お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
ラベル 鎮墓獣 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 鎮墓獣 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012/09/07

唐の順陵3 石人と石獣の列



しかし、タクシーの通る道は未舗装で、轍が凸凹にあるひどい道だった。タクシーなら通れるが、バスは無理だろう。こんな空港にも近く、面白い遺跡がツアーにないのは道路のせいかも。
次の交差点で降ろしてもらい、順陵の見学を続けた。

大きな地図で見る

未舗装だか割合広い道を歩いて行くと、広い麦畑の右向こうに順陵の墓山とその前に並ぶ石像群が見えて来た。
かなりの数があるようで、人物の立像の他動物の石像もありそうだ。
左手には珍しくブドウ畑。家屋の外で老人が一服していた。
遠くには闕門模した高速道路のゲート、そして順陵の参道両側にあった陪葬墓などが見える。
石像群の南側の樹の生えた小山も陪葬墓だろう。
こちらの陪葬墓も参道の両側に対で築かれていて、その間には石碑が複数ある。
参道も付近の人たちにとってはただの道路のようで、バイクがやってきた。
広い参道の左右に石人が7体、現在は中央の1体が欠け、頭部のないものが2体並んでいる。ここの石像には説明板がなかった。
それぞれに顔は異なるが、衣装や前で手を組む姿勢は同じだ。
両手で長い剣を立てているので、武人の列だろう。剣の柄が出ているがどんなものかわからない。
7体の石人像を過ぎると、坐ったった石獣が4体と一番向こうに石人、更に空間をあけて左右対称に並んでいる。
一番南の獅子は口を開いているので雄獅子かな。全体につるんとしていてたてがみは表されていないようで、南門前の走獅とはずいぶん違った獅子の姿だ。
次の獅子は口を閉じた雌かな。前肢の付け根に渦巻がある。尾は下から左後足の内側を通って胴体に密着している。
続いて石羊が2体。何故羊なのだろう。強そうには見えない。則天武后の母楊氏が未年だったのかな。
目が飛び出している割に鼻が穴しかわからない。無表情なようで、口の横の短い曲線の皺のせいで笑っているようにも見える。
石獣の列とは少し離れて、門吏が一対。こちらのは3mはありそうだ。
環刀の上に両手を置いている。衣の襞が数本、左右対称に真下に垂れている。
よく似た像を『新シルクロード展』で見たことがある。

門吏図 唐・乾封元年(666) 壁画 縦211.6㎝横73.5㎝ 咸陽市礼泉県韋貴妃墓
同展図録は、韋貴妃墓の墓道西壁の端で、墓室の門を守るような位置に置かれ、長剣を地に据えて直立した姿に表されていることから、門吏図といわれる。門の番人という性格からか、動きの少ない静的な描写に特色がある。
この手前に続く長い墓道の壁面には、入り口方向から、白虎と儀仗兵などの図が続いて描かれていたという。
石人の沓がどんなものだったかがわかる。
動きはないが、目玉が右に寄っている。門の外から魔物が入ってこないように睨みを利かせているのだろうか。いや、西壁だと左側が墓道の外になるはずだ。白虎を見ているのかも。
盛唐期の恵陵でも墓道に青龍と白虎が描かれていたが、初唐期にすでにそのような墓道壁画の形式が整っていたようだが、順陵の墓道にも門吏・青龍と白虎・儀仗隊などが表されていたのだろうか。
つづく

※参考文献
「新シルクロード展図録」 2005年 NHK・産経新聞社

2012/09/04

唐の順陵2 南門の走獅



天禄を過ぎてしばらく歩くと、松並木がなくなった。

大きな地図で見る

これでやっと北側を見渡せる。神道から離れた位置に、天禄とは違ってこちらを向いて、一対の獅子が踏ん張っている。正面には小さな祠のようなもの、その背後には順陵の墓山。そして、両者の間の麦畑。
ひょっとすると、ここに南門があって、この走獅は門を守る石獣だったのではないだろうか。
祠のようなものは順陵の碑だった。則天武后は中国では武則天と呼ばれているのかと思っていたが、「則天皇帝」として唐の皇帝に認定されている。確か国名を「周」に変えて、則天武后の時代を「武周期」と呼んでいたのでは。
咸陽市のホームページの順陵の説明は、唐順陵は唐朝女性皇帝武則天の母親楊氏の墓です。咸陽市渭城区の張鎮馬村西南、竜棗村東北、咸陽市の北約18キロメートルに位置する我が国で最もよく保存された古陵園の一つです。国家重要文物保護財です。
楊氏は唐・高宗咸享元年(670)に逝去しました。武則天は帝位に即位したあと、亡母の「孝明高皇后」に爵位を与え、墓を陵に変え、順陵と称しました。
陵はみささぎ、おかの形をした皇帝、王侯貴族の墓という。
振り返ると西陪葬墓の山を背景に、天禄がどっしりと大地に立っていた。
則天武后の母の陵は、石碑の遙か遠くに見える。その上神道がなくなってしまった。
西側の獅子、遠くから見ていたよりも大きい。
説明板に、走獅 
朝代:唐 
雌獅
長:3.09米 寛:1.3米 高:2.66米
体型比雄走獅略小、造型凶猛、重四十余吨とある。
雌にも見えなければ、走っているようにも見えない。
その上口を閉じている。前歯がヒトのものに似ていて、それを食いしばって、鼻の下に威嚇の皺を寄せている。見ている時は妙な表情で笑ってしまったが、改めて見ると、結構こわい。
横から見るとたてがみは少なめで雌を表しているのがわかる。尾は天禄同様、太くて下に垂らしてある。おそらく重い体を支えるためだろう。
恵陵の青龍や白虎の前肢付け根にあったような双翅がこの走獅にもある。足首あたりまであって長いが、出ている部分は短く、一番上は渦を巻いている。
この前肢の付け根の渦巻は、後期ヒッタイト時代(前8世紀)のライオン像(イスタンブール考古学博物館蔵)にもある。他にもいろいろあって、いつの日にかまとめたい。
東側の獅子は逆光で見難い。
こちらの説明板は、走獅
朝代:唐
雄獅
長:3.45米 寛:1.5米 高:3.05米
体型高大、造型雄偉、重40余吨とある。
雄は口を開いていて、対で阿吽になっている。これまで見てきた鎮墓獣は、どちらも口を開けていたように記憶しているので、対のものを「阿吽」というのは日本人の好みかと思っていた。
梁、普通4年(523)の簫景墓(江蘇州南京市)の鎮墓獣は、舌を出した獅子の姿で、顎の下のたてがみがもっとふさふさしていて、翼もある。
別の系統の獅子のようだ。
10年前、西安の陝西歴史博物館の建物の入口に置かれた獅子は、順陵の獅子のコピーということだったが、この雄の走獅のレプリカだったのか。
結局石碑の右脇の細い道から畦道を通って神道の東にある道路に出るしかなかった。
歩くのは時間がかかるが、王さんがタクシーで待ってくれていた。

大きな地図で見る

畦道を通りながら、やっと日の当たる雄走獅をカメラに収めることができた。ぐりぐりと仏像の螺髪のようなたてがみが並んでいる。
つづく

※参考サイト
咸陽市観光局ホームページの順陵

2012/08/31

唐の順陵1 麒麟ではなく天禄



以前、鎮墓獣や有翼獣について調べたことがあった。それについては下の関連項目で。
その中で、南京市や丹陽市の郊外の畑の中に今も立っている巨大な石獣の図版が記憶に残り、機会があれば見て回りたいと思っていた。

それから5年の月日がたち、ツアーの飛行機の時間がずれたお陰で、南京ではないが、石獣の並ぶ唐の順陵を見学するチャンスが訪れた。旅行社に前もって頼むと、それが現地ガイドの宋さんに伝えられ、宋さんに手配してもらった。
西安空港は、正確には咸陽市にある。西安から敦煌へ飛ぶ日の朝に、ぽっかりと時間ができた。順陵も宿泊したホテルも空港のすぐ近く、この機を逃してなるものか。

大きな地図で見る

朝ロビーに下りると宋さんはもう来ていて、紹介された王さんのタクシーで航空大酒店を出発、7時半。
5分もしないうちに順陵と思われる古墓と参道などが麦畑の向こうに連なっているのが見えてきた。
グーグルアースで順陵の位置は確認していたが、入口に柵があるかどうかまでは見えなかった。参道入口の黒い石碑が見えたかと思うと、タクシーが並木で木陰になっている神道へ入り込んだ。車を使えば短時間で見学できるが、参道は歩いて、途中に並んでいるはずの石像を見逃さずに写したい。
石碑の裏に説明があった。
順陵は則天武后の母、楊氏の陵である。陵園は内城とその両側に外城がある。封土は中央ではなく、北西に寄り、伏斗式である。陵の前には石人、石羊、華表、走獅子、天禄などの石刻がある。外城に四門があり、その外にはそれぞれ石獅子が一対置かれる。順陵は陵園がよく残っていて、唐時代の陵園の形や石彫芸術の貴重な資料となっているなどと書かれている。
気がつくと、参道とは道路を隔てて南側にある建物の門が開いていて、おっちゃんがやってきた。
1人10元、咸陽市観光局ホームページの順陵にも出ていた入場料を払う。こんな早い時間にも、管理人はちゃんといるのだ。
石碑の反対側に、簡単な順陵の平面図など。残念ながら、こんなええかげんな写真しかありません。
図には、説明通りに、ピラミッド型の陵の周囲に囲いと四門が表されているが、今いる入口は、その遙か南。実はこの図に気づかずに見学したのだった。
とりあえず、先に一対の陪葬墓があるようなので、そこまでタクシーで行き、その先を歩くことにした。運転手の王さんにそれをどのように伝えたのか、記憶にありません。
二つの陪葬墓の主はわからない。左前方にも陪葬墓があって、半分近くが崩れている。崩れた箇所から版築とわかる。
やはり黒い石の説明があるようだ。
墓の周辺には現代の人達の墓が並んでいる。
陪葬墓を過ぎると並木は広葉樹から松に変わってしまった。
前方右側には細い華表と石獣が見える。左の華表は残っていなかったが、石獣は神道側を向いている。麒麟かな。
華表はシンプルな多角柱。右向こうは通り過ぎた陪葬墓の一つ。
南朝、梁の武帝簫衍の子簫敷衍績墓の華表は上に小さな獅子を載せるための丸い台座が出っ張っているが、唐になると擬宝珠を載せている。
それでも拡大して見ると、様々な浮彫装飾があったが、逆光でよく見えなかった。
太宗李世民が父李淵のために築いた献陵には獅子が乗っていると思われる華表だが、他の陵では橋の欄干の擬宝珠のようになっている。
『大唐皇帝陵展図録』は、文献上には規定はみられないが、石刻の形状や寸法も身分差を示していた可能性がある。「墓を号けて陵と為す」永泰公主陵の華表とは形状や寸法の上で大きな違いがある。視覚的要素によって身分差を表示していたと考えられるという。
咸陽市観光局の順陵は、楊氏は唐・高宗咸享元年(670)に逝去しました。武則天は帝位に即位したあと、亡母の「孝明高皇后」に爵位を与え、墓を陵に変え、順陵と称しましたという。
「墓を号けて陵と為した」順陵の華表は、則天武后の孫で701年に武后によって自殺させられた永泰公主の陵のそれと同じくらいの大きさだったのでは。
そして待ちに待った石獣との対面はまず東側の麒麟から。
口を閉じて顔は厳しく、頭頂の角は2つに枝分かれしている。脚を揃えてしっかりと大地を踏んで立ち、力強い姿だ。
西側の麒麟。麒麟の顔や体と比べ、この翼は違和感がないではない。
小さな説明板には「天禄 唐 雌 長3.87m幅1.71m高4m 約70トン 造形は雄と同じ体形略小」とあった。
麒麟ではなく天禄で、西側が雌、東側が雄だという。

南京の石獣は獅子に近いが、この天禄は馬に近い風貌だ。
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、『後漢書』西域伝の「桃抜」については、孟康注「一角なる者或いは天鹿となし、二角なる者或いは辟邪となす」に基づいている。しかしこの孟康の説は鹿に似て長い尾をもった桃抜に関して、一角を天禄、二角を辟邪としたもの。
後漢から六朝時代にかけて、帝陵や豪族墓の墓道に石獣を並べて置くことが流行し、「辟邪」「天禄」など麒麟形の造形が急速な広がりを見せていったともいう。
どうも時代と共に鎮墓獣の姿も呼び名も変わっていったようで、唐の時代には、獅子形ではなく麒麟形で一角のものを天禄と呼んだらしい。
『大唐皇帝陵展図録』は、唐の神道石刻は身分表示の機能をもつ。南朝陵墓においても獣が皇帝と王侯で区別されていた。すなわち、皇帝陵の獣は有角有鬢の有翼獣、王侯墓の獣は無角無鬢の下を垂らした有翼獣である。この石刻による身分表示は唐陵にも引き継がれ発展しているという。

これでは麒麟と天禄の区別がわからない。
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、元来麒麟は『説文解字』に「麋身、牛尾一角あり」と定義するように、麋(なれしか)の体をして牛の尾をつけ、角は一角である。しかし、後代その形は一定せず、体形が鹿から馬に変化したり、二角のものも現れたりした。また、麒麟は「鳳凰・麒麟は聖王のために来たる」(『論衡』指瑞篇)とあるように、もともと鳳凰と同じく、為政者が徳の高い政治を施すと天上世界から地上に下される瑞獣であるが、ここでは参道入口にあって墓を外敵から守護する鎮墓獣となっているという。
皇帝陵にあれば麒麟、それ以外なら天禄ということでよさそうだ。
下図中央下の十字路の少し左側に順陵の入口あり、十字路の縦の道の左側の細く見え隠れしているのが神道です。神道の上から1/4辺りに、右側に2つ、左側に1つ見える白い点が、天禄や華表です。

大きな地図で見る

つづく

関連項目
武人が鎮墓獣に?
鎮墓獣は一角獣?
戦国時代、楚の鎮墓獣俑は妙なものだった
犀を原型とした鎮墓獣は
地上の鎮墓獣は
石造の鎮墓獣は後漢からあった
えっ、これが麒麟?

※参考サイト
咸陽市観光局ホームページの順陵

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国南北朝」 2000年 小学館
「平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 橿原考古学研究所附属博物館
「図録 中国南朝陵墓の石造物 南朝石刻」 奈良県立橿原考古学研究所編 2002年 (社)橿原考古学協会

2007/03/16

饕餮が大喰らいだったとは



敦煌の観光後、西安に飛んだ。えらくオンボロの飛行機で、何時落ちるかと心配なくらいだったが、時々窓から見えるのは、ゴビ灘とその南部に広がる祁連山脈という全く変わらない河西回廊の景色だった。到着すると雨が降っていた。

陝西歴史博物館に行くと、屋根の上に鴟尾(しび)が載っていて、何故か懐かしかった。鴟尾って辟邪?中国には鬼瓦はないの?なんの予備知識もなく博物館に入ったので、展示されていたものがすごいもので(当たり前だが)、1つ1つに驚嘆しながら見学した。
やがて殷周時代の青銅器のコーナーに来た。様々な形の、文様だらけの青銅器というのは、日本でも見たことがあったので、特にびっくりもしなかった。青銅器についての西安のガイド謝苗さんの説明には驚いた。「饕餮は大喰らいの動物です。たくさん飲んだり食べたりできるように食器についています」えっ!辟邪と違うの?
自分の持っている本の中から陝西歴史博物館所蔵の青銅器を探したが、下の作品しかなかった。

2 羊形兕觥(じこう、盛酒器の一種) 西周前期(前11から10世紀) 陝西省扶風県白家出土
円の中に饕餮がいる。縦に断続的にに続く凸形のものが鼻梁となり、その両側に顔が表されている。

『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、腹部中央長辺には突出した目玉、C字形の角、大きな口、耳、胴体をもった饕餮を描く。その様態はいささか線が細く華麗で、上面一面に凹線が入って繁じょくな印象を与えている。
上面には稜飾りが中心部に突き出て、前後に異なった形の饕餮文が描かれる
という。

饕餮は顔だけでなく、胴体もあり、顔は正面向き、胴体は両側に横向きになっている。 そして、複数の饕餮が組み合わさって、この容器が出来上がっている。なんやら饕餮について自分が思っていたこととまるで違うことを聞いたので、以来饕餮が妙に頭に残ってしまった。

下はおまけです。博物館内にあった巨大な獅子で、則天武后の母が葬られた順陵にあるもののコピーらしいです。唐時代の巨大な鎮墓獣ですね。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館

2007/03/07

人面と獣面で一対の鎮墓獣


武人が鎮墓獣に?で唐時代の人面と獣面で一対となった鎮墓獣を取り上げたが、日本の美術展で展観されていたこのタイプの鎮墓俑は、よく似ているなあと思っていたら、新疆ウイグル自治区博物館蔵の同じ鎮墓俑ばかり見ていたことがわかりました。また、好古老さんのコメントに「唐の煌びやかな鎮墓獣」という言葉があり、このタイプ以外にも鎮墓獣があったのかと探してみました。そして、このタイプで北斉のものも見つかったので、同記事の補足としてとりあげることにします。

32 鎮墓獣 加彩 両方とも高30.0㎝ 北斉(550-577年) 個人蔵
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、2体は顔面を除くとほぼ同じ造形である。前脚を伸ばし、後ろ脚を折り曲げて腰を下ろす。背には火焔形のたてがみが三ヶ所付く。顔は前面を向く。人面鎮墓獣は、口を閉じて髭を生やし、大きな目と耳を持つ。獣面鎮墓獣は、開いた口から舌と牙をのぞかせ、鼻の孔を大きく開けている。想像上の獣であるが、ネコ科の動物をモデルにしていると思われるという。

出土地が明記されていないが、北斉ということで、おおまかに言って、当時の中国の北東部のものだろう。北斉時代は仏像も衣文のほとんど表されない、端正なものが流行したが、この鎮墓獣もその流れをくみ、控えめな表現となっているようだ。
背筋に並ぶのが「火焔形のたてがみ」とは。また一対で阿吽になっている。33 獣面鎮墓獣 加彩、金銀貼 高51㎝ 唐、顕慶3年(658) 寧夏回族自治区固原県南郊史道洛墓出土 固原博物館蔵   
『中国 美の十字路展図録』は、正面を見据えて岩座に蹲踞する。口を大きく開き、墓への侵入者を威嚇するようだ。歯列には銀箔が貼られ、その上から墨描きで歯を描き分ける。肩から側頭部にかけて紅、緑、白で彩色された羽がつき、その先端には金箔が貼られる。胸部から腹部にかけても金箔と銀箔の帯が貼られる。銀帯には墨描きで斜線が、金箔には豹柄の文様が施される。史道洛墓からは人面鎮墓獣も出土した。それぞれが鎮墓俑と組み合わさって、墓室の入口付近に置かれていた。
史道洛はソグド人の後裔であり、祖先は中央アジアの史国に住んでいた
という。

獅子のたてがみではなく、羽とされている。
また、一緒に出土した人面鎮墓獣と一対かと思ったら、「それぞれが鎮墓俑と組み合わさって」ということだった。どんな鎮墓俑との組合せだったのだろう。
墓主が史国(キッシュ、現シャフリサブス)から移住したソグド人の子孫ということで、イラン系である。そういう風に見ると、その像はトルファン出土の3よりも「深目高鼻」のような気がしてきた。

固原は西安と河西回廊の入口蘭州との間に位置する。

『魏晋南北朝壁画墓の世界』は、固原という町は海抜およそ1600メートルの高原にあり、北朝と隋唐時代では、長安と河西回廊をつなぐ要地であった。五胡十六国時代、匈奴族劉氏の前趙、羯族の後趙、氐族の前秦、羌族の後秦、匈奴族赫連氏の夏国は、相次いでこの地域を支配し、平涼郡・高平城を置いた。 ・略・  高平鎮の南東に、北魏前期の古墳から古代高車族と見られる騎兵・歩兵俑が出土しており、その兵士達は中央アジア人種の顔つきであった。県城の南にある北周の古墳から、ビザンチン風の鍍金銀瓶・ササン朝ペルシアの切子ガラス碗が発見され、南西には隋唐時代にソグド系貴族史氏の墓地が分布している。数々の遺品が当地の繁栄ぶりを物語っているという。
要衝の地であり、各国が手に入れたい土地だったようだ。そのような土地で、様々な要素が加味されてこのような像になったのだろうか。34 鎮墓獣 土、金、彩色 高51㎝幅24.6㎝奥行18.8㎝ 唐時代(8世紀) 陝西省西安市西北政法学院34号唐墓出土 西安市文物保護考古所蔵
『中国国宝展図録』は、鎮墓獣は、中国において、墓の中に埋葬された獣形の神像のことである。災厄をもたらす悪魔などを退けることを目的として、およそ紀元前6世紀以降に盛んに制作された。時代によっていろいろな姿の作例があるが、唐時代の鎮墓獣は、ここに見るように、尻を地にすえ、前足を突っ張り、胸を張って正面を見すえるという姿をし、人面をもつものと、獣面のものとの一対で作られることが多い。
頭上に長くのびた角、両肩から火炎のように立ち上がった羽、あるいは人面に見るような、顔の左右に大きく張り出した耳など、一種奇怪ともいえる特徴を備えているのは、邪悪なものに打ち勝つための強大な能力を象徴したものであろう
という。

盛唐ともなると、京劇にでも出てきそうな鎮墓獣になっている。角もすごい。このように様々な姿に表された鎮墓獣であるが、33では「墓への侵入者を威嚇する」で、墓泥棒を侵入させないためのものということかと思うし、34では「悪魔などを退けることを目的として」で、被葬者を守るためということかとも思う。

※参考・引用文献
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005年 発行は様々な美術館
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国国宝展図録」 2005年 朝日新聞社
「魏晋南北朝壁画墓の世界」 蘇哲著 2007年 白帝社アジア史選書


2007/03/05

えっ、これが麒麟?


ついに麒麟を発見した。それは南朝の皇帝陵参道の麒麟とも、日本ではお馴染みのビールのラベルにある麒麟とも、まったく異なるものだった。

28 鍍金麒麟 銅製 高8.6㎝長6.7㎝ 後漢(1-2世紀) 河南省偃師市冦店李家村窖蔵出土 鄭州市河南省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編2秦・漢』は、窖蔵から蓋つきの鍍金銅製酒樽が出土し、中から小さな動物像の群れが発見された。 ・略・ 麒麟2個 ・略・
麒麟は全体に羊のような形で、頭上に1本角が立つ。全身に鍍金が施され、目などの細かい文様が沈線で表されている。
麒麟の形は後漢時代から現れる。洗(せん)などの内底に突線で表された例が知られているが、やはり頭上に角が1本ある羊のような形をしている
という。

このように、麒麟は獅子と似ても似つかないものだったのだ。なぜ六朝では獅子のような麒麟が皇帝好みだったのだろう?しかしこれで、石造の鎮墓獣は後漢からあった27の「銀象嵌有翼神獣」(戦国時代)には西方からもたらされた有翼の獅子が中原で中国風に消化された形となり、それよりも後の時代に羊のような麒麟が現れたという風にまとめることができた。と思っていたら、とんでもなかった。

29 辟邪 玉 高5.4㎝長7.0㎝ 前漢後期(前1世紀) 陝西省咸陽市新荘漢元帝渭陵(前33年頃)付近出土 咸陽博物館蔵
同書は、頭に二つの角、体には大きな翼をもった想像上の動物、麒麟あるいは桃抜をかたどった玉像である。高さ8cmの鍍金鼎の中に入った状態で発見された。古代中国では、二角のものを「辟邪」、一角のものを「天禄」と呼んだという見方もあり、  ・・略・・  ここにあげた玉像は二角の例だが、二角のものとしては、今のところこれが中国最古の例である。付近からはこれと一対になる一角のものも出土している。以後、後漢から六朝時代にかけて、帝陵や豪族墓の墓道に石獣を並べて置くことが流行し、「辟邪」「天禄」など麒麟形の造形が急速な広がりを見せていったという。

同じ本の中で見解が違い、混乱してしまった。28よりも前の時代に麒麟形とされる像があったとすると、一角の羊のようなものはどう捉えればよいのだろう。
ともあれ、この像は27よりも更に小さなものだが確かにその流れをくみ、またあごひげがついていて、地上の鎮墓獣はの造形に繋がるものであることは確かだ。30 辟邪一対 金・緑松石・瑪瑙 高4cm 後漢(25-220年) 河北省定州市陵頭村中山穆王劉暢墓出土 定州市博物館蔵
『中国 美の十字路展図録』は、2体一対の神獣を細金の高度な技術を駆使して作り上げる。金の薄い板に金粒や金糸を貼ったものを筒状に丸めて首や胴を作り、眼や体の各部に緑松石や瑪瑙が象嵌されている。長い尾を地に垂らし、全体に虎を原型とした神獣は、ともに前足を前に出して頭をあげ、口を開いて威嚇するかような姿勢をとる。頭の後ろをよく見ると一角と二角に作り分けられており、当時、辟邪と呼ばれた魔よけの動物であるという。

図録では、原型は虎らしく獅子でも麒麟でもない。
しかし、拡大して見るとはっきりわかるのだが、この像は有翼である。27の高濱秀氏の解説で、有翼の神獣は獅子として西方から伝わったので、姿勢が中国の神獣である虎だとしても、外来の獅子の要素が入ったものだ。31 神獣文帯鉤 鉄芯に貼金 長9.4㎝高6.4㎝ 4-5世紀 内蒙古自治区フフホト市土黙特左旗討合気村出土 内蒙古自治区博物館蔵
馬蹄形の帯鉤上に打出しで神獣文と雲文を立体的に表した金板が貼られている。有翼の神獣は山羊型角を2本生やし、漢代に発達した辟邪の姿を表しているが、その翼は中原の抽象化されたものよりも匈奴の具象的な翼表現に近く、脚間を縫って回り込む尻尾も匈奴の影響を見せているという。

せっかく見つけた有翼で角のある辟邪だが、匈奴の影響ということで、麒麟とも獅子とも判断できないのが残念。 顎の下にあるものはあごひげか雲文かもはっきりとはわからない。これらのことから、私は以下のように分類してみた。
麒麟は27のように「全体に羊のような形で1本角」のもの。石造鎮墓獣は、西方から伝わった有翼獅子と、中国古来の虎が集合したもの。
南朝の鎮墓獣は、そのような鎮墓獣に、皇帝陵であることを誇示するために麒麟という名をつけるようになったもの。その違いはあごひげと舌。そして、角の有無。

また新しいことがわかれば続編を作ります。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広