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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/08/31

唐の順陵1 麒麟ではなく天禄



以前、鎮墓獣や有翼獣について調べたことがあった。それについては下の関連項目で。
その中で、南京市や丹陽市の郊外の畑の中に今も立っている巨大な石獣の図版が記憶に残り、機会があれば見て回りたいと思っていた。

それから5年の月日がたち、ツアーの飛行機の時間がずれたお陰で、南京ではないが、石獣の並ぶ唐の順陵を見学するチャンスが訪れた。旅行社に前もって頼むと、それが現地ガイドの宋さんに伝えられ、宋さんに手配してもらった。
西安空港は、正確には咸陽市にある。西安から敦煌へ飛ぶ日の朝に、ぽっかりと時間ができた。順陵も宿泊したホテルも空港のすぐ近く、この機を逃してなるものか。

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朝ロビーに下りると宋さんはもう来ていて、紹介された王さんのタクシーで航空大酒店を出発、7時半。
5分もしないうちに順陵と思われる古墓と参道などが麦畑の向こうに連なっているのが見えてきた。
グーグルアースで順陵の位置は確認していたが、入口に柵があるかどうかまでは見えなかった。参道入口の黒い石碑が見えたかと思うと、タクシーが並木で木陰になっている神道へ入り込んだ。車を使えば短時間で見学できるが、参道は歩いて、途中に並んでいるはずの石像を見逃さずに写したい。
石碑の裏に説明があった。
順陵は則天武后の母、楊氏の陵である。陵園は内城とその両側に外城がある。封土は中央ではなく、北西に寄り、伏斗式である。陵の前には石人、石羊、華表、走獅子、天禄などの石刻がある。外城に四門があり、その外にはそれぞれ石獅子が一対置かれる。順陵は陵園がよく残っていて、唐時代の陵園の形や石彫芸術の貴重な資料となっているなどと書かれている。
気がつくと、参道とは道路を隔てて南側にある建物の門が開いていて、おっちゃんがやってきた。
1人10元、咸陽市観光局ホームページの順陵にも出ていた入場料を払う。こんな早い時間にも、管理人はちゃんといるのだ。
石碑の反対側に、簡単な順陵の平面図など。残念ながら、こんなええかげんな写真しかありません。
図には、説明通りに、ピラミッド型の陵の周囲に囲いと四門が表されているが、今いる入口は、その遙か南。実はこの図に気づかずに見学したのだった。
とりあえず、先に一対の陪葬墓があるようなので、そこまでタクシーで行き、その先を歩くことにした。運転手の王さんにそれをどのように伝えたのか、記憶にありません。
二つの陪葬墓の主はわからない。左前方にも陪葬墓があって、半分近くが崩れている。崩れた箇所から版築とわかる。
やはり黒い石の説明があるようだ。
墓の周辺には現代の人達の墓が並んでいる。
陪葬墓を過ぎると並木は広葉樹から松に変わってしまった。
前方右側には細い華表と石獣が見える。左の華表は残っていなかったが、石獣は神道側を向いている。麒麟かな。
華表はシンプルな多角柱。右向こうは通り過ぎた陪葬墓の一つ。
南朝、梁の武帝簫衍の子簫敷衍績墓の華表は上に小さな獅子を載せるための丸い台座が出っ張っているが、唐になると擬宝珠を載せている。
それでも拡大して見ると、様々な浮彫装飾があったが、逆光でよく見えなかった。
太宗李世民が父李淵のために築いた献陵には獅子が乗っていると思われる華表だが、他の陵では橋の欄干の擬宝珠のようになっている。
『大唐皇帝陵展図録』は、文献上には規定はみられないが、石刻の形状や寸法も身分差を示していた可能性がある。「墓を号けて陵と為す」永泰公主陵の華表とは形状や寸法の上で大きな違いがある。視覚的要素によって身分差を表示していたと考えられるという。
咸陽市観光局の順陵は、楊氏は唐・高宗咸享元年(670)に逝去しました。武則天は帝位に即位したあと、亡母の「孝明高皇后」に爵位を与え、墓を陵に変え、順陵と称しましたという。
「墓を号けて陵と為した」順陵の華表は、則天武后の孫で701年に武后によって自殺させられた永泰公主の陵のそれと同じくらいの大きさだったのでは。
そして待ちに待った石獣との対面はまず東側の麒麟から。
口を閉じて顔は厳しく、頭頂の角は2つに枝分かれしている。脚を揃えてしっかりと大地を踏んで立ち、力強い姿だ。
西側の麒麟。麒麟の顔や体と比べ、この翼は違和感がないではない。
小さな説明板には「天禄 唐 雌 長3.87m幅1.71m高4m 約70トン 造形は雄と同じ体形略小」とあった。
麒麟ではなく天禄で、西側が雌、東側が雄だという。

南京の石獣は獅子に近いが、この天禄は馬に近い風貌だ。
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、『後漢書』西域伝の「桃抜」については、孟康注「一角なる者或いは天鹿となし、二角なる者或いは辟邪となす」に基づいている。しかしこの孟康の説は鹿に似て長い尾をもった桃抜に関して、一角を天禄、二角を辟邪としたもの。
後漢から六朝時代にかけて、帝陵や豪族墓の墓道に石獣を並べて置くことが流行し、「辟邪」「天禄」など麒麟形の造形が急速な広がりを見せていったともいう。
どうも時代と共に鎮墓獣の姿も呼び名も変わっていったようで、唐の時代には、獅子形ではなく麒麟形で一角のものを天禄と呼んだらしい。
『大唐皇帝陵展図録』は、唐の神道石刻は身分表示の機能をもつ。南朝陵墓においても獣が皇帝と王侯で区別されていた。すなわち、皇帝陵の獣は有角有鬢の有翼獣、王侯墓の獣は無角無鬢の下を垂らした有翼獣である。この石刻による身分表示は唐陵にも引き継がれ発展しているという。

これでは麒麟と天禄の区別がわからない。
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、元来麒麟は『説文解字』に「麋身、牛尾一角あり」と定義するように、麋(なれしか)の体をして牛の尾をつけ、角は一角である。しかし、後代その形は一定せず、体形が鹿から馬に変化したり、二角のものも現れたりした。また、麒麟は「鳳凰・麒麟は聖王のために来たる」(『論衡』指瑞篇)とあるように、もともと鳳凰と同じく、為政者が徳の高い政治を施すと天上世界から地上に下される瑞獣であるが、ここでは参道入口にあって墓を外敵から守護する鎮墓獣となっているという。
皇帝陵にあれば麒麟、それ以外なら天禄ということでよさそうだ。
下図中央下の十字路の少し左側に順陵の入口あり、十字路の縦の道の左側の細く見え隠れしているのが神道です。神道の上から1/4辺りに、右側に2つ、左側に1つ見える白い点が、天禄や華表です。

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つづく

関連項目
武人が鎮墓獣に?
鎮墓獣は一角獣?
戦国時代、楚の鎮墓獣俑は妙なものだった
犀を原型とした鎮墓獣は
地上の鎮墓獣は
石造の鎮墓獣は後漢からあった
えっ、これが麒麟?

※参考サイト
咸陽市観光局ホームページ順陵

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国南北朝」 2000年 小学館
「平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 橿原考古学研究所附属博物館
「図録 中国南朝陵墓の石造物 南朝石刻」 奈良県立橿原考古学研究所編 2002年 (社)橿原考古学協会