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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/08/09

日本に残る青白磁の梅瓶は南宋-元時代


一乗谷朝倉氏遺跡奥間野地区で発掘された医者の家からは青白磁の梅瓶と盤が出土している。そのうちの梅瓶が気になった。 何時の時代の、どこで製作されたものなのか?
一乗谷朝倉氏遺跡 医者の家跡出土梅瓶 『越前朝倉氏一乗谷』より


高麗時代のものだろうか。
高麗の梅瓶は大阪市立東洋陶磁美術館の「高麗青磁-ヒスイのきらめき展」に出品されていた。そのうちの1点は、

高麗青磁陽刻蓮花文梅瓶 12世紀 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
高麗青磁の梅瓶は、青白磁と言っても良いような淡い色で、医者の家出土の梅瓶に似ているか、もっと肩が張り、底部へのすぼまり方がずっとシャープである。何よりも口作りが異なる。
大阪市立東洋陶磁美術館蔵青磁陽刻蓮花文梅瓶 12世紀 『高麗青磁展図録』より


高麗青磁の梅瓶でもう1点、フリーア美術館所蔵の青磁梅瓶は、

青磁陽刻鳳凰文梅瓶 12世紀初期 高28.5胴径18.8㎝ ワシントン、フリーア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、高麗青磁に遺例の多い梅瓶の器形は、製作年代によって変化を見せる。第1段階は中国、北宋の定窯、磁州窯、影青(インチン)などの例に似て、肩から胴裾までのすぼまり方がほぼ直線的である。第2段階は、第1段階とほぼ同じであるが、胴裾でわずかに外反する気配を見せる。第3段階は、高麗陶磁梅瓶の典型的な器形が現れる時期で、その特徴は胴裾での外反が明らかになり、S字状湾曲が認められることである。第4段階は、S字状湾曲がますます顕著になり、つぎの朝鮮王朝時代の粉青沙器に引き継がれる。
このフリアの梅瓶は第2段階のもので、胴は重厚感に富むが、胴裾での外反の気配がわずかに見られる。通例に比べると、口作りの高さが高く、胴の形と相まってどっしりとした印象を与えているという。
やはり口作りが異なる。
フリーア美術館蔵青磁陽刻鳳凰文梅瓶 12世紀初 『世界美術大全集東洋編10 高句麗・百済・新羅・高麗』より  


ということは、医者の家出土の青白磁梅瓶は高麗青磁ではなく、中国製の青白磁のようだ。
しかし、宋代の陶磁器が日本の戦国時代に伝わるものだろうか。

その謎は、出光美術館研究紀要第24号に徳留大輔氏の日本に出土・伝世する青白瓷梅瓶瓶に関する一考察(PDF)で解けた。

同考察から抜粋すると、
日本列島では9世紀以来、中国から数多くの文物が舶来し、それらは唐物と称され、天皇や将軍、貴族や武家をはじめ、広く受容されてきた。
青白瓷梅瓶(白瓷を含む)とは中国の南方地域(江西省景徳鎮窯、福建産が中心)で焼造された唐物の一つであり、12世紀前後から日本列島で流通しはじめている。しかし梅瓶は茶の湯の道具や座敷飾りの中心ではなかったことから、それらとは異なる伝世のあり方をしている。
「唐物荘厳」は、室町時代に盛んになった茶の湯の道具をいうのかと思っていた。ずっと以前、遣唐使や遣隋使の頃からの唐物志向が戦国時代にまで引き継がれていたとは。😮

中国硅酸塩学会「中国陶瓷史」に基づけば「これは宋代の南北の窯で一般的に焼かれた瓶の形の一つである。小さい口・短い豊かな肩がその特徴であり、肩から下はしだいにすぼまって圏足」であり、「胴が細長いので、宋代には経瓶と呼ばれていた。これは酒を入れる容器である」とされているようにいわゆる酒器として少なくとも宋元時代に使用されていたものである。
お酒を入れる容器だったとは。それが日本に請来されて、いつの間にか花入れになっていったんや😊

梅瓶という名称に関して文字記録でたどれる時代としてはこれまでのところ清時代末期頃ということになる。
日本では何て呼ばれていたんやろ🤔


また徳富氏は、出光美術館で所蔵する重要美術品の伝・愛媛県松前城出土の青白瓷梅瓶(南宋-元 1127-1368)もその一つといえるという。

愛媛県、伝松前城(まさきじょう)出土の青白磁刻花渦文梅瓶
伝愛媛県松山市松前城出土 南宋-元時代 高さ25.6㎝ 出光美術館蔵
『日本の美術410』は、胴部に手早い彫りであらわされた渦文は、唐草文が退化したものである。白磁梅瓶としては、製作年代がやや下るのであろう。明治41年(1908)に愛媛県松山市の松前城跡で出土したと伝えられている。類品は、奈良の談山神社に御神酒徳利として伝世している例をはじめ、数多く知られているという。
青白磁の釉がつやつやととしていて、とても出土品には見えない。何処かの蔵に箱に入れられて眠っていた伝世品なのでは、と思うくらいである。
一方、一乗谷品は、出土品らしく器肌が荒れていて、釉薬さえ失われた断片も混じっている。
伝松前城出土の青白磁刻花渦文梅瓶 南宋-元時代 『日本の美術410』より


また、石岡ひとみ氏の出光美術館蔵青白磁の梅瓶一考察は、
松前城梅瓶の口縁上部は、平らな形状を呈し、口が小さく頸部が締まる。
ロクロによる成形である。口縁上面は平らで、頸部外面には尖った突帯が付く。肩部と裾部には、先端が尖った工具によって沈線で二重圏線を描く。その間に櫛描きで下から上に向かって3区分する線を描くという。

一乗谷出土品の口作り
この口縁部の立ち上がりが、伝松前城出土品とそっくりで、「尖った突帯」もあるし、肩部に2本の沈線が巡っている。中に入れた液体が漏れないように、蓋をしっかりと止める工夫だったのだろう。竹の節に似ているので、竹の節型と呼ぶことにする。
一乗谷朝倉氏遺跡医者の家出土青白磁梅瓶部分 『越前朝倉氏一乗谷』より


石岡氏は、その上に櫛描きによる渦文が全面に巡る。渦文は右・左側とも下から上に渦を描き、中央に小さい渦を輪状に描く。櫛状工具は6本の歯をもつ。描き始めは彫り込みが深く、捻りにより上部に向かって細くなる。
微量に鉄分を含み透明感のある水色に発色している釉を口縁の内部から外面の底部近くまで全面に掛け、櫛描きの釉溜まりは青い。そのため松前城梅瓶は青白磁に分類できるという。

一乗谷出土品の文様
やはり櫛で描いたかのように、数本の細い線が平行して、渦巻くような水文を彫り出している。波頭がところどころにあるようにも見える。
そして、伝松前城出土品は、櫛目沈線による連続する渦文が器体に深く施されていて、その深さを別にすれば、同じ類いの文様といえる。
一乗谷朝倉氏遺跡 医者の家跡出土梅瓶 『越前朝倉氏一乗谷』より


石岡氏は、底部は削り出し高台、無釉露胎で、鉄分によりやや褐色を呈すという。
医者の家出土品は、底部の写真がないため不明だが、脚部の2本の沈線も伝松前城出土の青白磁梅瓶と同じである。
一乗谷朝倉氏遺跡医者の家出土青白磁梅瓶部分 『越前朝倉氏一乗谷』より


石岡氏は、松前城梅瓶の産地は中国福建省系とされ、13-14世紀代のものと考えられている。生産年代を限定するため、遠藤氏の青白磁梅瓶の研究を援用すると、器形や渦巻文の描き方などから13世紀中頃-後半代に生産された可能性がある。
松前城梅瓶は南宋から元代の中国福建省系の貿易陶磁である。耕地整理によっ て明治41年に伊予松前城二ノ丸跡から出土し、松前町の工事請負人、次に道後の収集家を経て陶芸家・内島北朗が収集、その後、美術商を経て、出光美術館に収蔵されたという。
一乗谷出土品も福建省系で、13世紀中頃-後半の可能性がある。

『慕帰絵詞』第5巻第3段 歌会の光景
徳留氏は、本願寺の第三世・覚如上人の一代記を描いた絵巻「慕帰絵詞」である(西本願寺)。その製作年代は、観応2年(1351)頃とされている、この絵巻の中では複数回登場する。
巻5には歌会の場が描かれているが、その手前が厨房になっており、宴席のための食事の準備が行われている。 厨房には棚が配され、手前の棚には盆にのせた漆の器が描かれ、奥の棚には下段に青緑色で梅瓶と思われる器が少なくとも2点描かれているという。
絵画なので実際の梅瓶よりもずんぐりと描かれているが、小さな口作りは竹の節型を表そうとしたようにうかがえる。
また、最下部左よりには青磁の盤あるいは大鉢があり、一人の僧が漆塗りの杓子で白磁の碗で味見をしている。奥の人物はざるの素麺を漆塗りの碗に小分けしているので、そのつけ汁かも。
西本願寺蔵慕帰絵詞第5巻第3段歌会 歌会の裏手の厨房に青磁梅瓶 『日本の美術187 慕帰絵詞』より

巻8 大原勝林院
『日本の美術187』は、貞和2年(1346)、10月16日、迎講結縁のため、大原の別業へ行った際、勝林院五坊を訪れ休息した。いとまを告げるにあたって和歌を詠み、障子に書付けたという。
その部屋の外が厨房になっていて、やはり棚に青磁の梅瓶2、小鉢1、小さな水次1が置かれている。
西本願寺蔵慕帰絵詞第8巻第2段歌会 大原勝林院で和歌を書き付ける部屋の裏手の厨房に青磁梅瓶 『日本の美術187 慕帰絵詞』より


石岡氏は、先学の研究により、青白磁梅瓶は、白磁四耳壺、青磁盤、酒会壺、花生、天目茶碗、茶入等とともに、中世社会において希少価値があり、高級品として珍重され、それを所有することは、威信財としての役割を果たしたという見解が提示されている。
伝京都市太秦井戸廃寺出土の青白磁牡丹唐草文梅瓶は、南宋時代の梅瓶で、地中に埋納された時期は未詳であるが、類例から戦国期に上級階級で梅瓶が賞玩されていたことが考えられている。
戦国武将として青白磁梅瓶などの唐物の骨董品を所持すること、それを会所の座敷飾りとすることにより、権力の象徴となり、武家儀礼に重要な役割を果たすものであったと考えられる。
以上のことを考え合わせると、松前城梅瓶も戦国期の武将が13世紀後半の青白磁梅瓶に骨董的価値を認め、威信財として所有した可能性があるという。
ところが一乗谷朝倉氏遺跡では、朝倉館跡からでも、上級武家屋敷からでもなく、医者の家から出土しているのである。


南宋-元時代の青白磁梅瓶は日本に幾つか残っている。

青白磁唐子唐草文瓶 伝京都市東山区岡崎動物園法勝寺跡出土 南宋-元時代 高さ29.2㎝ 京都国立博物館蔵
『日本の美術410』は、中国産の白磁梅瓶は、鎌倉時代にさかんに舶載され、とくに鎌倉を中心とする東国の武士たちの間で珍重された。この瓶は、かつて白河法皇が建立した六勝寺のひとつ、法勝寺跡から出土したと伝えられている。日本出土の白磁梅瓶のなかでは、最も作行きがすぐれたもののひとつであるという。
やはり口作りは竹の節型。
彫り込みが深く、そこに流れ落ちてしまうことなく、釉だまりができて青味が濃くなっている。大胆なデザインと、確かな彫りの技術で、作行きの良さが際立っている。
伝岡崎法勝寺跡出土白磁唐子唐草文瓶 南宋-元時代 『日本の美術410』より


青白磁唐草文瓶 広島県草戸千軒町遺跡出土 南宋-元時代 高26.0㎝ 広島県立歴史博物館蔵
口作りは竹の節型。
文様は伝松前城出土品や医者の家出土品よりも簡略化がみられるので、2点よりも後に製作されたものだろう。
広島県教育委員会ホームページの 青白磁梅瓶3400020にカラー写真があります。
広島県草戸千軒町遺跡出土青白磁梅瓶 南宋-元時代 『日本の美術410』より


青白磁牡丹唐草文梅瓶 茨城県長岡出土 南宋時代 高さ38.0㎝ 東京国立博物館蔵
『日本の美術410』は、わが国に輸入された梅瓶のほとんどは、中国南部で作られた白磁である。中には、白河法皇が建立した六勝寺の一つである法勝寺跡から出土したと伝えられる白磁梅瓶や、茨城県茨城町長岡前田万東山出土の白磁梅瓶のように、精緻な彫り文様があらわされた優品もみられる。これらは、水色がかった釉薬がかけられており、いわゆる青白磁の範疇に含まれるものである。
中国産の白磁梅瓶は、政権の所在地であった鎌倉を中心に、東国に数多く分布しており、その量は他の地方の遺跡と比較して際立って多いことが指摘されている(第4図)。舶載の梅瓶が、新たに支配階層となった東国の武士たちの間で愛好されていた様子がうかがわれ、白磁四耳壺や白磁水注とともに、ステイタスシンボルとしての地位を獲得していたことがわかる
という。
肩の張りが控えめで、細身。口作りは竹の節型。
法勝寺跡出土品ほど釉だまりの色は濃くないが、優美な作品である。南宋時代と限定されているように、上の作品よりも前に造られいてるのだろう。
青白磁牡丹唐草文梅瓶 茨城県長岡出土 南宋時代 『日本の美術410』より


『日本の美術410』は、中国では北宋時代より白磁梅瓶が焼造されていたが、平泉ではわずか数個体の 出土例しかなく、12世紀代にはほとんど日本に運ばれていないことがわかる。中国産の白磁梅瓶が数多く 輸入され、鎌倉に集中しているのは、新たな支配階層である武家の文化の成立と深いかかわりがあるとみられる。東国の武士独特の価値観が打ち立てられる際に、京都への志向が介在する平泉の段階よりも、同時代の中国に目を向けたより直接的な「唐物好み」が流行し、白磁梅瓶や龍泉窯青磁が珍重されたと考えられるという。

戦国時代というと、地方の武家はいくさに明け暮れて文化などとはほど遠い暮らしをしてきたと思っていたが、壊れやすい唐物の陶磁器を珍重するなどという側面もあり、それが鎌倉時代に禅宗とともに請来された抹茶とともに茶の湯として開花した。
茶の湯ではやがて日本で作られた器を用いるようになり、利休によって「佗茶」となっていくのである。




関連項目

参考サイト
出光美術館研究紀要第24号に徳留大輔氏の日本に出土・伝世する青白瓷梅瓶瓶に関する一考察(PDF)

参考文献
「高麗青磁-ヒスイのきらめき 展図録」 2018年 大阪市立東洋陶磁美術館
「世界美術大全集東洋編10 高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館
「日本の美術410 宋・元の青磁・白瓷と古瀬戸」 今井敦 2000年 至文堂