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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/08/02

一乗谷朝倉氏遺跡 出土した器


一乗谷朝倉氏遺跡のリーフレットは、1471年に幕府から越前守護に関する要望を認められ、以後、氏景、貞景、孝景、義景と5代にわたって越前を統治しました。この間、一乗谷には京の貴族や僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれるほど隆盛を誇りました。しかし、天下統一を目指す織田信長と対立し、1573年に朝倉氏は滅び、城下町も焼き払われました。
朝倉氏の滅亡後の一乗谷は、旧臣や一向勢による支配を経て、信長に統治されます。信長は一乗谷から約10km離れた北庄城を北陸支配の拠点とし、柴田勝家に守らせました。その際、一乗谷の寺社や商工業者は北庄城下に移されて一乗町などを形成しました。
江戸時代、一乗谷は城戸ノ内村という農村となりました。田畑の造成や用水の開削が行われ、一部の遺構は失われましたが、大半は地中に保存されましたという。
ということは、出土品は1573年以前のものと考えてよいのだろう。


一乗谷朝倉氏遺跡からは漆器や陶磁器など、食器類も出土している。
『越前朝倉氏一乗谷』は、食器類の出土傾向は武家屋敷地区でも町屋地区でも大きく変わることはなく、日常の食生活に質的な差はなかったようですという。


一乗谷朝倉氏遺跡では陶磁器片も出土していて、当時の人がどのような器で食事をし、また、どのような器を愛でていたかをうかがい知ることができる。


館跡出土品(朝倉館跡、諏訪館跡など)
右上は青磁の香炉、左は染付の碗。
下は素焼きの器で、土師器あるいはかわらけと呼ばれるもの。
一乗谷朝倉氏遺跡 館跡出土陶磁器  『越前朝倉氏一乗谷』より


一乗谷朝倉氏遺跡出土 中国製碗・鉢・皿・盃
一乗谷朝倉氏遺跡出土 碗・鉢・皿・盃 『越前朝倉氏一乗谷』より


一乗谷朝倉氏遺跡 町屋から一括出土した食器
同書は、食膳具の中心は碗と皿ですが、碗の場合、多く出土する天目茶碗と青磁碗やそれを写した灰釉の碗も喫茶用として使われたと考えられるので、陶磁器の碗は染付の碗しか残らなくなって意外と少なくなります。
皿は白磁と染付が主流で、同じ文様の皿が5枚、10枚とまとまって出土することがあり、そうしたセットで揃えられていたことが窺えます。また漆器の皿は椀に比べてかなり少なく、お箸や折敷なども出土しています。こうした出土品から、折敷に染付の碗にご飯、漆器のお椀にお吸物、陶磁器のお皿にはおかずが載っていたと考えられますという。
描かれたものから中国製のように思われる。1573年に焼き払われた一乗谷朝倉氏遺跡に、1610年以降の初期伊万里の器があるはずもないので🤔
一乗谷朝倉氏遺跡 町屋から一括出土した食器 『越前朝倉氏一乗谷』より


一乗谷朝倉氏遺跡出土 鉄釉の片口・皿、灰釉の皿
一乗谷朝倉氏遺跡出土 鉄釉の片口・皿、灰釉の皿 『越前朝倉氏一乗谷』より


一乗谷朝倉氏遺跡出土 土師器皿・酒杯・箸・箸置
同書は、大きく異なるのは、宴会の時、もっぱら酒杯に使用された土師質の皿の量です。これは朝倉館などが最も多く、ついで上級武家屋敷地区、中級の武家屋敷地区・町屋地区の順となります。
素焼きのかわらけは使うと汚れがしみこむため1回しか使わない「清浄な器」として意識され宗教的な場や儀式としての宴会などに使われました。この意識は京都の公家文化との関連が深く、身分のちがいによるかわらけの出土量の差はそのまま、京都との文化的な距離をあらわしていますという。
人の口のような箸置きも面白い。これなら絶対転がらへんね😊
一乗谷朝倉氏遺跡出土 土師器皿・酒杯・箸・箸置 『越前朝倉氏一乗谷』より

越前焼 甕・壺・擂鉢・鉢
越前焼は、備前焼・丹波焼・信楽焼・常滑焼・瀬戸焼と共に六古窯の一つ。
同書は、台所には水がつきもので、井戸のそばに石を敷き詰めた流しが作られている家もあります。井戸は笏谷石の井戸枠で囲われており、その上には木で作られた箱形の釣瓶が置かれていたことでしょう。釣瓶の上げ下げに滑車が使われている井戸もあります。
一乗谷から出土する遺物の代表のひとつが越前焼の擂鉢です。擂鉢はとにかく多数出土し、直径が24cm・33cm・45cmを中心とする3種類ほどサイズがあります。よく使い込まれて下半分の擂目がすっかり無くなっているものもあります。味噌を使用したあえ物が多く食べられたのでしょうか。そのほか浅い鉢やボウル状の深い鉢など、鉢の種類も多い
という。
一乗谷朝倉氏遺跡出土 越前焼の器 『越前朝倉氏一乗谷』より


漆器や曲物 朝倉館跡出土

一乗谷朝倉氏遺跡出土 漆器・小型曲物 『越前朝倉氏一乗谷』より

町屋出土の漆器
同書は、とその性質上出土する数は少ないが、漆器の椀が多く使用されていたと考えられます。漆器椀には朱漆が厚く塗られた上等のものと、黒漆に朱漆で紋や簡略化した蓬莱文様を描いた普及品とがありますが、もちろん普及品の方が多いという。
赤漆で絵のあるものは普及品らしい。
一乗谷朝倉氏遺跡出土 漆器類 『越前朝倉氏一乗谷』より



奥間野地区の医者の家跡(北から)からは青白磁の器が出土している。
一乗谷朝倉氏遺跡 医者の家跡 『越前朝倉氏一乗谷』より


盤 
黒いものは文様かと思ったが、拡大していくと、発掘後、復元前に行われる注記の文字のよう。
一乗谷朝倉氏遺跡 医者の家跡出土梅瓶 『越前朝倉氏一乗谷』より


梅瓶(めいぴん) 
このように口が小さく肩が張り、下部へと徐々にすぼまる壺を梅瓶と呼んでいる。
『高麗青磁展図録』は、梅瓶(メイピン)とは中国での名称であり、高麗時代にこれをどのように呼んだのかは定かでない。韓国西海岸沖で発見された馬島2号船から梅瓶が引き揚げられたとき、その首につけられていた木簡に、蜂蜜やごま油を入れた「樽」あると記されていた。高麗時代の文献に見える酒樽や酒尊も同じ種類だろう。つまり梅瓶は、これらさまざまな液体を入れる容器だったと考えられる。
「宣和奉使高麗図経」の 「尊」は「(青磁の)酒尊は瓜のような形をしており、上に小さな蓋がある」(第32巻、器皿1)という。
一乗谷朝倉氏遺跡 医者の家跡出土梅瓶 『越前朝倉氏一乗谷』より

この青白磁の梅瓶が気になってきた。それについては次回。


関連項目

参考文献
「一乗谷朝倉氏遺跡」のリーフレット
「越前朝倉氏一乗谷 眠りからさめた戦国の城下町」 1998年 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館