は、前期は遼時代の技術を継承して匣鉢(さや)を使用せず、釉薬は潤いのある呈色を示さず、器物も変形が多く見られる。
しかし華北に進出した後期では、金前期に一時停滞していたと見られる定窯・耀州窯・磁州窯などの北宋時代の名窯と謳われた生産地も復興し、新たな技術展開も生まれ、金時代の陶磁史を彩ることになる。
華北に進出した後期では、金前期に一時停滞していたと見られる定窯・耀州窯・磁州窯などの北宋時代の名窯と謳われた生産地も復興し、新たな技術展開も生まれ、金時代の陶磁史を彩ることになる。
女真族という異民族の支配下にあったとはいえ、その支配層が早く中国化したために、華北諸窯はみずからの歴史の流れに沿って盛衰の過程をたどることができたのである。金時代後期における華北諸窯の陶磁器は、従来どおり漢文化の流れのままに展開したという。
月白釉碗 金時代(12-13世紀) 鈞窯 住友グループ寄贈 (安宅コレクション)
説明パネルは、朝顔の花のような優雅な器形で、全面に施された釉薬は「月白釉」と呼ばれる鈞窯特有の失透性の淡青色を呈した美しい釉色を見せている。河南省禹州市の鈞台窯を中心とした窯で誕生した鈞窯は、金時代以降に隆盛を見せ、各地でも鈞窯風の製品が生産されたという。
鈞窯のあった禹州市は殷代の都のあった鄭州市の南方。
『東洋編6』は、その優品では釉層が厚く玉のような質感を呈するもので、北宋晩期に出現していると報告されているが、作品の多くは金時代と考えられるものであるという。
ルーシー・リーがこのような高台の小さな碗を知っていたかは分からないが、その作品は高台が極端に小さかったという印象が強い。と思いながら進んでいくと、ロビー2の現代陶芸コレクションにルーシー・リーの作品が1点展示されていた。高台は小さいが、器体は膨らんでいる。私の記憶違いだった。
線文大鉢 1958年頃 高さ10.3㎝ 口径26.0㎝ 磁器 イセ文化基金蔵
月白釉碗の形が柔らか
青磁貼花夔鳳文香炉 金時代(12世紀) 高18.0㎝口径21.5㎝ 耀州窯 住友グループ寄贈 (安宅コレクション)
説明パネルは、耀州窯青磁の香炉としては大型の作例で、古代青銅器の「鼎」を模した器形である。胴の三面に夔鳳文と長方形の突起帯を交互に貼り付けている。三足には獣面をあしらい、重厚さを加えている。金時代の耀州窯青磁の傑作の一つであるという。
青銅器に施された細かな装飾まで表している。殷や周の青銅器というのを金時代でも目にすることができたからこその形だ。
同書は、文様では型押しで作った文様を器物に貼り付ける貼花文様や、印章を押し付けて文様を表す、いわばスタンプ文様も金時代におこなわれるようになる。総体に素地が厚みを増し、青磁釉はより黄みを帯びるといわれるという。
頸部には象の足を逆さまにしたような文様が高低がありながら並んでいる。スタンプであることは境目の線があることからもわかるが、肩部の雷文繋ぎは彫ったもののように見える。
白磁銹花牡丹唐草文瓶 金時代(12世紀) 定窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、白磁の胎土に鉄泥を掛け、文様の背景部分を掻き落とし、結果として鉄泥による褐色の牡丹唐草文が白磁の中に浮かび上がる。「吐魯瓶」とも呼ばれ、当時酒瓶として用いられたものと考えられるという。
二重蔓と言って良いのだろうか。明代永楽・宣徳期(15世紀前半)の金地二重蔓牡丹唐草紋金襴などに見られる二重蔓は、このような文様からできていったのかも。
元時代(14世紀)の青花龍牡丹唐草文双耳壺の牡丹の花を横からみた図柄と比べると、花弁の一枚一枚が小さい。花が品種改良されたのかも知れないが。
白磁刻花蓮花文洗 北宋時代(11-12世紀) 定窯 高さ12.1 径24.5㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、瓜形状の胴の内外に流麗な彫りで表された蓮花文は、定窯特有の牙白色(アイボリーホワイト)の白磁に浮かび上がる。光を通すほど薄く成形され、ゆがみなく焼成するために上下逆にして焼かれた。釉のかかっていない口縁部には銀製の覆輪がはめられているという。
これまでに何度か記事にした定窯の白磁で最も優美な作品。いつ見てもゆったりと大きな作品に感じるのに、径が24.5㎝と小さなものだった。
覆輪と覆焼についてはこちら
白磁刻花牡丹文瓶 北宋時代(11世紀) 定窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、定窯の窯址は河北省保定市曲陽県にある。晩唐から白磁を生産し、宋・金時代には宮廷用器も生産した白磁の一大産地である。
本作は、薄い器壁の全面に牡丹唐草文が流麗な刻花文様で表されており、北宋時代の定窯の技術の高さをうかがわせる優品であるという。
上の洗とは別の部屋で展示されていたので、写真で比べるしかないが、これは牙白色よりも白い。
実際のところ、定窯の白磁といっても、青磁に近い発色をしているものもあれば、ガラス器に見えるほど白ものもある。
それについてはこちら
青白磁について『東洋編5』は、南中国の白磁といえば、景徳鎮窯の白磁(青白磁)に代表されるが、景徳鎮で青白磁がさかんに焼かれるようになるのは、北宋後期以降である。
景徳鎮窯の青白磁生産が飛躍的な増加を見せるのは、越州窯青磁の場合と同様、磁器の海外輸出が大きな要因となったと考えるべきである。
器表に刻された花文の上に溜まった青白磁釉が美しいシルエットをなし、「影青(いんちん)」と呼ばれたものがそれである。景徳鎮窯の青白磁の輸出は、南宋以降さらに増大化し、元-明時代へと受け継がれるのであるという。
青白磁の柔らかい色目は独特。
青白磁瓜形水注 北宋時代(11-12世紀) 景徳鎮窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、細身の瓜形を呈した胴部には、葉状の刻花装飾が見られる。エレガントでシャープな注口と把手が付き、花びら状の蓋を伴う。こうした水注は深めの鉢とセットで酒器として用いられ、盏托や盤にのせた杯に酒を注いでいた様子が、当時の墓の壁画にうかがえるという。
凹んだところなどに薄い青の釉溜まりができて、白に近い器体にアクセントとなっている。柔らかな器形には轆轤目が浮かんでいる。
説明パネルは、うすづくりでシャープな造形の七弁の輪花鉢である。純白の胎土に青みを帯びた透明釉が施され、青白磁ならではの清純な美しさが感じられる。こうした鉢は中国では「温碗」と呼ばれ、水注とセットで用いられ、温酒器と考えられているという。
七弁で先の尖っていない花といえばクチナシだろうか。花弁の細い線がややぎこちない。
青白磁柘榴形盒 北宋時代(11-12世紀) 景徳鎮窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、蓋には突起状のつまみが付き、全体に柘榴をかたどっている。柘榴は前漢時代に西域から中国にもたらされたと言われ、多くの種子をつけることから、多産と子孫繁栄を表す吉祥文様として好まれた。女性の化粧道具であったと考えられるという。
ザクロの実の先は六つだったような・・・
青磁について『東洋編5』は、北宋後期の青磁は北中国では耀州窯が隆盛を見せ、南中国では越州窯が衰退して龍泉窯が台頭してくる、といった状況である。
耀州窯ではこの時期、刻花装飾や印花装飾が主流であり、流麗な刻花文様で飾った青磁が作られている。耀州窯の代表作は、ほぼこの時期に集中しているといってよいという。
青磁刻花牡丹唐草文瓶 北宋時代(11-12世紀) 高16.7㎝ 胴径17.3㎝ 耀州窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、北宋時代の耀州窯青磁の魅力はオリーブグリーンの透明感ある釉色と深く鋭い彫り技にある。本作はその中でも最高傑作の一つで、冴えた彫り技は釉薬の濃淡を生み出し、緻密な文様を立体的に浮かび上がらせている。耀州窯青磁の世界的名品であるという。
頸部以外は彫った文様で埋め尽くされている。ボタンの花の表現は、金時代の白磁銹花牡丹唐草文瓶よりも、青花龍牡丹唐草文双耳壺に近いかも。
青磁盤 北宋時代(11世紀) 耀州窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、口縁は平らで笠形を呈し、美しい稜線を見せる。やや灰色がかったオリーブグリーンの艶やかな釉色で、釉薬の溜まった部分は深い色合いをたたえている。シンプルな造形の小品ながらも耀州窯青磁の魅力が凝縮しているという。
料理を盛るものだったのだろうか。水を湛えたら文様が浮き上がったりするのだろうか。
見込みから口縁部へ文様が途切れなく続いている。
拡大したら何故かこんな色に・・・
青磁輪花碗 五代-北宋時代(10-11世紀) 耀州窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、五弁の花びらをかたどった輪花碗で、ドレープ状の立体感あふれる造形が美しい。金属器に倣ったもので、型による成形でうすくつくられている。淡く明るい色調と潤いのある質感の青緑色の釉色は、この時期の耀州窯青磁の特徴であるという。
口縁部の釉薬つ付き方がやや薄いところと、五つの稜線が、文様のない器に華やかさを醸し出している。
青磁盤 北宋時代(11世紀) 耀州窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、口縁は平らで笠形を呈し、美しい稜線を見せる。やや灰色がかったオリーブグリーンの艶やかな釉色で、釉薬の溜まった部分は深い色合いをたたえている。シンプルな造形の小品ながらも耀州窯青磁の魅力が凝縮しているという。
このような口縁部を笠形というのか。それを凹面につくったようで、濃い釉溜まりができている。
青磁水仙盆 北宋時代(11世紀末-12世紀初) 汝窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、汝窯は北宋時代末に宮廷用の青磁を生産した窯で、「天青」 と形容される青味を帯びた独特な釉色が特徴である。伝世品は 世界で90点余りで、中でも「水仙盆」は他に台北の国立故宮博物院の4点と吉林博物院の1点しかなく、汝窯を代表する器形であるという。
独特の青い色が、口縁部の黒で際立っている。
青磁陰刻草花文多嘴壺 北宋時代(11世紀) 龍泉窯 住友グループ寄贈 (安宅コレクション)
説明パネルは、肩にある五本の管は壺の内部には通じておらず、墓の出土例もあることから副葬用の明器と考えられる。蓮弁文装飾のある蓋が付き、胴部には簡略な草花文が陰刻されている。「五穀」の 墨書銘のある類例から、豊穣を願ったものかもしれないという。
蓋には縦の葉脈に釉薬が溜まって色が濃い。胴部には釉薬が密な縦線のように流れている。
『世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏』は、唐代、陸羽の著した『茶経』の中で、越州窯や邢州窯などの青磁や白磁が茶碗として絶讃されたことは、あまりにも有名である。越州窯青磁を氷や玉の如しといい、邢州窯白磁を雪や銀の如しと表現したこのことばは、陶磁器が当時の中国のハイ・ソサエティーの世界で銀器や漆器・玉器と肩をならべるほどに好まれ、高級食器として日常世界に広まっていたことを示すものである。しかし、『茶経』に記された唐代後期の陶磁生産の具体的な状況はわからないことが多く、遺品もそれほど多いとはいえない。とりわけ越州窯青磁については、この8世紀後半から10世紀の遺品はきわめて少ない。
9世紀後半-10世紀、五代-北宋初期の青磁や白磁などの質の高い陶磁器生産のはじまりは、晩唐以前にあるのではないかと考えざるを得ないという。
その作品を見ると、
白磁盒
唐時代(8-9世紀) 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、「粉盒」と呼ばれる盒子で、化粧用の白粉や頬紅あるいは香粉などを入れるための容器とされる。白磁はマット状のやわらかな質感を見せる。釉のかかっていない底部には墨書銘の痕跡が見られるが残念ながら文字は判読できないという。
蓋を拡大すると貫入のようなものが見える。
白磁杯
隋時代(7世紀) 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、西方のガラスを彷彿とさせるこうした薄くエレガントな造形の白磁杯は、隋から初唐にかけて流行した。底部は平底で、雪のような白い胎土がのぞく。内部や高台脇の釉だまりは鉄分により青緑味を帯び、緑水晶のような美しさを見せているという。
胴部に貫入が見られるが、この時代にこんなに完成度の高い白磁がつくられていたとは。
そして魏晋南北朝時代
『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』は、三国・南北朝の陶磁器は、約350年にわたった分裂の時代という社会状況を反映し、華北と華南で大きく様相を異にしていた。華南では、後漢に浙江省北部で誕生した青磁が目覚ましい発展を遂げた。
青磁は、技術的には殷中期から続いていた灰釉陶を発展させたものである。灰釉陶との相違は、堅く焼き締まった胎と、均質に滑らかに熔け、青緑色に発色した釉にある。これは釉胎の質の改良と、安定した高火度焼成によって実現されたものである。その結果、青磁は灰釉陶と比べて陶磁器として、よりいっそう完成した状態となっている。釉胎ともに青磁として完成した状態になるのは、3世紀末以降の西晋に入ってからのようであるという。
青磁透彫三足香炉 西晋時代(3-4世紀) 越窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、宝珠形の三足香炉が三足の承盤内に置かれ、一体として焼成されたものである。香炉は、胴部に三段にわたって鋸歯状の三角形の透かし彫り装飾が施され、つぼみ状のつまみが付く。青磁釉はやや灰色がかった青緑色で、独特の光沢を見せているという。
古瀬戸のように茶色っぽく見えるのだが、古越磁と呼ばれる磁器は概してこのような色のものだった。
貫入は全面にあるが、貫入の有無は陶器と磁器という違いには関係のないものだった。
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参考にしたもの
館内の説明パネル
参考文献
「没後20年 ルーシー・リー展図録」 2015年 日経新聞社
「没後20年 ルーシー・リー展図録」 2015年 日経新聞社
「世界美術大全集東洋編6 南宋・金」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編7 元」 1999年 小学館
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館